ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

柳家小さん (3代目)

索引 柳家小さん (3代目)

3代目柳家 小さん(やなぎや こさん、1857年9月20日 - 1930年11月29日)は落語家。本名は豊島銀之助。生家は一橋家家臣の家である。.

80 関係: にらみ返しうた沢かぼちゃ屋古今亭今輔 (3代目)古今亭今輔 (4代目)古今亭今輔 (5代目)古今亭志ん馬夏目漱石天災 (落語)太平洋戦争宿替え富本節小島貞二岡本綺堂上方落語常磐津節世田谷区三升亭小勝 (3代目)三四郎三笑亭可楽三笑亭芝楽三遊亭圓生 (6代目)三遊亭花圓遊一橋徳川家平凡社仮名手本忠臣蔵式亭三馬 (落語家)土橋亭里う馬リーガル千太・万吉らくだ (落語)碁泥禽語楼小さん (2代目)落語協会落語家落語研究会 (落語会)蝶花楼馬楽蝶花楼馬楽 (3代目)青菜 (落語)認知症談洲楼燕枝 (2代目)談洲楼燕枝 (初代)麹町麗々亭柳橋 (4代目)都々逸坊扇歌関東大震災脳梗塞里見とんSPレコード柳家つばめ (2代目)柳家つばめ (3代目)...柳家小さん柳家小さん (4代目)柳家小半治柳家小三太柳家小三治柳家小ゑん柳家小団治柳家小満ん柳家三好柳家金三柳家金語楼林家彦六桂小文治 (2代目)桂文治 (10代目)桂文治 (8代目)桂文治 (9代目)桂文慶横網橘家圓喬 (4代目)橘家圓蔵 (4代目)橘ノ圓 (初代)江戸家猫八 (初代)木下華声明治春風亭柳語楼春風亭柳枝 (3代目)春風亭柳枝 (6代目)春風亭柳橋 (6代目)昭和1926年 インデックスを展開 (30 もっと) »

にらみ返し

にらみ返し(にらみかえし/にらみがえし)は、古典落語の演目の一つ。睨み返しとも表記する。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とにらみ返し · 続きを見る »

うた沢

うた沢(うたざわ)は、端唄から派生した江戸後期の短い歌謡。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とうた沢 · 続きを見る »

かぼちゃ屋

かぼちゃ屋(かぼちゃや)は古典落語の演目の一つ。別題は「唐茄子屋」。原話は、安楽庵策伝が元和2年に出版した『醒睡笑』第五巻の「人はそだち」。 元々は「みかん屋」という上方落語の演目で、大正初年に4代目柳家小さんが東京に持ち込んだ。主な演者として、5代目柳家小さんや7代目立川談志などがいる。 上方では「みかん屋」の題で2代目桂ざこば一門が多く演じる。ざこばは6代目笑福亭松鶴から直接教わった。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とかぼちゃ屋 · 続きを見る »

古今亭今輔 (3代目)

3代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年(1869年)6月27日 - 大正13年(1924年)8月18日)は、落語家。本名:村田 政次郎。浅草代地に住んでいたことから俗に「代地の今輔」やせっかちなエピソードが多いことから「せっかちの今輔」。 東京深川の生まれ、子供の時の1883年、4年ころに2代目古今亭志ん生の門に入り志ん丸を名乗った。志ん丸は2代目今輔の前座名で待望されているのが分かる。 1889年3月に志ん猫と改名、師匠志ん生死去に伴い4月に4代目三升亭小勝(2代目禽語楼小さんないし3代目柳家小さんの説も)の門で三升亭小つね(ないし柳家小常や柳家小つねとも)さらに1896年1月に柳家小文吾となり1897年?に柳派の出世名である3代目柳家小三治襲名。 1904年半ばころに3代目今輔襲名。 糖尿病で死去。 おせっかちで高座では落着きがなく投げやりな感じが多く音曲噺をはじめ噺も多かったが評価は少なかった。 「囃子長屋」「しらみ茶屋」「三人片輪」他多数の速記本が残されている。SPレコードは音曲噺を中心に大正時代に数枚吹き込んでいる。 弟子に4代目鈴々舎馬風(今之助と名乗っていた。)、2代目桂枝太郎(今輔門で古蔵宝輔と名乗っていた。)、3代目柳亭痴楽らがいる。評論家に転進した野村無名庵も一時弟子であった。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と古今亭今輔 (3代目) · 続きを見る »

古今亭今輔 (4代目)

4代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治19年(1886年)5月21日 - 昭和10年(1935年)7月23日)は、落語家。本名:中島市太郎。妻はな(旧姓:土方はな).

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と古今亭今輔 (4代目) · 続きを見る »

古今亭今輔 (5代目)

5代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年(明治31年)6月12日 - 1976年(昭和51年)12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名は、鈴木 五郎(すずき ごろう)(旧姓:斎藤)。生前は日本芸術協会(現:落語芸術協会)所属。出囃子は『野毛山』。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。実子は曲芸師の鏡味健二郎。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と古今亭今輔 (5代目) · 続きを見る »

古今亭志ん馬

古今亭 志ん馬(ここんてい しんば)は、落語の名跡。当代は9代目だが、代数に数えられていない人物も含めると11代目である。なお初代と2代目が生歿不詳であり、実在したのかも不明のため、当代は7代目という説もある(落語協会のHPでは7代目と記載されていて4代目古今亭志ん生が名乗った志ん馬を初代とし以降カウントしている)。本項では9代目に統一する。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と古今亭志ん馬 · 続きを見る »

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。 その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。 夏目漱石誕生之地碑.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と夏目漱石 · 続きを見る »

