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洪秀全

索引 洪秀全

洪 秀全(こう しゅうぜん、)は清代の宗教家・革命家。キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした(太平天国の乱)。.

61 関係: 南京市同治天京事変太平天国の乱孟子孔子客家宗教宗教家小島晋治岩波現代文庫中国帝王一覧三位一体広州市広西チワン族自治区広東省マナ (食物)ヤハウェ嘉慶 (清)咸豊イエス・キリストキリスト教出エジプト記四書五経石達開秦日綱科挙韋昌輝聖書道光革命家馮雲山金田蜂起陳玉成李秀成梁発楊秀清洪天貴福洪仁カン洗礼湖南省拝上帝会12月10日 (旧暦)1814年1843年1844年1845年1846年1847年...1851年1852年1853年1856年1859年1862年1864年1月11日1月1日4月27日 (旧暦)6月1日 インデックスを展開 (11 もっと) »

南京市

南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.

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同治

1871年9月13日の日清修好条規。左頁の右側に明治の日付と伊達宗城の花押、左側に同治の日付と李鴻章の花押が見える。 同治(どうち、満州語:、転写:yooningga dasan)は清の穆宗の治世中に使われた元号。1862年 - 1874年。一世一元の制を採用していたため穆宗は同治帝と称される。.

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天京事変

天京事変(てんけいじへん)は、天京(南京)で1856年に発生した太平天国の指導部の内紛である。楊秀清(東王)、韋昌輝(北王)、秦日綱(燕王)が命を落とし、2万人余りが殺害された事変である。天京事変は太平天国が衰亡へ向かう転換点となった。.

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太平天国の乱

太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.

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孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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客家

客家(ハッカ)とは、客家語を共有する漢民族の一支流と規定され、中国の少数民族の扱いは受けていない。.

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宗教

宗教(しゅうきょう、religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり『世界大百科事典』 231頁。、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 。.

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宗教家

宗教家(しゅうきょうか)は、特定の宗教に深く通じ、その研究や普及活動に従事する者.

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小島晋治

小島 晋治(こじま しんじ、1928年2月16日 - 2017年3月6日)は、中国近代史学者。茨城県古河市出身。.

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岩波現代文庫

岩波現代文庫(いわなみげんだいぶんこ)は、岩波書店が刊行する文庫シリーズ。2000年に創刊。内容によって、学術(青)、文芸(赤)、社会(緑)の3つに分類される。 日本や世界各国の文学作品や、古典の学術書を扱っている岩波文庫と異なり、岩波書店で20世紀後半以降に出版された文学作品・学術書関連の単行本や、同時代ライブラリー(1990年 - 1998年に350冊刊行)の出版が主だった。では、他社で出版されて品切絶版となった単行本・文庫も多く再刊・復刊している。 名著を現代に甦らせ、21世紀に生きる術をそこから見出してもらいたいという願いを込めて刊行されている。.

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中国帝王一覧

ここでは中国帝王一覧(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。 中国の古来の君主の号は「王」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「王」である。そして、前漢以降は、「皇帝」が皇族や功臣を「王」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「封ぜられた王」(諸侯王)は基本的にこの一覧には載っていない。ただし、五胡十六国時代・十国は載せている。 また、歴史上、例えば「太祖」といった名は、複数の人物によって使われている。よって、自分がどの王朝の人物を調べたいのかを知ることも重要である。もし、王朝名が分からず諡号や廟号しか分からないのならば、Wikipediaの検索機能を用いるか、同諡号廟号一覧(未完成)の記事を見ると良い。 しかし、「皇帝」と「王」の称号について、例外もある。.

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三位一体

date.

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広州市

広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.

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広西チワン族自治区

広西チワン族自治区(広西壮族自治区)(こうせいチワンぞくじちく、Gvangjsih Bouxcuengh Swcigih、广西壮族自治区)は、中華人民共和国南部の自治区。中国最大の少数民族チワン族(壮族そうぞく、チョワン族とも)の原住地。隣の広東省と併せて「両広」と言われることもある。首府は南寧市。.

