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水野氏

索引 水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

356 関係: 加賀井重望側用人右京区名古屋市吉祥寺 (文京区)吉良氏堀直哉境川 (境川水系・愛知県)大名大坂の陣大府市大和国大番大目付大高城大永大浜藩天保の改革天龍寺天正天文 (元号)奥平貞勝妙音院 (徳川家慶側室)宮津城安中藩安芸国安永 (元号)安房国寛永寛文寛政重修諸家譜小幡藩小田原征伐小牧・長久手の戦い小泉藩尾張国尾張藩尾張源氏山城国山口教継山形藩山田郡 (尾張国)岡崎藩岡部元信岡藩上総国上野国帝鑑の間中川久貞常滑市...丹羽長富三河吉田藩三河一向一揆三河国三方ヶ原の戦い下総山川藩下総国幡随院長兵衛平良兼平氏享保享保の改革享禄京都京都市二本松藩広島藩庄内藩今川氏延宝伊勢国伏見城佐久間信盛佐治氏御家人御附家老徳川吉宗徳川家宣徳川家康徳川家達徳川家治徳川忠長徳川義直徳川頼宣徳川氏信濃国土井利勝地頭北条藩北条氏邦北条氏政刈谷城刈谷藩嵯峨野備後国備後福山藩唐津藩内藤正国内藤正縄内藤清枚内藤政環出羽国八甲田雪中行軍遭難事件元亀元和 (日本)知多半島知多郡石田三成碧海郡米倉昌俊細川利永紀州徳川家紀州藩紀伊国紀伊新宮藩緒川城緒川藩織田信秀織田信雄織田氏結城市結城藩田中藩田沼意次田沼意正男爵男衾郡熱田区番頭片桐貞央相良藩瀬戸市鎮守府将軍遠国奉行遠江国鍋島直泰菊間藩華陽院西尾城西谷藩駿府藩駿河国豊島郡 (武蔵国)豊後国豊臣秀吉鶴牧藩跡部良弼近世近衛家近衛道経茨城県郡山藩能登国関ヶ原の戦い藤原北家藤原清房葛野郡蒲生氏郷肥後国肥前国蓬左文庫長島一向一揆長州藩長享長田氏酒井忠徳鉢形城若年寄老中逢妻川陸奥国柳営秘鑑東京都東浦町東海市松平定重松平家広松平広忠松平忠頼松平信忠松平勝政松平氏松本藩桶狭間の戦い桑名藩椎の木屋敷樽屋与左衛門正徳 (日本)武家武田勝頼武豊町武蔵国毛利治親水野守信水野守政水野忠友水野忠増水野忠央水野忠定水野忠実水野忠実 (鶴牧藩主)水野忠宜水野忠守水野忠寛水野忠寛 (安房北条藩嫡子)水野忠丘水野忠幹 (紀伊新宮藩主)水野忠幹 (松本藩主)水野忠之水野忠任水野忠廉水野忠弘水野忠位水野忠分水野忠善水野忠周水野忠啓水野忠元水野忠光水野忠矩水野忠穀水野忠篤 (鶴牧藩嫡子)水野忠精水野忠義水野忠照水野忠直水野忠直 (岡崎藩世嗣)水野忠盈水野忠韶水野忠職水野忠順水野忠見水野忠誠水野忠鼎水野忠輝水野忠辰水野忠胤水野忠興水野忠邦水野忠重水野忠良水野忠恒 (大名)水野忠次水野忠武水野忠清水野忠成水野忠房水野忠春水野忠昭水野忠政水野忠敬水野信元水野信近水野分長水野元倫水野元知水野元綱水野元朝水野勝寛水野勝岑水野勝庸水野勝任水野勝俊水野勝前水野勝剛水野勝知水野勝種水野勝貞水野勝起水野勝邦水野勝長水野勝進水野勝成水野勝政水野勝愛水野範明水野直水野近守水野重央水野重孟水野重上水野重良水野重期水野村水野氏 (桓武平氏)水野惣兵衛 (忠義の長男)水野成之水野成貞永禄永正江戸時代沼津藩清和源氏清洲同盟清浄院 (加藤清正室)源重遠源満政本多忠考本駒込有岡城の戦い戦国時代 (日本)戸田氏明和明治維新春日井郡浜松城浜松藩浅野宗恒新城藩新宮城於大の方文京区文明 (日本)文政旗本旗本寄合席愛知県慶長承応1487年1493年1509年1512年1514年1518年1522年1529年1533年1545年1547年1560年1562年1571年1575年1578年1580年1581年1584年1598年15世紀1602年1609年1616年1620年1634年1637年1652年1667年1675年1711年1725年1768年1777年1827年1868年 インデックスを展開 (306 もっと) »

加賀井重望

加賀井 重望(かがのい しげもち、永禄4年(1561年) - 慶長5年7月19日(1600年8月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃国加賀野井城主。別名に重茂、秀重、秀望。.

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側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

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右京区

右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。市内西北部に位置し、旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。 区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。 区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。.

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名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

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吉祥寺 (文京区)

吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。.

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吉良氏

吉良氏(きらし)は、日本における武士の氏族の一つであり、代表的なものに下の三つの流れがある。.

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堀直哉

堀 直哉(ほり なおちか、寛政10年3月16日(1798年5月1日) - 文政13年9月3日(1830年10月19日))は、江戸時代の大名で、越後椎谷藩第11代藩主。直之系堀家13代。肥前唐津藩主・水野忠光の五男。兄に水野忠邦らがいる。正室は岸和田藩主・岡部長備の娘。子は之敏(長男)、跡部敏偶(次男)。通称は順助、三右衛門。従五位下、近江守。 文化9年(1812年)7月10日、先代藩主・直温の養子となり、家督を相続した。同年7月28日、将軍徳川家斉にお目見えした。文化10年12月16日、従五位下近江守に叙任した。文化12年2月2日、大坂加番を命じられる。同年7月江戸を出発し、大坂城を守備し、翌年8月江戸に戻る。文政2年(1819年)4月、日光祭礼奉行を命じられる。文政4年12月24日、大番頭に就任する。在任中は大坂城や二条城に守備にあたる。文政13年死去し、跡を長男・之敏が継いだ。 *11 Category:水野氏 なおちか Category:唐津藩の人物 Category:1798年生 Category:1830年没.

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境川 (境川水系・愛知県)

境川(さかいがわ)は、愛知県の中央部を流れ衣浦湾に注ぐ河川である。境川水系の本流を成し、二級河川となっている。 流路はおおむね、尾張国と三河国の境界付近をとっている。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大府市

新池と大府市中心市街 大府駅前通 大府市(おおぶし)は、愛知県西部、知多半島の北端に位置する市。知多半島の市町では阿久比町と共に海に面していない。市南部には健康・医療・福祉・介護関連の機関が集中するウェルネスバレーを擁する。自動車産業が盛んな工業都市。丘陵部では愛知用水を利用した近郊農業が行われる。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大番

大番(おおばん、大御番)は、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊である。.

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大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府及び諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。目付の上位。.

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大高城

大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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大浜藩

大浜藩(おおはまはん)は、三河国碧海郡大浜周辺(現在の愛知県碧南市羽根町)に存在した藩。藩庁は大浜陣屋。.

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天保の改革

天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。.

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天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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奥平貞勝

奥平 貞勝(おくだいら さだかつ、永正9年(1512年)- 文禄4年10月9日(1595年11月10日))は日本の戦国時代の武将。三河作手地方の国人奥平氏当主。奥平貞昌の子。正室は水野忠政の妹。後室は菅沼定継の妹。奥平定能、奥平常勝、奥平貞治の父。通称、九八郎、監物。晩年に出家し、道文入道と号した。.

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妙音院 (徳川家慶側室)

妙音院(みょうおんいん、? - 安政2年(1855年))は、江戸幕府の12代将軍・徳川家慶の側室。俗名は琴。名は廣。.

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宮津城

宮津城(みやづじょう)は、京都府宮津市にある日本の城跡。.

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安中藩

安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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小幡藩

藩邸御殿跡 楽山園 小幡藩(おばたはん)は、上野甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋(のち小幡城、現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に営まれた。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.

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小泉藩

小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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尾張源氏

尾張源氏(おわりげんじ)は、平安時代後期に尾張国に土着した清和源氏の流れを汲む一族の呼称。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山口教継

山口 教継(やまぐち のりつぐ)は、戦国時代の武将。織田氏、今川氏の家臣。尾張国鳴海城主。.

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山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.

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山田郡 (尾張国)

山田郡(やまだぐん)は、かつて尾張国東部に存在した郡である。戦国時代に廃止され、春日井郡と愛知郡に分割編入されたが、その具体的な領域や廃止時期などに不明な点が多い。概ね現在の愛知県瀬戸市、名古屋市守山区、天白区で囲まれる領域周辺に相当すると考えられる(詳細は後述)。.

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岡崎藩

岡崎城 岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(現在の愛知県東部)を領有した藩。藩庁は岡崎城に置かれた。.

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岡部元信

岡部 元信(おかべ もとのぶ)は、戦国時代の武将。今川家の家臣。後に甲斐武田家の家臣。.