天災 (落語)

天災(てんさい)は、古典落語の演目のひとつ。 東京・上方双方で口演される。主な演者に、東京の6代目春風亭柳橋、上方の2代目桂ざこばが知られる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と天災 (落語) · 続きを見る »

太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館リンク切れ --> - 国立国会図書館リサーチ・ナビ(2012年12月20日版/2016年9月16日閲覧)。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と太平洋戦争 · 続きを見る »

宿替え

『宿替え』(やどがえ)は、上方落語の演目の一つ。江戸落語では『粗忽の釘』(そこつのくぎ)の名で演じられている。 長屋の慌てものが引越しをする際のドタバタを描いた作品で、全て演じ通せば長時間のネタとなるが、途中を省略、もしくは打ち切って時間調整をすることが可能な演目である。上方では初代桂春團治、2代目三遊亭百生、2代目桂枝雀、5代目桂文枝などが、東京では6代目春風亭柳橋、5代目柳家小さんが得意とした。 原話は1816年の初代都喜蝶の「噺栗毛」の中の『田舎の粋』。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と宿替え · 続きを見る »

富本節

富本節(とみもとぶし)または富本(とみもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と富本節 · 続きを見る »

小島貞二

小島 貞二(こじま ていじ、1919年3月21日 - 2003年6月24日)は、日本の著作家、相撲・プロレス・演芸評論家にしてそれらの歴史研究者、作詞家。相撲関係の雑誌などでは大須 猛三(おおす もうさん)のペンネームを使っていたことがある。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と小島貞二 · 続きを見る »

岡本綺堂

岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年(昭和14年)3月1日) は、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。著名な作品は、新歌舞伎の作者及び「半七捕物帳」などがある。 養子の岡本経一は、出版社青蛙房の創業者であり、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と岡本綺堂 · 続きを見る »

上方落語

上方落語(かみがたらくご)とは、大阪・京都を中心とする地域で主に演じられる落語。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と上方落語 · 続きを見る »

常磐津節

常磐津節(ときわづぶし/ときわずぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される。重要無形文化財(総合指定)。初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に豊後節より創設した。語り物の浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた旋律「オトシ」と呼ばれる独自の技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれる。三味線方は、中棹の紅木三味線と象牙の撥(ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、鳥羽屋里長などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して明治期に至るまで岸澤式佐を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣、蛸足と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である。現在では歌舞伎伴奏のほか、日本舞踊の伴奏音楽として、また、素浄瑠璃の演奏会などで頻繁に演奏されている。定紋は角木瓜、替紋は松皮菱である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と常磐津節 · 続きを見る »

世田谷区

世田谷区(せたがやく)は、東京都の特別区の一つで、東京23区の南西部に位置する。東京都内最大の人口を有する特別区。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と世田谷区 · 続きを見る »

三升亭小勝 (3代目)

3代目三升亭 小勝(みますてい こかつ、1845年4月(弘化2年)4月 - 1921年(大正10年)10月21日)は、江戸出身の落語家。本名は青山 吉松。 2代目瀧川鯉かんの門下で鯉かく、2代目三升亭小勝の門下で小常となり1874年、5年頃に2代目小勝を襲名。1887年末頃に一旦引退し新橋で芸者屋を営んでいてそこへ娘が新吉の名で出勤しその新吉がある客との間に出来たのが有島武郎(小説家)と心中した波多野秋子だという(4代目三升亭小勝の息子である伊志井寛の書簡による。)。20年以上ブランクの末、大正の初め頃に70歳を超えて3代目柳家小さんの門で柳家三楽となり再勤したがいくばくも活躍はしなかった。「セルロイドの象」というあだ名があったが由来はわかっていない。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三升亭小勝 (3代目) · 続きを見る »

三四郎

『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。 九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。「stray sheep」という随所に出てくる言葉が印象的な作品である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三四郎 · 続きを見る »

三笑亭可楽

三笑亭 可楽(さんしょうてい からく)は、落語家(噺家)の名跡。当代は9代目だが、3代目・5代目・6代目が2人ずついたため合わせて12人の落語家が名乗っている。 江戸時代よりその名が続く。名の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から「山生亭花楽」とし後に松戸の贔屓客から「虎渓三笑」の故事に因んで「三笑亭可楽」とした。 毎年4月上旬に、当代可楽一門よって「可楽まつり」が行われる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三笑亭可楽 · 続きを見る »

三笑亭芝楽

三笑亭 芝楽(さんしょうてい しばらく)は、落語の名跡。江戸と上方の二流あるが、現在は双方とも空き名跡となっていたが2012年5月に昔昔亭桃太郎門下の昔昔亭笑海が真打昇進と同時に11代目柳亭芝楽を襲名。 なお、江戸各代の代数に関しては不明な点が多い。 歌舞伎の市川團十郎の縁の演目「暫」に由来するとされる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三笑亭芝楽 · 続きを見る »

三遊亭圓生 (6代目)

6代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1900年〈明治33年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉9月3日)は、大阪市西区出身で東京の落語家、舞台俳優。本名、山﨑 松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。出囃子は『つくま祭』、のち『正札付』。 5代目三遊亭圓生は継父、5代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三遊亭圓生 (6代目) · 続きを見る »

三遊亭花圓遊

三遊亭 花圓遊(さんゆうてい かえんゆう、安政3年5月(1856年6月ないし7月) - 没年月日不詳・大正中期)は、落語家。本名は佐々木安太郎。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と三遊亭花圓遊 · 続きを見る »

一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と一橋徳川家 · 続きを見る »

