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桂文三 (3代目)

索引 桂文三 (3代目)

3代目 桂 文三(3だいめ かつら ぶんざ、1858年 - 1917年7月16日)は落語家(上方噺家)。俗に「赤俥の文三」「盲目の文三」。本名: 高田留吉。享年57。 船場安土町丼池の上番匠の子。早くに父を亡くし、放蕩生活を送る。年少時から芸事に通じ、最初は芝居の唄歌いになるつもりだった。3代目桂文吾門下で吾市、のち2代目桂文昇門下で當昇。その後、2代目林家木鶴の持ち席の天満亀の池の木鶴席の前叩きに出るのを師匠に反対され、「昇」の字を返上し當笑を名乗り、京都幾代席に出勤していた。1886年(明治19年)4月ころから9月まで2代目林家染丸を名乗り、京都で活躍していた(なお、この染丸は代数に入れず)。 同年に初代桂文團治の誘いで帰阪するが、ほどなくして文團治がコレラに罹患して没したので、2代目桂文枝(後の桂文左衛門)門下で初代桂扇枝となり、法善寺東の席(後の金澤亭)に出る。それまでは美声を活かした音曲噺を得意にしていたが、喉を痛め断念。「松づくし」という踊りで人気を集め、成功する。これは、碁盤の上に山桐一本歯の下駄をはき、両手両足、果ては顔にまで、松模様の金泥の扇子を広げる技巧的な踊りである。またはじめたころはバランスがなかなか上手くいかず、下駄屋出身2代目桂梅枝(「オッペケペーの梅枝」)が特製の山桐一本歯の下駄を製作し踊ったところ上手くいき十八番にした。 人気者となった扇枝は、1894年7月(明治27年)、師・文枝の前名である3代目桂文三を襲名。赤い人力車を乗り回し、金の鎖や指輪を見せびらかしては、派手な衣装の影から刺青をちらつかせたりする文三の振る舞いは、大阪の名物でもあった。赤い人力車は、後に初代桂春團治のエピソードに付会されたことでも知られている。 1908年(明治41年)、師と衝突して桂派を除名され、再び京都に移る。翌年、桂派に復帰するも長続きせず、1910年(明治43年)8月、三友派に移籍するなど、落ち着きがなかった。 1914年(大正3年)ころには脊髄癆を病み、両眼失明の憂き目に遭う。晩年には法善寺紅梅亭席主・原田政吉の自宅へ引き取られ、世話を受けていた。1917年(大正6年)、師の一周忌法要を施主として勤め、遺言により2代目桂文左衛門を襲名予定であった、また文三回と称して得意ネタを一席ずつ演じネタが尽きたら引退し売り上げを余生の資金するという独演会を計画したが、その矢先に心臓病で死亡した。 桂派の真打として一世を風靡したが、晩年は悲惨で、失明のため板付き(高座に座り通しで、幕の開閉によって一席を開始・終了すること)であった。堺の天神席に出演の際、高座で一席やりだしたが、それまでは薄い入りながらもいた客が、文三の高座の時には皆帰ってしまって、客席には誰もいない。囃子場にいた前座の桂團寿(後の橘ノ圓都)が「お師匠はん、お客さん一人も居やはらしまへんで」と、見かねて声を掛けると、「え、一人も居やはらへんのか」と絶句して、実に悲しそうな表情をしたと言う、つらいエピソードが残されている。だが、失明後の時期の方が芸のあくが抜けて、名人と評されたのは皮肉であった。その上手さについては、当時人気実力一番の初代春團治が、「師匠の後の高座には俺の無茶な芸では、素面ではよう出られへん。」と酒を飲んで出たというエピソードが残されている。 ネタの多くは病気がちの2代目桂文三を車夫をしながら覚えたという。 新作も物にし、今もしばしば演じられる『ぜんざい公社』の原型は、この3代目文三の作である。その他にも『百年目』『植木屋娘』等を得意とした。 墓所は大阪四天王寺(壽法寺)。 弟子には、実子でもある4代目桂文三のほか、初代桂ざこば、5代目桂小文吾、2代目桂扇枝、3代目桂扇枝、桂團丸、桂三五郎、桂文雀、桂次郎坊、4代目三遊亭圓馬、4代目古今亭今輔らがいる。.