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岡藩

岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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帝鑑の間

帝鑑の間(ていかんのま)は、江戸城本丸表屋敷のなかの白書院下段の間の東につらなる部屋。 北は連歌間につづき、東は畳縁(たたみべり)の入側(いりかわ)の外に伯夷・叔斉をえがいたスギ戸をたて、さらに入側をへだてて紅葉間ととなりあい、南は畳縁あって中庭に面し、松の廊下と相対する。 天井は格天井であり、襖には歴代将軍の亀鑑となるべき唐代の帝王をえがく(これが室名のおこるゆえんである)。 将軍が白書院に出て諸侯を引見するさい、この間に詰める諸侯を「帝鑑間詰」という。 越前庶流、10万石以上の諸大名および交代寄合その他がこれに属する。慶応2年の武鑑によれば、家門4家、譜代60家、合わせて64家が挙げられている。石高は1万石ないし10万石余、そのうち5万石およびそれ以上のものが28家、その他は5万石以下である。無城のものが10家である。.

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中川久貞

中川 久貞(なかがわ ひささだ)は、豊後岡藩の第8代藩主。 享保9年(1724年)1月19日、三河吉田藩主・松平信祝の次男として生まれる。寛保3年(1743年)に第7代藩主・中川久慶が死去したため、その養子として12月21日に家督を継いだ。同年12月28日に従五位下、修理大夫に叙任する。養子になった際、名を信安から久貞と改めた。 延享元年(1744年)から無名の浪人である中沢三郎左衛門を登用し、不正の取り締まりや農村振興、人事の一新などを行なって、藩政改革に一応の成功を収めた。しかし宝暦3年(1753年)に天候不順による凶作で原尻奥之丞によって強訴を起こされ、宝暦5年(1755年)には大水害で3万8,000石の被害を出した。宝暦6年(1756年)には大火、明和6年(1769年)には大雨や地震で6万石の被害を出し、明和8年(1771年)にも大火による被害を出した。さらに久貞自身が実父と同じように老中になろうと盛んに運動資金を幕府に供出したため、藩財政が悪化してしまった。 このため、天明6年(1786年)から井上並古を登用し、助合制度の設置や郷村再建、藩札発行による財政改革を行なうが、効果は無かった。また、由学館や経武館、博済館など藩校の創設も行ない、文治教育の普及に尽力し、相次ぐ災害で苦しむ領民に対して窮民養成所を創設している。 寛政2年(1790年)5月20日に死去した。享年67。 長男・久賢が早世したため、次男・久徳を世子に指名していたが、のちに久徳を不行跡を理由に廃嫡し、その長男である久遠を世子に指名したものの、これも早世したため、久徳の次男の久持が跡を継いだ。 ひささた Category:大河内松平氏 *08 Category:三河吉田藩の人物 Category:1724年生 Category:1790年没.

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常滑市

常滑市(とこなめし)は、愛知県の西部に位置する市である。詳しくは知多半島西岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。同湾の海上埋立地に中部国際空港(セントレア)を有している。.

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丹羽長富

丹羽 長富(にわ ながとみ、享和3年8月27日(1803年10月12日) - 慶応2年7月3日(1866年8月12日))は、陸奥二本松藩の第9代藩主。丹羽家第10代。先代藩主・丹羽長祥の長男。母は中村氏女。官位は従四位下、左京大夫、侍従。正室は有馬頼端の娘。子は、丹羽長国(六男)、稲葉正邦(七男)、水野勝知(八男)、矩姫(徳川慶勝正室)、娘(木下利恭正室)、政姫(徳川茂徳正室)、娘(戸田氏良正室)、娘(内藤政憲正室のち岩城隆邦正室)。 文化10年(1813年)11月19日、父長祥の死去により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下左京大夫に叙任した。文政元年(1818年)12月16日、従四位下に昇進した。天保元年(1830年)12月16日、侍従に任官した。嘉永3年(1850年)12月16日、左少将に任官した。安政5年(1858年)10月11日、隠居し、六男・長国に家督を譲った。慶応2年(1866年)7月3日、死去した。 なかとみ なかとみ Category:幕末の大名 Category:幕末二本松藩の人物 Category:1803年生 Category:1866年没.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三河一向一揆

大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年) 三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。.

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下総山川藩

下総山川藩(しもうさやまかわはん)は、下総国(現在の茨城県結城市)に存在した藩。居城は山川城。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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幡随院長兵衛

江戸時代後期に描かれた幡随院長兵衛のイメージ。歌川国芳「国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」 幡随院長兵衛夫妻の墓 (源空寺) 幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。.

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平良兼

平 良兼(たいら の よしかね)は、平安時代中期の武将。平高望の次男。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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享保の改革

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては複数説がある。 主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。.

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享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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二本松藩

二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伏見城

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.

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佐久間信盛

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。.

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佐治氏

佐治氏(さじし)は、日本の氏族のひとつ。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家達

德川 家達(徳川 家達、とくがわ いえさと、1863年8月24日 - 1940年6月5日)は、徳川宗家の16代当主。もとは田安徳川家の7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助といった。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。.

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徳川家治

徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。.

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徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。.

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徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

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徳川頼宣

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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土井利勝

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った『江戸お留守居役の日記』 42ページ。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北条藩

北条藩(ほうじょうはん)は、江戸時代初期から後期にかけて、安房国に存在した藩。藩庁は安房郡北条村(現在の千葉県館山市北条)の北条陣屋。 1638年の立藩以後、屋代氏が3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。中断期間を挟んで水野氏が入り、3代約100年にわたって存続した。.

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北条氏邦

北条 氏邦(ほうじょう うじくに) / 藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。北条氏康の四男。氏政、氏照の弟、氏規、氏忠、氏光、上杉景虎の兄。藤田康邦の娘婿となり家督を継いだ。藤田安房守(藤田氏邦)を名乗り、北条氏邦を自称した記録は未発見。生年には異説もある。子に東国丸、亀丸、光福丸、采女がいたがうち東国丸が短命で2人が幼かったため、甥(長兄・氏政の六男)の直定(氏定とも)を養子として迎えている。.

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北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。 氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。.

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刈谷城

本丸跡。建物は十朋亭(再建) 刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから、「刈谷」という表記がされるようになった。.

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刈谷藩

刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.

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嵯峨野

嵯峨野竹林 嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.

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唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.

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内藤正国

内藤 正国(ないとう まさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃岩村田藩の第5代藩主。岩村田藩内藤家6代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の叔父である。 安永2年(1773年)、肥前唐津藩の第2代藩主・水野忠鼎の四男として生まれる。はじめ水野忠令(ただのり)と名乗った。のち、岩村田藩の第4代藩主・内藤正興の婿養子となって内藤正国と名乗り、寛政4年(1792年)10月17日に正興が死去した後、家督を継いだ。 享和2年(1802年)12月28日に死去した。享年30。男子がなかったため、甥で養嗣子の正縄に跡を継がせた。 *05 Category:水野氏 まさくに Category:唐津藩の人物 Category:1773年生 Category:1803年没.

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内藤正縄

内藤 正縄(ないとう まさつな)は、江戸時代後期の大名。信濃岩村田藩の第6代藩主。岩村田藩内藤家7代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の実弟である。 寛政7年(1795年)、肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男として生まれる。享和3年(1803年)閏1月18日、前年に死去した岩村田藩主・内藤正国の甥にあたることから養子に迎えられ、9歳で家督を継いだ。文化6年(1809年)10月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月28日、従五位下下総守に叙任する。文化9年6月13日、初入国の許可を得る。 文化7年4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化11年2月、大坂加番を命じられる。文政8年(1825年)12月、大番頭に就任する。天保9年(1838年)9月24日、伏見奉行に就任した。在任中、京都で逮捕された梅田雲浜を取り調べるなど、井伊直弼による安政の大獄を支えた。その功績により安政5年(1858年)7月11日には城主格に昇進した。安政6年8月11日、解任されて、雁の間詰めとなる。 万延元年(1860年)2月25日に死去した。享年66。長男の正義は安政元年(1854年)に早世しているため、正義の長男で嫡孫の正誠が跡を継いだ。 なお正縄の手植の梅の古樹が岩村田にあり、正縄公御手植の「豊後梅」と呼ばれている。.

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内藤清枚

内藤 清枚(ないとう きよかず)は、江戸時代初期から中期の旗本、のち大名。河内富田林藩第2代藩主、後に信濃高遠藩の初代藩主。高遠藩内藤家第6代(第7代とする説あり)。.

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内藤政環

内藤 政環(ないとう まさあきら)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第9代藩主。 天明5年(1785年)10月17日、肥前唐津藩主・水野忠鼎の十男として生まれる。寛政11年(1799年)に第8代藩主・内藤政偏が若死にしたため、養子として跡を継いだ。同時に叙任している。しかし藩政においては文政3年(1820年)に水害、翌文政4年(1821年)には旱魃と、多難を極めた。このような中で文政7年(1824年)8月23日、家督を養子・政民に譲って隠居した。天保7年(1836年)8月23日に死去した。享年52。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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八甲田雪中行軍遭難事件

遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の像 後藤房之助伍長の像の台座にある文面 八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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知多半島

知多半島の位置。スペースシャトル 知多半島(左)、渥美半島(下)、三河湾(間)のランドサット。スペースシャトル 知多半島(ちたはんとう)は、愛知県西部、名古屋市や豊明市、刈谷市の南に突き出した半島。西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾に挟まれている。南は伊良湖水道を経て太平洋に通じている。.