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広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

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マナ (食物)

マナ(Manna、ヘブライ語:מן, מָן, mān、アラビア語:مان, mān)は旧約聖書「出エジプト記」第16章に登場する食物。イスラエルの民がシンの荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせたという。この時人々は「これは何だろう」と口にし、このことから「これは何だろう」を意味するヘブライ語のマナと呼ばれるようになる。 ヘブライ語とアラビア語ではマーン (מָן, mān) という。マーナーはヘブライ語では全体の一皿の食べ物(コースの中の一品)、数を割った商などの別の意味の言葉である。 マナは、神が作った超自然的なものだとされている。聖書には、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」(出エジプト記16:4)と記述されている。また、40年間にもわたって群衆の腹を満たし続けたことからも、自然のものではないとされている。.

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ヤハウェ

ヤハウェ(יהוה、フェニキア語: 𐤉𐤄𐤅𐤄、: 𐡉𐡄𐡅𐡄)は旧約聖書および新約聖書における唯一神の名である。 この名はヘブライ語の4つの子音文字で構成され、神聖四文字、テトラグラマトンと呼ばれる。神聖四文字とこれを「アドナイ」(わが主)と読み替えるための母音記号とを組み合わせた字訳に基づいて「Jehovah」とも転写され、日本語ではエホヴァ、エホバ(文語訳聖書ではヱホバ)とも表記される。遅くとも14世紀には「原文ママ」という表記が使われ、16世紀には多くの著述家が Jehovah の綴りを用いている。近代の研究によって復元された原音に基づいて、これを「Yahweh(ヤハウェ)」と読むのが主流となっている。 本項に示す通り、この神を指す様々な表現が存在するが、特に意図がある場合を除き、本項での表記は努めてヤハウェに統一する。また本項では、ヤハウェを表す他の語についても述べる。.

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嘉慶 (清)

嘉慶(かけい、満洲語:、ローマ字表記:saicungga fengšen)は清の仁宗の治世中に使われた元号。1796年 - 1820年。一世一元の制を採用していたため仁宗は嘉慶帝と称される。.

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咸豊

咸豊(かんぽう、満州語:、転写:gubci elgiyengge)は清の文宗の治世中に使われた元号。1851年 - 1861年。一世一元の制を採用していたため文宗は咸豊帝と称される。.

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イエス・キリスト

イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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出エジプト記

『出エジプト記』(しゅつエジプトき、、)は、旧約聖書の二番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。モーセ五書(トーラー)のひとつであり、ユダヤ教では本文冒頭の言葉から『シェモース』と呼ぶ。全40章から成る。.

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四書五経

四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一章を独立させたものである。.

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石達開

石 達開(せき たつかい、Shi Dakai、1831年 - 1863年6月25日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。 広西省貴県出身。チワン族との説もある。洪秀全が開いたキリスト教秘密結社拝上帝会に加入。1851年に金田蜂起がおこると左軍主将となり、翼王に封ぜられ、各地で戦功をたてた。 1853年の西征開始後、安徽省で政務にあたった。石達開は天朝田畝制度による土地改革を行う条件が整っていないと判断し、「旧に照らして徴税する」、すなわち従来通り地主が小作人から小作料を徴収して政府が地主から徴税を行うという政策をとった。これを「安慶改制」といい、その後の太平天国の占領地での基本方針となった。もっとも小作人の抗租運動について放置したため、地主は小作料を上げることができず、小作人の負担は軽減された。 1855年、江西省で曽国藩率いる湘軍に勝利をおさめ、南昌をのぞく江西省全域を占領した。 1856年、天京(南京)で北王韋昌輝が東王楊秀清の一党2万人を殺害したことを石達開が責めると、韋昌輝は石達開の家族を殺害した。石達開が城外に逃れて兵を集め、韋昌輝討伐を開始すると、洪秀全は韋を殺害した。この天京事変の結果、太平天国の官僚たちは石達開が政務を執ることを期待したが、洪秀全は石達開を疑い、兄の洪仁発・洪仁達を登用して牽制した。不安を感じた石達開は1857年に天京から離脱し、江西省、湖南省、広西省を転戦した。 石達開は四川省を根拠地にしようと考えていたが、彼の軍の中には天京に帰ることを望む者もいた。1860年、部将の彭大順・朱衣点らは天京への帰還を主張したが、石達開が聴かなかったため、彭大順・朱衣点・吉慶元は自分の部隊を率いて天京に出発した。この部隊は途中で清軍の攻撃を受けて、彭大順は戦死したが、朱衣点・吉慶元の部隊20万人は江西省で太平天国軍と合流した。 部隊の多くが離脱した後、石達開は広西省で数万人の兵を集め、1861年、10万余りの兵を率いて湖南省・湖北省を経て四川省東部に入った。四川の南方から長江を北上しようと何度も攻撃したが、清軍に阻まれた。そのため頼裕新に北上を、李福猷に東進を命じて清軍の兵力を分散させる作戦をとった。しかし1863年5月、大渡河で渡河に失敗し、清軍に退路を断たれ、20日余り包囲された。糧食が尽き、包囲の突破にも失敗して兵力を失ったため、6月13日に部下の命と引き換えに四川総督駱秉章に降伏し、部将の曽仕和・黄再忠・韋普成とともに成都で凌遅刑で処刑された。兵のうち、老弱の者と新兵は解散させられたが、二千人が殺害された。.

