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桂米喬 (2代目)

索引 桂米喬 (2代目)

2代目 桂 米喬(2だいめ かつら べいきょう、1860年(万延元年) - 1904年5月25日)は、落語家(上方噺家)。本名: 井上新二郎(辮次郎、辮二郎とも)。享年45。 古物商から噺家になったという。 初め、初代桂文我門下で文蝶を名乗る。1885年、2代桂文團治(後の7代目桂文治)門下に移り、初代桂米紫を経て、1892年に2代目桂米喬を襲名。1886年中頃には正鶴を名乗ったこともあるらしい。 21歳の時、天然痘に罹り、あばた面であったため「鰐皮」とあだ名された。十八番は『鋳掛屋(いかけ屋)』だったが、噺が終わると立ち上がり、三下がりの『逢いたさ』を踊り、ぶら下がっている電球を舐めるなど、そのおかしさは抜群だったらしい。 初代桂春團治が芸の目標としたほどの爆笑派で一時3代目米喬の襲名をもくろんでいたが実現しなかった。 三友派内の人気者であったが、死去の前日に3軒の寄席を掛け持ちし、「辻八掛」「崇禅寺馬場」「小倉船」を演じたのが最後で、その翌日、脳溢血で若くして亡くなった。通説では享年45、但し実子の桂小米喬(後の喜劇役者・曽我廼家満月)によると43歳だったという。 藤本義一の直木賞受賞作『鬼の詩』の主人公「桂馬喬」のモデルともなった。.

29 関係: いかけ屋天然痘上方噺家上方落語万延三友派享年俳優喜劇直木三十五賞落語家鬼の詩藤本義一 (作家)桂小米喬桂米喬桂米紫桂春団治 (初代)桂文之助桂文團治桂文蝶桂文治 (7代目)桂文我 (初代)文の家かしく1860年1885年1886年1892年1904年5月25日

いかけ屋

いかけ屋(いかけや)は、上方落語の演目の一つ。『いかけや』『鋳掛屋』とも表記。歴代桂春團治のお家芸として知られる。 この項では成立期の演題である山上詣り(さんじょうまいり)についても記述する。.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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上方噺家

上方噺家(かみがたはなしか)とは、上方落語の噺家(落語家)のこと。一般的には「上方落語家」「上方落語の噺家(落語家)」などと称する。 現存する亭号は、桂、笑福亭、林家、月亭、橘家、立花家、露(の)、森乃、(明石家)である。かつては立川、三遊亭もあったが、前者は明治期に、後者は太平洋戦争後に断絶している。 現在では上方落語協会などを設立している。.

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上方落語

上方落語(かみがたらくご)とは、大阪・京都を中心とする地域で主に演じられる落語。.

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万延

万延(まんえん、旧字体: 萬延)は日本の元号の一つ。安政の後、文久の前。1860年から1861年の期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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三友派

三友派(さんゆうは)とは、上方落語の諸派。歴史上以下の2つが存在する。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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俳優

俳優(はいゆう、actor)は、演劇、映画等において、その人物に扮して台詞、身振り、表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。.

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喜劇

喜劇(きげき、Comedy)とは、人を笑わせることを主体とした演劇や映画、ラジオやテレビのドラマ作品や、それらのなかの笑いを誘うやりとりを指す。コメディとも呼称される。 ただしコメディ(Comedy)の西洋における元義は、悲劇(Tragedy)の対照を成す意味での演劇である(例えばギリシア悲劇に対するギリシア喜劇)。 従って本来は必ずしも笑えるものだけを意味するとは限らない。 例えば、ダンテの『神曲』も原題は「La Divina Commedia」であり、日本語で通常の直訳では「神聖な(もしくは神の)喜劇」となるが、笑えるものを意味しているわけではない。.

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直木三十五賞

木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、無名・新人及び中堅作家による大衆小説作品に与えられる文学賞である。通称は直木賞。 かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったが、次第に中堅作家中心に移行、現在ではほぼキャリアは関係なくなっており、長老級の大ベテランが受賞することも多々ある。.

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落語家

落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。 落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。.

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鬼の詩

『鬼の詩』(おにのうた)は藤本義一の小説。『別冊小説現代』(講談社)1974年(昭和49年)春号初出で、同年に第71回直木賞受賞。更に1975年には本作を原作とする同名の映画が製作された。 明治末期の上方落語家・桂馬喬の芸に対する執念を描く。馬喬のモデルは桂米喬とされる。.

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藤本義一 (作家)

藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年(昭和8年)1月26日 - 2012年(平成24年)10月30日)は、日本の小説家、放送作家。本名の読みは「ふじもと よしかず」(ただし、出生届けの読み仮名は「ふじもと よしかす」で出されたという。)大阪を舞台にした作品を書き、エッセイも数多い。 日本放送作家協会関西支部長とプロ作家を育成する心斎橋大学総長も務めた。夫人はタレントの藤本統紀子、次女はアーティストのフジモト芽子。.

