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浅野氏

索引 浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

169 関係: 加藤光泰加藤貞泰吉田郡吉田郡山城吉田陣屋吉良義央大名大坂の陣大石良重定府家督家系家長宗家安井重継安芸国寛永寛政重修諸家譜尾張国工藤寛正中川久慶常陸国丹羽郡七曲殿九条道房幕末交代寄合享保庶子庶家二木謙一広島藩五奉行廃藩置県侯爵徳川家康土岐光定土岐光衡土岐光行土岐光時土岐郡土岐氏備後国福島正則竹谷松平家紀州藩紀伊国継室織田信長美濃国...真岡藩瑤泉院甲府藩甲斐国男爵蟄居華族諸侯高台院豊臣完子豊臣秀吉豊臣秀勝豊臣氏豊臣政権貞純親王鷹の羽阿部正桓赤穂事件赤穂藩関ヶ原の戦い関白薩長同盟肥田氏長生院長慶院 (三折全友室)東京堂出版松平清昌杉原定利杉原家次森快温正室武家氏族水野忠鼎江戸清和天皇清和源氏源光基源光信源光国源光経源光長源国房源経基源頼光源頼国源頼綱源満仲朝日殿木下家定木下氏明治昭和浅野吉長浅野宗恒浅野幸長浅野光晟浅野綱長浅野綱晟浅野重晟浅野長厚浅野長友浅野長容浅野長寔浅野長尚浅野長年浅野長之浅野長広浅野長延浅野長喬浅野長員浅野長勝浅野長勲浅野長矩浅野長純浅野長経浅野長照浅野長直浅野長訓浅野長貞浅野長賢 (広島新田藩主)浅野長賢 (旗本)浅野長邦浅野長重浅野長恒浅野長栄浅野長武浅野長武 (侯爵)浅野長治浅野長澄浅野長政浅野長晟浅野斉粛浅野斉賢浅野慶熾文久文禄文禄・慶長の役日本旗本播磨国改易慶長承久の乱1592年1593年1611年1617年1619年1622年1632年1719年1720年1730年1862年1869年1986年2004年 インデックスを展開 (119 もっと) »

加藤光泰

加藤 光泰(かとう みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。.

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加藤貞泰

加藤 貞泰(かとう さだやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃黒野藩主、伯耆米子藩主、伊予大洲藩初代藩主。加藤光泰の次男木村・藤野・村上『藩史大事典 第6巻』、P61。.

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吉田郡

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吉田郡山城

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。.

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吉田陣屋

吉田陣屋(よしだじんや)は、安芸国高田郡(現広島県安芸高田市)にあった広島新田藩の陣屋。.

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吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大石良重

大石良重(おおいし よししげ、元和5年(1619年) - 天和3年5月18日(1683年6月12日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称は頼母助(たのものすけ)。 赤穂浅野家筆頭家老の大石良勝の次男として誕生。兄の大石良欽が大石家1,500石の家禄と筆頭家老職を継いだが、良重も藩主浅野長直の信任を得て450石取りの家老となり、長直の娘・鶴姫を妻にした。その間に、又太郎(早世)・亀之助(早世)・女(浅野長直養女として松平定逸の室)・浅野長恒(分地により3,000石の幕府旗本)・浅野長武(3,000石の幕府旗本浅野長賢の養子)が生まれている。なお、延宝3年(1675年)の「武鑑」に掲載されている家老に「同(大石)頼母」がいる。 延宝5年(1677年)に兄が死去すると、良重は19歳という若年で相続した良欽の子大石良雄の後見人についた。天和3年(1683年)2月に若き藩主浅野長矩がはじめて勅使饗応役に任じられたときには江戸にあり、長矩を補佐した。 同年5月18日に江戸で死去。享年65。芝二本榎の国昌寺に葬られた。 Category:赤穂藩の人物 よししけ Category:1619年生 Category:1683年没.

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定府

定府(じょうふ)とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態を示す。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

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家長

家長(かちょう)とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指す。当主と同義の言葉とされている。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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安井重継

安井 重継(やすい しげつぐ、生没不詳)は、戦国時代の武将。父は尾張宮後城主・安井弥兵衛尉重幸(諸説あり)。母は不詳。正室は浅野長詮の娘。姉は安井御前(斎藤家家臣・蜂須賀正利側室)、弟は安井重知(一説には浅野氏重の実父)。息子は浅野長政(常陸真壁藩初代藩主)。通称は五兵衛。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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工藤寛正

工藤 寛正(くどう ひろまさ、1941年 - )は、歴史家、随筆家。 神奈川県川崎市生まれ。筆名・岩井寛。明治大学文学部史学科卒。雑誌・PR誌編集に携わり、雑誌『歴史と旅』(秋田書店)編集長を経て文筆業に。歌誌『藻』同人。.