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秦日綱

秦 日綱(しん じつこう、Qin Rigang、1821年 - 1856年)は、太平天国の指導者の一人。 広西省貴県出身。早くから拝上帝会に入信し、1851年の金田蜂起に参加して天官正丞相に任命された。1853年、翼王石達開に代わって安慶に駐屯する。翌年燕王に封ぜられ、北伐軍の救援に向かったが舒城で引き返した。武昌と漢陽が陥落すると、田家鎮まで救援に向かったが、12月に湘軍に敗北し安慶に撤退した。1855年、広済で湖広総督楊霈の軍を撃破し、武昌・漢陽を占領した。1856年5月、鎮江に援軍を率いて赴き、6月には鎮江守将の呉如孝とともに江蘇巡撫ジルハンガ(吉爾杭阿)と7千の清軍を殲滅し、続いて江南大営・江北大営を撃破した。同年9月、天王洪秀全は東王楊秀清を殺害するよう北王韋昌輝と秦日綱に密命を下し、2人は楊秀清と一族郎党を皆殺しにし、さらに韋昌輝は翼王府も襲撃した。石達開が天京を逃れた後、韋昌輝は秦日綱に追跡させたが、秦日綱は天京の外の太平天国軍の大半が石達開を支持していることを知り、追跡をあきらめた。韋昌輝が殺害された後、秦日綱は石達開の要求で洪秀全に殺害された。この事件を天京事変という。 Category:太平天国の人物 Category:貴港出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1821年生 Category:1856年没.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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韋昌輝

韋 昌輝(い しょうき、Wei Changhui、1823年または1826年 - 1856年11月2日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から北王に封ぜられ、六千歳と称した。チワン族出身。 広西省桂平出身。富農の家庭に生まれ、科挙を何度も受験するが失敗に終わった。1848年、洪秀全の開いた拝上帝会に入会し、多額の寄進を行った。1851年、拝上帝会が金田蜂起を行うと、右軍主将・北王に封ぜられた。1853年、南京を攻略して天京と改称すると韋昌輝はその防備に当たった。しかしその翌年ごろより太平天国の実権を握った東王楊秀清と不和になった。 1856年、天王洪秀全の密勅を受けて燕王秦日綱と結んで、東王府を襲撃して楊秀清とその一党を殺害した。その数は2万人といわれる。翼王石達開が天京に戻り、死者の多さを非難したため、韋昌輝と石達開は対立することとなった。石達開は天京を脱出したが、韋昌輝は石達開の一族を殺害した。石達開が安慶で韋昌輝討伐の兵をあげると、太平天国軍の大半が石達開を支持したため、天王府の兵と東王府の余党により韋昌輝は殺害され、爵位を剥奪された。この事件を天京事変という。 Category:太平天国の人物 Category:貴港出身の人物 Category:1856年没 Category:チワン族.

