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河越氏

索引 河越氏

河越氏(かわごえし)は、日本の氏族の一つ。川越・河肥とも表記されることがあった。.

163 関係: 執権埼玉県南北朝時代 (日本)南朝 (日本)吾妻鏡坂東八平氏大蔵合戦天台宗嫡流守護山川出版社川越市上田萬年上杉朝房上杉憲顕師岡重経中央大学三上参次平家物語平安時代平将恒平忠頼平良文平武基平武綱平治平治の乱久寿康安建武 (日本)伊勢平氏伊勢国征夷大将軍御家人後三年の役後白河天皇得宗保元保元の乱保元物語応永在庁官人地頭北畠家北条義時北条経時北条高時北条貞時北条氏北条泰時...北条時宗嘉禄入間郡六波羅探題元寇元久元弘元弘の乱国司国人国衙知行国秩父神社秩父重弘秩父重綱秩父重隆秩父氏烏帽子親田中大喜熊野那智大社畠山国清畠山重忠畠山重忠の乱畠山重能畠山氏 (平姓)相模国鎌倉公方鎌倉時代荘官養寿院観応の擾乱香坂氏高家豊後国豪族貞治足利基氏足利尊氏足利氏足利氏 (藤原氏)足利氏満郷御前関東管領開山葛貫能隆葛貫氏松方正義正室正平 (日本)武士団武家武蔵七党武蔵平一揆武蔵国武蔵野合戦比企尼比企氏毛呂山町永暦江戸氏汲古書院河内源氏河越宗重河越尼河越経重河越直重河越館河越高重河越貞重河越重員河越重頼河越重房河越重時河越氏河越泰重河野氏治承治承・寿永の乱源義平源義経源義賢源義朝源頼家源頼朝本家本所戎光祥出版新人物往来社新田義宗新田義貞新田氏新日吉神宮文和承久承久の乱曹洞宗思文閣出版1155年1156年1159年1160年1180年1205年1221年1226年1331年1336年1352年1362年1367年1368年1413年 インデックスを展開 (113 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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埼玉県

埼玉県(さいたまけん)は、関東地方の中央西側内陸部に位置する県。県庁所在地はさいたま市。都道府県別の人口は東京、神奈川、大阪、愛知に次ぐ全国第5位。人口密度は東京、大阪、神奈川に次ぐ全国第4位である。県の愛称は「彩の国」。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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坂東八平氏

坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は、平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。.

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大蔵合戦

大蔵合戦(おおくらかっせん)は、久寿2年(1155年)8月16日、平安時代末期に武蔵国で源義平が源義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたものである。保元の乱の前哨戦ともされる。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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川越市

川越市(かわごえし)は埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を擁し、中核市と業務核都市、保健所政令市に指定されている。旧武蔵国入間郡。.

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上田萬年

上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。.

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上杉朝房

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・信濃国守護。犬懸上杉家2代当主。.

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上杉憲顕

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。.

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師岡重経

師岡 重経(もろおか しげつね、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した武将。諱は重保(しげやす)とも。武蔵国師岡保(現在の横浜市神奈川区)を本拠地とする鎌倉幕府の御家人。葛貫能隆の三男で、河越重頼の弟。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。 保元元年(1156年)7月、兄・重頼と共に保元の乱で源義朝の陣に従う。 治承4年(1180年)義朝の遺児・源頼朝が挙兵したのち傘下に入り、頼朝の嫡男・源頼家が誕生した際に鳴弦役を務めている。 寿永3年(1184年)8月6日、一ノ谷の戦い後に頼朝の弟、源義経が鎌倉の許可無く朝廷から検非違使の任官を受け、頼朝の怒りを買う。この時、重経も共に兵衛尉に任官しており、後白河法皇の元に任官の挨拶に行った義経に「御共衛府」(おとものえふ)として随行している(大夫尉義経畏申記)。のちに頼朝から重経の任官について「勘当を許して本領を返してやろうとしたものを、今となっては本領を返す事は出来ない」と罵られている。(「勘当」は頼朝の挙兵当初に秩父一族が敵対した事を指すと思われる) この直後に姪である重頼の娘(郷御前)が義経に嫁ぐ。一年後に頼朝と義経が対立すると、重頼は嫡男・重房と共に頼朝によって誅殺されたが、重経はその後も御家人として幕府に仕え、義経が自害した後の文治5年(1189年)7月19日の奥州合戦に従軍している。 Category:平安時代の武士 Category:鎌倉幕府御家人 しけつね Category:武蔵国の人物 Category:生没年不詳.