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桂小米喬

桂 小米喬(かつら こべいきょう、1896年 - 昭和中期頃没)は、落語家(上方噺家)。本名: 井上一四郎。享年不明。父は2代目桂米喬。 2代目米喬の実の子で、父は9歳の時に亡くなっている。20歳頃から小米喬の名前で数年間高座にあがっていたが、その後長い間、空白の時期がある、そのころ、喜劇役者・曽我廼家満月の名で喜劇に出ていたとされる。再び20年近く空白の時期があり、寄席にも喜劇にも名が見えず動向不明。1940年ころに5代目笑福亭松鶴の楽語荘の同人に参加している。戦後は父の名前・桂米喬を継いだようだが、連名にも見えなくなり、その後の消息が判らなくなる。 『上方はなし』第20集に、父のエピソードを「亡父の事」と題して寄せている。 弟子に漫才の道和多比良がいる。.

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桂米喬

桂 米喬(かつら べいきょう)は、上方落語の名跡。2代目の死後は空き名跡となっている。.

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桂米紫

桂 米紫(かつら べいし)は上方落語の名跡。.

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桂春団治 (初代)

初代 桂 春団治(しょだい かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)は、上方落語の落語家。 従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作をはかり、天才的かつ巧みな話術で、爆笑王として人気を集め、戦前の上方落語界のスーパースター的存在となった。当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだ。「奇行」とも評された奔放な私生活がのちに伝説化し、脚色が加えられ、小説、演劇、歌謡曲などの題材となった(後述)。 本名は皮田 藤吉(かわだ とうきち)。最後の妻・岩井志う(いわい じゅう)との結婚では春団治が婿入りという形をとったため、以後、本名は岩井 藤吉(いわい とうきち)と変わった。.

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桂文之助

桂 文之助(かつら ぶんのすけ)は、落語家の名跡。上方と江戸の二流あり、上方の方は2代目桂枝雀門下の桂雀松が2013年10月に襲名したが、江戸は空き名跡のままである。また、上方の方は大名跡である。.

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桂文團治

桂 文團治(かつら ぶんだんじ)は、上方落語の名跡。文団治とも表記する。初代が、師匠・桂文枝の「文」、歌舞伎の初代市川右團次の「團」、桂一門の宗家・桂文治の「治」から「文團治」としたのが始まり。4代目の死後は空き名跡となっている。代々の紋は初代市川右團次の紋であった三升に花菱を合わせたもの(「菱三升に花菱」)。.

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桂文蝶

桂 文蝶(かつら ぶんちょう)は、落語家の名。.

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桂文治 (7代目)

7代目 桂 文治(7だいめ かつら ぶんじ、嘉永元年4月15日(1848年5月17日) - 昭和3年(1928年)9月18日)は、大阪の落語家。.

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桂文我 (初代)

結三柏は、桂文我の定紋である。 初代 桂文我(1849年3月15日 - 1926年8月4日)は、本名: 桂木源之助。出囃子は『せり』。あだ名は「お乳母さん」(法善寺の側に「三嶋屋」という家があり、そこの「お種」という乳母と恋仲になったため)。 大阪市中央区日本橋1丁目の金屋吉兵衛の息子として生まれる。9歳の時、歌舞伎役者の4代目嵐璃寛の一座に入り道頓堀角座に子役として佐藤金丸の名で初舞台。後、2代目市川瀧十郎の門下で瀧丸を名乗り、三枚目として活動。19歳の時、渡辺橋筋瓦町北の「三田屋」という蒲鉾屋の養子となり、舞台からは退く。後、素人落語に加わり源丸を名乗るが、養父がそれを咎めたため、23歳の時に家を出る。暫く他の蒲鉾屋で働いていたが、1872年8月、初代桂文枝の門下に入り当笑(當笑)を名乗る。1873年1月、2代目文作を経て、1879年3月、文我となる。1894年4月15日より三友派に加入。 前歴が歌舞伎役者であったことと、非常な早口のため通常の噺を口演することが難しかったため、主に桂慶治「京の慶治」の仕込みの芝居噺を高座に掛け、自作も多かった。小道具を多用するのが特徴で、柳行李を見台の傍らに置き、そこから様々な道具を取り出しては、客席から笑いを取った。例えば、十八番の『綱七』では、しがみ付く漁師を投げ飛ばす場面で、倒れた姿の人形を見台の上に置いたり、黙阿弥物の『霜夜鐘十字辻筮』では、竹竿の先に月をぶら下げて指差したり、角灯のミニチュアや紙製の懐中時計を取り出したりと、様々な演出を凝らした。 噺の後は、踊りで高座を締めくくることが多かった。『六歌仙』『五段返し』『わしが国さ』『鬼』など、いわゆる落語家踊りの大半は、この文我が初めて高座に載せたものである。 筆まめな人でもあり、明治期の寄席の出来事を克明に記録した貴重な資料『文我出席控』を残した。 1919年に引退後、金沢市で「江戸芳」という料亭を営む親戚のもとに引き取られたといい、恐らく同地で没したと思われる。享年78。 門下には、初代桂春團治、2代目三遊亭百生、桂太郎らがいる。.

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文の家かしく

文の家 かしく(ふみのや かしく)は、落語の名跡。江戸と上方の二流あるが、2代目の死後は、いずれも空き名跡となっている。なお、上方初代は主に艶文亭かしくを名乗ったが、便宜上、この項に含める。 「かしく」は女筆で手紙の文末に書く決まり言葉で、「かしこ」と同じ。.

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1860年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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1886年

記載なし。

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1892年

記載なし。

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1904年

記載なし。

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5月25日

5月25日(ごがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から145日目(閏年では146日目)にあたる。年末まで220日ある。誕生花はアスパラガス。.

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