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河野通宣 (左京大夫)

索引 河野通宣 (左京大夫)

河野 通宣(こうの みちのぶ)は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。湯築城主。.

42 関係: 大友義鑑大友氏大永天遊永寿天正宍戸隆家室町幕府守護宇都宮豊綱小早川隆景中風一条房基平岡房実乃美宗勝予州家伊予宇都宮氏伊予国土佐一条氏土佐国和田通興豊後国足利義輝村上通康村上水軍毛利元就毛利氏の伊予出兵毛利水軍永禄河野通直 (伊予守)河野通直 (弾正少弼)河野通春河野通政河野氏湯築城戦国時代 (日本)1522年1543年1553年1562年1568年1570年1581年

大友義鑑

大友 義鑑(おおとも よしあき、異体字:大友義鑒)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の20代当主。 初めは親安(ちかやす)、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍・足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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天遊永寿

天遊永寿(てんゆうえいじゅ、? - 文禄3年10月6日(1594年11月17日))は、戦国時代の女性。宍戸隆家と五龍局(毛利元就の娘)の長女で、伊予国河野氏最後の当主・河野通直(牛福・伊予守)の生母と推定される女性。天遊永寿とは晩年に名乗った彼女の法名で、「ゑい壽」と署名がある彼女の文書も残されている。本項では便宜上、彼女の名前を「永寿」と称する。 生年は不詳であるが、『宍戸家譜』には"嫡女"と記載されていること、後述のように彼女の婚姻は厳島の戦いが関係があるとみられるが、隆家の長男である元秀は天文16年(1547年)生まれで同合戦の時にはまだ9歳であるため、彼女が隆家夫妻の最初の子供であったと推定される。また、養父と推定される五龍局の弟・小早川隆景は天文2年(1533年)生まれ、隆家と五龍局の婚約はその翌年であることから、天文年間前半の生まれであることまでは絞ることができる。 実名は不明で幼少時には「五もし」と称せられていた。厳島の戦いの直前である天文23年(1554年)に永寿は小早川隆景の養女として河野氏の重臣で村上水軍の中心的存在であった村上通康に嫁いだ。もっとも、通康には河野氏先々代当主である河野弾正少弼通直の娘がおり、永寿は村上氏の居城である来島城ではなく、河野氏の本拠地である湯築城内にあった通康の屋敷に入った。毛利氏が元就の外孫を不利な条件下の婚姻関係に利用した背景には来るべき陶氏との戦いに村上水軍の協力が不可欠と考えていたからであり、一方の通康も義父である弾正少弼通直の失脚後に毛利氏の力を頼ることで家中での発言力の維持を図ろうとしたのである。その結果、毛利氏は翌年の厳島の戦いで村上水軍の助力で勝利を得たのであり、一方の村上通康も永禄10年(1567年)の土佐一条家による伊予侵攻を毛利氏の援軍によって退けることに成功したのである(毛利氏の伊予出兵)。ところが一条家との戦いの最中に通康が急逝してしまう。 ところが、その直後から毛利家関係の文書に「湯付局」「道後御局」と呼ばれる女性が浮上してくるようになる。湯付とは湯築城のことと考えられ、道後も湯築城が道後温泉の一郭に建てられたことから同城と同義とされ、城主である河野氏宗家の当主・河野通宣の室であると考えられている。そして、その内容からその女性は村上通康の妻であった永寿とみられ、通康の没後、恐らく毛利氏の意向によって河野通宣に再婚したと考えられている(なお、通宣は永禄年間初めより病気で療養中であった。また、最初の妻は大友義鑑の娘(宗麟の姉)と推定されるため、継室にあたる)。それから間もなく、永寿の子とみられる「牛福」が河野氏の家督を継いだ。これが河野氏最後の当主となる伊予守通直となる。永寿は「大方」と称され、幼くして家督を継いだ通直を後見した。なお、これによって苦境に立たされたのは河野弾正少弼通直の娘が生んだ村上通総(通康の没後に来島村上氏の家督を継いでいた)であり、河野氏宗家の血を引く通総は伊予守通直の家督を脅かす存在とみなされ、やがて織田政権に内通して河野氏・毛利氏と敵対する選択を採ることになる。 天正13年(1585年)の豊臣政権の四国攻めによって河野氏は所領を没収されるが、永寿の養父である小早川隆景が新領主となったため、永寿と通直はその保護を受けた(四国国分)。ところが、2年後の天正15年(1587年)に永寿母子は小早川氏の九州移封を理由に備後国竹原に移されてその直後に通直が死去してしまう。通説では通直は病死とされているが、新領国に移っていた小早川隆景は永寿が事の次第を知らせるまで、通直が竹原に移されたことを知らなかったらしいこと、通直死去に関する記述の不自然さから、通直の竹原移動とその直後の死は豊臣政権及びその意を奉じた毛利輝元によって抹殺された可能性があるとされる。 通直の没後は永寿は出家して小早川隆景の庇護を受けながら竹原郊外の宮原で通直の菩提を弔った。天正16年(1588年)には、永寿は河野氏の旧臣らを引き連れて河野氏ゆかりの高野山上蔵院及び伊勢神宮を参詣して通直の菩提を弔っている。永寿が実家の宍戸氏に戻らなかったのは、永寿の妹が通直の死に深く関わったとされる毛利輝元の正室であったことが関係するとされ、宍戸氏の記録には彼女の没年を天正10年(1582年)や寛永元年(1624年)という全く根拠のない記述が記される程の疎遠ぶりであった。河野氏の過去帳では通直の死去から7年後の文禄3年(1594年)に没し、院号は春松院とする。ただし、院号を春禅院と伝える史料もあり、永寿の晩年の動向については不明点が多い。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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宍戸隆家

宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸氏の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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宇都宮豊綱

宇都宮 豊綱(うつのみや とよつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の戦国大名。伊予宇都宮氏最後の(8代目)当主。大洲城主。.

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小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。.

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中風

中風(ちゅうふう、地方によって「ちゅうぶ」、「ちゅうぶう」、「ちゅうふ」などと呼ぶところもある)は、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。中気、卒中また俗に「よいよい」ともいう。.

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一条房基

一条 房基(いちじょう ふさもと)は、戦国時代の公家・大名。土佐国司。土佐一条氏4代当主。.

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平岡房実

平岡 房実(ひらおか ふさざね、永正10年(1513年) - 元亀3年(1572年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。河野氏の家臣。通称は通房入道左近。受領名は大和守。子に通資、通倚、直房、大野利直室、村上景親室など。浮穴郡荏原城城主。 平岡氏の出自についての詳細は不明であるが、徐々に浮穴郡を中心に15世紀後半から勢力を伸ばしたようである。また、房実は娘を久万大除城の大野利直(大野直昌、直之の父)や村上景親に嫁がせた他、出渕氏や津々喜谷氏と姻戚関係を結ぶなど周辺勢力との連携強化にも努めていた。房実以前にも平岡氏の血縁者が村上義忠(村上武吉の父)に嫁いだことも知られている。 房実が家臣になった頃の河野氏は、家臣団の離反や大友氏などの侵攻で衰退していたが、房実は智勇兼備の武将で、斜陽化する河野氏に最後まで忠義を尽くし、村上通康と並んで軍事・政治の両面において活躍した。天文23年(1554年)、岩伽羅城主和田通興の反乱においては、駆け引きを持って敵を欺き、少数よく岩伽羅城を陥落させたと伝わる。また、宇都宮豊綱との戦い(毛利氏の伊予出兵)においても予州勢の中心となったようである。.

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乃美宗勝

乃美 宗勝(のみ むねかつ)は、戦国時代の武将。毛利氏・小早川氏の家臣。安芸の国人領主で、居城は忠海賀儀城(ただのうみ かぎじょう)。沼田小早川氏の庶流浦氏の当主であり、名は浦 宗勝(うら むねかつ)とも言う。通称は兵部丞。.

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予州家

予州家(よしゅうけ)とは室町時代に成立した伊予国河野氏の庶流(31代当主河野通之の子孫)を指す呼称。代々官途名を「伊予守」としたことに因むとされているが、通之は「対馬守」、同家の祖とされる息子の河野通元は「民部大輔」と称しており、正確な事実関係に基づく表現ではない。 応永元年(1394年)、河野氏30代当主河野通義が急死した際にその室は懐妊中であった。そのため、通義は生まれた子が男子で成人した場合には家督を譲ることを条件として弟の通之を後継者とした。誕生した通義の遺児は男子でその子が成長して河野通久と名乗ったため、通之は隠居して家督を通久に譲った。だが、通之の子である通元はこれに不満を抱き、通之が没すると通元は通久に反抗して家督を争うようになった。 通久の子・教通(惣領家)と通元の子・通春(予州家)の代になると家臣団を二分する争いが激化していくが、当時の室町幕府首脳(足利義政・畠山持国)は守護職であった惣領家を支持していた。ところが、細川勝元が管領に就任して幕府内での発言力を高めると、伊予に対する細川氏の影響力を拡大するために予州家を推すことになる。勝元が実権を握ると、教通に代わって通春が守護職に任じられて予州家が惣領家を圧倒するようになる。ところが、守護になった通春は勝元の傀儡にはならず独自の地位を確立しようとしたため、今度は勝元が通春の守護職を取り上げて伊予を攻めることになる。ところが、瀬戸内海の支配や日明貿易を巡って細川勝元と競合関係にあった周防国の大内政弘が通春を支援したため、その庇護下で予州家は支配を維持し続ける。やがて、応仁の乱が始まると、東軍の指導者である細川勝元に対抗するために大内政弘と河野通春は西軍に参加して上洛する。これを見た惣領家の河野教通は東軍に呼応して反撃を開始する。教通は乱後にその功が認められて、伊予の守護職に任じられた。 惣領家と予州家の対立は河野通宣(教通の子、刑部大輔)と河野通篤(通春の子)の代に入っても続けられたが、次第に予州家は衰退して惣領家の下で再統一が進められることになった(なお、河野氏の系譜では戦国期の当主である河野通政・通宣兄弟を予州家出身(通篤の孫)とするが、近年の研究では惣領家出身(通宣の孫)が正しいとされている)。.