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中央大学

記載なし。

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三上参次

三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.

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平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平将恒

平 将恒(たいら の まさつね)は、平安時代中期から後期の豪族、武将。桓武天皇6世で、武蔵国の名族・秩父氏の祖。諱は将常とも。父は平忠頼、生母は平将門の娘・春姫。母方の祖父が平将門であり、将恒の「将」の諱も将門から引き継いだものと思われる。官位は武蔵権大掾。.

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平忠頼

平 忠頼(たいら の ただより)は、平安時代中期の武将。父は村岡五郎平良文。妻は平将門の娘・春姫。子に忠常、将恒、頼尊らがおり、平将門(平良将の子)とは従兄弟にあたる。父と同じく村岡を号とし村岡次郎と称した。名は経明、恒明とも。官位は武蔵介。 忠頼は、平繁盛が延暦寺に金泥大般若 経600巻を書写して奉納しようとした際に、 かの仇敵を駆逐するためという理由から忠光とともにこれを妨害した。平将門の乱を鎮圧した平繁盛を仇敵と呼んでいたことから、忠頼の父である良文は平将門と親しかったものと思われる。 寛仁2年12月17日に90歳で死去したとされるが、伝説と思われる。.

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平良文

平 良文(たいら の よしふみ)は、平安時代中期の武将。桓武天皇四世。平高望の五男とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。.

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平武基

平 武基(たいら の たけもと)は、平安時代後期の武将。坂東八平氏の一支流・秩父氏当主。秩父武基とも記される。平将門の曾孫。.

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平武綱

平 武綱(たいら の たけつな、生没年未詳)は、平安時代後期の武将・豪族。秩父氏(秩父平氏)の当主で、秩父別当職にあった平武基の嫡男。平将門の玄孫。通称は武者十郎。秩父武綱とも称される。妻は源有光長女、子に重綱、河崎基家、女子(児玉経行室)。.

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平治

平治(へいじ)は、日本の元号の一つ。保元の後、永暦の前。1159年の期間を指す。この時代は二条天皇による治世。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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久寿

久寿(きゅうじゅ)は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1155年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。.

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康安

康安(こうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。延文の後、貞治の前。1361年の期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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保元

保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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保元物語

『保元物語』・文保本(1318年写) 『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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在庁官人

在庁官人(ざいちょうかんにん、ざいちょうかんじん)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。在庁官人という名前の役職が存在したわけではない。在庁(ざいちょう)、庁官(ちょうのかん)とも。中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚であり、国司の側近としての性格があった。国司の現地赴任そのものがほとんどなくなるようになり、そのうちで強大な実力を持ったものは在国司(ざいこくし)とも呼ばれるようになった。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北条経時

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年4月10日))。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

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嘉禄

嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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入間郡

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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知行国

知行国(ちぎょうこく)とは、古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権・吏務ともいう)を獲得し収益を得た制度、およびその国。知行権を獲得した有力貴族・有力寺社らを知行国主といい、知行国主は、知行国の国司推薦権や官物収得権を保有した。知行国は「沙汰国」、「給国」ともいった。.

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秩父神社

秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、埼玉県秩父市にある神社。式内社、武蔵国四宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 秩父地方の総鎮守である。三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社。12月の例祭「秩父夜祭」で知られる。 秩父夜祭(秩父祭の屋台行事と神楽)は2016年12月1日、「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)のひとつとしてユネスコ無形文化遺産への登録が正式に決定した。.

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秩父重弘

秩父 重弘(ちちぶ しげひろ、生没年不詳)は平安時代末期の武蔵国の武将・豪族。秩父氏の一族で秩父重綱の長男。通称は太郎。畠山氏・小山田氏の祖。子に畠山重能、小山田有重、女子(千葉常胤室)。 武蔵国で在庁官人を務める重綱の長男であったが、家督は弟の重隆が継いだ。重弘の嫡男重能と重綱の後妻は重隆の家督相続に不満を持ち、河内源氏の源義朝・義平親子と結んで大蔵合戦で重隆を討っている。秩父氏本拠の大蔵は畠山氏が獲得したが、秩父氏家督である留守所総検校職は重隆の家系が継いでる。 重弘の家系は秩父氏庶流ながら、娘は千葉常胤に嫁いでおり、嫡男重能の妻は三浦義明の娘で下総国・相模国の大族と婚姻関係を結び、義朝・義平父子が滅んだ後は積極的に平家と主従関係を結んで独自に勢力を伸ばした。.