46 関係: ぜんざい公社古今亭今輔 (4代目)堺市壽法寺大正上方噺家上方落語三友派享年京都人力車オッペケペー節コレラ入れ墨紅梅亭百年目落語家船場 (大阪市)関西歌舞伎林家染丸桂ざこば (初代)桂三五郎桂團丸桂米朝 (3代目)桂梅枝 (2代目)桂次郎坊桂派桂春団治 (初代)桂文左衛門桂文三桂文三 (2代目)桂文雀桂文枝桂扇枝梅毒橘ノ圓都法善寺明治1858年1886年1894年1908年1910年1914年1917年7月16日

ぜんざい公社

ぜんざい公社(ぜんざいこうしゃ)は、落語の演目の一つ。.

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古今亭今輔 (4代目)

4代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治19年(1886年)5月21日 - 昭和10年(1935年)7月23日)は、落語家。本名:中島市太郎。妻はな(旧姓:土方はな).

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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壽法寺

壽法寺(じゅほうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院。山号は是心山。近年では寿法寺の字を当てることも多い。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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上方噺家

上方噺家(かみがたはなしか)とは、上方落語の噺家(落語家)のこと。一般的には「上方落語家」「上方落語の噺家(落語家)」などと称する。 現存する亭号は、桂、笑福亭、林家、月亭、橘家、立花家、露(の)、森乃、(明石家)である。かつては立川、三遊亭もあったが、前者は明治期に、後者は太平洋戦争後に断絶している。 現在では上方落語協会などを設立している。.

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上方落語

上方落語(かみがたらくご)とは、大阪・京都を中心とする地域で主に演じられる落語。.

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三友派

三友派(さんゆうは)とは、上方落語の諸派。歴史上以下の2つが存在する。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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人力車

人力車(じんりきしゃ)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられたが、現在も観光地などで用いられている。人力俥とも表記する。 車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と、或いは雨避けとなる覆いを持ち、台座とつながれた柄を俥夫(しゃふ)が曳いて進むという構造を持つ。手押し車のように後ろから押すことによって進む車もあった。 日本語では、略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)。車夫はまた車力(しゃりき)とも言った。また英語のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語。 人力車に関する車の文字はすべて俥とも表記した。俥の字は本来は中国象棋の駒の名称に使われるだけの漢字であったが、明治以降の日本において中国にそのような漢字があることに気付かずに、人力車を表すために作られた国字の一種である(中国にもともとあった漢字の字体に暗合したものであるので、正確には国字ではない。)。そのため「俥」(くるま)一文字だけで人力車を表している。この他に、明治時代ごろの表記では車編の右上に人を、その下に力を書いた合字を書く例もあった。 人力車には乗客が一人乗りのものや二人乗りのものなどがあるが、日本で普及したのは一人乗りのものが圧倒的に多かった。また車夫は通常1人だが、特に急ぎの場合などは2人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあった。.

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オッペケペー節

ッペケペー節(オッペケペーぶし)は、明治時代の流行歌である。.

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コレラ

レラ(Cholera、虎列剌)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。日本では「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)の指定感染症である(2006年(平成18年)12月8日公布の「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律等の一部を改正する法律」により二類感染症から三類感染症に変更)。日本ではコレラ菌のうちO1、O139血清型を原因とするものを行政的にコレラとして扱う。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。 予防には、衛生改善と清潔な水へのアクセスが必要である。 経口コレラワクチンは、投与するとおよそ6か月効果が続き、またその他一部の大腸菌による下痢も予防できる 。主な治療法は経口水分補給であり、加糖加塩の液体により電解質を補充する。補充には米食ベースの選択が好まれる。児童には亜鉛サプリメントも推奨される 。重度な症例では、静脈輸液(乳酸リンゲル液など)が求められ、また抗生物質も効果がありうる 。抗生物質の感受性試験は、治療選択の支援となりえる。 全世界の患者数は毎年3-5百万人であり、年間28,800–130,000人の死者を出している。パンデミックには分類されておらず、先進国ではまれな病気である。最も影響を受けるのは児童である。コレラはアウトブレイクを起こす病気でもあるが、特定の地域では一般的な病気である。現在もリスクがある地域は、アフリカ、東南アジアである。 死亡リスクはたいてい5%以下であるが、医療アクセスに乏しい地域では50%ほどに高まる。歴史的な記録は、紀元前5世紀のサンスクリットにまで確認される。.

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入れ墨

筋彫り グレッグ・ジェイムズ) 宗教画をモチーフにした入れ墨。ロシア 三社祭 入れ墨(いれずみ)とは、針・刃物・骨片などで皮膚に傷をつけ、その傷に墨汁・朱・酸化鉄などの色素を入れ着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法、および、その手法を使って描かれたものである。.