平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と平凡社 · 続きを見る »

仮名手本忠臣蔵

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。 大石内蔵助こと大石良雄の家紋「二つ巴」。この家紋のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と仮名手本忠臣蔵 · 続きを見る »

式亭三馬 (落語家)

式亭 三馬(しきてい さんば、1866年、1867年頃 - 1939年5月24日)は、20世紀前半に活動した落語家である。本名は宇田川 勝太郎(うたがわ かつたろう)。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と式亭三馬 (落語家) · 続きを見る »

土橋亭里う馬

土橋亭 里う馬(どきょうてい りゅうば)は、落語家の名跡。当代は10代目。 初代三遊亭圓生門下の初代司馬龍生を祖とする司馬派は、江戸時代において隆盛を極めたが、明治時代以降は衰え、本家である龍生の名跡を襲名する者は50年以上も現れておらず、今はこの里う馬が名を残すだけである(桂才賀の名跡も初代は司馬派出身で司馬才賀と名乗っていたが、その後4代目桂文治を襲名した関係で、2代目以降の才賀は桂の亭号を名乗る事になった)。現在は落語立川流に所属する落語家が里う馬を名乗っている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と土橋亭里う馬 · 続きを見る »

リーガル千太・万吉

リーガル千太・万吉(リーガルせんたまんきち)は、昭和期に活躍した漫才コンビ。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とリーガル千太・万吉 · 続きを見る »

らくだ (落語)

『らくだ』は、古典落語の演目。上方落語の演目の1つである。人物の出入りが多い上に、酔っ払いの芝居が入るなど演者にとって難解な話で、よく「真打の大ネタ」と称される。題名は、主人公のあだ名を表すが(上方では「らくだの卯之助」、東京では「らくだの馬」)、登場した時には既に死人であるという、他に例のない話である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とらくだ (落語) · 続きを見る »

碁泥

碁泥(ごどろ)は、落語の演目の1つ。上方では「碁打盗人」と呼ぶ。現在は主に東京で演じられる。 3代目柳家小さんが、大阪の4代目桂文吾に教わり、東京に移した。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と碁泥 · 続きを見る »

禽語楼小さん (2代目)

2代目禽語楼 小さん(きんごろう こさん、嘉永2年(1848年)8月 - 明治31年(1898年)7月3日)は、落語家。本名は大藤楽三郎。 元は延岡藩士で、高島秋帆から砲術を学んでいたという。最初は初代柳亭燕枝(後の初代談洲楼燕枝)で柳亭燕花の名を貰った。慶応のころには落語界を飛び出し坂東?家橘の門下で坂東橘寿(壽)を名乗る、その後師匠燕枝に詫びを入れて1876年に当時住んでいた静岡から上京し燕静(燕枝の燕に静岡の静に因んで)の名で再び落語家に戻る。1878年には燕寿(壽)の名で東京の寄席にも復帰。1883年1月に2代目柳家小さんを襲名。 1888年3月に贔屓の医学博士・松本順に「禽語楼」の号を贈られ、禽語楼小さんと改名し、両国中村楼で改名披露を行う。禽語とは鳥の鳴き声のことで、小さん自身が鳥の仕草が上手かったことからこの号が与えられた。他にも猫というあだ名されたり、新聞には「珍面美人愛嬌の徳」と書かれた。1895年ころから体調を崩し3月に弟子の初代柳家小三治(後の3代目柳家小さん)に小さんの名を譲り、自らは柳家禽語楼と改名するが、このころから人気も下火になる。 初代三遊亭圓遊のステテコ踊りは、この人が燕寿時代に座敷で披露したのを見て圓遊が真似たのが最初だといわれている。 代表的な得意ネタは『五人廻し』『廓大学』『猫久』などがある。 門下からは3代目柳家小さん、2代目談洲楼燕枝などを輩出しており、その他に一時期弟子だった人物には5代目三升家小勝、3代目三遊亭圓橘、初代三遊亭三福、柳家小きん(後に本名の那須正勝の名で新派俳優に転身)などがいる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と禽語楼小さん (2代目) · 続きを見る »

落語協会

一般社団法人落語協会(いっぱんしゃだんほうじん らくごきょうかい)は、東京の落語家・講談師などが組織する一般社団法人。2014年6月から四代目柳亭市馬が会長を務める。日本芸能実演家団体協議会(芸団協)演芸部門 正会員。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と落語協会 · 続きを見る »

落語家

落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。 落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と落語家 · 続きを見る »

落語研究会 (落語会)

落語研究会(らくごけんきゅうかい)は、落語の興行の名の一つである。1905年から現在まで継続している。純粋な商業目的でなく、理念を追求する運動体としての一面を持つ。 その理念の高邁さから、落語家たちにとって、出演することがステータスの一つになっている。通常、寄席や余興(営業)では、落語のほかにいくつか色物が添えられることが多いが、第二次以降の落語研究会ではそのようなことはなく、落語家一人一人の出演時間もたっぷりととっている。客にとっては、落語をじっくり聞くことができる恰好の場となっている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と落語研究会 (落語会) · 続きを見る »

蝶花楼馬楽

蝶花楼 馬楽(ちょうかろう ばらく)は落語家の名跡。旧字体は蝶花樓馬樂。当代は7代目。 名の由来は唐の八仙のひとり張果老の「瓢箪から馬を出す」の一節から。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と蝶花楼馬楽 · 続きを見る »

蝶花楼馬楽 (3代目)