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秩父重綱

秩父 重綱(ちちぶ しげつな)は、平安時代後期の武将・豪族。.

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秩父重隆

秩父 重隆(ちちぶ しげたか)平安時代後期の武将、武蔵国の在庁官人。秩父重綱の次男。河越氏の祖。.

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秩父氏

秩父氏(ちちぶし)は、日本の武家のひとつ。本姓は平氏。桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。後に秩父平氏と呼ばれる多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。.

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烏帽子親

烏帽子親(えぼしおや)とは、元服儀式の際に加冠を行う者のこと。 中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、被せられた成人者を烏帽子子と呼んだ。また、この際に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があったその諱を烏帽子名という。その名は烏帽子親からの偏諱を受けることが多くなった。 『吾妻鏡』によれば、治承4年10月2日(1180年10月22日)、源頼朝が乳母である寒河尼の息子(小山朝光)の烏帽子親を務めている。このように、烏帽子親には主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多かった。鎌倉幕府においては、烏帽子親と烏帽子子は実際の血縁関係が無くてもこれに准じるものとされ、文暦2年(1235年)の追加法における評定の際の退座分限(参加禁止者)として親族と並んで烏帽子子が含まれている。 室町時代以後の元服の儀では烏帽子を被せる代わりに前髪をそり落とす事例が増えるが、それを行うのが烏帽子親の役目とされていた。また、武家社会以外でも王朝時代から続く公家社会での冠礼における引入及び裳着における腰結、近世民間における親方・子方制や女子の鉄漿親(筆親・歯黒親)なども烏帽子親の類似した仮親による成人儀式であり、こうした仮親による成人儀式は現在でも日本の一部地域にて残されている。 また幼くして即位した天皇が在位中に元服の儀式を執り行う場合は皇族の長老などではなく、幼帝在位時にその政務を代行する摂政の職と天皇の師範である太政大臣の職を兼ねる者が加冠役を務めた。.

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田中大喜

中 大喜(たなか ひろき、1972年 - )は、日本の日本史学者、国立歴史民俗博物館准教授。 専門分野は日本中世史で、特に武士団や武家政権を研究の主な専門としている。.

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熊野那智大社

二の鳥居 境内風景 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部、pp.39,75。.

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畠山国清

山 国清(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。.

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畠山重忠

山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)た。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。.

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畠山重忠の乱

山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205年7月10日)、武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。.

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畠山重能

山 重能(はたけやま しげよし)は、平安時代後期の武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)の武将・豪族。畠山庄司。秩父重弘の嫡男。畠山重忠の父。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、畠山氏の祖。.

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畠山氏 (平姓)

山氏(はたけやまし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国で勢力を張った豪族。秩父氏の一族で、『平家物語』にもその活躍が描かれている畠山重忠の代に最盛期を築いたが、鎌倉幕府の内部抗争で北条時政の策謀により滅ぼされた。その後、足利義純が畠山姓の名跡を継いだが、これが三管領家として名を連ねる家柄となった源姓畠山氏である。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荘官

荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。.

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養寿院

養寿院(ようじゅいん)は、埼玉県川越市元町二丁目にある曹洞宗の寺院である。山号は青竜山。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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香坂氏

香坂氏(こうさかし)は、信濃国の武家の氏族。高坂とも書く。東信濃の名族滋野氏で、滋野三家の一つ禰津氏の禰津宗直の五男貞行を祖とする。香坂は佐久郡香坂(現佐久市香坂)に由来する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高家

家(こうけ)とは、格式の高い家、権勢のある家柄のこと。由緒正しい家。名門。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利氏 (藤原氏)

足利氏(あしかがし)は、平安時代の関東北部の豪族。下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする。藤原秀郷の後裔で、源姓足利氏とは異なり藤姓足利氏とも呼ばれる。「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されたが(『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条)、源頼朝に滅ぼされた。.