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知多郡

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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碧海郡

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米倉昌俊

米倉 昌俊(よねくら まさのり)は、江戸時代後期の大名。武蔵国金沢藩6代藩主。六浦藩米倉家9代。.

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細川利永

細川 利永(ほそかわ としなが)は、肥後熊本新田藩(高瀬藩)の第10代(最後)の藩主。.

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紀州徳川家

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家、紀伊中納言家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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紀伊新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は紀州藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。.

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緒川城

緒川城(おがわじょう)は、尾張国知多郡小河(愛知県知多郡東浦町緒川)にあった日本の城。.

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緒川藩

緒川藩(おがわはん)は、尾張国(現在の愛知県知多郡東浦町緒川)に存在した藩。居城は緒川城(高藪城)。.

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織田信秀

織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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結城市

結城市(ゆうきし)は、茨城県の西部に位置する市である。.

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結城藩

結城藩(ゆうきはん)は、江戸時代の藩の一つで、下総国結城(現在の茨城県結城市)にある結城城を本拠とした。.

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田中藩

中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.

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田沼意次

沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.

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田沼意正

沼 意正(たぬま おきまさ、宝暦9年(1759年)- 天保7年8月24日(1836年4月21日))は、陸奥下村藩の第5代藩主、のち遠江相良藩の藩主。相良藩田沼家6代。藩祖・田沼意次の四男で、初代から3代の下村藩主の叔父に当たる。母は側室田代氏。正室は水野忠友の娘(のち離縁)。子は意留(長男)、柳生俊能(次男)、娘(柳生俊章正室)など。初め、水野忠友の養嗣子として水野忠徳(みずの ただのり)を名乗った。通称は金弥、玄蕃。官位は従四位下玄蕃頭、内膳正。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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男衾郡

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熱田区

熱田区(あつたく)は、名古屋市を構成する16区のうちの1つである。古くは東海道五十三次の宮宿の宿場町、熱田神宮の鳥居前町として栄えた場所である。.

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番頭

頭(ばんとう、ばんがしら).

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片桐貞央

片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明治13年)4月28日『平成新修旧華族家系大成』上巻、418-419頁。 - 1956年(昭和31年)1月7日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』40頁。)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・水野、幼名・央、法諱・宗昌。.

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相良藩

良藩(さがらはん)は、遠江国榛原郡相良(現在の静岡県牧之原市相良)周辺に存在した藩。藩庁は相良陣屋(一時、相良城)。.

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瀬戸市

戸市(せとし)は、愛知県にある市。.

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鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

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遠国奉行

遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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鍋島直泰

鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年(明治40年)10月3日 - 1981年(昭和56年)5月1日)は旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主。12代直映の嫡男。母は禎子(黒田長知の娘)。学習院・東京帝国大学を卒業、宮内省式部官を務めた後、1943年(昭和18年)に家督を相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。 名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。 夫人は朝香宮鳩彦王第一王女 紀久子(1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。 直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になってトヨタ博物館に寄託されることになった。.

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菊間藩

菊間藩(きくまはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に駿河沼津藩の水野家が移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。石高は5万石で、越後国や三河国にも領地があった。藩庁は上総国市原郡菊間村(現在の千葉県市原市菊間)の菊間陣屋。.

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華陽院

華陽院(けよういん、明応元年(1492年) - 永禄3年5月6日(1560年5月30日))は、戦国時代の女性。水野忠政の妻、のちに松平清康の後妻など。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」などといわれている。.

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西尾城

西尾城(にしおじょう)は、三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にあった日本の城。別名は、「鶴城」、「鶴ヶ城」、「錦丘城」など。また、「西条城」が旧称とされるが、その改名時期については諸説がある。.

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西谷藩

西谷藩(にしやちはん)は、能登国に存在した藩。現在の石川県七尾市にあった。.

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駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。なお明治2年8月7日(1869年9月12日)に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)と呼ぶ。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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豊島郡 (武蔵国)

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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鶴牧藩

牧藩(つるまきはん)は、上総国(現在の千葉県市原市椎津)に存在した藩。.

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跡部良弼

跡部 良弼(あとべ よしすけ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。肥前唐津藩主水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟。通称は季十郎・大膳。官位は従五位下山城守。信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守に遷任した。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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近衛道経

近衞 道經(このえ みちつね)は、日本の平安時代から鎌倉時代にかけての公卿。.

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茨城県

茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原清房

藤原 清房(ふじわら の きよふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公家・廷臣。勧修寺清房とも呼ばれる。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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葛野郡

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蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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蓬左文庫

蓬左文庫(ほうさぶんこ)、名古屋市蓬左文庫(なごやしほうさぶんこ、英称:Hosa Library, City of Nagoya)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園にある、尾張徳川家の旧蔵書などの文献資料を所蔵する公開文庫。1616年に名古屋城(別名「蓬左城」)内に設けられた同家の書物庫「御文庫」を起源とし、1912年頃徳川義親により「蓬左文庫」と命名。1950年に名称と蔵書の一部が名古屋市に売却譲渡され、1978年以降は名古屋市博物館の分館として書籍の収集・保管、一般公開を行っている。2016年現在の蔵書数は約11万点。.

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長島一向一揆

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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長田氏

長田氏(おさだし)は、平安時代にかけてあった武家。本姓は桓武平氏の一流である良兼流あるいは良正流を汲む氏族。.

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酒井忠徳

酒井 忠徳(さかい ただあり)は、出羽庄内藩の第7代藩主。左衛門尉酒井家9代当主。第6代藩主・酒井忠温の長男。.

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鉢形城

荒川と寄居町 本丸跡にある田山花袋漢詩碑 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。構造は連郭式平山城。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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逢妻川

逢妻川(あいづまがわ)は、愛知県西三河地方を流れる境川水系の二級河川。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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柳営秘鑑

『柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)は、江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した書物。幕臣の菊池弥門著。寛保3年(1743年)に成立した。10巻。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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東浦町

東浦町(ひがしうらちょう)は、愛知県中部、知多半島の付け根に位置する知多郡の町である。旧国名では尾張に属する。周辺を中規模の都市に囲まれ、ベッドタウンの性格をもつ。現在はファミリーサポート事業(子育て支援)など福祉行政にも力を入れている。.

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東海市

東海市(とうかいし)は、愛知県にある市。知多半島の付け根に位置する。.

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松平定重

松平 定重(まつだいら さだしげ)は、伊勢桑名藩、のち越後高田藩初代藩主。定綱系久松松平家3代。伊予松山藩主・松平定頼の三男。.

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松平家広

松平 家広(まつだいら いえひろ)は、安土桃山時代の武将。松平忠正の子。.

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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.

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松平忠頼

松平 忠頼(まつだいら ただより)は、安土桃山時代から江戸時代の武将、大名。武蔵松山藩の藩主、美濃金山藩主、のちに遠江浜松藩主。 のちに摂津尼崎藩主家となる桜井松平家本家を継いだが、その死に様についてもしばしば言及される人物である(後述)。.

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松平信忠

松平 信忠(まつだいら のぶただ)は、戦国時代の武将。安城松平家2代目にして、松平氏宗家第6代当主。 家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲ったが、その背景には諸説がある。.

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松平勝政

松平 勝政(まつだいら かつまさ)は安土桃山時代の武将、江戸時代の旗本。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

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椎の木屋敷

椎の木屋敷(しいのきやしき)は、愛知県刈谷市にある史跡。「椎の木屋敷跡」として1997年(平成9年)3月13日に刈谷市指定文化財(史跡)に指定された。.

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樽屋与左衛門

樽屋与左衛門(たるや よざえもん)は、江戸町年寄三家の1つ樽屋の当主「樽屋藤左衛門」『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館、320頁。。樽屋は代々藤左衛門を名乗ったが、後見役となった9代目・11代目・12代目の3名は与左衛門を名乗った。この項では、主に樽屋12代目当主の与左衛門のことを扱う。 生没年は、延享3年(1746年) - 文化11年(1814年)。5代前の樽屋藤左衛門の実弟で播州の郷士岩崎家へ養子に行った武左衛門の孫である。その当時は善右衛門という名であったが、天明5年(1785年)12月、40歳の時に当時幼少だった吉五郎(樽屋13代目の忠義)の後見役として樽屋12代目となり、その時より与左衛門と名乗ることとなった吉原健一郎著 『江戸の町役人』吉川弘文館 (154-156頁)。。 寛政の改革において、老中松平定信に重用され、札差仕法改革に参与して様々な献策をしており、棄捐令の作成にもその意見の多くが取り入れられている。寛政元年(1789年)の棄捐令の発令後も、札差仕法の専任担当者に選ばれ、さらに猿屋町貸金会所の運営も任され、会所の建物が竣工されるまで樽屋の役宅を札差掛の役所として使うこととなった。 寛政2年(1790年)には猿屋町会所勤務中の帯刀を許可される。会所勤務中のみであり彼一代に許されたことであるが、天和3年(1683年)2月に町年寄が帯刀を禁止されてから、107年ぶりに帯刀の特権を取り戻したのである。また、同年4月には札差仕法改正の勤務に努力したとして樽という苗字を称することが許され、以後樽屋は「樽」姓を名乗ることとなる。 退役後も大阪屋茂十郎とともに文化年間の株仲間政策を推進し、三橋会所の取締となったが、文化11年に不慮の死をとげた。自殺だったとも言われている。 十八大通の1人とされる樽屋万山は、12代目樽屋与左衛門の子である。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

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武豊町

武豊町(たけとよちょう)は、愛知県知多郡の町。三河湾の臨海部に位置し、重要港湾の衣浦港を抱え、沿岸には工業地帯が広がっている。 「浦島太郎伝説の町」として町をあげてPRしており、「浦島」「竜宮」「乙姫橋」などの地名が残っている。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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毛利治親

毛利 治親(もうり はるちか)は、長州藩の第8代藩主。第7代藩主・毛利重就の四男で嫡出子。.