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聖書

聖書(せいしょ)とは、キリスト教、ユダヤ教の教典、正典であり、イスラム教でも教典とされている。.

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道光

道光(どうこう、満州語:、転写:doro eldengge)は清の宣宗の治世中に使われた元号。1821年 - 1850年。一世一元の制を採用していたため宣宗は道光帝と称される。.

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革命家

革命家(かくめいか、revolutionary)は、政治的、社会的な革命を遂行するために力を尽くす政治運動家、ゲリラ指導者。漸進的で穏健な社会変革を目指す改革派(reformist)とは方法論において対をなす。 一般に肯定的な意味合いの用語であって、同じ人物でも保守や反対派からはテロリストと否定的に呼ばれることもある。この反対派に対する否定的な呼称は反革命、反動となる。.

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馮雲山

馮 雲山(ふう うんざん、Feng Yunshan、1815年頃 - 1852年6月3日)は、太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から南王に封ぜられ、七千歳と称した。 広東省花県(現在の広州市花都区)出身。最も早い洪秀全の支持者で、拝上帝会の創始者のひとりである。1844年から洪秀全とともに広西省で布教活動を始めた。洪秀全が広東省に戻った後も、広西省に残り、紫荊・金田一帯で布教を続けた。楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開・秦日綱らが入会し、1847年、洪秀全が再び広西省に到着した時には、拝上帝会の規模は大きなものとなっていた。1848年に清朝の官憲に逮捕されるが、拝上帝会の信者が賄賂を渡すことで釈放された。その後も拝上帝会は発展を続け、1851年、金田蜂起の後、馮は後軍主将・南王に封ぜられた。太平天国の初期の官制・軍制・暦法は馮雲山が定めたという。1852年5月、全州攻略中に清軍の砲弾に当たって重傷を負い、全州が陥落した後の6月10日に死亡した。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:広州出身の人物 Category:1852年没.

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金田蜂起

金田蜂起(きんでんほうき)は洪秀全に率いられた太平天国が広西省桂平県金田村で行った武装蜂起である。 1843年、洪秀全は馮雲山・洪仁玕とともに広東省花県で拝上帝教を組織し、翌年春から広西省で民衆に布教活動を行った。洪秀全は広東省に戻って宗教理論の構築に専念したが、馮雲山は広西省の奥深くの紫荊山地区に入り、群衆を組織して拝上帝会にまとめあげた。拝上帝会には楊秀清・蕭朝貴らが参加し、指導部を形成していった。1849年前後の広西省は連年の天災に見舞われ、天地会の蜂起があいついで蜂起の機は熟していった。 1850年7月、洪秀全は総動員令を出し、金田村に信徒を集め、隊伍に編成して軍事訓練を施し、武装蜂起の準備を進めた。軍帥は5人の師帥を指揮下に置き、師帥は5人の旅帥を指揮下に置き、旅帥は5人の卒長を指揮下に置き、卒長は5人の両司馬を指揮下に置き、両司馬は5人の伍長を指揮下に置き、伍長は4人の兵士を率いた。集結した人々は7月の末までに、13,155人に達した。広西省の清軍は人数が不足していたうえ、天地会の蜂起の鎮圧に忙殺されていたため、拝上帝会は気付かれることなく組織することができたのである。 清軍が気付いた時には既に遅かった。12月に潯州協副将李殿元が平南県思旺圩に来て、花洲山人村の洪秀全の邸宅の一つを包囲した。しかし楊秀清は金田村から援軍を送って清軍を破ったので、洪秀全と馮雲山は金田村に戻ることができた。敗北の挽回をうかがっていた清軍は、周鳳岐・李殿元・伊克坦布の指揮のもと1851年1月1日に金田村への攻撃を開始したが、予期していた拝上帝会は近くの蔡江村で待ち伏せしており、清軍を破って伊克坦布を殺害した。 この2つの勝利は拝上帝会の士気を高め、1851年1月11日、拝上帝会は金田村で蜂起を行い、国号を「太平天国」と定め、辮髪を切り衣服を改めた。さらに命令に従う、略奪をしないなどの軍紀5カ条を定めた。3日後に太平天国軍は大湟江口を占領した。2千人を超える天地会が羅大綱と蘇三娘に率いられて合流した。欽差大臣李星沅は広西提督向栄に2千の兵で攻撃を命じ、貴州省から千人の援軍を呼び寄せた。2月18日、向栄は李能臣や周鳳歧の援軍とともに大湟江口を攻撃した。しかし太平天国軍の待ち伏せにあったため、包囲作戦を採用した。 3月10日に太平天国軍は闇にまぎれて武宣に逃れた。清軍は追跡したがまたも待ち伏せにあい、三里圩で膠着状態に陥った。4月3日、広西巡撫周天爵と向栄は6千人の兵で攻撃したが、敗北を喫した。5月16日に太平天国軍は包囲を突破し、象州に向かった。清軍は新たに広州副都統ウランタイ(烏蘭泰)の率いる軍を配置させ、向栄は太平天国軍の北上を防ぐ体制をとった。 梁山村の北の独鰲岭の戦いでウランタイは優位に立ち、7月末までに太平天国軍は象州から根拠地である桂平県紫荊山への撤退を余儀なくされた。北上計画は失敗したが、ここで多くの民衆たちを軍に加えることに成功した。ここから太平天国軍の進撃が始まるのである。 現在、天安門広場の人民英雄紀念碑に金田蜂起を称えたレリーフが刻まれている。 Category:太平天国 Category:太平天国の戦争 Category:清朝の戦争 Category:1850年の中国 Category:1851年の中国 Category:1850年の戦闘 Category:1851年の戦闘 Category:広西チワン族自治区の歴史 Category:貴港市.