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足利氏満

足利 氏満(あしかが うじみつ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。第2代鎌倉公方(在職:正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日))。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。.

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郷御前

平泉町金鶏山麓にある義経妻子の墓 郷御前(さとごぜん、仁安3年〈1168年〉 - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉)は平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。武蔵国の豪族、河越重頼の娘。母は源頼朝の乳母である比企尼の次女(河越尼)。源義経の室(正室)。頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。 本名は不明。伝承で郷御前と呼ばれている。故郷である河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から京姫(きょうひめ)と呼ばれており、平泉では貴人の妻の敬称である北の方(きたのかた)と呼ばれている。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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開山

; 仏教用語; 神道・山岳用語; 比喩的用法; 相撲用語; 山岳名; 地名; 姓.

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葛貫能隆

葛貫 能隆(つづらぬき/くずぬき よしたか)は平安時代後期の武蔵国の武将・豪族。秩父重隆の嫡男。河越能隆とも称す。.

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葛貫氏

葛貫氏(つづらぬきし/くずぬきし)は坂東八平氏秩父氏の一族で、日本の氏族の一つ。.

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松方正義

松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年(1924年)7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。日本赤十字社社長。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武士団

武士団(ぶしだん)とは主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。 『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武蔵七党

武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。.

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武蔵平一揆

武蔵平一揆(むさしへいいっき)は、.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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武蔵野合戦

武蔵野合戦(むさしのかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗、ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。.

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比企尼

比企尼(ひきのあま、生没年不詳)は、平安時代末期の女性。武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允の妻。源頼朝の乳母。実名・父母は不明。娘に丹後内侍、河越尼、比企尼の三女、猶子は比企能員。.

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比企氏

比企氏(ひきし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。 一族は族滅したため、詳細な史料が残らず、系譜も明らかではないが、一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。.

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毛呂山町

毛呂山町(もろやままち)は、埼玉県南西部にある人口約3万5千人の町。.

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永暦

永暦(えいりゃく)は、日本の元号の一つ。平治の後、応保の前。1160年から1161年の期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.

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江戸氏

江戸氏(えどし)は、日本の氏族。武蔵国の国人領主であった武蔵江戸氏と、後に戦国大名に成長した常陸江戸氏が知られる。.

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汲古書院

株式会社汲古書院(きゅうこしょいん)は、日本の学術出版社である。主に日本古典・古典中国文学の学術研究に加え、文献学・書誌学の出版・販売を手掛ける。発足に大きく関わった長沢規矩也の「著作集」を始め、2001年から約15年かけ『後漢書』全訳書(全19冊)を刊行した。 中国からの古典・学術図書の輸入をしていた大安の活動を引き継いでいる。 同じ性格を持つ出版社に研文出版がある。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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河越宗重

河越 宗重(かわごえ むねしげ、生没年『常楽記』元亨三年六月十三日条。河越出羽入道他界五十三:文永8年(1271年) - 元亨3年(1323年))は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。父は河越経重。鎌倉幕府御家人。河越氏当主。河越出羽入道とも。.

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河越尼

河越尼(かわごえのあま、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源頼朝の乳母である比企尼の次女。武蔵国の豪族、河越重頼の妻。頼朝の嫡男頼家の乳母。実名は不明。娘に源義経の正室(郷御前)がいる。 源頼朝が挙兵し、鎌倉に拠点を構えて3年目の寿永元年(1182年)8月12日、北条政子を母とする頼朝の嫡男(のちの頼家)が誕生し、比企尼の次女が産所であった比企能員(比企尼猶子)の邸に乳母として召され、最初の乳を含ませる乳付けの儀式を行った。 元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により娘が源義経の正室として上洛する。その後わずか1年で頼朝と義経の関係は悪化し、義経が謀反を起こすと河越氏は縁戚として連座をうけ、文治元年(1185年)10月23日に嫡男重房が勝長寿院落慶供養の随兵から外され、11月12日、河越重頼は所領を没収された。その後、頼朝の命により重頼・重房共に誅殺され、比企尼次女は出家した。 文治3年(1187年)10月5日、頼朝は重頼の遺族を哀れみ、後家となった河越尼に河越氏本領である河越荘を与え、地元の名主・百姓らが尼の支配に従わないという風聞があったため、今後は荘務・雑務はすべて尼の命に従うよう命じている。これについて木村茂光は文治元年に重頼の老母が河越荘を預かり幼少の孫の地頭との支配体制が実現したものの実効力が伴わなかったため、文治3年に頼朝が河越尼に荘務も雑務も一切を任せたと指摘している。 河越荘はその後重頼の次男重時に継承された。.