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水野守信

水野守信(みずの もりのぶ、天正5年(1577年) - 寛永13年12月25日(1637年1月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。江戸幕府旗本寄合、大目付。幼名は新七郎。通称は半左衛門。従五位下、河内守。水野守次の子。母は、側室の北小路公頼の娘菊とも、水野信元の娘とも。正室は有馬豊氏の娘。子女は荒尾重就(池田光仲家臣)室、兵助(早世)、水野守政(養子、娘の子)、清三郎(早世)、成瀬正勝室、織田信当室、徳山重政室(のち離縁)。 母の菊と祖父の公頼の養育される。徳川家康に仕え、会津征伐に従軍。旗本として3500石を賜る。慶長10年(1605年)の徳川秀忠上洛の際には供をしている。書院番を務め、元和3年(1617年)には、使番となり、寛永3年(1626年)、長崎奉行に就任。キリシタンの取締りを強化し、踏み絵を考案したのも守信といわれている。寛永5年(1628年)2月2日、大坂町奉行、寛永6年(1629年)2月6日より堺奉行を兼任する。寛永9年(1632年)12月17日、秋山正重、柳生宗矩、井上政重とともに総目付に任じられた。これが大目付の起源である。寛永11年(1634年)1500石を加増される。 寛永13年(1637年)死去。法名は全叟宗元。自身が開基した京の嵯峨天龍寺の塔頭永明院に葬られる。家督は養子の守政が継い だ。.

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水野守政

水野 守政(みずの もりまさ、元和9年(1623年) - 正徳5年12月16日(1716年1月10日))は、江戸時代の旗本。池田光仲家臣・荒尾重就の子。水野守信の婿養子。初名は守行。通称は左京、半左衛門。官位は従五位下、伊豆守、備中守。室は内藤正勝の娘。子に水野忠矩(長男)、内藤清枚(次男)、成瀬正章室。養子に水野忠慎(荒尾帯刀某の子)。.

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水野忠友

水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、老中。三河大浜藩主、駿河沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。.

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水野忠増

水野 忠増(みずの ただます、寛永2年(1625年) - 元禄7年7月6日(1694年8月26日))は江戸時代の旗本。 信濃国松本藩初代藩主水野忠清の四男。母は側室。2代藩主水野忠職の弟。妻は土屋利直の娘。幼名は長吉、通称は権兵衛。官位は従五位下周防守。 寛永18年(1641年)徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)には西の丸の徒頭に転任し廩米500俵を与えられ、儀式の際に布衣(無紋の狩衣)の着用を許される。明暦3年(1657年)小姓組番頭となり従五位下に任官し周防守を名乗る。万治2年(1659年)に兄の忠職から俵米5,000石を分知され(幕府の廩米は収公)、寛文4年(1664年)同国筑摩郡2200石(5ヶ村)・安曇郡2800石(6ヶ村)に替地となる。寛文元年(1661年)に書院番頭、寛文4年(1664年)に大番頭となるが、寛文11年(1671年)9月、黒書院への出御がたびたび遅れる件について改善を促されたが聞かず、発言も不遜であるとして大番頭を解任させられ、閉門となった。寛文12年(1672年)12月、赦免されて寄合に列する。延宝6年(1678年)、大番頭に復帰。天和2年(1682年)には幕府から丹波国氷上郡2000石を加増され、知行が7000石となる。元禄5年(1692年)には奥詰に任ぜられる。元禄7年(1694年)に江戸で没し、小石川伝通院に葬られる。長男の水野忠位が家督を相続する。.

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水野忠央

水野 忠央(みずの ただなか)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第9代藩主幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは認められなかった。。第8代藩主・水野忠啓の長男。官位は従五位下土佐守。通称は藤四郎。号は丹鶴、鶴峯。.

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水野忠定

水野 忠定(みずの たださだ、元禄4年(1691年) - 延享5年6月26日(1748年7月21日))は、江戸時代中期の大名。安房北条藩の初代藩主。忠位系水野家2代。 伊勢桑名藩主・松平定重の九男。母は井上氏。正室は水野忠位の娘。子に水野忠寛(長男)、水野忠見(次男)、娘(久松松平勝房正室)、娘(内田正親正室)、娘(酒井忠香正室)、娘(水野忠耆正室)、娘(内藤正興正室)。官位は従五位下、壱岐守。 幼名は吉之助。正徳2年(1712年)5月、大坂定番水野忠位(1万2000石)の婿養子となり、同年12月に叙任する。正徳3年(1713年)9月16日、家督を継ぐ。知行地のうち摂津5000石が信濃に差し替えられて同国筑摩郡に知行所を置き、信濃1万石、丹波2000石を領する。享保4年(1719年)10月、大番頭となる。享保8年(1723年)3月に若年寄となり、無城大名となった。享保10年(1725年)10月18日、宗家の松本藩水野忠恒の改易に合わせて安房国北条に移封され(安房国安房郡、朝夷郡、長狭郡、上総国市原郡)、北条藩を立藩した。享保18年(1733年)6月、丹波国内で3000石を加増され(氷上郡、船井郡、天田郡)、知行高が1万5000石となる。延享2年(1745年)9月からは徳川家重付の若年寄となる。 延享5年(1748年)6月26日、58歳で死去し、跡を次男の忠見が継いだ。法号は鏡誉智天定光大円院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。.

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水野忠実

水野 忠実(みずの ただざね)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第7代藩主。諱は忠奇(ただより)とも伝わる。初名は忠寛(ただひろ)。.

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水野忠実 (鶴牧藩主)

水野 忠実(みずの ただみつ、寛政4年6月26日(1792年8月13日) - 天保13年1月29日(1842年3月10日))は上総鶴牧藩の第2代藩主。忠位系水野家5代。 出羽庄内藩主酒井忠徳の次男。正室は島津忠厚の娘(島津重豪の養女)、継室は牧野忠精の四女。子は水野忠順(次男)。官位は従五位下。甲斐守。壱岐守。 先代藩主・水野忠韶の養子となり、文政11年(1828年)にその跡を継ぐ。幕閣では奏者番・大御所付若年寄などを歴任する。天保3年(1832年)、水野家が転封すると聞きつけた村民が転封反対の騒動を起したことなどから窺われるように、領民にたいへん慕われていた名君であった。天保13年(1842年)に死去し、次男の忠順が跡を継いだ。 Category:酒井氏 たたみつ *02 Category:庄内藩の人物 Category:1792年生 Category:1842年没.

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水野忠宜

水野 忠宜(みずの ただよし、1877年(明治10年)9月1日 - 1902年(明治35年)1月24日)は、日本の陸軍軍人。位階は正五位。最終階級は陸軍歩兵中尉。八甲田雪中行軍遭難事件で遭難死した。なお、「水野 忠宣」は誤記。.

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水野忠守

水野 忠守(みずの ただもり、大永5年(1525年) - 慶長5年3月28日(1600年5月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。水野忠政のまたは四男新訂「寛政重修諸家譜」6巻70項。兄弟には信元、忠重、於大の方らがいる。.

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水野忠寛

水野 忠寛(みずの ただひろ)は、江戸時代後期の旗本、大名。駿河沼津藩の第6代藩主。.

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水野忠寛 (安房北条藩嫡子)

水野 忠寛(みずの ただひろ、享保7年(1722年)- 寛保3年7月26日(1743年9月14日))は、安房国北条藩の嫡子。初代藩主・水野忠定の長男。母は水野忠位の娘。正室は松平定章の娘。子は水野忠廉(長男)。官位は従五位下、近江守。 元文元年(1736年)徳川吉宗に御目見。元文3年(1738年)に叙任されたが、寛保3年(1743年)早世した。代わって、弟の忠見が嫡子となった。 たたひろ Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1722年生 Category:1743年没.

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水野忠丘

水野忠丘(みずの ただおか、寛永18年(1641年)- 宝永4年12月4日(1707年12月27日))は、江戸時代の旗本。水野成貞の次男。母は蜂須賀至鎮の娘・正徳院。又八郎。初名、成春。室は幡頭氏の娘。.

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水野忠幹 (紀伊新宮藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第10代藩主。第9代藩主・水野忠央の長男。.

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水野忠幹 (松本藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと、元禄12年5月5日(1699年6月2日) - 享保8年5月10日(1723年6月12日))は、信濃国松本藩第5代藩主。沼津藩水野家5代。 正室は浅野綱長の娘。官位は従五位下・日向守。.

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水野忠之

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。.