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中川久慶

中川 久慶(なかがわ ひさよし)は、豊後岡藩の第7代藩主。 宝永5年(1708年)3月8日、安芸広島藩主・浅野綱長の四男として生まれる。元文2年(1737年)閏11月25日、第6代藩主・中川久忠の養子となる。元文3年(1738年)12月18日、従五位下山城守に叙任する。寛保2年(1742年)12月19日、養父久忠の死去により、家督を継いだ。 藩政刷新を目指して目安箱を設置しようとするなど、藩政改革に意欲を示していたが、久忠の後を追うように寛保3年(1743年)10月30日に死去した。享年36。跡を養子の久貞が継いだ。 Category:浅野氏 ひさよし *07 Category:1708年生 Category:1743年没.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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丹羽郡

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七曲殿

七曲殿(ななまがりどの、? ‐ 慶長8年4月18日(1603年5月28日))は、戦国時代の女性。浅野長勝の妻。名はふくと伝わる。父は杉原家利。姉に朝日殿、兄に杉原家次。 長勝との間に子はいないが、朝日殿の子、寧々、長生院、安井重継の子浅野長政を養子とした。 寧々と木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の結婚の際は、姉が反対したが、長勝とともに賛成した。これにより浅野家は出世するようになる。 天正3年(1575年)の長勝の死後も生きており、文禄3年(1594年)の大坂城二の丸にて能の興行でも姉・朝日殿とともにわた五十把をもらっている。 慶長8年(1603年)4月17日には養女・高台院が、豊国神社にて七曲殿の病平癒祈祷をしている。翌日に死去。 戒名は雲亮院宝林妙瑜大姉。位牌・肖像画が高台寺にある。.

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九条道房

九条 道房(くじょう みちふさ、慶長14年8月13日 (1609年9月11日) - 正保4年1月10日 (1647年2月14日))は、江戸時代前期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。摂政・左大臣に昇った。初名は忠象(ただかた)。徳川家光の甥にあたる。 九条幸家の次男として生まれる。母は豊臣完子。元和元年(1615年)従三位に叙せられ、以後も昇進を続ける。 正保4年(1647年)に摂政となるが、その5日後に薨去した。享年39。 正室は鶴姫(松平忠直の娘)。なお、道房と鶴姫は従兄妹である(母親同士が異父姉妹)。 子は5女があり、婿養子九条兼晴の正室待姫のほか、愛姫(浅野綱晟室)、令姫(東本願寺常如光晴室)、梅姫(松平綱賢室)、八代姫(浅野綱晟継室)。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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二木謙一

二木 謙一(ふたき けんいち、 1940年12月5日 - )は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は日本中世史(戦国史)。有職故実研究の第一人者として知られる。また、数々の大河ドラマの考証を手がけたことでも有名。文学博士。文化勲章受章者である医学者二木謙三は祖父に当たる。東京都出身。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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五奉行

五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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土岐光定

土岐 光定(とき みつさだ)は、鎌倉時代後期の武将。美濃源氏嫡流の土岐氏。土岐光行の五男。母は千葉氏の娘。正室は執権北条貞時の娘。.

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土岐光衡

土岐 光衡(とき みつひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。美濃源氏嫡流である土岐氏。伯耆守源光長の三男。鎌倉幕府御家人。.

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土岐光行

土岐 光行(とき みつゆき)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。土岐氏2代当主。.

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土岐光時

土岐 光時(とき みつとき、生没年不詳)は、鎌倉時代の武将。 土岐氏初代・土岐光衡の次男。現在の岐阜県土岐市肥田町浅野に居住し、浅野二郎、浅野光時を名乗り、土岐浅野氏、土岐肥田氏の祖となる。六条判官代。 土岐家惣領は兄の土岐光行が継ぐ。承久3年(1221年)の承久の乱の際に、多くの美濃国人と同様に後鳥羽上皇に味方した「土岐判官代」は光時と推定され『美濃・土岐一族』30-32頁、責任を取り浅野館に蟄居している一方、承久の乱以降も『吾妻鏡』には幕府方に「土岐左衛門尉」として名前があり、兄の光行は鎌倉幕府方だったと推定される。 子は8人おり、光清(浅野太郎)、光房(肥田二郎)、光忠(浅野三郎)、光仲(三栗五郎)、光朝(浅野八郎)、光純(浅野九郎)、正智(ひつ律師)、願意(上座)がいる。.

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土岐郡

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

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竹谷松平家

竹谷松平家(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では最も古く、代々松平宗家に貢献した。 6代家清は小田原征伐で宗家の徳川家康に従軍し、家康の関東移封後、武蔵八幡山1万石の大名となった。家清は関ヶ原の戦いでも功績を立て、三河国渥美郡吉田3万石に移封されるが、7代忠清に嫡子なく絶家となり、忠清の弟松平清昌が三河国宝飯郡に5千石を与えられ、蒲形(かまがた)陣屋を構えた。清昌の系統は帝鑑間詰の交代寄合の上級旗本として幕末まで続いた。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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継室

継室(けいしつ)は、後妻のこと。 正室と同じく、日本の歴史において身分の高い者が継室となる場合が多い。一般的に誤解されがちだが、寵愛深かった側室が正室の死後(もしくは離婚後)継室として格上げされるという例は、日本の奥方のありようから可能性が低く事例としては少ない。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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真岡藩

真岡藩(もおかはん)は、下野芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。.

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瑤泉院

泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは「ようぜんいん」と読む。.