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陳玉成

陳 玉成(ちん ぎょくせい、Chen Yucheng、1837年 - 1862年)は、太平天国の指導者の一人。 広西省藤県出身。14歳の時、叔父に従って金田蜂起に参加。1854年、第2次武昌攻略で功績をあげた。翌年、天官正丞相秦日綱に従って武昌・廬州・蕪湖を転戦し、冬官正丞相に昇進した。1856年、秦日綱に従って鎮江の救援に赴き、江北大営を破り、第一次江南大営攻略に参加した。1857年、捻軍と協力して桐城で清軍を破った。1858年、前軍主将に昇進し、李秀成とともに江北大営を再び破り、三河の戦いで勝利を収めた。 1859年、英王に封ぜられた。重要拠点の安慶を守っていたが、1860年に安慶の守りを葉芸来に任せて、第二次江南大営攻略に参加し、大勝を得た。その後安慶が清軍に包囲されると、包囲を解くために李秀成と陳玉成が二手に分かれて、武漢の攻略を目指すこととなった。陳玉成は武漢の近くの黄州に至ったが、イギリスの圧力により武漢侵攻を断念。安慶救援に全力を挙げたが、激戦の末安慶は陥落し、守将の葉芸来や救援軍の劉昌林らを失い、廬州に退いた。 陳玉成は扶王陳得才・遵王頼文光を西北に遠征させたため、本体の軍事力は弱体化することとなった。1862年、清軍が廬州に侵攻したため、陳玉成は寿州に脱出し、奏王苗沛霖と連携して河南省侵攻を目論んだ。部下は苗は信頼できない人物なので寿州を去るよう勧めたが、陳は聞き入れなかった。果たして陳玉成は苗沛霖に捕えられて清軍に送られ、6月に河南で処刑された。 陳玉成の死で、長江以北の太平天国軍は崩壊し、首都の天京は清軍に包囲されるようになった。 Category:太平天国の人物 Category:梧州出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1837年生 Category:1862年没.