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伊予宇都宮氏

伊予宇都宮氏(いようつのみやし)は、伊予国大洲城の豪族。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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土佐一条氏

土佐一条氏(とさ いちじょうし)は、日本の武家の一つ。本姓は藤原氏で、五摂家の一条家の分家。家紋は「一条藤」。 戦国時代に土佐国に土着し、武家化した戦国大名。姉小路氏・北畠氏と共に戦国三国司の一つに数えられる。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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和田通興

和田 通興(わだ みちおき)は、戦国時代の武将。河野氏の家臣。和田通俊の孫。伊予国岩伽羅城(いわがら)主。 河野氏の家臣団内での抗争に関わっていたことが判明しており、小手滝城主・戒能通運に討ち取られた剣山城主である黒川通俊の子・通堯は通運を恨んでいた。その後、通堯は大除城主・大野利直と共同で通運を攻めたが、通興は通運を援助したため、通堯の攻城は失敗に終わった。 天文23年(1554年)に勢力を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は棚居城主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させた『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編)853頁。岩伽羅城は落城し、通興は山ノ内へ逃げたがそこで自害して果てた。このことは村上吉継(来島氏の家臣)が高野山へ送った書状にも記載されている(高野山上蔵院文書)。 後に一族とされる和田通勝が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.

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村上通康

村上 通康(むらかみ みちやす)は、戦国時代の伊予国の武将。河野氏の家臣。村上水軍(来島水軍)の大将。来島城主。 来島 通康(くるしま みちやす)として知られるが、実際に来島氏を名乗ったのは四男の通総が豊臣秀吉に仕えて以降であり、通康自身が来島氏を名乗った事実はない。.

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村上水軍

村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。 彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに瀬戸内海各所の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。 なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」のタイトルで認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある。.

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毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.

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毛利氏の伊予出兵

毛利氏の伊予出兵(もうりしのいよしゅっぺい)は、1567年(永禄10年)から翌年にかけて行われた、安芸国の戦国大名・毛利氏の伊予国への出兵である。.

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毛利水軍

毛利水軍(もうりすいぐん)は、中世日本の瀬戸内海で活躍した、戦国大名毛利氏直轄の水軍(海賊衆)である。当初、安芸武田氏旧臣の水軍を中心としたが、勢力を拡大するにつれ、小早川氏や大内氏の水軍を取り込んで直轄の水軍を編成、後には能島村上家、来島村上家、因島村上家からなる村上水軍をも取り込み、瀬戸内海の覇権を確立した。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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河野通直 (伊予守)

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。.

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河野通直 (弾正少弼)

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏の当主。.

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河野通春

河野 通春(こうの みちはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。伊予守護。居城は港山城。河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。 当初は細川氏の支持を受け、嘉吉の乱後、幕府からの命令を引き出して又従兄弟で本家の河野教通を討とうとするが、教通には吉川経信や小早川盛景の援軍があったため、うまく進まなかった。文安6年(1449年)に伊予守護に就任したが、翌年に教通に交替、享徳2年(1453年)に守護職に再任されたが、享徳4年(1455年)に細川勝元に交替させられた。 長禄3年(1459年)に3度目の伊予守護職に補任されたが、寛正3年(1462年)に勝元の同族の阿波守護細川成之と戦い勝元と対立、寛正5年(1464年)には伊予の混乱を見た勝元の軍勢が攻め込んで来たため危機に陥ったが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。直後に教弘は興居島で死去したが、なおも子の大内政弘の援助を受けた。 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた教通が勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職を確保し、伊予における基盤を固めてしまう。乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)にも教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。その後も教通と抗争を繰り返しながら、文明14年(1482年)閏7月14日に港山城で病没した。子の通篤が後を継いだが、本家に対抗出来ず没落していった。 通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因を成した。.

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河野通政

河野 晴通/通政(こうの はるみち/みちまさ、大永2年(1522年) - 天文12年(1543年))は河野氏の当主。 父は河野通存(みちまさ)、養父は河野通直。弟に石川通昌(いしかわ みちまさ)、河野通宣、野島直信(のじま なおのぶ)がいる。「通政」は初名であり、のちに室町幕府の将軍・足利義晴より偏諱を受けて晴通と改名した。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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湯築城

湯築城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 内堀(外堀も現存) 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町にある城跡。堀や土塁が現存する。国の史跡に指定されている。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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1522年

記載なし。

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1543年

記載なし。

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1553年

記載なし。

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1562年

記載なし。

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1568年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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