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河越経重

河越 経重(かわごえ つねしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期の武蔵国河越館の武将。鎌倉幕府御家人。遠江権守。河越泰重の嫡男。通称は次郎。.

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河越直重

河越 直重(かわごえ ただしげ / なおしげ、生没年不詳)は南北朝時代から室町時代初期の武蔵国の国人。武蔵平一揆の中心人物の一人。武蔵河越氏最後の当主。河越高重の子。河越館城主。弾正少弼。相模守護。.

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河越館

河越館(かわごえかん/かわごえやかた)は、埼玉県川越市上戸(うわど)に所在した日本の城。川越市の北西部、入間川右岸に位置し、約二町(218m)四方の占地規模を持つ館跡遺跡。国の史跡。.

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河越高重

河越 高重(かわごえ たかしげ、生没年不詳)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武蔵国の国人。武蔵河越氏当主。河越貞重の子。河越直重の父。河越館主。従五位下三河守。法名は円重。.

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河越貞重

河越 貞重(かわごえ さだしげ)は鎌倉時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。武蔵河越氏の当主。 河越宗重の嫡男とされるが、『常楽記』によると、宗重は文永8年生まれで貞重と一歳しか違わないため、両者は親子ではなく兄弟と考えられる。その場合、貞重の父は河越経重となる。.

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河越重員

河越 重員(かわごえ しげかず、生没年未詳)は、鎌倉時代の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。通称は三郎。河越重頼の三男。兄に重房・重時、姉に源義経の正室・郷御前がいる。.

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河越重頼

河越 重頼(かわごえ しげより)は、平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。新日吉社領である河越荘の荘官。源頼朝の命令で源義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から、源氏兄弟の対立に巻き込まれ、誅殺された人物である。 桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。秩父党の総領家が代々受け継いできた「武蔵国留守所総検校職」にあり、武蔵国の軍事統率権を有する同国の最大勢力であった。妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、源頼家の乳母。.

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河越重房

河越 重房(かわごえ しげふさ)は平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。河越重頼の嫡男。姉妹に源義経の正室である郷御前がいる。.

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河越重時

河越 重時(かわごえ しげとき、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。河越重頼の次男。通称は次郎。兄に重房、弟に重員、姉に源義経の正室・郷御前がいる。.

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河越氏

河越氏(かわごえし)は、日本の氏族の一つ。川越・河肥とも表記されることがあった。.

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河越泰重

河越 泰重(かわごえ やすしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期の武蔵国入間郡河越館の武将。鎌倉幕府御家人。河越重時の嫡男。通称、掃部助。河越氏当主。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

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源義平

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶子で長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。.

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源義経

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき判官とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。.

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源義賢

源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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本家

本家(ほんけ)は、日本の荘園制における重層的土地支配構造(荘園公領制、職の体系を参照)上、最上位に位置づけられる土地の名義上の所有権者である。開発領主(かいほつりょうしゅ)から寄進を受けた領家から更に寄進を受けた院宮家、摂関家、大寺社が本家となっていた。宗家ともいう。.

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本所

本所(ほんじょ)は、日本荘園制の荘園領主である本家および領家のうち、荘務を行う権限、すなわち荘園の実効支配権を有した者をいう。.

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戎光祥出版

戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義宗

新田 義宗(にった よしむね)は、南北朝時代の武将。新田義貞の三男。 生母は義貞の正室、小田真知の娘。生年は諸説がある。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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新日吉神宮

新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。.

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文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

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思文閣出版

思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市左京区にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている[こんな出版社]思文閣出版 命の長い本作る 読売新聞 2007年9月27日 大阪夕刊7頁。所在地同ビルに企画展をメインとする美術館・思文閣美術館(しぶんかくびじゅつかん、2011年4月10日より休館中)、京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。.

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1155年

記載なし。

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1156年

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1159年

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1160年

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1180年

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1205年

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1221年

記載なし。

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1226年

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1331年

記載なし。

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1336年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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1362年

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1367年

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1368年

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1413年

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