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水野忠任

水野 忠任(みずの ただとう)は、江戸時代中期の大名。三河岡崎藩第7代藩主。肥前唐津藩初代藩主。忠元系水野家8代。.

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水野忠廉

水野 忠廉(みずの ただかど、寛保3年(1743年)- 宝暦9年4月9日(1759年5月5日))は、安房国北条藩の嫡子。水野忠寛(初代藩主・水野忠定の嫡子)の長男。母は松平定章の娘。官位は従五位下、肥前守。 父の死後に生まれたため、父に代わって嫡子・藩主となった叔父の水野忠見の養子となる。宝暦7年(1757年)徳川家重に拝謁し叙任したが、宝暦9年(1759年)早世した。代わって、忠見の長男・水野忠韶が嫡子となった。 たたかと Category:1743年生 Category:1759年没.

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水野忠弘

水野 忠弘(みずの ただひろ、安政3年6月18日(1856年7月19日) - 明治38年(1905年)12月7日)は、江戸時代末期の大名。出羽国山形藩第3代(最後)の藩主。近江国朝日山藩知事。忠元系水野家13代。先代藩主・水野忠精の長男。正室は水野忠制の娘(水野忠幹の養女)。継室は伊達宗城の娘。和泉守。従三位勲四等、子爵。.

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水野忠位

水野 忠位(みずの ただたか)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。忠位系水野家初代。.

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水野忠分

水野 忠分(みずの ただわけ、もしくは、みずの ただちか、天文6年(1537年)-天正6年12月8日(1579年1月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。藤二郎(藤次郎、藤治郎とも)。水野忠政の8男といわれ、兄弟に水野信元、於大の方がいる。室は佐治信方の妹。子に分長、重央、義忠、松平勝政、次女(松平家忠室)がいる。.

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水野忠善

水野 忠善(みずの ただよし、慶長17年(1612年) - 延宝4年8月29日(1676年10月6日))は、江戸時代前期の大名。下総山川藩の2代藩主。駿河田中藩、三河吉田藩藩主。三河岡崎藩の初代藩主。忠元系水野家2代。水野忠元の長男。正室は井上正就の娘。子は忠春(長男)、娘(京極高直正室)、娘(大給松平乗久正室)、娘(丹羽氏純正室)、娘(水野元知正室)、娘(片桐貞房正室)、娘(牧野康道正室)。従五位下、大監物。 元和6年(1620年)、父・忠元の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)、従五位下大監物に任官。寛永12年(1635年)、1万石加増され駿河田中藩4万5000石に転封となる。寛永19年(1642年)に三河吉田藩に、正保2年(1645年)に5000石加増され三河岡崎藩5万石に移される。寛文4年(1664年)、弟の水野忠久に5000石を分与する。隣接する尾張徳川家を仮想敵国とし、軍備増強に注力した。延宝4年(1676年)に死去した。跡を長男の忠春が継いだ。 たたよし Category:下総山川藩主 Category:田中藩主 Category:三河吉田藩主 Category:岡崎藩主 Category:1612年生 Category:1676年没.

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水野忠周

水野 忠周(みずの ただちか)は、信濃松本藩の第4代藩主。沼津藩水野家4代。.

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水野忠啓

水野 忠啓(みずの ただあき)は、江戸時代末期の紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第8代藩主。.

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水野忠元

水野 忠元(みずの ただもと、天正4年(1576年) - 元和6年10月6日(1620年10月31日))は、江戸時代初期の大名。下総山川藩の初代当主。忠元系水野家初代。水野忠守の三男。正室は三浦為春(紀州徳川家家臣)の娘。子は水野忠善(長男)、水野忠久(次男)、娘(有馬豊長正室)、娘(水野重良正室)、娘(佐野政信室)。従五位下、大監物。 2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる。慶長10年(1605年)叙任し、小姓組番頭に就任。同時期の小姓組番頭は他に五名おり、それぞれ、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、大久保教隆、成瀬正武。 大坂冬の陣、大坂夏の陣に参戦し、元和元年(1615年)に西丸書院番頭に転じる。同年、下総国・下野国・近江国において3万5000石の領地を与えられ、大名に列する(山川藩)。元和6年(1620年)死去。 なお、水野家(唐津・浜松藩)では、初代忠元が諸侯に列したことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が山川(茨城県結城市)につくられている。 たたもと Category:下総山川藩主 Category:譜代大名 Category:1576年生 Category:1620年没.

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水野忠光

水野 忠光(みずの ただあきら / ただあき)は、肥前唐津藩の第3代藩主。忠元系水野家10代。水野忠邦の実父である。 明和8年(1771年)8月20日、第2代藩主水野忠鼎の長男として生まれる。天明5年(1785年)に従五位下、式部少輔に叙任される(のち転任)。文化2年(1805年)9月5日の父の隠居により家督を継いだ。藩政においては父が用いた家老の二本松義廉を罷免して、親政を行なって改革を進めたが効果はなく、文化9年(1812年)に次男の忠邦に家督を譲って隠居した。文化11年(1814年)4月4日に江戸で死去した。享年44。 たたあきら Category:唐津藩主 Category:譜代大名 Category:1771年生 Category:1814年没.

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水野忠矩

水野 忠矩(みずの ただのり、生年不詳 - 元禄6年6月29日(1693年7月31日))は、江戸時代の旗本水野守政の世子。兄弟に内藤清枚(次男)、成瀬正章室。室は伊沢政成の娘。 明暦2年(1657年)8月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。元禄6年、父に先立って没した。.

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水野忠穀

水野 忠穀(みずの ただよし、宝永4年(1707年) - 寛保2年8月24日(1742年9月22日))は江戸時代の旗本。沼津藩水野家7代。 信濃国松本藩3代藩主水野忠直の九男。4代藩主水野忠周の弟。子は水野忠友(長男)、松平信志(三男)、娘(中根正均正室)、娘(水野忠隣室)、娘(牧野成如正室)。官位は出羽守。 甥の松本藩主水野忠恒が、享保10年(1725年)7月28日、長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は改易となり、川越藩にお預けとなった。しかし、水野氏は徳川家康の母於大の方の生家であることから家名存続を願う声が強く、分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、同年8月27日、叔父にあたる忠穀に相続は許されたが、信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)の旗本として辛うじて名跡を保つこととなった。その後、江戸屋敷に忠恒を預かっている。 高禄の旗本として元文元年(1736年)1月28日に定火消、同年10月15日に書院番頭となる。同年12月16日には従五位下出羽守に叙任している。元文4年(1739年)3月15日に大番頭となり、後に大坂城の守衛となるが、寛保2年(1742年)に36歳で死去した。 世子の忠友は、のちに田沼意次の元で加増を受け、大名に返り咲いている。.

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水野忠篤 (鶴牧藩嫡子)

水野 忠篤(みずの ただあつ、天明7年6月26日(1787年8月9日) - 文化13年8月8日(1816年8月30日))は、上総国鶴牧藩の養嗣子。長門国萩藩主・毛利治親の五男。生母は側室岡田氏(花村、宝池院)。正室は水野忠韶の娘、継室は間部詮熙の娘。幼名は儇之進(はやのしん)。初めは実兄で萩(長州)藩主となっていた毛利斉熙から偏諱を授与されて毛利煕続(もうり ひろつぐ)を名乗っていたが、水野家に養子入りしてからは水野忠篤と名乗った。号は阿儇。戒名は蒼岳院。 寛政2年(1790年)に生母の岡田氏を亡くす。寛政11年9月27日(1799年)に鶴牧藩主・水野忠韶の婿養子となりその嫡子となったが、正室である忠韶の娘が早世、忠篤も家督相続以前に早世した。代わって、新たに養子入りした水野忠実が嫡子となった。.

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水野忠精

水野 忠精(みずの ただきよ)は、江戸時代後期・末期の大名、老中。遠江浜松藩第2代藩主。出羽山形藩の初代藩主。忠元系水野家第12代。.

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水野忠義

水野 忠義(みずの ただよし)は、駿河沼津藩の第3代藩主。沼津藩水野家10代。 寛政4年(1792年)9月26日、第2代藩主・水野忠成の三男として江戸浜町屋敷で生まれる。文化5年(1808年)12月11日に従四位下、大和守に叙任する。天保5年(1834年)の父の死去により家督を継ぎ、出羽守に転任した。 藩政においては家臣団統制に苦慮し、尽力した。幕命により天保6年(1835年)8月、江戸城普請に1万両、西の丸修理費用に1万両の提出を命じられるなど、苦しかった藩財政はさらに苦しくなった。 天保13年(1842年)1月19日に江戸外桜田屋敷で死去した。享年51。跡を次男の忠武が継いだ。 Category:沼津藩主 たたよし Category:1792年生 Category:1842年没.

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水野忠照

水野 忠照(みずの ただてる、元禄9年(1696年) - 寛保3年11月16日(1743年12月31日))は江戸時代の旗本。 信濃国松本藩3代藩主水野忠直の四男。4代藩主水野忠周の弟。通称は宮内。子に忠卿、忠隣がいる。 正徳3年(1713年)1月28日将軍徳川家継に拝謁し、同年6月22日兄の忠周から蔵米2000俵を分知されて寄合に列する。 甥の松本藩主水野忠恒が、享保10年(1725年)7月28日、長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は改易となってしまう。しかし、家名存続を願う声が強く、分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、忠照には幕府から信濃佐久郡2000石の替地(根々井知行所)を与えられ、旗本として明治維新まで存続した。日本橋浜町に屋敷を構えたため、この家系は浜町水野氏と呼ばれるようになった。 寛保3年(1743年)に江戸で没し、小石川伝通院に葬られる。享年48。法名は全照。.