3代目蝶花楼 馬楽(さんだいめ ちょうかろう ばらく、元治元年(1864年)4月15日 - 大正3年(1914年)1月17日は、落語家。本名:本間弥太郎。俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」。 芝の袋物商(またはセリ呉服)の本間要助の子として生まれる。若い時から放蕩に身を持ち崩して勘当される。止むなく博徒新場の子安の元で居候となる、このころから落語や講談の真似をしていた。1886年ころ、一家の余興で演じた物真似が偶々居合せた3代目春風亭柳枝に見出され、噺家となる。 最初の名が初代春風亭千枝。才能を認められわずか一年足らずで二つ目昇進。仲の好かった兄弟子春風亭傳枝(本名:金坂巳之助 後の5代目桂才賀)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸で売り出す。だが、飲む打つ買うの道楽が納まらず、賭博の現行犯で逮捕されることもたびたびあり、1か月の間懲役刑となる憂き目に合い、ついに師匠柳枝から破門される。 1897年ころ、一時桂市兵衛と名乗るが、翌1898年、3代目柳家小さん一門に移籍し、同年3代目蝶花楼馬楽襲名。しかし、襲名を巡って2代目蝶花楼馬楽の遺児であった顔役「森定」が挨拶もなしにと寄席に殴り込まれるトラブルが発生する。 馬楽襲名後も荒んだ生活態度が改まらず、道楽に走っていたが、才能を惜しむ小さんの後押しで1905年、雷門小助六(本名:鶴本勝太郎 後の4代目古今亭志ん生)、初代柳家小せん(本名:鈴木万次郎)と共に「落語研究会」前座に抜擢され、俄然注目される。同年真打昇進。江戸前の芸風に鋭い警句をはさむ詩情豊かな高座で人気を集め、志賀直哉、岡村柿紅、久保田万太郎、岡鬼太郎、斎藤緑雨など文化人に愛された。歌人の吉井勇も熱心な馬楽ファンで『いやさらに寂しかるらむ馬道の馬楽の家の春も暮るれば』という歌を詠んでいる。 馬風自身も文人めいた清貧の生活を送った。連日のように吉原に通うので浅草馬道の自宅には、めぼしい家財道具や蓄えも無かった。だが、おびただしい数の書籍が箱に収められていた。また俳句も好くし『長屋の花見』のマクラに好く使われている『長屋中歯を食いしばる花見かな』『古袷秋刀魚に合わす顔もなし』などの佳句を残している。茶目っ気に富み、友人に頼んで「加藤清正蔚山に籠る。谷干城熊本城へ籠る。本間弥太郎当家の二階に籠る。」と紙に書いてもらい、それを玄関に貼って家主と交渉して家賃を負けさせたという。また電鉄庵馬楽の雅号も持っていた。これはこのころ東京市内を走っていた鉄道馬車が電気軌道に変わったことで「馬が楽をする」という自らの芸名に引っかけた洒落である。 人気絶頂期にあった馬楽だが、長年の遊び過ぎから健康は衰えていた。1910年3月ころに精神に異常を来すようになる。弟子も家族もない馬楽は、師匠小さんや友人たちの援助で養生するが、入退院を繰り返し、ついに弟の家で胃癌のために没した。死後、谷中浄名院に『馬楽地蔵』が師匠小さんによって建立された。戒名は『釈浄証信士』。 馬楽の死後、馬楽の名は弟弟子の5代目柳家小三治(後の4代目柳家小さん)が後に襲名し、以後、小さんの弟子達が馬楽を名乗っている。 得意ネタは前述の『長屋の花見』『雪てん』『居残り佐平次』『蒟蒻問答』など。 Category:落語家 Category:1858年生 Category:1914年没.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と蝶花楼馬楽 (3代目) · 続きを見る »

青菜 (落語)

青菜(あおな)は、古典落語の演目の一つ。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と青菜 (落語) · 続きを見る »

認知症

認知症(にんちしょう、Dementia、Demenz)は認知障害の一種であり、後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が不可逆的に低下した状態である。認知症は犬や猫などヒト以外でも発症する。狭義では「知能が後天的に低下した状態」の事を指すが、医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」を含む認知障害や「人格変化」などを伴った症候群として定義される。これに比し、先天的に脳の器質的障害があり、運動の障害や知能発達面での障害などが現れる状態は知的障害、先天的に認知の障害がある場合は認知障害という。 従来、非可逆的な疾患にのみ使用されていたが、近年、。単に老化に伴って物覚えが悪くなるといった誰にでも起きる現象は含まず、病的に能力が低下するもののみをさす。また統合失調症などによる判断力の低下は、認知症には含まれない。また、頭部の外傷により知能が低下した場合などは高次脳機能障害と呼ばれる。 日本ではかつては痴呆(ちほう)と呼ばれていた概念であるが、2004年に厚生労働省の用語検討会によって「認知症」への言い換えを求める報告がまとめられ、まず行政分野および高齢者介護分野において「痴呆」の語が廃止され「認知症」に置き換えられた。各医学会においても2007年頃までにほぼ言い換えがなされている(詳細については#名称変更の項を参照)。 認知症は70歳以上人口において2番目に多数を占める障害疾患である。全世界で3,560万人が認知症を抱えて生活を送っており、その経済的コストは全世界で毎年0.5-0.6兆米ドル以上とされ、これはスイスのGDPを上回る。患者は毎年770万人ずつ増加しており、世界の認知症患者は2030年には2012年時点の2倍、2050年には3倍以上になるとWHOは推測している。 現在の医学において、認知症を治療する方法はまだ見つかっていない。安全で効果的な治療法を模索する研究が行われているが、その歩みは難航している。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と認知症 · 続きを見る »

