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浅野長延

索引 浅野長延

浅野 長延 (あさの ながのぶ、元文元年(1736年) - 寛政4年1月5日(1792年1月28日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の孫。通称は政之丞、大学、長兵衛。 旗本浅野長純の長男として誕生。母は村上源左衛門正方の娘。宝暦4年(1754年)に父の死去により500石の家督を相続して幕府に出仕。11月25日にはじめて将軍徳川家重にお目見えし、宝暦5年(1755年)3月29日、小姓組番士となった。宝暦10年(1760年)1月26日より進物役となったが、明和3年(1766年)11月28日に辞職。明和4年(1767年)5月7日には番士も辞した。明和5年(1768年)8月3日に隠居し、弟の長貞に家督を譲った。寛政4年(1792年)1月5日に死去。享年57。赤穂浅野家の菩提寺である高輪泉岳寺に葬られた。法名は恕休。 なかのふ category:江戸幕府旗本 Category:1736年生 category:1792年没.

21 関係: 宝暦寛政享年徳川家重元文江戸時代泉岳寺明和浅野長広浅野長純浅野長貞1736年1754年1755年1760年1766年1767年1768年1792年1月28日1月5日 (旧暦)

宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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徳川家重

増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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泉岳寺

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。 現在の住職は駒澤大学名誉教授の小坂機融。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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浅野長広

浅野 長広(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟、のち養子。.

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浅野長純

浅野 長純 (あさの ながずみ、宝永4年(1707年) - 宝暦4年7月13日(1754年8月30日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の子。通称は政次郎、大学、長兵衛。 赤穂藩主・浅野長矩の弟・浅野長広の長男として生まれる。母は伊勢国菰野藩主土方雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方豊高の娘)。 父は浅野長矩の刃傷事件に連座して広島藩浅野家にお預かりになっていたが、宝永7年(1710年)9月16日幕府に500石の旗本として出仕することが許された。享保8年(1723年)2月9日はじめて将軍徳川吉宗に謁見。享保9年(1724年)7月19日に父の隠居で家督500石を相続。延享2年(1745年)9月13日に小姓組番士に列したが、後に小普請役に落とされた。 宝暦4年(1754年)7月13日に死去。享年48。赤穂浅野家の菩提寺である江戸高輪泉岳寺に葬られた。法名は伊園。妻は村上正方の娘。後妻は牧野忠列の娘。家督は子の長延が継いだ。 なかすみ category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 category:1754年没.

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浅野長貞

浅野 長貞(あさの ながさだ、延享4年(1747年) - 文化5年7月13日(1808年9月3日))は、江戸時代後期の旗本。浅野長広の孫。通称は源三郎、大学。 旗本浅野長純の次男として誕生。母は不詳。子のない兄長延の養子に入った。明和5年(1768年)8月3日に養父の隠居により500石の家督を相続。12月5日にはじめて将軍徳川家治にお目見えし、安永4年(1775年)2月24日、小姓組番士となった。天明6年(1786年)10月11日には安房国平郡の領地を上総国長柄郡に移された。文化5年(1808年)5月26日に死去。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は良俊院殿仁嶺道儀居士。妻は諏訪七左衛門頼容の娘。その間の子長邦が家督を継いだ。 なかさた category:江戸幕府旗本 Category:1747年生 category:1808年没.

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1736年

記載なし。

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1754年

記載なし。

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1755年

記載なし。

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1760年

記載なし。

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1766年

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1767年

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1768年

記載なし。

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1792年

記載なし。

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1月28日

1月28日(いちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から28日目に当たり、年末まであと337日(閏年では338日)ある。.

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1月5日 (旧暦)

旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。.

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