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水野忠直

水野 忠直(みずの ただなお)は、江戸時代の大名。信濃松本藩の第3代藩主。沼津藩水野家3代。 2代藩主水野忠職の次男。.

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水野忠直 (岡崎藩世嗣)

水野 忠直(みずの ただなお、寛文元年(1661年) - 延宝4年(1676年))は、三河国岡崎藩2代藩主・水野忠春の長男。通称、権五郎。岡崎藩嫡子として生まれたが、延宝4年(1672年)に16歳で夭折した。代わって、弟・忠盈が嫡子となり藩主を継いだ。 たたなお Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:岡崎藩の人物 Category:1661年生 Category:1676年没.

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水野忠盈

水野 忠盈(みずの ただみつ)は、三河岡崎藩の第3代藩主。忠元系水野家4代。 寛文2年(1662年)12月6日、第2代藩主水野忠春の次男として江戸藩邸で生まれる。兄忠直の死により嫡子となり、延宝6年(1678年)、従五位下、豊前守に叙位・任官する。元禄5年(1692年)、父が死去したため家督を継ぐ。元禄7年(1694年)、西の丸大手門番に任じられ、以後も京都上使役、奥詰など諸役を歴任した。 元禄12年(1699年)8月4日に死去した。享年38。男子がなく、跡を弟で養子の忠之が継いだ。 たたみつ Category:岡崎藩主 Category:1663年生 Category:1699年没.

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水野忠韶

水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) - 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。 北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。正室は大岡忠喜の娘、継室は溝口直養の娘。子は娘(水野忠篤正室)。官位は従五位下、壱岐守。 忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。 天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。 文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。.

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水野忠職

水野 忠職(みずの ただもと)は、江戸時代前期の大名。信濃国松本藩第2代藩主。沼津藩水野家2代。初代藩主水野忠清の次男。.

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水野忠順

水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は|江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。.

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水野忠見

水野 忠見(みずの ただちか、享保15年(1730年)- 安永4年8月19日(1775年9月13日))は、安房北条藩の第2代藩主。忠位系水野家3代。 初代藩主・水野忠定の次男。母は水野忠位の娘。正室は板倉勝清の娘。子に水野忠韶(長男)、杉浦正僖(次男)、水野忠晋(三男)、溝口直静(四男)、娘(加藤明陳正室)、娘(内田正純正室)、娘(小浜寿隆正室)。官位は従五位下、肥前守、壱岐守。 幼名は吉次郎。寛保3年(1743年)、兄・忠寛の早世により世子となる。延享元年(1744年)12月、従五位下肥前守に叙任される。延享5年(1748年)、父の死去により跡を継いだ。寛延2年(1749年)8月に大番頭となり、宝暦7年(1757年)3月に奏者番、同年11月に壱岐守に任官される。宝暦8年(1758年)9月には西の丸若年寄となった。安永4年(1775年)8月19日、46歳で死去した。 はじめ兄・忠寛の長男・忠廉を嫡子としていたが家督相続前に早世したため、跡は長男の忠韶が継いだ。法号は本誉常自寂湛法従院。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 Category:江戸幕府若年寄 水02 たたちか Category:1730年生 Category:1775年没.

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水野忠誠

水野 忠誠(みずの ただのぶ)は、江戸時代末期の大名、老中。駿河国沼津藩第7代藩主。沼津藩水野家14代。.

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水野忠鼎

水野 忠鼎(みずの ただかね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。肥前国唐津藩2代藩主。忠元系水野家9代。.

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水野忠輝

水野 忠輝(みずの ただてる、元禄4年5月22日(1691年6月18日) - 元文2年7月2日(1737年7月29日))は、江戸時代中期の大名。三河国岡崎藩の5代藩主。忠元系水野家6代。水野忠之の次男。正室は井上可安(井上正任の子)の娘(井上正岑の養女)。子は水野忠辰(長男)、水野忠則(次男)、水野忠勧(三男)、娘(阿部正敏正室)。右衛門大夫、右衛門佐、大監物。 宝永元年(1704年)、将軍徳川綱吉に初御目見し、従五位下右衛門大夫に任官した。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せられた。元文2年(1737年)岡崎にて死去した。跡を長男の忠辰が継いだ。 たたてる Category:岡崎藩主 Category:1691年生 Category:1737年没.

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水野忠辰

水野 忠辰(みずの ただとき、享保9年閏4月22日(1724年6月13日) - 宝暦2年8月18日(1752年9月25日))は、江戸時代の大名。三河国岡崎藩第6代藩主。忠元系水野家7代。水野忠輝の長男。正室は本多忠良の娘。子は水野忠雄(長男)、娘(水野忠任正室)、娘(水野忠鼎正室)。三河国岡崎(愛知県岡崎市)出身。官位は従五位下、大監物。.

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水野忠胤

水野 忠胤(みずの ただたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。三河水野藩主。徳川家康の従弟に当たる。.

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水野忠興

水野 忠興(みずの ただおき、元文元年(1736年) - 宝暦13年6月28日(1763年8月7日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第6代藩主。 第5代藩主・水野忠昭の長男。正室は高槻藩主・永井直期の娘。養子に忠実(水野守鑑の次男)。官位は従五位下筑後守。幼名は大吉。 寛延2年(1749年)10月25日に父が死去したため、同年11月19日に跡を継いだ。同年12月28日、第9代将軍・徳川家重に初御目見。宝暦2年(1752年)12月16日、従五位下筑後守に叙任。宝暦13年(1763年)6月28日に死去し、跡を養嗣子の忠実が継いだ。享年27。法号は本立院殿義道日成大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。.

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水野忠邦

水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。.

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水野忠重

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男。母は華陽院。子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。法名は賢忠。道号は勇心『寛永諸家系図伝』。 水野忠重公墓所 (福山市若松町).

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水野忠良

水野 忠良(みずの ただなが)は、駿河沼津藩の第5代藩主。沼津藩水野家12代。 天保5年(1834年)8月5日、第3代藩主水野忠義の五男として江戸外桜田屋敷で生まれる。天保15年(1844年)に兄で先代藩主の忠武が死去したため、その養子として家督を継ぐ。嘉永2年(1849年)12月16日には従五位下、出羽守に叙任された。 幕末期の外国船出没による政情の中、戸田の警備や軍事力の強化を図ったが、これらの出費に加えて嘉永5年(1852年)、嘉永6年(1853年)の旱魃で1万石の甚大な被害を受けるなど、藩財政は逼迫した。 安政5年(1858年)5月3日に死去した。享年25。跡を従弟にあたる忠寛が継いだ。 Category:沼津藩主 Category:幕末の大名 たたなか Category:1834年生 Category:1858年没.

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水野忠恒 (大名)

水野 忠恒(みずの ただつね、元禄14年8月6日(1701年9月8日) - 元文4年6月28日(1739年8月2日))は江戸時代の大名。信濃松本藩第6代藩主。沼津藩水野家6代。 4代藩主水野忠周の次男。母は前田利明の娘。正室は戸田氏定の娘。官位は従五位下、隼人正。.

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水野忠次

水野 忠次(みずの ただつぐ、慶長9年(1604年) - 寛永5年9月24日(1628年10月21日))は、三河国刈谷藩の嫡子。刈谷藩主でのち信濃国松本藩初代藩主となる水野忠清の長男。母は前田利家の娘。官位は従五位下、和泉守。 水野忠清の嫡男として生まれ、元和4年(1618年)に徳川秀忠に拝謁し叙任する。しかし、家督を相続することなく、寛永5年(1628年)に25歳で早世した。代わって、弟の水野忠職が嫡子となった。 法名は上譽緑月増秋院。 たたつく Category:刈谷藩の人物 Category:1604年生 Category:1628年没.

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水野忠武

水野 忠武(みずの ただたけ)は、駿河沼津藩の第4代藩主。沼津藩水野家11代。 文政7年(1824年)7月12日、第3代藩主水野忠義の次男として江戸浜町屋敷で生まれる。文政8年(1825年)に兄の惣兵衛が早世したため、天保5年(1834年)6月6日に世子として指名された。天保10年(1839年)12月18日に従五位下、大和守に叙任する。天保13年(1842年)、父の死去により家督を継ぎ、出羽守に転任する。 おりしも幕府では水野忠邦による天保の改革が始まり、祖父の水野忠成による幕政を否定する忠邦による粛清として、三河における新田開発など、様々な手伝い普請を幕命によって命じられ、藩財政難に陥った。 天保15年(1844年)7月10日に江戸外桜田屋敷で死去した。享年21。跡を弟で養子の忠良が継いだ。 Category:沼津藩主 たたたけ Category:1824年生 Category:1844年没.

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水野忠清

水野 忠清(みずの ただきよ)は、江戸時代前期の大名。上野小幡藩主、三河刈谷藩主、三河吉田藩主、信濃松本藩初代藩主。沼津藩水野家初代。 備後福山藩初代藩主水野勝成の異母弟。.