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紅梅亭

紅梅亭(こうばいてい)は、明治から大正時代にかけて大阪市ミナミ法善寺北側にあった寄席。前名「今嘉の席」(いまがのせき)。 初代桂文枝の死をきっかけに起こった二代目襲名問題で初代桂文三(後に2代目文枝から桂文左衛門を名乗った。)に敗れた桂文都は、「2代目月亭文都」と名乗り、当時の笑福亭一門、初代桂文團治一門とともに「浪花三友派」を結成したが、この時、三友派が本拠の定席としたのが今嘉の席であった。 1894年、資産家・原田ムメに買収され、東京の「白梅亭」に対抗して屋号を「紅梅亭」とした。 その後、法善寺南側の「金沢亭」の人気に押され、1918年には、その金沢亭を買収した吉本興業創始者の吉本泰三(吉本吉兵衛)・せい夫妻によって買収され、「西花月亭」と改称したが、その後閉館した。 6代目笑福亭松鶴によると、席亭の原田氏を2代目林家染丸、2代目桂圓枝、初代橘家蔵之助、3代目三遊亭圓馬の四人が連日南地のお茶屋に連れ出して散財させた。それが吉本興業への買収の原因であり、戦後期の上方落語衰退の一因であると述べている。 現在よみうりテレビ(近畿ローカル)で放送されている演芸バラエティ番組「平成紅梅亭」のタイトルは、この紅梅亭に由来する。番組のセットも当時の紅梅亭の雰囲気をそのまま生かしている。 Category:演芸場 Category:大阪府の文化.

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百年目

『百年目』(ひゃくねんめ)は、落語の演目。元々は上方落語の演目で、のちに東京に移植された。一説には東西とも同じ原話があり偶然に作られたという。3代目桂米朝、2代目桂小文治、2代目桂小南、6代目三遊亭圓生ら大看板が得意とした。.

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落語家

落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。 落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。.

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船場 (大阪市)

船場(せんば)は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。.

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関西歌舞伎

上方歌舞伎(かみがたかぶき).

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林家染丸

林家染丸(はやしや そめまる)は、上方落語の名跡。現在は上方林家の事実上の止め名。当代は4代目。初代・2代目と卯年の生まれであったため、代々うさぎ(ぬの字うさぎ)を定紋としている。 なお、3代目桂文三が2代目染丸を名乗っていた時期があったが、短期間であったため、現在は代数に数えられていない。.

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桂ざこば (初代)

桂ざこば(かつら ざこば、1866年4月25日 - 1938年9月19日)は、日本の落語家。本名: 小倉 幸次郎(おぐら こうじろう、『上方はなし』には小倉省三とある、旧姓は楠原とも)。初代桂春団治に影響を与えた。.

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桂三五郎

桂 三五郎(かつら さんごろう、1863年 - 1910年11月21日)は、上方噺家。本名: 不詳。渾名(あだな)を「くきや三五郎」という。 最初の師匠など不明だが吾市という。その後1886年ころ初代桂文團治の門で鯛團治となり、都昇、1890年に2代目桂文三の門で三五郎、1893年に東方朔、最後は3代目桂文三の門で三五郎に復名する。 長年桂派に席を置き素噺をしていたが桂派の全盛期で周囲に人気者が多くぱっとしなかった、最後の師匠3代目文三が桂派を離れ京桂派を立ち上げたときは師匠と背を向け人手の少ない互楽派に移籍したが、いくばくもしないうち死去した。 得意ネタには「寄合酒」「四季の茶屋」「膝栗毛」などがあった。 渾名を「くきや」とされたが現在の所理由は不明。.