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甲府藩

府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩の一つ。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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蟄居

蟄居(ちっきょ)とは、中世から近世(特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させるもの。 幕府や領主などから命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅で謹慎する場合もあった。江戸時代には蟄居・蟄居隠居・永蟄居(解除なし)などに分けられていた。また、減封などが付加される場合もあった。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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諸侯

諸侯(しょこう)とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のことである。 原義においては、古代中国において、春秋時代まで天子である周王朝などの王から封土を与えられて、封土の内側(国家)において天子にかわって「君」として振る舞うことが許された、あるいは許されたと観念されていた諸都市国家や都市国家連合の世襲的な首長のことであった。戦国時代に整理された周の理想的制度においては、諸侯は公・侯・伯・子・男の五等の爵位を与えられていたと考えられ、前漢以後は郡国制において王・公などの爵位と「藩国」と呼ばれる封土を与えられた者を諸侯と呼んだ。.

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高台院

台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。.

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豊臣完子

豊臣 完子(とよとみ の さだこ) / 羽柴 完子(はしば さだこ、文禄元年(1592年)1月もしくは2月 - 万治元年8月18日(1658年9月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。九条幸家の正室。従二位。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、明正天皇の伯母にあたる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀勝

豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ / とよとみ の ひでかつ) / 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟、秀保の兄。幼名は小吉(こきち)。 他の秀勝との呼び分けとして、史家は便宜上、小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ぶことがある。しばしば於次秀勝と混同され、丹波少将や丹波中納言という同じ通称が用いられた。岐阜宰相とも言われるがこれは間違いで、遺領を継いだ織田秀信(三法師)が同じく称されたものとの混同である。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

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貞純親王

貞純親王(さだずみしんのう)は、日本の平安時代前期の皇族。清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に経基王・経生王がある。桃園親王と号す。.

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鷹の羽

鷹の羽(たかのは)は、猛禽類である鷹の羽根のことで、和弓に用いられる矢の矢羽根(やばね)の材料である。 または、それを図案化した日本の家紋「鷹の羽紋」の一種である。以下は、家紋の「鷹の羽紋」について述べる。.

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阿部正桓

阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日(1852年1月20日) - 大正3年(1914年)8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。 浅野懋昭(安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薩長同盟

薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。.

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肥田氏

肥田氏(ひだし)は、日本の氏族。土岐氏庶流で代々武家として鎌倉幕府、室町幕府を支えた後、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康、徳川家康の家臣として仕え、江戸時代には旗本幕閣(長崎奉行、勘定奉行)として徳川幕府中枢を支えるとともに、尾張藩、水戸藩、高松藩の家老を輩出した。また幕末には遣米使節一行として咸臨丸で渡米するなど明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献した。 発祥により大きく播州肥田氏・土岐肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏などがある。また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、木田氏、貴田氏も同族の可能性がある。九州の日田氏(ひたし)は大蔵氏 (豊後国)であり別族。 家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「丸に桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」「三つ盛酢漿草」などがある。 2008年(平成20年)現在、日本に1849世帯の肥田姓があり、岐阜、中京、関西圏が多いものの広く日本全国に分布している。首都圏を除き主だった地域では常滑市に87世帯(4%)、可児市48世帯(2%)、土岐市45世帯(2%)、賀茂郡42世帯(2%)、射水郡31世帯(1%)、加東市・西脇市12世帯となっている。.

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長生院

長生院(ちょうせいいん)は、戦国時代から江戸時代にかけての女性、尼僧。浅野長政の正室。名は「やや(良々)」または「お祢々「おねね」であると、姉と同音のようであるが、この説の場合は姉の方を「おや屋」もしくは「於子々」としている。」、末津姫(まつひめ)など。晩年は出家して宗玉と名乗る。.

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長慶院 (三折全友室)

長慶院(ちょうけいいん、生年不詳 - 寛永元年(1624年)8月)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。.

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東京堂出版

株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.

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松平清昌

松平 清昌(まつだいら きよまさ、文禄2年(1593年) - 承応4年3月18日(1655年4月24日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。竹谷松平家家清の庶子。通称は、庄次郎、玄蕃頭。三州宝飯郡西郡領主の初代。子に清雄、清勝、清直、清吉、浅野長賢。.

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杉原定利

杉原 定利(すぎはら さだとし、生年不詳 - 文禄2年2月6日(1593年3月8日))は、戦国時代の武将。通称、助左衛門。別名は木下定利、道松。 妻は杉原家利の娘のこひ(朝日殿)で、婿として杉原家に入った。子女は嫡男の木下家定、三折全友の正室長慶院(くま)、豊臣秀吉の正室高台院(ねね・寧々・お禰)、浅野長政の正室長生院(やや)、男子1人らがいる。 当初は織田信長に仕え、後に秀吉に仕えた。 さたとし さたとし Category:戦国武将 Category:生年不明 Category:1593年没.

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杉原家次

杉原 家次(すぎはら いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。羽柴秀吉の家臣。丹波福知山城および近江坂本城主。.

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森快温

森 快温(もり はやあつ、明和6年10月18日(1769年11月15日)- 享和元年9月27日(1801年11月3日))は、播磨三日月藩の第5代藩主。 安芸広島藩主・浅野重晟の三男。正室は森俊韶の養女・曽代(森俊春の娘で俊韶の妹)。官位は従五位下、下野守。 広島城で生まれる。幼名は木工之丞。初名は長従。寛政5年(1793年)5月、嗣子のない先代藩主俊韶の養嗣子となる。同年8月11日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年11月10日、養父俊韶の隠居により跡を継いだ。同年12月、従五位下下野守に叙任した。藩政においては藩校・広業館を創設して、藩士子弟の教育化に努めた。享和元年(1801年)9月27日、33歳で死去し、跡を養嗣子の長義が継いだ。法号は快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士。墓所は佐用郡佐用町の高蔵寺。 はやあつ Category:浅野氏 はやあつ Category:1769年生 Category:1801年没.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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水野忠鼎

水野 忠鼎(みずの ただかね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。肥前国唐津藩2代藩主。忠元系水野家9代。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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清和天皇

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源光基

源 光基(みなもと の みつもと)は、平安時代末期の武将。左衛門尉源光信の長男。土岐光基とも記される。.