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水野忠成

水野 忠成(みずの ただあきら)は、江戸時代後期の老中、駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。通常は老中在籍時の出羽守の官名で呼ばれることが多い。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。.

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水野忠房

水野 忠房(みずの ただふさ、元禄6年(1693年)- 正徳2年1月16日(1712年2月22日))は、江戸時代の大名・水野忠位の嫡子。信濃国松本藩主・水野忠直の三男。官位は従五位下、周防守。 忠位の養子となり、宝永3年(1706年)徳川綱吉に拝謁。正徳元年(1711年)に叙任したが、翌年早世した。代わって、水野忠定を養子に迎え嫡子とした。 たたふさ Category:松本藩の人物 Category:1693年生 Category:1712年没.

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水野忠春

水野 忠春(みずの ただはる)は、江戸時代前期の大名。三河岡崎藩の2代藩主。忠元系水野家3代。水野忠善の長男。.

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水野忠昭

水野 忠昭(みずの ただあき、元禄13年(1700年)- 寛延2年10月25日(1749年12月4日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第5代藩主。 水野重矩(初代藩主・水野重央の次男である水野定勝の長男)の三男。養父は第4代藩主・水野重期。母は奥山玄建の養女。正室は加藤明治の養女(加藤明教の娘)。子に忠興(長男)、娘(阿部正韶正室)、娘(一柳寛直正室)、娘(水野政勝正室)。官位は従五位下対馬守、大炊頭。幼名は万之助。通称は左膳。 正徳4年(1714年)7月18日、養父の隠居により跡を継ぎ、同年7月28日に第7代将軍・徳川家継に初御目見を果たす。正徳5年(1715年)12月18日、従五位下対馬守に叙任。寛延2年(1749年)10月25日に死去し、跡を忠興が継いだ。享年50。法号は本徳院殿良山日種大居士。墓所は東京都新宿区須賀町の戒光寺。.

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水野忠政

水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代の武将・戦国大名。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。 娘に徳川家康の生母・於大の方(伝通院)がいる。.

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水野忠敬

水野 忠敬(みずの ただのり)は、駿河沼津藩の第8代藩主。のちに上総菊間藩主。沼津藩水野家15代。.

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水野信元

水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代の大名。水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の女。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。受領名は下野守。妻は松平信定の女。.

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水野信近

水野 信近(みずの のぶちか、大永5年(1525年) - 永禄3年(1560年)6月)は、戦国時代の武将。水野氏、刈谷城主。幼名は千代松、通称は十郎左衛門、藤四郎、藤九郎。水野忠政の三男。子に信政(元茂)『寛政重修諸家譜』、信行、村瀬重治室。.

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水野分長

水野 分長(みずの わけなが、永禄5年(1562年) - 元和9年3月1日(1623年3月31日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。尾張緒川藩主。三河新城藩の初代藩主。新城城主。水野忠分の長男。弟に水野重央がいる。正室は山口重勝の娘。子は水野元綱(長男)。官位は従五位下、備後守。弾正忠。.

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水野元倫

水野 元倫(みずの もとみち、寛永2年(1625年) - 慶安4年3月17日(1651年5月6日))は、江戸時代前期の武士。三河新城藩、上野安中藩の嫡子だった。水野元綱の長男。母は中川秀成の娘。 安中藩2代藩主となるはずだったが、家督を継ぐことなく慶安4年(1651年)に27歳で早世した。代わって、弟の水野元知が嫡子となった。 もとみち Category:安中藩の人物 Category:1625年生 Category:1651年没.

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水野元知

水野 元知(みずの もととも、正保元年(1644年) - 延宝8年9月8日(1680年10月30日))は、江戸時代前期の大名。上野安中藩の第2代藩主。信濃守。正室は岡崎藩主・水野忠善の娘。側室に八重。子に元朝。 正保元年(1644年)、安中藩の初代藩主・水野元綱の次男として生まれる。兄の元倫が早世したため嫡男となり、将軍・徳川家綱に拝謁する。寛文4年(1664年)10月26日、父の隠居により跡を継いだ。ところが寛文7年(1667年)5月23日、発狂して妻を斬りつけるという事件を起こしたため、5月28日、幕命により不始末として改易され、身柄は信濃松本藩の水野忠職預かりとされてしまった。発狂の理由は、側室の八重との間での諍いであると言われているほかにも諸説あり、詳しくわかっていない。長男の元朝に2,000俵(のちに2,000石)が給され、子孫は旗本として存続した。 延宝8年(1680年)9月8日に死去した。享年37。 Category:安中藩主 もととも Category:1644年生 Category:1680年没.

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水野元綱

水野 元綱(みずの もとつな、慶長6年(1601年) - 寛文5年5月16日(1665年6月29日))は、三河新城藩の第2代藩主。上野安中藩の初代藩主。新城藩初代藩主・水野分長の長男。母は山口重勝の娘。正室は中川秀成の娘。子は水野元倫(長男)、水野元知(次男)、娘(那須資国室)。官位は従五位下、大和守、備後守。新城城主。 慶長6年(1601年)、尾張に生まれる。慶長12年(1607年)から徳川秀忠に仕え、慶長17年(1612年)に大和守に任ぜられた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では水野忠元に属して出陣し、夏の陣では首級を挙げた。元和2年(1616年)に近江伊香郡内で1000石を与えられた。 元和6年(1620年)に父・分長が徳川頼房に付けられて常陸水戸藩に移ると、三河新城藩1万石を相続する(この際に近江の領地は収公された)。この際に備後守に改めた。その後、大番頭・奏者番などを務め、寛永10年(1633年)に4000石を加増され1万4000石となる。慶安元年(1648年)に上野安中2万石に移封された。明暦3年(1657年)に琉球の使いが日光山に行く際にそこに赴く。 寛文4年(1664年)10月26日、次男の元知に家督を譲って隠居し、寛文5年(1665年)5月16日に死去した。享年65。法名は心源道要自雲院。墓所は東京都新宿区新宿の天龍寺。 もとつな Category:安中藩主 Category:三河国の藩主 Category:1601年生 Category:1665年没.

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水野元朝

水野 元朝(みずの もととも、寛文5年(1665年) - 元文2年1月6日(1737年2月5日))は、江戸時代中期の旗本。上野安中藩の嫡子だった。安中藩2代藩主水野元知の長男。母は水野忠善の娘。正室は宮石松平正勝の娘、継室も宮石松平正勝の娘。 寛文7年(1667年)、父の忠知が狂気により改易されたため、2000石の領地を与えられる。元文2年(1737年)、73歳で没した。その後、水野家は2000石の旗本として存続した。 もととも Category:江戸幕府旗本 Category:安中藩の人物 Category:1665年生 Category:1737年没.

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水野勝寛

水野 勝寛(みずの かつひろ)は、下総結城藩の第11代(最後)の藩主。水野宗家16代。.

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水野勝岑

水野 勝岑(みずの かつみね)は、江戸時代の譜代大名。備後福山藩の第5代藩主。水野宗家5代。 第4代藩主水野勝種の7男。通称は松之丞(まつのじょう)。早世し叙任しなかったため、官職はない。.

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水野勝庸

水野 勝庸(みずの かつのぶ)は、下総結城藩の第3代藩主。水野宗家8代。.

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水野勝任

水野 勝任(みずの かつとう)は、下総結城藩の第9代藩主。水野宗家14代。.

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水野勝俊

水野 勝俊(みずの かつとし)は、江戸時代初期の大名。備後福山藩の第2代藩主。水野宗家2代。 初代藩主・水野勝成の長男で、備中国成羽(現在の岡山県高梁市成羽町)に生まれる。生母は三村親成に居候していた藤井道斎の娘お登久(おとく)。.

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水野勝前

水野 勝前(みずの かつちか)は、下総結城藩の第4代藩主。水野宗家9代。.

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水野勝剛

水野 勝剛(みずの かつかた)は、下総結城藩の第6代藩主。水野宗家11代。.

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水野勝知

水野 勝知(みずの かつとも)は、下総結城藩の第10代藩主。水野宗家15代。.

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水野勝種

水野 勝種(みずの かつたね)は、備後福山藩の第4代藩主。水野宗家4代。 第3代藩主・水野勝貞の長男で、母は瀬尾氏。.

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水野勝貞

水野 勝貞(みずの かつさだ)は、備後福山藩の第3代藩主。水野宗家3代。 第2代藩主・水野勝俊の次男。.

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水野勝起

水野 勝起(みずの かつおき)は、江戸時代中期の大名。下総国結城藩の第5代藩主。水野宗家10代。.

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水野勝邦

水野 勝邦(みずの かつくに、1904年(明治37年)6月27日 - 1988年(昭和63年)1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。.

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水野勝長

水野 勝長(みずの かつなが)は、能登西谷藩主、のちに下総結城藩の初代藩主で、5代で無嗣除封となった水野宗家の備後福山藩の初代藩主・水野勝成の曾孫。水野宗家6代。.

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水野勝進

水野 勝進(みずの かつゆき)は、下総結城藩の第8代藩主。水野宗家13代。.

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水野勝成

水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。.

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水野勝政

水野 勝政(みずの かつまさ)は、下総結城藩の第2代藩主。水野宗家7代。.