談洲楼燕枝 (2代目)

2代目談洲楼 燕枝(だんしゅうろう えんし、明治2年2月25日(1869年3月18日) - 昭和10年(1935年)7月6日)は江戸の落語家。本名は町田 銀次郎。 芝仲門前の法衣屋嶋屋久兵衛の子で生家が没落し上州前橋の親戚の家に預けられる。その前橋へ、前から知っていた噺家、遊雀と左遊の二人が興行にやって来た。仕事もなく遊んでいた銀治郎、根が好きな道だけに、誘われたことを良い口実に燕雀などと勝手に名乗っていた、のちに初代快楽亭ブラックの一座で快楽(またはシュラク)を名乗り地方廻りをする、東京に戻ったのちに2代目禽語楼小さんの門で柳家小山三、さらに師匠小さんが柳家禽語楼を名乗り、弟子の初代柳家小三治が3代目柳家小さん襲名して小三治が空いたため、2代目小三治を名乗った。その後1897年に小燕枝、1901年2月に初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名し、1904年12月に亭号を談洲楼と改め、2代目談洲楼燕枝となった。 人情噺を得意とした。落語は面白くなかったが聞く人が聞けばまことに結構な芸だったという。 下谷西町に住んでいたことから「西町の御前」と呼ばれた。 1934年3月11日に「雪の杖 道問う人に 譲りけり」と引退の句を残し日本橋俱楽部で引退興行を行なった。その後は下谷同朋町に芸者屋のご隠居の身になり隠居した。丹毒症で亡くなった。 実の長男が歌舞伎役者の2代目中村歌門といい、その妹が前進座創立者3代目中村翫右衛門の妻。 弟子には5代目(3代目とも)春風亭柳好、6代目林家正蔵、4代目三升家勝次郎、3代目瀧川鯉かん、入船米蔵(板橋啓次郎)、3代目柳亭燕枝、漫才に転向したリーガル千太らがいる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と談洲楼燕枝 (2代目) · 続きを見る »

談洲楼燕枝 (初代)

初代談洲楼 燕枝(だんしゅうろう えんし、天保8年10月16日(1837年11月13日) - 明治33年(1900年)2月11日)は江戸出身の落語家。本名は長島 傳次郎。江戸小石川春日町の酒屋に生まれる。通称「二葉町の師匠」。妻の弟は春風亭錦枝(俗称「助太郎」)。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と談洲楼燕枝 (初代) · 続きを見る »

麹町

麹町(こうじまち)は、東京都千代田区の地名。現在の麹町は旧麹町区にあたる麹町地域内で、新宿通りに沿って半蔵門から四谷見附までの細長い街区を形成している。住居表示未実施地域。郵便番号は102-0083。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と麹町 · 続きを見る »

麗々亭柳橋 (4代目)

4代目麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう、1860年9月15日 - 1900年8月21日)は、本名、斉藤亀吉。享年41(満39歳没)。柳派に所属。父は3代目柳橋。弟は講談師2代目桃川如燕、5代目柳橋という芸人一家。 父の薦めで11歳で時計屋に小僧奉公に行かされるも嫌がって脱走。15歳の1874年に父に入門、春風亭小柳を名乗り、5年で真打昇進、その後1878年6月に父が柳叟を襲名に伴い、4代目柳橋を襲名。1895年には柳派の中で内紛が起きて離脱し三遊派に身を投じるが、1899年には和解し柳派に復帰。1900年7月に腸胃病で体調を崩し引退。翌月病死。 坐り踊りで人気を博す、落語は3代目譲りの人情噺が得意だった。 弟子に瀧川鯉橋(後の8代目入船亭扇橋)、春風斎柳一(奇術師)、柳松(後の初代柳家小せん)、柳左衛門(後の橘家花圓蔵)、柳輔(後の2代目柳家つばめ)、鯉橋(「赤鼻の鯉橋」)、柳蛙らがいた。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と麗々亭柳橋 (4代目) · 続きを見る »

都々逸坊扇歌

都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)は、都々逸、落語の名跡。現在は空き名跡となっている。 亭号は都々一坊とも表記.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と都々逸坊扇歌 · 続きを見る »

関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃(日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と関東大震災 · 続きを見る »

脳梗塞

脳梗塞(のうこうそく、stroke)、または脳軟化症(のうなんかしょう)「脳軟化症」の名の由来は、脳細胞は壊死すると溶けてしまうこと(「融解壊死」)から。とは、脳を栄養する動脈の閉塞、または狭窄のため、脳虚血を来たし、脳組織が酸素、または栄養の不足のため壊死、または壊死に近い状態になることをいう。また、それによる諸症状も脳梗塞と呼ばれることがある。なかでも、症状が激烈で(片麻痺、意識障害、失語など)突然に発症したものは、他の原因によるものも含め、一般に脳卒中と呼ばれる。それに対して、ゆっくりと進行して認知症(脳血管性認知症)などの形をとるものもある。 日本における患者数は約150万人で、毎年約50万人が発症するとされ、日本人の死亡原因の中で高い順位にある高頻度な疾患である。また、後遺症を残して介護が必要となることが多く、寝たきりの原因の約3割、患者の治療費は日本の年間医療費の1割を占めており、福祉の面でも大きな課題を伴う疾患である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と脳梗塞 · 続きを見る »

里見とん

里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名は山内英夫(やまのうち ひでお)といった。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と里見とん · 続きを見る »