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李秀成

李 秀成(り しゅうせい、Li Xiucheng、1823年 - 1864年8月7日)は、太平天国の指導者の1人。広西省藤県出身の客家人。従兄弟に李世賢、養子(一説に実子)に李容発がいる。 太平天国軍が藤県を通過した際に、蜂起に参加した。咸豊8年(1858年)に洪秀全が五軍主将を再建した際に後軍主将となり、翌9年(1859年)に忠王に封ぜられた。 咸豊10年(1860年)に第二次江南大営攻略を成功させ、江蘇省南部を攻略、蘇州に忠王府を建てた。同年、蘇州には配下の慕王譚紹光を駐屯させ、自分は清の部将曽国藩ら湘軍が包囲する安慶の救援作戦に赴き、西進して武漢三鎮を攻撃したが失敗に終わり、安慶の包囲を解くことに失敗してしまった。翌11年(1861年)、杭州を陥落させ浙江省を次々を手中に収めていった。 同治元年(1862年)に上海を攻撃、李鴻章率いる淮軍と外国軍(常勝軍)の抵抗にあって激戦となったが、清軍が天京(南京)を包囲したため、救援に赴くため撤退を余儀なくされた。翌2年(1863年)には天京の包囲を解くために洪秀全から長江を渡って安徽省を攻撃するよう命令されたが、食糧不足のために失敗し、江南に退いた。この戦いで太平天国軍は大きな損失を出した。蘇州が陥落した後は情勢が悪化し、李秀成は洪秀全に天京を放棄するように進言したが拒否され、代わりに天京の守りについた。 同治3年(1864年)初めから天京は湘軍に包囲され、天京攻防戦の末に7月に陥落すると幼天王洪天貴福を守って脱出したが、曽国荃率いる清軍に捕らえられ、取り調べを受けた後に処刑された。5万字ともされる処刑前の供述は『李秀成自述』として後世に伝えられ、多くの写本が作成された。1962年には曽国藩から見て4世に当たる曽紀農が自家に伝わっていた李の肉筆原稿を基に3万3千字の『李秀成自述』を中華民国(台湾)で刊行し、その原稿を台北市の国立故宮博物院に寄贈している。 部下の1人にオーガスタス・リンドレーがおり、著書で肖像画が掲載されている。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:梧州出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1823年生 Category:1864年没.

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梁発

梁 発(りょう はつ、Liang Fa、1789年 - 1855年4月12日)、字は済南は、中国のキリスト教徒。 広東省肇慶府高明県古労村出身。1800年から4年間私塾で学ぶ。1804年から広州で印刷技術を学ぶ。1809年、イギリスの宣教師ロバート・モリソン(馬礼遜)とウィリアム・ミルン(米怜)と知り合い、2人が翻訳した聖書の印刷を手伝うこととなった。1815年、キリスト教の布教が制限されるとミルンに従ってマラッカに行き、中国語雑誌『察世俗毎月統記伝』の印刷と出版を手伝う。翌年にマラッカで洗礼を受け、1821年にはマカオでモリソンから中国で最初のプロテスタントの宣教師に任命される。1828年、故郷の高明県で古天青とともに私塾を開き、中国語の他に西洋の科学や地理の知識、英語を教えた。1834年、清朝からの迫害を受けてマレー半島に逃れる。マラッカではイギリスの宣教師サミュエル・ダイアーの著作の翻訳・印刷を行う。アヘン戦争の5年後に帰国。彼はアヘン戦争には反対で、イギリスが清と戦争を行えば中国人は聖書やイギリス人の宣教師を信じないだろうと主張した。 梁発は文章にも優れていて、キリスト教の書籍やパンフレットも書いている。もっとも重要な著作は1832年に著した『勧世良言』9巻である。『勧世良言』は聖書の内容を紹介しながらキリスト教の教義を述べたもので、一般人にも分かるように平易にできている。洪秀全が最初にキリスト教に触れたのがこの『勧世良言』だったため、太平天国に大きな影響を与えた。 1855年、香港と広州で布教活動を行っている途中で病にかかり死去。.