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源光信

源 光信(みなもと の みつのぶ)は、平安時代末期の武将。出羽守源光国の長男。通称は出羽判官、土佐判官。鳥羽院四天王の一人。土岐光信とも記される。.

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源光国

源 光国(みなもと の みつくに)は、平安時代後期の武将。伊豆守源国房の長男。初名は師時(『尊卑分脈』)。.

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源光経

源 光経(みなもと の みつつね、生年不明 - 寿永2年11月19日(1184年1月3日))は、平安時代末期の武将。源光長の次男。兄弟に国長、土岐光衡があり、子に光房(八条院蔵人)、光助(出羽守)がある。 美濃源氏土岐氏の棟梁であった父と共に在京し、検非違使・左衛門尉を務めたとされる(『尊卑分脈』)が、寿永2年(1184年)の法住寺合戦で父が後白河院方に加わったため光経もこれに従い、死闘の末に父と共に討ち取られ梟首された。 後代、次男・光助が越中国長沢に居住したことからその子孫が長沢氏として存続し、戦国時代には長沢光国などを輩出している。 みつつね Category:平安時代の武士 Category:生年不明 Category:1184年没 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物.

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源光長

源 光長(みなもと の みつなが)は、平安時代末期の美濃源氏の武将。源光信の子。土岐光長とも記される。通称は「出羽判官」。.

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源国房

源 国房(みなもと の くにふさ)は、平安時代中期から後期にかけての武将。源頼国の六男。後に摂津源氏を継いだ五兄・頼綱の養子となっていたとされる。美濃源氏の祖。.

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源経基

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。 『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。.

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源頼光

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。 満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。.

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源頼国

源 頼国(みなもと の よりくに)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。.

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源頼綱

源 頼綱(みなもと の よりつな)は、平安時代後期の武将・歌人。美濃守源頼国の五男。母は尾張守藤原中清女。多田頼綱(ただ の よりつな)とも呼ばれる。.

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源満仲

JR川西池田駅前にある満仲のブロンズ像 源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。.

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朝日殿

朝日殿(あさひどの)は、戦国時代・安土桃山時代の女性。朝日局(あさひのつぼね)とも云う。豊臣秀吉の正室・北政所の生母。一説に名はおこひ。.

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木下家定

木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名。備中足守藩初代藩主。足守木下氏初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。.

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木下氏

木下氏(きのしたし)は、日本の氏族の一つ。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浅野吉長

浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸広島藩の第5代藩主。浅野家宗家6代。.

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浅野宗恒

浅野 宗恒(あさの むねつね)は、安芸広島藩の第6代藩主。浅野家宗家7代。将軍徳川吉宗より偏諱を賜って宗恒と名乗った。.

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浅野幸長

浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主。浅野氏15代当主。.

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浅野光晟

浅野 光晟(あさの みつあきら)は、安芸広島藩の第2代藩主。浅野宗家3代。.

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浅野綱長

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期の国主外様大名。安芸広島藩第4代藩主。浅野家宗家5代。.

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浅野綱晟

浅野 綱晟(あさの つなあきら)は、安芸広島藩の第3代藩主。浅野宗家4代。 第2代藩主・浅野光晟の長男。母は前田利常の娘・満姫。官位は従四位下、弾正大弼、侍従。幼名は岩松。.

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浅野重晟

浅野 重晟(あさの しげあきら)は、江戸時代の大名で安芸広島藩第7代藩主。浅野家宗家8代。第6代藩主・浅野宗恒の長男。将軍徳川家重から賜った偏諱(「重」の字)と、初代長晟・2代光晟・3代綱晟の3名が用いた「晟」の字とにより重晟と名乗る。.

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浅野長厚

浅野 長厚(あさの ながあつ、天保14年2月26日(1843年3月26日) - 明治6年(1873年)8月28日)は、安芸国広島新田藩の第7代(最後)の藩主。 浅野家分家・浅野懋績(あさの としつぐ)の四男。正室は浅野懋昭(懋績実弟)の娘(浅野長勲の姉妹)。弟に浅野長之(長勲養子、浅野本家を継ぐ)、妹に益子(松浦厚夫人)がいる。幼名は万五郎、為五郎。官位は従五位下、近江守。 父の懋績は、広島藩第7代藩主浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の子で、第11代藩主長訓の実弟にあたる。幕末から明治時代にかけて画家として活動し、浅野学雲林の名でも知られている。 長厚は、その懋績の子として広島で生まれる。早くに伯父の長訓の養子となるが、安政5年(1858年)9月に長訓が本家の広島藩を継ぎ、その跡を継いで新田藩主となった従兄の長興(のちの長勲)も本家を継いで転出したため、文久2年(1862年)12月24日、長厚が広島新田藩主となった。文久3年12月16日、安芸国高田郡の吉田に陣屋を構える許可を得る。幕末期の動乱では本家と行動を共にしている。 明治2年(1869年)12月26日、版籍奉還により本家と所領を合併し、新田藩は廃藩となった。また、華族となることも辞退した。明治6年(1873年)8月28日、31歳で死去した。.