SPレコード

SPレコード(78 rpm disc)は、1948年頃にプラスチックを材料にmicro grooveで溝を刻んだLPレコード(long playing:LP)が登場して以降、それ以前の蓄音機用レコードを “standard playing” と呼んで区別するようになり、これを略した呼び名で、レトロニムである。 すなわち、1887年にエミール・ベルリナーが開発した円盤状の蓄音機用レコードの総称(商標では「グラモフォン」という)といってよく、初期の縦溝レコードや片面レコードなども含まれる。1950年代後半まで生産されその後はLPレコードに完全に移行した。 SPレコードという呼称は日本ではよく通用する言い方だが、国際的には “78s” または “78rpm record” と呼ばれることの方が多い。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)とSPレコード · 続きを見る »

柳家つばめ (2代目)

2代目柳家 つばめ(やなぎや つばめ、1875(明治9)年2月11日 - 1927(昭和2)年5月31日)は、落語家。本名、浦出 祭次郎。 実家は芝金杉町の米屋の次男。20歳頃に天狗連に出入りしていたことから、知り合いの落語家麗々亭柳左衛門の紹介で、1899年(または1900年)(明治32年から33年)ころに4代目麗々亭柳橋門人となり麗々亭柳輔と名乗る。だが、入門して間もなく師匠柳橋が没したため、1901年(明治34年)秋に3代目柳家小さん門下に入り柳家小きんを経て1905年(明治38年)3月に4代目柳家小三治を襲名。実力が認められ師匠小さんの娘を嫁に貰い、落語研究会にも加入する。1911年(明治44年)4月神田立花亭において真打昇進。1913年(大正2年)4月には2代目柳家つばめを襲名。このあたりが最も羽振りがよかった。1917年に新たに発足された演芸会社に加入。 震災後睦会に加入するが、だんだん芸の力も落ち始め、晩年は不遇であった。 古典から新作までかなりの噺を演じていた。また3代目小さん門下の纏め役として、4代目柳家小さん、初代柳家小せん、3代目蝶花楼馬楽、初代柳家三語楼(山口慶三)などの多くの門人の面倒を見た。 晩年は不遇で小唄の師匠をして生計を立てていたという。 またインテリでめがね姿が特徴であった。1911年には真打記念に速記本「小三治新落語集」が出版。 Category:落語家 Category:1875年生 Category:1927年没.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家つばめ (2代目) · 続きを見る »

柳家つばめ (3代目)

3代目柳家つばめ(やなぎや つばめ、1884年(明治17年)9月17日 - 1942年(昭和17年)2月15日)は落語家。本名、宮尾正造。息子は漫談家の宮尾たか志(宮尾すすむの師匠)。 生まれは群馬県伊勢崎の機織業「宮商」の若旦那。30歳の時に一念発起で上京し、1913年1月に3代目柳家小さんに入門。(一説には前座名を小三太と言う)同年に人形町末広亭で初高座、さん三から1916年ころに歌太郎を名乗り旅回りに行く。1918年に「睦会」発足と共に帰京し5代目柳亭左楽の門で同年11月に東橋亭で柳家さくらで真打昇進披露を行った。1928年7月に研成会で3代目つばめ襲名。1940年に中風にかかり、2年後死去。妻は興行主のようなことをし夫を支えた。 弟子に柳家さくら時代に入門した橘流寄席文字家元の橘右近がいる。 前座時代は上州訛りがあり音曲売りにしたが訛りを克服後は素噺を売りにした。得意ネタは素噺を中心に「能狂言」「桜風呂」「女学生」「永代橋」「棒だら」「火焔太鼓」「しらみ茶屋」「替り目」「大工調べ」など。また美声を生かした音曲ネタも得意とした。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家つばめ (3代目) · 続きを見る »

柳家小さん

柳家 小さん(やなぎや こさん)は、落語家の名跡。柳派に属する。当代は6代目(ただし、初代は柳家の亭号を用いていない) 2002年に5代目が死去して以来空き名跡となっていたが、2006年9月21日に5代目の長男である3代目柳家三語楼が6代目を襲名した。 柳家小さんの名跡は、東京の落語界の勢力を三遊派と二分してきた柳派の大看板であり、3代目が文豪夏目漱石によって三四郎などの作品中で作中人物の口を借りる形で絶賛されたり、5代目が落語家として初の人間国宝に認定されたりするなど実力者が多い。 名前の由来は初代が「鬼」という渾名(あだな)を持ち非常に不器用であり、その逆効果を狙って当時芸者や花魁で流行っていた愛嬌のある芸名だった「小さん」を用いたとされている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小さん · 続きを見る »

柳家小さん (4代目)

4代目柳家 小さん(やなぎや こさん、1888年4月18日 - 1947年9月30日)は、東京の落語家。本名、大野 菊松(後に平山に改姓)。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小さん (4代目) · 続きを見る »

柳家小半治

柳家 小半治(やなぎや こはんじ、1898年(明治31年)6月15日 - 1959年(昭和34年)1月9日)は、音曲師。出囃子は『猫じゃ猫じゃ』。通称「50銭おくれよの小半治」。 また記録によると柏木昇という名前で新派俳優の大部屋に属していたこともあるという。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小半治 · 続きを見る »

柳家小三太

柳家 小三太(やなぎや こさんた)は、落語家。現在8人前後確認されている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小三太 · 続きを見る »

柳家小三治

柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は落語家の名跡である。当代は10代目。 この名跡は中堅どころの位置付けであるが、「柳家(柳派)の出世名」といわれる。初代・5代目・9代目小三治が柳派の総帥・留め名である「柳家小さん」を襲名した一つ前の名となるからである。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小三治 · 続きを見る »