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楊秀清

楊 秀清(よう しゅうせい、Yang Xiuqing、1821年 - 1856年9月2日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から東王に封ぜられ、九千歳と称した。 広西省桂平出身の客家人。炭売りをしていたが、早くから洪秀全が創始したキリスト教秘密結社「拝上帝会」に加入していた。1848年、拝上帝会の幹部の馮雲山が清朝の官憲に捕われると、洪秀全は救出のために広州に赴いた。これにより会員に動揺が広がったため、楊は独断でヤハウェの託宣(「天父下凡」)を行ったところ人心を静めることに成功した。馮雲山の釈放により広西に戻ってきた洪秀全は楊の「天父下凡」を認め、楊秀清は幹部の一員となった。 1851年、金田蜂起の後、洪秀全は楊秀清を正軍師・東王に任じ、他の四王より上位に置かれた。南王馮雲山・西王蕭朝貴が戦死すると、権力は楊秀清に集中するようになった。太平天国軍の進撃を実際に指揮していたのも楊秀清であった。1853年に太平天国軍は南京を陥落させ、天京と改称した。その後北伐と西征を決定したが、前者は壊滅し、後者は一定の成果を上げたものの清軍の主力を壊滅させることはできなかった。 この時、天王・洪秀全は名目上は各王の上にあったが、実際は楊秀清が実権を握っており、楊の決定に洪秀全は反対できなくなっていた。楊は度々「天父下凡」によって自らの命令に従わせた。やがて楊の専横ははなはだしくなり、洪秀全や他の諸王との対立は深まっていった。高島俊男「中国の大盗賊・完全版」によると、「天父下凡」によって洪秀全が天王府において人前で楊に平伏させられ棒叩きを食ったこともあったという。 1856年、楊は民衆に対して洪秀全と同等に自らに対しても「万歳」と称するようにとの内容の「天父下凡」を発するまでになった(当時、「万歳」は皇帝に対してのみ許されるもので、太平天国では洪秀全のみが「万歳」と唱えられ、楊秀清は「九千歳」で以下の諸王は八千歳、七千歳と続いていた)。洪秀全はここに至ってはもはや楊の増長を看過できないと判断し、ついに北王韋昌輝と翼王石達開に楊を討伐する密命を下した。韋昌輝は9月1日に天京に入り、翌日に燕王秦日綱とともに東王府を襲撃して、楊秀清一族と配下の兵2万人を殺害した。この際に、女性状元で楊の秘書であった傅善祥も落命したと思われる。これを「天京事変」という。この混乱をきっかけに、太平天国の勢力は衰退し、ついに清朝との形勢は逆転することとなった。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:貴港出身の人物 Category:1821年生 Category:1856年没.

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洪天貴福

洪 天貴福(こう てんきふく、)は太平天国の第2代天王。初代天王洪秀全の長男。初名を天貴としていたが、後に福の字が加えられた。.