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浅野長友

浅野 長友(あさの ながとも、寛永20年10月3日(1643年11月4日) - 延宝3年1月26日(1675年2月20日))は、播磨赤穂藩の第2代藩主。初代藩主・浅野長直の長男。母は丹羽長重の娘。正室は内藤忠政の娘波知。子には長男・浅野長矩(内匠頭)、次男・浅野長広(大学)がいる。官位は従五位下、采女正。幼名は又一郎。 浅野長友之墓(花岳寺) 明暦3年(1657年)12月17日、祖父長重と同じ従五位下采女正に任官する。寛文11年(1671年)3月5日、父の隠居により家督相続。このとき父の命で5万3000石の所領のうち、3,500石を義兄の長賢に、新田3,000石を長恒にそれぞれ分与したため、赤穂藩は5万石となる。寛文12年(1672年)10月、赤穂に初めて入り、藩政を執り始めるが、延宝3年(1675年)正月26日、33歳で早世した。墓所は赤穂市の花岳寺。 跡は赤穂事件で知られる長男の長矩が9歳で継いだ。 なかとも 浅02 Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名) Category:1643年生 Category:1675年没.

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浅野長容

浅野 長容(あさの ながかね、明和7年2月18日(1770年3月15日) - 文政7年1月6日(1824年2月5日))は、安芸国広島新田藩の第4代藩主。 第2代藩主・浅野長喬の長男。正室は浅野重晟の娘。子に娘(浅野長訓正室)。幼名は粂之助、左京、兵部。官位は従五位下。近江守。 父の長喬は長容が生まれる前年の明和6年(1769年)に死去したため、宗藩広島藩からの養嗣子長員が家督を継いでいた。天明8年(1788年)7月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政12年(1800年)9月10日、長員が隠居したため家督を継ぐ。 文政元年(1818年)、一門から長訓を養嗣子として迎える。文政7年(1824年)1月6日に55歳で死去し、家督は同年6月17日に長訓が継いだ。 なかかね *04 Category:1770年生 Category:1824年没.

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浅野長寔

浅野 長寔(あさの ながざね、正徳3年6月8日(1713年7月29日) - 享保5年5月21日(1720年6月26日))は、備後三次藩の第5代藩主。第3代藩主・浅野長澄の四男。通称は主鈴(しゅれい)。夭逝したため官位は受けていない。.

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浅野長尚

浅野 長尚(あさの ながなお、正保元年(1644年) - 寛文6年7月28日(1666年8月28日))は、江戸時代前期の三次藩浅野家の世子。第二代三次藩主になるはずであったが、家督する前に死去してしまった。通称は松千代、又六郎。官位は従五位下和泉守。 安芸国広島藩主浅野光晟の次男として生まれる。母は前田利常の娘・満姫。浅野本家の家督は兄浅野綱晟が継いだため、長尚は、明暦元年(1655年)に三次藩主浅野長治の養子に入った。4月15日、はじめて将軍徳川家綱に御目見。万治元年(1658年)12月27日には従五位下和泉守に叙任された。しかしこのあと病にかかり、安芸国広島城に戻って養生していたが、そのまま回復せずに寛文6年(1666年)7月28日に広島で死去した。享年23。安芸国の日通寺に葬られた。法名は顔哲日容浄心院。 なおこの後、長尚の弟の長照が養嗣子に入って家督を継いだ。 なかなお Category:広島藩の人物 Category:1644年生 Category:1666年没.

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浅野長年

浅野 長年 (あさの ながとし、生年不詳 - 文久3年7月28日(1863年9月10日))は、江戸時代後期の旗本。通称は一学。浅野長広の子孫にあたる。 旗本浅野長邦の長男として誕生。天保2年(1831年)3月28日、父の隠居にともない500石の家督を相続。天保5年(1834年)12月26日、書院番士となる。天保14年(1843年)6月25日、安房国平郡の所領を長狭郡に改められた。文久3年(1863年)7月28日に死去。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は潤光院殿月照賞輪大居士。家督は長男の長栄が継いだ。 なかとし Category:江戸幕府旗本 Category:1863年没.

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浅野長之

浅野 長之(あさの ながゆき、1864年 6月27日(元治元年5月24日)- 1947年(昭和22年)4月23日『平成新修旧華族家系大成』上巻、24-25頁。)は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院侯爵議員。.

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浅野長広

浅野 長広(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟、のち養子。.

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浅野長延

浅野 長延 (あさの ながのぶ、元文元年(1736年) - 寛政4年1月5日(1792年1月28日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の孫。通称は政之丞、大学、長兵衛。 旗本浅野長純の長男として誕生。母は村上源左衛門正方の娘。宝暦4年(1754年)に父の死去により500石の家督を相続して幕府に出仕。11月25日にはじめて将軍徳川家重にお目見えし、宝暦5年(1755年)3月29日、小姓組番士となった。宝暦10年(1760年)1月26日より進物役となったが、明和3年(1766年)11月28日に辞職。明和4年(1767年)5月7日には番士も辞した。明和5年(1768年)8月3日に隠居し、弟の長貞に家督を譲った。寛政4年(1792年)1月5日に死去。享年57。赤穂浅野家の菩提寺である高輪泉岳寺に葬られた。法名は恕休。 なかのふ category:江戸幕府旗本 Category:1736年生 category:1792年没.