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桂團丸

桂 團丸(かつら だんまる、1872年ないし1873年(明治5年) - 1941年8月24日)は、上方噺家。本名: 林 宇三郎。 林家の先祖は備前屋という屋号の船大工を生業にし明治維新の戸籍で本名を「木」の字を二つ合わせた「林」を本名にしたという。祖父は喜兵衛といい、父は弥右衛門、母は津禰といった。 明治5年の生まれ、最初は素人連で落語をやっていたが家業に失敗し玄人になった。 1897年ころに3代目桂文三の門で桂?慶三、その後初代橘ノ圓の門で立花家圓丸を名乗り師の一座「圓頂派」で修業を積む、4代目笑福亭松鶴の門で鶴枝、また立花家圓丸になり、1921年に初代桂春團治の門で團丸になった。 酒好きで女によくもてたが結婚せず子供を連れて寄席通いをした。 噺は本格派でもあり「三十石」などを得意とし。また顔にぶら下げは多数の煙管を音曲に合わせて落としておく珍芸「煙管の音」などもあった。この芸は4代目桂福團治の主演映画「鬼の詩」にも取り入れられている。 1923年に自宅にて中風で倒れ左手が不自由になり得意の「煙管の音」が披露出来なくなり引退、以降亡くなるまで後遺症に悩まされる(ただし手が不自由なだけでそれ以外は至って元気だった)。実の子は幼いころから稽古をさせ後に初代桂小春團治(後の舞踊家の花柳芳兵衛)となった。目立った弟子などはいなかったが唯一の弟子はのちに大阪大空襲で一家諸共亡くなっている。.

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桂米朝 (3代目)

3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - 2015年(平成27年)3月19日)は、旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』。俳号は「八十八」(やそはち)。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。所属は米朝事務所。尼崎市に住んだ。.

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桂梅枝 (2代目)

2代目 桂 梅枝(2だいめ かつら ばいし、1853年 - 1902年10月10日)は、明治期の上方噺家。本名: 山本久吉。享年50。 大阪市北区安治川通り1丁目の下駄屋の息子として生まれる。若くして素人落語連に参加し、1879年、2代目桂文枝(後の桂文左衛門)門人となる。初め桂文喬を名乗り、1885年、2代目桂梅枝を襲名する。 正当派の芸風であるが、人気は無かった。また風貌は禿げ頭であった。当時、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)門下の浮世亭○○(川上音二郎)が自由民権運動の宣伝の一環として寄席に出演、自作の「オッペケペー節」で人気を集めており、梅枝は妻で下座三味線のお島の助言を入れて、自己流にアレンジした「オッペケペー節」を演じて人気を集め、「オッペケペーの梅枝」と呼ばれた。 後輩の面倒見もよく、3代目桂文三が売り出す前に「松づくし」の芸を教え、足に履く下駄を工夫してやったこともある。 収入も増え、小金を貯めて人に貸すのを内職としていたが、人が好過ぎて金を騙し取られたり踏み倒されたりするなど、折角の財産も底を突き、それがもとで発狂する。1902年10月9日に静養先の京都から家出し、国鉄片町線星田駅近くの堤防で人事不省のまま倒れているのを発見されるも、翌日死亡した(駅近くの池で水死体となって発見されたとの説あり)。 得意ネタには『鹿政談』『口入屋』『持参金』『盗人の仲裁』等をよく演じていた。 弟子には、2代目と3代目の桂文喬、3代目桂梅枝、桂枝吉(後の初代桂文治郎)、桂梅之助(後の5代目桂小文吾)などがいる。.

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桂次郎坊

桂 次郎坊(かつら じろうぼう、生没年不詳・明治中期から昭和初期)は、上方噺家・軽口師。本名: 不詳。 最初は落語家だったというが詳細不明。明治末期に3代目桂文三の門に入り次郎坊を名乗った。 桂派に属し桂太郎坊と組んで軽口を演じ人気者になった。大正に入り失明したが相方を桂右郎坊(後の桂花咲)に変えた。踊りも得意であった。大正の末期にはラジオに出たり、SPレコードの吹込みなどを行なっている。「伊勢土産」が残されている。 その後消息は不明、享年なども判っていない。 3代目林家染丸は子供の頃に一時期弟子で駒坊の名前を貰っている。.

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桂派

桂派(かつらは)とは、明治から昭和初期まで存在した上方落語の諸派。.

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桂春団治 (初代)

初代 桂 春団治(しょだい かつら はるだんじ、1878年8月4日 - 1934年10月6日)は、上方落語の落語家。 従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作をはかり、天才的かつ巧みな話術で、爆笑王として人気を集め、戦前の上方落語界のスーパースター的存在となった。当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだ。「奇行」とも評された奔放な私生活がのちに伝説化し、脚色が加えられ、小説、演劇、歌謡曲などの題材となった(後述)。 本名は皮田 藤吉(かわだ とうきち)。最後の妻・岩井志う(いわい じゅう)との結婚では春団治が婿入りという形をとったため、以後、本名は岩井 藤吉(いわい とうきち)と変わった。.

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桂文左衛門

桂 文左衛門(かつら ぶんざえもん、 1844年 - 1916年5月16日)は、紀州粉河(現在の和歌山県紀の川市)生まれの上方噺家。本名: 渡辺儀助。享年72。.

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桂文三

桂 文三(かつら ぶんざ)は、上方落語の名跡。本名跡は約90年絶えていたが、桂つく枝が2009年5月16日に五代目を襲名した。.

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桂文三 (2代目)

2代目 桂 文三(2だいめ かつら ぶんざ、1859年(逆算) - 1891年5月7日)は、落語家(上方噺家)。俗に「提灯屋の文三」という。本名不詳。享年32。 淡路町難波橋角の提灯屋の息子として生まれる。初め3代目桂文吾の門下で2代目小文吾を名乗る。後、2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の門下へ移り、1884年10月、師匠の前名である2代目文三を襲名。師の信頼の篤かったことが伺われる。16日より淡路町幾代、曽根崎幾代、賑江亭で襲名披露を行なった。 その後、2代目林家木鶴の養子となり、3代目木鶴を継ぐも名前負けし病気になり、1888年に再び文三に複名した時に、「還名御披露嘉入尽し 大都会ぶし」という摺物がある。若くして亡くなった。 落語界には珍しい美男子で、北新地の芸妓との艶聞が新聞に載ったこともあるという。2代目桂南光(後の桂仁左衛門)、初代桂小文枝(後の3代目桂文枝)、2代目小文吾時代の文三を「三人兄弟」と呼び、注目の若手であった。神戸漆亭での活躍が全盛期だったという。若旦那風のおっとりとした口調で、上手であったと伝える。 ちなみに、妻・おさんは笑福亭鶴八の娘で囃子方の名人だったが、夫婦で演じる『立ち切れ線香』は絶品であったという。なお、おさんは文三の死後に2代目三遊亭圓馬の妻となっている。 墓所は養父の2代目木鶴と同じ大阪四天王寺(壽法寺)。 主に茶屋噺を得意とした、ネタは『三枚起請』『菊江仏壇』得意とした。 また、5代目笑福亭松鶴の父と親交が厚く、5代目松鶴が落語界に入るきっかけを作ったという。.

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桂文雀

桂 文雀(かつら ぶんじゃく)は、落語家の名跡。当代は2010年3月に真打昇進と同時に3代目文雀として襲名。なお落語協会のプロフィールには代数は明記されていない。.

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桂文枝

結三柏は、桂文枝一門の定紋である。 桂 文枝(かつら ぶんし)は、上方落語の名跡。現在は6代目。桂文治の名跡が東京に移ってからは、事実上、上方桂一門の止め名となっている。 なお「文枝」の名跡は、元は初代文枝の師匠であった上方4代目桂文治の前名であるが、現在は代数に数えられていない。 文枝代々の紋は、漢字の「文」をあしらった(4つの「文」を丸くつなげた)文枝紋である。.

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桂扇枝

桂 扇枝(かつら せんし)は、上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。.

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梅毒

梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの1種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum) によって発生する感染症である。第一感染経路は性行為であるため性病の1つとして数えられるものの、妊娠中、出生時の母子感染による先天性梅毒もある。梅毒の徴候や症状は、4段階でそれぞれ異なる。 梅毒は、1999年、全世界で推定1200万人で新規感染したと考えられており、その90%以上は発展途上国での感染である。1940年代のペニシリンの普及以降、発症は劇的に減少したが、2000年以降、多くの国々で感染率が増加しつつある。たびたびヒト免疫不全ウイルスと併発するケースがあり、乱交、売春、コンドーム不使用に起因する。有効なワクチンは存在せず、抗菌薬の投与により治癒しても終生免疫は得られず、(梅毒に再び感染した場合)再感染が起こる 国立感染症研究所。 in vitroでの培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA配列が決定、公開されている。また、理由は不明だが、ウサギの睾丸内では培養することができる。.

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橘ノ圓都

橘ノ 圓都(たちばなの えんと、1883年3月3日 - 1972年8月20日)は、神戸出身の落語家。本名:池田豊次郎。享年89。出囃子は『薮入り』。.

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法善寺

---- 法善寺(ほうぜんじ)は、大阪府大阪市中央区難波にある浄土宗の寺院。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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1858年

記載なし。

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1886年

記載なし。

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1894年

記載なし。

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1908年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1914年

記載なし。

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1917年

記載なし。

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7月16日

7月16日(しちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から197日目(閏年では198日目)にあたり、年末まであと168日ある。誕生花はジンジャー、ツユクサ。.

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