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洪仁カン

洪 仁玕(こう じんかん、1822年 - 1864年11月23日)は、清後期に発生した太平天国の乱の指導者の1人。広東省花県(現在の広州市花都区)の人。最高指導者洪秀全の族弟。名前の「カン」は「王へん」に「干」。 太平天国の前身である拝上帝会のメンバーではあったが、決起そのものには消極的であった。洪秀全が金田蜂起を起こすと、合流を試みるが失敗し、香港のスウェーデン人宣教師テオドール・ハンバーグの下に身を寄せ、1853年に洗礼を受けた。洪秀全が南京を攻め落として「天京」と改名すると、上海に赴くが天京に行くことができず、香港に引き返した。ハンバーグの死後は、ロンドン伝道会で語学や天文学などを学び、伝道会のアシスタントをする一方、医者や教師としても活動していたらしい。太平天国が一息をついた1859年、宣教師の人脈を利用して天京に到着した。幹部間の内紛に苦しんでいた洪秀全は驚喜した。早速洪仁玕を開朝精忠軍師頂天扶朝綱干王(略して「干王」)に任じ、内政を掌握せしめた。 香港での生活は、洪仁玕に西欧文明に触れさせ、太平天国の首脳や当時の儒家知識人とも違う思考をさせるきっかけとなった。すなわち彼は太平天国において西欧を模範とした制度改革を図ったのである。その内容は『資政新編』に詳しい。まず内政においては、鉄道・汽船といった交通網の整備や鉱山の開発といったインフラ整備、新聞の発行や福祉の充実、科挙改革を提言し、将来的にはアメリカを範にした政治システムの導入を主張した。外政的には、西欧を対等のものとして扱い、通商関係を築くことや宣教師活動の許可を主張している。更に『英傑帰真』の中では儒教や仏教、道教を批判して口語文の導入の必要性すら唱えられた。その先進性はこの提言が明治維新のおよそ8年前であることを想起するだけで明らかであろう。 しかしこうした改革提言は実を結ばなかった。洪仁玕のいうことに洪秀全は妥当という評価を与えていたようだが、その他の首脳たちにとって洪仁玕のいうことはあまりに彼らの常識や経験則から離れた事柄であって、有り体に言えば理解不能であったのである。特に洪仁玕が清朝と外国列強が手を結んだ場合に太平天国が重大な危機に晒されると主張して先んじて列強との提携を唱えたことに対しては、それまでの最高幹部であり対外強硬論者であった李秀成とは激しく対立する原因となった。 太平天国崩壊後、李秀成とともに洪秀全の子の洪天貴福を伴って天京を脱出して江西省に逃れたが、間もなく捕らえられて南昌で処刑された。 皮肉にも『資政新編』の内容は、太平天国を滅ぼした曽国藩の幕僚であった趙烈文に高く評価され、曽国藩や李鴻章による「洋務運動」として現実のものとなる。そして、『英傑帰真』の内容もまた辛亥革命後に行われる事になった。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:広州出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1822年生 Category:1864年没.

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洗礼

洗礼(せんれい、Βάπτισμα, Baptism、「バプテスマ」とも)は、キリスト教の入信に際して行われるサクラメント(大辞林)(機密、秘跡)。浸水(浸礼、身体を水に浸す)または灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって行われる。 正教会、カトリック教会、聖公会、および大半のプロテスタントで「洗礼」と表記されるが、バプテスト教会では専ら「浸礼」(しんれい)または「バプテスマ」と表記される。 洗礼を受けることを「受洗(じゅせん)」もしくは「受浸(じゅしん)」と言う。日本正教会では「領洗(りょうせん)」とも言う。 日本語の「洗礼」には、ここから派生した語義として「初めての経験」や通過儀礼などがあるが、本項ではキリスト教における洗礼を扱う。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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湖南省

湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.

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拝上帝会

拝上帝会(はいじょうていかい)は中国の民間宗教組織で、洪秀全をリーダーとし、太平天国の前身となった。 洪秀全は広東省花県(現在の広州市花都区)の人。キリスト教の宣教師から小冊子を受け取り、その中に梁発の『観世良言』があった。洪秀全が4回目に科挙に落第した後の1843年に故郷の花県に宗教組織を作った。これが「拝上帝会」である。自らをヤハウェの子、イエス・キリストの弟とし、四方に布教活動を行った。当時の広西省は土地はやせ民は貧しく、連年の災害で飢民であふれていた。拝上帝会はそれらの民衆を吸収し、1851年に広西省桂平県金田村で反清の蜂起を行い、太平天国を建国した。参加した信者は約1万人であった。 Category:太平天国 Category:中国の秘密結社.

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12月10日 (旧暦)

旧暦12月10日(きゅうれきじゅうにがつとおか)は、旧暦12月の10日目である。六曜は先負である。.

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1814年

記載なし。

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1843年

記載なし。

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1844年

記載なし。

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1845年

記載なし。

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1846年

記載なし。

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1847年

記載なし。

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1851年

記載なし。

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1852年

記載なし。

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1853年

記載なし。

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1856年

記載なし。

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1859年

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1862年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1月11日

1月11日(いちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から11日目に当たり、年末まであと354日(閏年では355日)ある。誕生花はミスミソウ、セリ。.

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1月1日

1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.

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4月27日 (旧暦)

旧暦4月27日は旧暦4月の27日目である。六曜は赤口である。.

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6月1日

6月1日(ろくがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から152日目(閏年では153日目)にあたり、年末まであと213日ある。誕生花はマトリカリア、クレマチス。.

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