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浅野長喬

浅野 長喬(あさの ながたか、享保17年(1732年) - 明和6年12月12日(1770年1月8日))は、安芸国広島新田藩の第2代藩主。 初代藩主・浅野長賢の長男。子に浅野長容(長男)、娘(池田澄時婚約者のち細川立礼婚約者のち戸沢正親正室)。幼名は鍋三郎、玄蕃、舎人。官位は従五位下、兵部少輔。 延享元年(1744年)11月19日、父の死去により家督を継ぐ。寛延2年(1749年)2月15日、将軍徳川家重に拝謁する。同年12月18日、従五位下兵部少輔に任官する。存命中に男子が生まれなかったため、明和6年(1769年)12月10日に本家の広島藩から前藩主宗恒の三男(藩主重晟の弟)長員を養嗣子として迎え、その2日後に38歳で死去した。法号は泰潤院。墓所は江戸貝塚の青松寺。 なかたか *02 Category:1732年生 Category:1770年没.

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浅野長員

浅野 長員(あさの ながかず、延享2年5月17日(1745年6月16日) - 文化5年6月20日(1808年7月13日))は、安芸国広島新田藩の第3代藩主。 広島藩主・浅野宗恒の三男。子に娘(大田原光清正室)、娘(堀親民継室)。幼名は左京。官位は従五位下、近江守。 明和6年(1769年)12月10日に先代藩主・長喬の養嗣子となる。その2日後に長喬が死去したため、翌年2月4日に家督を継いで藩主となった。同年2月15日、将軍徳川家治に拝謁した。同年12月16日、従五位下近江守に任官する。寛政12年(1800年)9月10日、先代藩主・長喬が死んだ後に生まれた遺児の長容に家督を譲って隠居し、文化5年(1808年)に64歳で死去した。 なかかす *03 Category:1745年生 Category:1808年没.

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浅野長勝

浅野 長勝(あさの ながかつ、生年不明 - 天正3年9月10日(1575年10月13日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅野氏当主。父は浅野長詮。妻は七曲殿(杉原家利の娘)。通称は又右衛門。.

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長純

浅野 長純 (あさの ながずみ、宝永4年(1707年) - 宝暦4年7月13日(1754年8月30日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の子。通称は政次郎、大学、長兵衛。 赤穂藩主・浅野長矩の弟・浅野長広の長男として生まれる。母は伊勢国菰野藩主土方雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方豊高の娘)。 父は浅野長矩の刃傷事件に連座して広島藩浅野家にお預かりになっていたが、宝永7年(1710年)9月16日幕府に500石の旗本として出仕することが許された。享保8年(1723年)2月9日はじめて将軍徳川吉宗に謁見。享保9年(1724年)7月19日に父の隠居で家督500石を相続。延享2年(1745年)9月13日に小姓組番士に列したが、後に小普請役に落とされた。 宝暦4年(1754年)7月13日に死去。享年48。赤穂浅野家の菩提寺である江戸高輪泉岳寺に葬られた。法名は伊園。妻は村上正方の娘。後妻は牧野忠列の娘。家督は子の長延が継いだ。 なかすみ category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 category:1754年没.

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浅野長経

浅野 長経(あさの ながつね、宝永6年11月14日(1709年12月14日) - 享保4年4月23日(1719年6月10日))は、備後三次藩の第4代藩主。第3代藩主・浅野長澄の三男。幼名は撫三郎、又六郎。官位は夭折したため受けていない。.

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浅野長照

浅野 長照(あさの ながてる、慶安5年1月17日(1652年2月26日) - 宝永2年11月15日(1705年12月30日))は、第2代備後三次藩主。通称は長蔵(ながぞう)、官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。 父は安芸広島藩主浅野光晟、母は前田利常の娘・満姫。兄に浅野綱晟、浅野長尚。室は公家の広幡忠幸の娘・園姫。.

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浅野長直

浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。.

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浅野長訓

浅野 長訓(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、安芸国広島新田藩第5代藩主、のち広島藩第11代藩主。浅野家宗家12代。 浅野長懋(ながとし、第7代藩主・浅野重晟の四男)の五男。正室は浅野長容の娘・峻。養子に甥(弟・懋昭(としてる)の子)の浅野長勲、浅野雪年(ゆきとし、1861-1936)がいる。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長( -もちなが)を名乗っていた。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。 文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩第10代藩主の浅野慶熾の死去にともない、その跡を継いで広島藩主となる(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下侍従に任官し、将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。 第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。 明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗藩の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。.

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浅野長貞

浅野 長貞(あさの ながさだ、延享4年(1747年) - 文化5年7月13日(1808年9月3日))は、江戸時代後期の旗本。浅野長広の孫。通称は源三郎、大学。 旗本浅野長純の次男として誕生。母は不詳。子のない兄長延の養子に入った。明和5年(1768年)8月3日に養父の隠居により500石の家督を相続。12月5日にはじめて将軍徳川家治にお目見えし、安永4年(1775年)2月24日、小姓組番士となった。天明6年(1786年)10月11日には安房国平郡の領地を上総国長柄郡に移された。文化5年(1808年)5月26日に死去。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は良俊院殿仁嶺道儀居士。妻は諏訪七左衛門頼容の娘。その間の子長邦が家督を継いだ。 なかさた category:江戸幕府旗本 Category:1747年生 category:1808年没.

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浅野長賢 (広島新田藩主)

浅野 長賢(あさの ながかた、元禄6年(1693年) - 延享元年9月25日(1744年10月30日))は、安芸国広島新田藩の初代藩主。 広島藩主浅野綱長の三男。子に浅野長喬(長男)、養寿院(小笠原忠総正室)、瑞仙院(毛利広寛正室)。幼名は万吉、民部、大膳。官位は従五位下。兵部少輔。宮内少輔。 宝永7年(1710年)9月18日、将軍徳川家宣に拝謁し、松平姓を名乗ることを許される。同年12月18日、従五位下兵部少輔に任官する。後に宮内少輔に改める。享保15年(1730年)5月11日、兄で広島藩主の吉長から3万石を分与されて、支藩である広島新田藩を立藩した。延享元年(1744年)9月25日、52歳で死去し、跡を長男・長喬が継いだ。法号は大通院。墓所は東京都品川区北品川の東海寺。 なかかた *01 Category:1693年生 Category:1744年没.

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浅野長賢 (旗本)

浅野 長賢(あさの ながかた、寛永11年(1634年)- 貞享4年5月5日(1687年6月14日))は、江戸時代前期の幕府旗本寄合。赤穂藩浅野家の分家。 交代寄合の松平清昌の末男として生まれる。伯母(叔母)の婚家である播州赤穂藩の藩主で、従兄の浅野長直の養子に入るが、実子長友の誕生により部屋住みに落とされた。承応元年7月26日(1652年8月29日)には、将軍徳川家綱に初御目見する。寛文11年3月5日(1671年4月14日)、長友から3500石を分与されたため、旗本の寄合に列した。貞享3年12月6日(1687年1月19日)の隠居により、その家督は養子の長武(赤穂浅野家家臣大石良重の子、母が浅野長直の娘)に譲った。貞享4年(1687年)に死去した。享年54。 なかかた Category:竹谷松平氏 Category:江戸幕府旗本 Category:1634年生 Category:1687年没.

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浅野長邦

浅野 長邦(あさの ながくに、安永5年(1776年) - 嘉永5年3月1日(1852年4月19日))は、江戸時代後期の旗本。通称は久次郎。 旗本浅野長貞の長男として誕生。母は諏訪七左衛門頼容の娘。寛政6年(1794年)11月14日、切米300俵で書院番士として出仕。父の死にともない、文化5年(1808年)8月4日に500石の家督を相続した。このときに300俵は幕府に返上。天保2年(1831年)3月28日に隠居して嫡男の長年に家督を譲った。嘉永5年(1852年)閏3月1日死去。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は淨邦院殿閑窓蓮夢大居士。妻は小林仙太郎正方の娘。 なかくに category:江戸幕府旗本 Category:1776年生 category:1852年没.

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浅野長重

浅野 長重(あさの ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。.

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浅野長恒

浅野 長恒 (あさの ながつね、万治元年(1658年) - 享保17年9月7日(1732年10月25日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本寄合。播磨国赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は長三郎(ちょうさぶろう)のち隼人(はやと)。官位は従五位下、美濃守・壱岐守・市正(いちのかみ)。浅野氏は土岐氏の支流と称しているので、その通りならば本姓は清和源氏。.

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浅野長栄

浅野 長栄 (あさの ながひで、天保10年(1839年) - 明治22年(1889年)10月31日)は、江戸時代末期の旗本、明治時代初期の朝臣。浅野長広の子孫。 旗本浅野長年の長男として誕生。父の死去にともない、文久3年(1863年)9月15日に500石の家督を継いだ。元治元年(1864年)11月7日に書院番士となるが、まもなく江戸幕府は崩壊。江戸城が新政府軍に無血開城した後の明治元年(1868年)9月23日から正式に朝臣に転じ、明治天皇より改めて禄高300俵を賜った。朝廷では行政官、後に弁官の支配とされた。明治22年(1889年)10月31日に死去。享年51。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は徳昌院殿隆山長榮居士。娘の静子が家督を継いだ。 なお、孫で静子の次の当主の長楽(ながら)は妻帯せず、1986年(昭和61年)に病死し、嫡流は絶えている。 なかひて Category:幕末の旗本 Category:明治時代の人物 Category:1839年生 Category:1889年没.

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浅野長武

浅野 長武(あさの ながたけ、寛文3年(1663年) - 正徳2年9月21日(1712年10月21日))は、江戸幕府の旗本。播磨赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は左兵衛(さへえ)。 赤穂藩浅野家の江戸家老大石良重の次男として誕生。母は赤穂藩主浅野長直の娘。兄に浅野長恒がいる。はじめ大石酒之允と名乗ったが、母方の血統ゆえに貞享元年(1684年)4月に赤穂藩浅野家の分家旗本の浅野長賢(3500石)の婿養子に迎えられ、浅野左兵衛と改名した。 貞享3年(1686年)3月1日、はじめて将軍徳川綱吉に謁見。12月6日、養父長賢の隠居で家督を相続した。元禄11年(1698年)4月1日、御書院番の組頭となり、12月29日には布衣の着用を許された。元禄14年(1701年)3月15日には宗家の浅野長矩の刃傷に連座して出仕を禁止された。5月6日に出仕が許され、6月25日になって将軍拝謁も許された。元禄15年(1702年)12月19日、又従兄弟にあたる大石良雄が吉良義央を討ち取った事件で再び出仕を止められたが、元禄16年(1703年)3月8日には許された。正徳2年(1712年)正月11日に持弓頭に就任したが、9月21日には死去。享年50。 妻は浅野長賢の娘、のちに甲斐庄正親の娘。子に浅野長時と浅野長豊に嫁いだ娘がいる。 Category:大石氏 なかたけ Category:江戸幕府旗本 category:赤穂事件関係人物 Category:1663年生 category:1712年没.

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浅野長武 (侯爵)

浅野 長武(あさの ながたけ、1895年(明治28年)7月5日 - 1969年(昭和44年)1月3日『平成新修旧華族家系大成』上巻、24-25頁。)は、日本の美術史家、政治家、華族。貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任した。.

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浅野長治

浅野 長治(あさの ながはる、1614年5月4日(慶長19年3月26日) - 1675年2月13日(延宝3年1月19日))は、江戸時代前期の大名。備後三次藩初代藩主。正室は常陸笠間藩主浅野長重の娘。通称は又六郎(またろくろう)。官位は従五位下因幡守。 広島藩初代藩主浅野長晟の庶長子として山城国に生まれる。元和5年(1619年)に将軍徳川秀忠に御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下因幡守に叙任された。 寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。 男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚を明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、三男長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩主浅野長矩の正室・阿久里がいる。 延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。.

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浅野長澄

浅野 長澄(あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、第3代備後三次藩主。 安芸広島藩主浅野綱晟の次男。母は左大臣九条道房の娘・八代姫。兄は第4代広島藩主・浅野綱長。正室は小笠原忠雄の娘。子に浅野長経(長男)、浅野長寔(次男)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。.

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浅野長政

浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。浅野氏14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。 長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。.

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浅野長晟

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名。備中足守藩主、紀伊和歌山藩の第2代藩主、安芸広島藩の初代藩主。浅野氏宗家2代。.

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浅野斉粛

浅野 斉粛(あさの なりたか、文化14年9月28日(1817年11月7日) - 慶応4年1月12日(1868年2月5日))は、安芸広島藩の第9代藩主。浅野家宗家10代。 第8代藩主・浅野斉賢の長男。正室は将軍徳川家斉の二十四女・末姫。子は浅野慶熾(長男)。幼名は勝吉。初めは長粛(ながたか)を名乗っていたが、のちに父同様に義父である家斉の偏諱を賜って斉粛に改名した。官位は従四位上、安芸守、備守、左少将。 文政6年(1823年)6月18日、将軍徳川家斉の娘末姫と縁組する。天保2年(1831年)1月20日、家督を相続した。天保3年7月23日、従四位下侍従・安芸守に任官する。天保7年12月16日、左少将に任官した。天保11年12月16日、従四位上に昇進する。斉粛が藩主の時代、広島藩は天保の大飢饉、河川の普請工事、第11代将軍・徳川家斉の娘との婚儀など、天災や事業、行事などが重なって、藩政は多難を極め、財政は火の車となった。このため、斉粛は野村帯刀を登用して藩政改革に取り組んだが、あまり効果は得られなかった。 天保6年(1835年)、広島城の鬼門に位置する明星院に浅野家の初代浅野長政を祭神とする社を建立した(明治6年(1873年)県社となり饒津神社となる)。 安政5年(1858年)4月12日、長男・慶熾に家督を譲って隠居した。隠居により、通称を備後守に改める。慶応4年(1868年)正月12日、52歳で死去した。法号は温徳院殿寛洪日順大居士。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 なりたか Category:幕末の大名 なりたか 主09 Category:1817年生 Category:1868年没.

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浅野斉賢

浅野 斉賢(あさの なりかた)は、安芸広島藩の第8代藩主。浅野家宗家9代。.

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浅野慶熾

浅野 慶熾(あさの よしてる、天保7年11月12日(1836年12月19日) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、安芸広島藩の第10代藩主。浅野家宗家11代。 第9代藩主・浅野斉粛の長男。正室は徳川斉荘の娘(徳川斉彊の養女)・利姫。官位は従四位上、侍従、上総介、安芸守。幼名は定吉、定之丞、善次郎。初名は長裕。 嘉永4年(1851年)3月25日、元服し、伯父で将軍の徳川家慶より偏諱を賜って慶熾に改名する。また、従四位上侍従・上総介に任官する。安政5年(1858年)4月12日、父の隠居により跡を継ぐ。通称を安芸守に改める。幼少期から聡明で知られており、その力量は時の名君と呼ばれた島津斉彬や山内豊信、松平慶永らからも一目置かれるほどであったが、家督を継いでから半年足らずの同年9月10日に23歳の若さで江戸にて他界してしまった。跡を養嗣子の長訓が継いだ。 法号は大光院。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 よしてる Category:幕末の大名 よしてる 主10 Category:1836年生 Category:1858年没.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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1592年

記載なし。

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1593年

記載なし。

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1611年

記載なし。

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1617年

記載なし。

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1619年

記載なし。

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1622年

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1632年

記載なし。

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1719年

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1720年

記載なし。

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1730年

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1862年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1986年

この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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