柳家小ゑん

柳家 小ゑん(やなぎや こえん)は、落語家の柳家小さん系の名。これまでに柳家小ゑんを名乗った落語家は5人存在する。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小ゑん · 続きを見る »

柳家小団治

柳家 小団治(やなぎや こだんじ)は、落語家の名跡。当代6代目。小團治とも表記。上方でも桂小團治として2代目まで確認されている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小団治 · 続きを見る »

柳家小満ん

柳家 小満ん(やなぎや こまん)は、落語の名跡。当代は3代目。他にも柳家小まん、つるが小まん、菅の家小まんなどが確認されている.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家小満ん · 続きを見る »

柳家三好

柳家 三好(やなぎや さんこう)は、落語家の名。過去に三遊亭三好を含めると4人確認されている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家三好 · 続きを見る »

柳家金三

柳家 金三(やなぎや きんざ)は、落語家の名跡。過去に三遊亭、扇遊亭等を入れると5人確認されている。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家金三 · 続きを見る »

柳家金語楼

初代柳家 金語楼(やなぎや きんごろう 1901年2月28日 - 1972年10月22日)は、喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家(筆名・有崎勉)、発明家、陶芸家。本名・山下敬太郎(やました けいたろう)。落語家時代の出囃子は『琉球節』。禿頭を売り物にし、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた。戦前は主に吉本興業(東京吉本)に所属し、戦後は自ら「金星プロ」を立ち上げた。旧字体による芸名表記は柳家金語樓。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と柳家金語楼 · 続きを見る »

林家彦六

林家 彦六(はやしや ひころく、1895年5月16日 - 1982年1月29日)は、落語家。東京府下荏原郡品川町(現在の品川区)出身。生前は落語協会所属。本名は岡本 義(おかもと よし)。前名の林家正蔵としては8代目。俗に「彦六の正蔵」。 出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」と呼ばれた。妻は岡本マキ。息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、「林家正蔵」の名を更に高めた。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と林家彦六 · 続きを見る »

桂小文治 (2代目)

2代目(一説には初代)桂 小文治(かつら こぶんじ、1893年(明治26年)3月28日 - 1967年(昭和42年)11月28日は、大正・昭和期に活躍した落語家。本名は稲田 裕次郎。出囃子は『野崎』。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と桂小文治 (2代目) · 続きを見る »

桂文治 (10代目)

10代目桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家で南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長。落語江戸(東京)桂派宗家。血液型はO型。本名は関口達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸。出囃子は『武蔵名物』。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と桂文治 (10代目) · 続きを見る »

桂文治 (8代目)

8代目桂文治(かつらぶんじ)1883年(明治16年)1月21日 - 1955年(昭和30年)5月20日)は落語家。生前は落語協会所属。本名は山路 梅吉。出囃子は『木賊刈り』。母が6代目桂文治の後妻になったためにのちに養子となる。また妻の父は桂文太郎。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と桂文治 (8代目) · 続きを見る »

桂文治 (9代目)

9代目桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。 周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要なことから嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。またロセンが大きいことでも知られた。 稲荷町(現:台東区東上野)の長屋に住み、3代目柳家小さん門下だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分であり家も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠4代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。 得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸(10代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優の命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」などである。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と桂文治 (9代目) · 続きを見る »

桂文慶

桂 文慶(かつら ぶんけい、1872年(明治5年)6月21日 - 1941年(昭和16年)前後)は、落語家。本名は田中 六太郎。 1890年、3代目春風亭柳枝の門で楽枝、1894年頃、初代柳家小三治(後の3代目柳家小さん)の門で三太郎、柳家小はん、そして両師の初名である柳亭燕花と改名。さらに地獄亭?圓魔、鼠遊、等の風変わりな名を名乗った末、明治40年代には4代目橘家圓蔵一門で百々蔵から花圓蔵。1915年に圓幸に改名し真打昇進。1919年に圓光、翌1920年すゞめ(すずめ)まもなく圓幸に復名、一時は桂市兵衛となり、さらに1925年に8代目桂文治一門で文慶から昭和に入り圓峰、1935年頃には再び文慶となる。 並外れた女好きで「赤鼻の六さん」や「入谷の赤顔」とあだ名された名物男。没年は不明だが、1939年ごろまで顔付に見え昭和15年、16年頃死去したと思われる。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と桂文慶 · 続きを見る »

横網

横網(よこあみ)は、東京都墨田区の地名。現行行政地名は横網一丁目及び横網二丁目。郵便番号は130-0015。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と横網 · 続きを見る »

橘家圓喬 (4代目)

4代目橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる。) 1865年11月9日本所柳原の生まれ、父は政府の御家人。近所に義理の姉婿であった4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり、1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。このころから4代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向も周囲の評判が悪く廃業し1882年には東京を離れ焼き物師を志すために京都を目指したが途中に立花家橘之助の一座に出会い帯同、3年間上方で修行、1885年に兵役検査で東京に戻り4代目三遊亭?圓喬となり1887年ころには改めて4代目橘家圓喬を襲名し、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加。1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。 気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。 だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、5代目三遊亭圓生が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。 墓所は豊島区法明寺。辞世の句は『筆持って月と話すや冬の宵』。 「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」「たらちね」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。 弟子に2代目蜃気楼龍玉、橘家小圓喬(立岩栄吉、4代目三遊亭圓生の実子)、4代目三遊亭圓好(中田音吉)、3代目三遊亭金朝、橘家林喬(林林蔵)、橘家喬之助(畑中ます、「チンクシャ」の喬之助)、橘家岩喬(瀬川栄助、後の3代目柳亭左龍)、橘家東喬(小林捨吉、後の9代目金原亭馬生)、橘家喬雀(小林兼次郎、後の三遊亭遊朝)、橘家喬雀(郷嘉七)、橘家喬生(中田徳太郎、後の朝寝坊志らく、初代三遊亭圓之助の実子)、橘家喬太(山内正次郎、後の三遊亭圓丈)、橘家三木助(上方の桂仁左衛門門下から東京に出て2代目桂三木助)、橘家右圓喬(後の初代柳家三語楼)、橘家喬松(後の9代目土橋亭里う馬)などがいた。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と橘家圓喬 (4代目) · 続きを見る »