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水野勝愛

水野 勝愛(みずの かつざね)は、下総結城藩の第7代藩主。水野宗家12代。.

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水野範明

水野 範明(みずの のりあき、安永2年(1773年) - 文化2年7月22日(1805年8月16日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)の世嗣。 第7代藩主・水野忠実の長男。正室は大多喜藩主・松平正温の娘。子に忠啓(長男)、錦(伊東長禎正室)。官位は従五位下出雲守。幼名は藤次郎。通称は内匠助。 天明8年(1788年)4月15日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁し、寛政6年(1794年)12月24日には従五位下出雲守に叙任する。しかし、家督相続前の文化2年(1805年)に早世した。享年33。代わって、長男の忠啓が紀伊新宮藩の世嗣となり、文政5年(1822年)に忠実が死去すると家督を継いだ。.

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水野直

水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。.

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水野近守

水野 近守(みずの ちかもり、? - 弘治2年3月20日(1556年4月29日))は、戦国時代の三河国の武将。藤九郎。.

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水野重央

水野 重央(みずの しげなか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊新宮藩(紀州藩附家老)初代藩主。水野忠分の三男。官位は従五位下対馬守。諱は初め重信(しげのぶ)を名乗り、のち重央、次いで重仲(しげなか)に改めたとされる。.

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水野重孟

水野 重孟(みずの しげたけ、生没年不詳)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)の世嗣。第2代藩主・水野重良の三男。正室は与板藩主・牧野康成の娘。幼名は七之丞。通称は縫殿。 子のなかった第3代当主の兄・重上の養子となり、寛文12年(1672年)7月28日に第4代将軍・徳川家綱に拝謁し、延宝6年(1678年)12月28日には従五位下隠岐守に叙任。元禄10年(1697年)4月11日には紀州藩邸を訪れていた第5代将軍・徳川綱吉に拝謁した。 その後、家督相続以前に重上によって廃嫡され、代わって重孟の又甥に当たる常陸麻生藩分家の重期が養子に迎えられて嫡子となった。 廃嫡後は紀州藩主・徳川綱教により紀州藩の家老に取り立てられ、子孫は代々紀州徳川家に仕えた。.

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水野重上

水野 重上(みずの しげたか、寛永11年11月1日(1634年12月20日) - 宝永4年3月1日(1707年4月3日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第3代藩主。 第2代藩主・水野重良の長男。母は水野忠元の娘。正室は飯山藩主・松平忠倶の養女・覚応院(柏原藩主・織田信勝の長女)。養子に重孟(弟)、重富(水野忠春の六男)、重期(新庄直恒の長男)。松平忠倶の養女となった娘(田中定賢室)が一人。官位は従五位下土佐守。初名は良安(よしやす)。他に重直(しげなお)。号は良庵。通称は左門。 慶安4年(1651年)7月22日、第4代将軍・徳川家綱に拝謁し、万治元年(1658年)9月25日に父の隠居により跡を継ぐ。同年12月30日、従五位下対馬守に叙任。寛文3年(1663年)7月、紀州藩主・徳川頼宣に従って紀伊国に入国している。徳川綱教と鶴姫(第5代将軍・徳川綱吉の長女)との縁組に際して、延宝9年(1681年)7月25日に納幣の使者を務めた。 宝永4年(1707年)3月1日に死去し、跡を養嗣子の重期が継いだ。享年74(満72歳没)。法号は知徳院殿常感日応大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。.

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水野重良

水野 重良(みずの しげよし)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第2代藩主。官位は従五位下淡路守。諱は初め重種(しげたね)を名乗り、のち忠吉(ただよし)、次いで重良に改めたとされる。 正室は山川藩主・水野忠元の娘。子に重上(長男)、良全(次男)、重孟(三男)、重時(四男)、三宅良寛(五男)、娘(大関増周室のち八木高豊継室)、娘(一色直房正室)、尼となって鎌倉の高松寺を開山した日隆尼や常栄寺を開基した日祐尼などの娘多数。.

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水野重期

水野 重期(みずの しげとき、元禄8年(1695年) - 元文5年7月2日(1740年7月25日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第4代藩主。 常陸麻生藩分家・新庄直恒の長男。母は水野良全(第2代藩主・水野重良の次男)の娘。養父は第3代藩主・水野重上であり、重上は母方の大伯父に当たる。養子に忠昭(水野重矩の子)。官位は従五位下淡路守。初名は直泰(なおやす)。他に重矩(しげのり)、良達(よしみち)を名乗っている。幼名は市三郎。通称は主計。 宝永4年(1707年)3月1日に養父が死去したため、同年4月7日に跡を継いだ。同年5月28日、第5代将軍・徳川綱吉に初御目見を果たす。宝永6年(1709年)12月18日には従五位下淡路守に叙任される。 正徳4年(1714年)7月18日、家督を養嗣子の忠昭に譲って隠居し、元文5年(1740年)7月2日に死去した。享年46。法号は知泉院殿静山日体大居士。墓所は東京都新宿区須賀町の戒行寺。.

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水野村

水野村(みずのむら)は、かつて愛知県東春日井郡にあった村である。 現在の瀬戸市の西部に該当する。 丘陵地帯であったが、瀬戸市に編入後大規模な開発が進み、住宅団地となっている。.

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水野氏 (桓武平氏)

水野氏(みずのし)は、桓武平氏良兼流の一門。平安時代から室町時代にかけて、尾張国山田荘水野郷を拠点として尾張北東部に勢力を持った武家。.

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水野惣兵衛 (忠義の長男)

水野 惣兵衛(みずの そうべえ、文政6年(1823年) - 文政8年(1825年))は、江戸時代後期の人物。駿河国沼津藩の第3代藩主・水野忠義の長男として、文政6年(1823年)に生まれた。世子であったが、文政8年(1825年)に父に先立って早世したため、弟の水野忠武が世子となった。享年3。.

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水野成之

水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。.

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水野成貞

水野 成貞(みずの なりさだ)は、江戸時代前期の旗本。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沼津藩

沼津藩(ぬまづはん)は、江戸時代の藩の一つ。駿河国駿東郡(現:静岡県沼津市大手町)の沼津城を居城とした。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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清洲同盟

清洲同盟(きよすどうめい)は、戦国時代に尾張の戦国大名・織田信長と三河の戦国大名・徳川家康との間で結ばれた軍事同盟。それぞれの一文字から織徳同盟(しょくとくどうめい)、尾三同盟(びさんどうめい)ともよばれる。.

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清浄院 (加藤清正室)

清浄院(せいじょういん、しょうじょういん、正字:清淨院、天正10年(1582年) - 明暦2年9月17日(1656年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。加藤清正の継室。水野忠重の娘。名はかな。.

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源重遠

源 重遠(みなもと の しげとお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。源重実の子。尾張源氏の祖。.

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源満政

源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.

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本多忠考

本多 忠考(ほんだ ただなか)は、三河岡崎藩の第4代藩主。忠勝系本多家宗家14代。.

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本駒込

本駒込(ほんこまごめ) は、東京都文京区の町名。現行行政地名は本駒込一丁目から本駒込六丁目。郵便番号は113-0021。.

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有岡城の戦い

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春日井郡

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浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

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浜松藩

浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)の浜松城を居城とした。.

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浅野宗恒

浅野 宗恒(あさの むねつね)は、安芸広島藩の第6代藩主。浅野家宗家7代。将軍徳川吉宗より偏諱を賜って宗恒と名乗った。.

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新城藩

新城藩(しんしろはん)は、三河国に江戸時代前期に存在した藩。藩主は水野氏。居城は新城城(現在の愛知県新城市字東入船)。徳川家家臣の水野分長が尾張国知多より1万石にて入封。その子元綱の時に上野国安中に移封となった。かわって徳川家家臣・菅沼氏が入府した。菅沼氏は旗本(交代寄合)であったため、以後江戸時代末期までの新城村は、菅沼氏の陣屋町となった。.

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新宮城

新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった日本の城である。別名は丹鶴城(たんかくじょう)。また、沖見城(おきみじょう)とも称された水島 (1995)、198頁。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されている。.

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於大の方

於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」、または「太」「たい」実名は江戸初期編纂『寛永諸家系図伝』「水野氏」の忠政の女子に「御太方(たいはう)」とあり、同時期寛永18年(1641年)に幕府に提出された「水野勝成覚書」には甥の勝成が「たいほう」と冒頭系図に書き記している。朝廷から贈られた名前「大子」も読みは「たいこ」であろう。。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。.

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文京区

文京区(ぶんきょうく)は、東京都の特別区のひとつ。郵便番号(上3桁)は112・113。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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承応

承応(じょうおう)は日本の元号の一つ。慶安の後、明暦の前。1652年から1655年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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1487年

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1493年

記載なし。

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1509年

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1512年

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1514年

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1518年

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1522年

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1529年

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1533年

記載なし。

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1545年

記載なし。

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1547年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1562年

記載なし。

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1571年

記載なし。

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1575年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1580年

金曜日から始まる。.

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1581年

日曜日から始まる。.

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1584年

記載なし。

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1598年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1602年

記載なし。

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1609年

記載なし。

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1616年

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1620年

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1634年

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1637年

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1652年

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1667年

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1675年

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1711年

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1725年

記載なし。

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1768年

記載なし。

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1777年

記載なし。

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1827年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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水野家

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