橘家圓蔵 (4代目)

4代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1864年 - 1922年2月8日)は、明治・大正期に活躍した落語家。本名、松本栄吉。 北品川に住んでいたため、「品川の圓蔵」、「品川の師匠」と呼ばれた。 立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意ネタ。 地噺などを得意とした。弟子6代目三遊亭圓生の話では、「山門」で石川五右衛門が欄干に足をかけて久吉を睨みつけるのを「その顔色ってのは、噺家が永代橋でシャッポを飛ばしたようなもんで。」と警句を飛ばし、その上手さとおかしさに客席を沸かせたという。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と橘家圓蔵 (4代目) · 続きを見る »

橘ノ圓 (初代)

初代橘ノ 圓(たちばなの まどか、1868年 - 1935年6月29日)は、落語家。本名、五十嵐銀次郎。兄は2代目三遊亭圓馬。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と橘ノ圓 (初代) · 続きを見る »

江戸家猫八 (初代)

初代 江戸家 猫八(えどや ねこはち、慶応4年4月3日(1868年4月25日) - 昭和7年(1932年)4月6日)は、物真似師。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と江戸家猫八 (初代) · 続きを見る »

木下華声

木下 華声(きのした かせい、1912年(明治45)7月6日 - 1986年(昭和61)5月25日)は、物真似師、漫談家。本名は長谷川栄太郎。一時は、2代目江戸家猫八を襲名していた。 落語研究家の野村無名庵はおじにあたる。また、久保田万太郎、鴨下晁湖、阿木翁助等に愛された浅草の豚カツ屋、「柳とんかつ」の主人はいとこ。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と木下華声 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と明治 · 続きを見る »

春風亭柳語楼

春風亭 柳語楼(しゅんぷうてい りゅうごろう、1891年(明治24年)1月26日 - 1954年(昭和29年)2月16日)は、落語家。本名、中村 菊次郎。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と春風亭柳語楼 · 続きを見る »

春風亭柳枝 (3代目)

3代目春風亭 柳枝(しゅんぷうてい りゅうし、嘉永5年9月23日(1852年11月4日) - 明治33年(1900年)11月14日)は、落語家。本名:鈴木 文吉。俗に当時の住まいと大酒飲みだったことから「蔵前の柳枝」「蔵前の大虎」。 一時期妻は4代目都々逸坊扇歌(志沢たけ)。 出身は東京、父は幼いころに亡くなっている。1871年5月、柳亭燕枝(後の初代談洲楼燕枝)の門下で燕花、明治5年ころに2代目柳亭燕寿となりその後1873年に真打で初代柳亭燕路となり1878年に3代目柳枝の看板を挙げた。 長年柳派の頭取を務めたが4代目麗々亭柳橋に譲ったがまもなく柳橋が没したので仕方なくまた頭取戻ったがその直後に自身も死去した。 「大変まずかったという話です。」と6代目三遊亭圓生は『寄席育ち』の中で酷評しているが、講談の初代伊藤痴遊は『痴遊随筆』に「話は巧かったが、客受けはしなかった。自分も、身を泌みて、高座を勤めるようなことはせず、楽屋で酒を呑んで、そのまま帰ることもあった。」と記している。 人望があり、師の燕枝が晩年弟子を取らなかったので、柳枝が全部引き受け多くの俊才を擁した。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と春風亭柳枝 (3代目) · 続きを見る »

春風亭柳枝 (6代目)

6代目春風亭 柳枝(しゅんぷうてい りゅうし、1881年(明治14年)1月 - 1932年(昭和7年)3月1日)は、神奈川県横浜市出身の落語家。本名、松田 幸太郎。俗に「ゴミ六の柳枝」「横浜の柳枝」「桃太郎の柳枝」など。 横浜の消防団の組頭で居留地のごみ清掃を家業とする家の長男に生まれる。「ゴミ六」とは実家の屋号。横浜商業学校(現:横浜市立横浜商業高等学校)卒業後に勤めながら天狗連で一枝を名乗り宴会や端席で一席やったり演芸会を開いたりしていて人気になった。それが高じ3代目柳家小さんの門を叩く。1910年3月にさん枝で初高座。1913年2月に4代目春風亭柳枝(初代春風亭華柳)門下で真打となり3代目春風亭小柳枝を名乗る。3年目の真打で異例のスピード出世だった。1917年8月、師匠柳枝が結成した睦会に加入。 1921年3月、睦会「三柳の改名」 師弟トリプル襲名.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と春風亭柳枝 (6代目) · 続きを見る »

春風亭柳橋 (6代目)

6代目春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう、1899年(明治32年)10月15日 - 1979年(昭和54年)5月16日)は、東京都文京区出身の落語家。本名、渡辺金太郎。出囃子は『大阪せり』。日本芸術協会を創設し、44年もの間、会長として君臨した。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と春風亭柳橋 (6代目) · 続きを見る »

昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と昭和 · 続きを見る »

1926年

記載なし。

新しい!!: 柳家小さん (3代目)と1926年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »