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枢密院 (日本)

索引 枢密院 (日本)

枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。1888年(明治21年)創設、1947年(昭和22年)5月2日、翌日の日本国憲法施行に伴い廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。.

272 関係: 加藤寛治加藤弘之加藤正治原嘉道南弘南部甕男南次郎古市公威台湾銀行吉川弘文館吉井友実吉田清成大山巌大島健一大平駒槌大内力大勲位大給恒大隈重信大鳥圭介大森鍾一大正大木喬任大日本帝国憲法天皇奏任官奈良武次宮中席次官僚制安広伴一郎寺島宗則富井政章小坂順造小幡酉吉小松原英太郎小村壽太郎尾崎忠治山川健次郎山縣伊三郎山縣有朋山田顕義岡田良平岡部長職岡野敬次郎岩倉具定川村純義上山満之進不戦条約中央公論新社中川望...中牟田倉之助中村雄次郎帷幄上奏三好重臣三土忠造三笠宮三笠宮崇仁親王三浦梧楼一木喜徳郎九鬼隆一幣原坦平山成信平生釟三郎平田東助平沼騏一郎久保田譲人権二上兵治井坂孝井上勝之助井上毅仁礼景範仲小路廉伊藤博文伊藤隆 (歴史学者)伊東巳代治伊沢多喜男佐々木高行佐々木惣一佐藤尚武佐野常民土方久元北垣国道ロンドン海軍軍縮会議周布公平品川弥二郎内大臣府内田康哉内閣総理大臣内閣総辞職八代六郎八田善之進元号元帥 (日本)元田肇元田永孚元老副島種臣勝海舟勅任官国会議事堂国務大臣倉富勇三郎皇室皇室令皇室典範皇宮警察本部皇居皇族会議石原健三石塚英蔵石井菊次郎石黒忠悳石渡敏一珍田捨巳福岡孝弟福田雅太郎秩父宮税所篤穂積陳重窪田静太郎竹越與三郎立憲民政党立憲政友会第1次山縣内閣第1次若槻内閣細川潤次郎緊急勅令罷免美濃部達吉真野文二統帥権田健治郎田中不二麿田中隆三 (政治家)由井正臣無任所大臣 (日本)牧野伸顕目賀田種太郎百瀬孝百武三郎花房義質芳川顕正芳澤謙吉鎌田栄吉遠藤源六荒井賢太郎荒木寅三郎菊池大麓菅原通敬青木周蔵西徳二郎西園寺公望西郷従道西野元親任官親王親王宣下香川敬三諮問高島鞆之助高崎正風高松宮宣仁親王鳥尾小弥太鳩山一郎軍令部黒田内閣黒田長成黒田清綱黒田清隆黒木為もと近衛篤麿近衛文麿蜂須賀茂韶都筑馨六鈴木荘六鈴木貫太郎船越衛阪本さん之助関屋貞三郎閑院宮載仁親王藤沢幾之輔藤沼庄平藩閥野村吉三郎野村靖重臣会議臣籍降下金子堅太郎鉄筋コンクリート陸奥宗光柳原前光柳田國男枢密院枢密院官制林友幸林頼三郎林権助林毅陸恩赦条約東久世通禧東京日日新聞松室致松岡康毅松平恆雄松平正直松井慶四郎松浦鎮次郎松方正義杉孫七郎栗野慎一郎榎本武揚樺山資紀樺山愛輔櫻井錠二櫻内幸雄武井守正水町袈裟六江木千之池田成彬河原春作河合操河瀬真孝河野敏鎌河本文一泉二新熊深井英五渡辺千秋渡邊千冬清岡公張清水澄清浦奎吾満州事変潮恵之輔濱口内閣濱口雄幸濱尾新朝鮮総督府末松謙澄本庄繁本田親雄有地品之允有馬良橘有松英義最高裁判所 (日本)戒厳明治宮殿明治記念館昭和天皇海江田信義斎藤実日本国憲法政党憲法曾禰荒助曾我祐準10月29日1888年1889年1921年1927年1928年1930年1931年1946年1947年1984年2006年2012年2013年5月2日 インデックスを展開 (222 もっと) »

加藤寛治

加藤 寛治(かとう ひろはる、かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。.

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加藤弘之

加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日(天保7年6月23日) - 1916年(大正5年)2月9日)は、日本の政治学者、教育家、官僚。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は文学博士(1888年)、法学博士(1905年)。旧名弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でフルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第2代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第二代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。.

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加藤正治

加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。.

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原嘉道

原 嘉道(はら よしみち(かどう) 1867年3月23日(慶応3年2月18日) - 1944年8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。第9代中央大学学長、帝国弁護士会名誉会員。田中義一内閣の司法大臣や枢密院議長を歴任した。男爵、法学博士。幼名は亀太郎。.

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南弘

南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日(明治2年10月10日) - 1946年(昭和21年)2月8日)は、日本の官僚・政治家。.

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南部甕男

南部 甕男(なんぶ みかお、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、明治期の日本の司法官僚。正二位勲一等男爵。号は南陽。.

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南次郎

南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。.

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古市公威

古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日(1854年9月4日) - 昭和9年(1934年)1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。.

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台湾銀行

台湾銀行(たいわんぎんこう).

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉井友実

吉井 友実(よしい ともざね、文政11年2月26日(1828年4月10日) - 明治24年(1891年)4月22日)は、日本の武士・薩摩藩士、官僚。正二位勲一等伯爵。通称を仁左衛門、中介、後に幸輔。変名を山科兵部。.

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吉田清成

吉田 清成(よしだ きよなり、弘化2年2月14日(1845年3月21日)- 明治24年(1891年)8月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治初期の官僚(外交官・農商務官僚)。元の名は巳之次。通称は太郎。留学中の変名は永井五百助。.

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大山巌

大山 巌(おおやま いわお、、天保13年10月10日(1842年11月12日) - 大正5年(1916年)12月10日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典(位階勲等および爵位)は従一位大勲位功一級公爵。 大警視(第2代)、陸軍大臣(初・2・3・4・6・7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老、貴族院議員を歴任した。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたる。.

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大島健一

大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日) - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅任議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 陸軍中将、駐ドイツ大使の大島浩は長男、日本大学農獣医学部教授を務めた箕作祥一は孫。.

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大平駒槌

大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。.

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大内力

大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 2009年4月18日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授・信州大学名誉教授。専攻はマルクス経済学の経済理論、経済政策。.

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大勲位

大勲位(だいくんい).

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大給恒

大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、日本の大名、政治家、華族。三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。.

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大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

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大鳥圭介

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。.

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大森鍾一

大森 鍾一(おおもり しょういち、安政3年5月14日(1856年6月16日) - 昭和2年(1927年)3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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大木喬任

大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日(天保3年3月23日)– 1899年(明治32年)6月26日)は、日本の佐賀藩の武士、政治家。通称を幡六、民平。勲等は勲一等、爵位は伯爵。.

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大日本帝国憲法

憲法発布略図1889年(明治22年)、楊洲周延画 新皇居於テ正殿憲法発布式之図1889年(明治22年)、安達吟光画 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、外見的立憲主義に基づく日本の憲法 大日本帝国憲法には、表題に「大日本帝国」が使用されているが、詔勅では「大日本憲法」と称しており、正式な国号と規定されたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と規定された1936年(昭和11年)まで、他に「日本国」「日本」等の名称も使用された。。 明治憲法(めいじけんぽう)、あるいは単に帝国憲法(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。 短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けば実質上のアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間正確には56年5か月4日(20608日)、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、1946年(昭和21年)11月3日に第73条の憲法改正手続による公布を経て、翌1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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奏任官

奏任官の位置づけ 奏任官(そうにんかん)は明治憲法下の高等官の一種で、高等官三等から八等に相当する職とされていた。奏任官は天皇の任命大権の委任という形式を採って内閣総理大臣が任命していた。.

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奈良武次

奈良 武次(なら たけじ、慶応4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和37年(1962年)12月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。.

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宮中席次

宮中席次(きゅうちゅうせきじ)とは、公的な宮中行事における席次のこと。.

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官僚制

本記事では官僚制(かんりょうせい、bureaucracy)について解説する。.

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安広伴一郎

安広伴一郎(1901年) 安広 伴一郎(やすひろ ばんいちろう、安政6年10月13日(1859年11月7日) - 昭和26年(1951年)5月27日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した官僚・政治家・実業家。内閣書記官長、貴族院議員、満鉄総裁などを歴任した。号は竜峰。.

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寺島宗則

寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木弘安(まつき こうあん)。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。.

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富井政章

富井 政章(とみい まさあき、1858年10月16日(安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵。.

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小坂順造

小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年3月30日『閨閥』、322頁。 - 1960年10月16日)は、日本の実業家、政治家。信越化学工業及び東信電気及び長野電灯創業者。長野県生まれ。.

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小幡酉吉

小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。.

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小松原英太郎

小松原 英太郎(こまつばら えいたろう、嘉永5年2月16日(1852年3月6日) - 大正8年(1919年)12月26日)は、戦前の官僚・政治家。錦鶏間祗候、枢密顧問官、埼玉県知事、静岡県知事、長崎県知事、司法次官、内務次官、文部大臣、農商務大臣、貴族院勅選議員、東洋協会会長、皇典講究所長、大阪毎日新聞社社長、日華学会長、斯文会会長、國學院大學学長、内務省警保局長等、ベルリン公使館駐在を歴任。 拓殖大学第2代総長。 位階勲等は従二位勲一等。.

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小村壽太郎

小村 寿太郎(こむら じゅたろう、壽太郞、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。侯爵。初代拓務次官の小村欣一は長男。.

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尾崎忠治

尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日(1831年3月15日) - 1905年(明治38年)10月16日)は、日本の武士、政治家。正二位勲一等男爵。.

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山川健次郎

山川 健次郎(やまかわ けんじろう、1854年9月9日(安政元年閏7月17日) - 1931年(昭和6年)6月26日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。会津藩出身で白虎隊の兵士として明治政府と戦ったが、後に国費で米国留学をして東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。.

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山縣伊三郎

山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日(安政4年12月23日) - 1927年(昭和2年)9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。.

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山縣有朋

山県 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。 長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、後に小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に副官である奇兵隊の軍監となる。 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。 自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。.

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山田顕義

山田 顕義学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。-->(やまだ あきよし、顯義、天保15年旧暦10月9日(西暦換算1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の幕末の武士、長州藩士、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱ははじめ顕孝、のち顕義と改めた。幼名は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎(ようこうさい)・狂痴(きょうち)・韓峰山人(かんぽうさんじん)、不抜(ふばつ)、空斎(くうさい)など。山田 空斎(やまだ くうさい)としても知られる。階級は陸軍中将、正二位勲一等、伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした、ため「法典伯」と呼ばれた。 長門国出身。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言がある。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。.

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岡田良平

岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日(元治元年5月4日) - 1934年(昭和9年)3月23日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。.

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岡部長職

岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月3日(嘉永7年11月15日) - 1925年(大正14年)12月27日)は、和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主で、明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。.

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岡野敬次郎

岡野 敬次郎(おかの けいじろう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1925年(大正14年)12月23日)は、日本の官僚、政治家、法学者。男爵。法制局長官(第11代、第13代、第15代)司法大臣(第25代)、農商務大臣(第33代)、文部大臣(第41代)、枢密院副議長(第9代)、東京帝国大学法学部教授、中央大学学長を務めた。.

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岩倉具定

岩倉 具定(いわくら ともさだ、嘉永4年12月27日(1852年1月18日) - 明治43年(1910年)4月1日)は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。.

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川村純義

川村 純義(かわむら すみよし、天保7年11月11日(1836年12月18日) - 明治37年(1904年)8月12日)は、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人。階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等伯爵。鹿児島県出身。通称は与十郎。.

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上山満之進

上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869年10月31日(明治2年9月27日) - 1938年(昭和13年)7月30日)は、日本の官僚、政治家。農商務次官、台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官。.

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不戦条約

不戦条約(ふせんじょうやく、戦争抛棄ニ関スル条約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。パリ不戦条約とも。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中川望

中川 望(なかがわ のぞむ、1875年3月15日 - 1964年4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。.

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中牟田倉之助

中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ、天保8年2月24日(1837年3月30日) - 大正5年(1916年)3月30日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。幼名は武臣。金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。.

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中村雄次郎

中村 雄次郎(なかむら ゆうじろう、嘉永5年2月28日(1852年3月18日) - 昭和3年(1928年)10月20日)は、日本陸軍の軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等功四級男爵。貴族院議員。.

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帷幄上奏

帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のこと。 ドイツ帝国およびその影響を受けた日本(大日本帝国)において制度化された。本項では日本における帷幄上奏について述べる。.

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三好重臣

三好 重臣(みよし しげおみ、1840年11月14日(天保11年10月21日)- 1900年(明治33年)11月28日)は、長州藩士。日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍中将。子爵。幼名は軍太郎。別名は会田春輔。.

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三土忠造

三土 忠造(みつち ちゅうぞう、1871年8月11日(明治4年6月25日) - 1948年(昭和23年)4月1日)は、明治から昭和にかけての日本の政治家。 讃岐国大内郡水主村(現在の東かがわ市)出身。 長年立憲政友会の衆議院議員として党内にて重きをなし、内閣書記官長を振り出しに文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣(一時運輸大臣も兼務)を歴任した戦前政界の重鎮である。.

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三笠宮

三笠宮(みかさのみや)は、大正天皇の第四皇男子崇仁親王の宮号であり、崇仁親王の妃とその子孫の宮家(直宮家)である。現当主は崇仁親王妃百合子。.

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三笠宮崇仁親王

三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年(大正4年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、日本の皇族、歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天皇と貞明皇后の第四皇男子。昭和天皇の末弟、今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)。 「三笠宮」の宮号内閣告示や宮内庁告示等の表記では、皇族に宮号が冠されることはなく(「皇太子」を除く)、それらの告示が掲載される官報では、「崇仁親王」と表記される。一方、同じ政府による表記でも、国民一般向けのウェブページなどでは、宮号を用いて表記される。皇室典範に定める敬称は殿下。は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。日本軍に従軍経験のある最後の皇族であり、日本の皇室で残っている記録としては最長寿の皇族であった(臣籍降下をした元皇族は除く)。.

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三浦梧楼

三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう、弘化3年11月15日(1847年1月1日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵。号は観樹。.

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一木喜徳郎

一木 喜德郞(いっき / いつき『平成新修旧華族家系大成』上巻、156頁。 / いちき きとくろう、慶応3年4月4日(1867年5月7日) - 昭和19年(1944年)12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階・勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧氏名は岡田 丘平。 帝国大学法科大学教授、貴族院議員、法制局長官(第10代)、文部大臣(第26代)、内務大臣(第33代)、帝国学士院会員、宮内大臣(第9代)、枢密院議長(第16代)などを歴任した。.

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九鬼隆一

九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)? - 昭和6年(1931年)8月18日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。男爵。号は成海。 摂津国三田出身。慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し、若くして文部少輔(現在の事務次官)にまで栄進。1884年(明治17年)、駐米特命全権公使に転じ、1888年(明治21年)に帰国すると図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館総長を歴任。美術行政に尽力した。また貴族院議員、次いで枢密顧問官を兼任。1900年(明治33年)に総長を退いてからは枢密顧問官を長く務めた。1914年(大正4年)には郷里に三田博物館を設立し、自らの美術コレクションを展示・公開している。四男は哲学者の九鬼周造。.

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幣原坦

幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年9月18日) - 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の東洋史学者、教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。 本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の植民地行政・植民地教育を推進した官僚、教育者としても知られている。.

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平山成信

平山成信(1898年) 平山 成信(ひらやま なりのぶ、嘉永7年11月6日(1854年12月25日) - 昭和4年(1929年)9月25日)は、日本の官僚。内閣書記官長、内閣総理大臣秘書官、貴族院勅選議員、宮中顧問官、枢密顧問官等を歴任。男爵。.

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平生釟三郎

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)は、日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(廣田内閣で文部大臣、貴族院勅選議員、枢密顧問官)。.

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平田東助

平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。 山形県米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。息子の平田栄二は日本画家で、栄二の次男・正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。二男の平田昇は海軍中将となった。.

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平沼騏一郎

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。.

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久保田譲

久保田 譲(くぼた ゆずる、1847年6月22日(弘化4年5月10日) - 1936年(昭和11年)4月14日)は、近代日本の文部官僚、政治家。文部省草創の頃から行政に携わり、議定官、枢密顧問官、文部次官、貴族院勅選議員、文部大臣などを歴任した。位階勲等は正二位勲一等。男爵。.

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人権

人権(じんけん、human rights)とは、人間ゆえに享有する権利である。人権思想においてすべての人間が生まれながらに持っていると考えられている社会的権利である広辞苑 第五版。.

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二上兵治

二上 兵治(ふたがみ ひょうじ、明治11年(1878年)2月25日 - 昭和20年(1945年)11月19日)は、日本の官僚。枢密院書記官長、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。富山県高岡市出身。.

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井坂孝

井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。.

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井上勝之助

ンドンに滞在中の井上勝之助 井上 勝之助(いのうえ かつのすけ、文久元年7月11日(1861年8月16日) - 昭和4年(1929年)11月3日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員、侯爵。条約改正に尽力した。.

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井上毅

井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日(1844年2月6日) - 明治28年(1895年)3月17日)は、日本の武士、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。同時代の政治家・井上馨とは血縁関係は無い。.

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仁礼景範

仁礼 景範(にれ かげのり、天保2年2月24日(1831年4月6日) - 明治33年(1900年)11月22日)は、江戸時代末期(幕末)の武士、明治時代の海軍軍人。海軍中将従二位勲一等子爵。通称は源之丞、平助。海軍軍令部総長、海軍大臣を歴任した。.

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仲小路廉

仲小路 廉(なかしょうじ れん、慶応2年7月3日(1866年8月12日)- 1924年(大正13年)1月17日)は、日本の検察官、司法・逓信・内務官僚、貴族院勅選議員、枢密顧問官。旧名・喜久三『日本近現代人物履歴事典』368頁。。号は靄軒。.

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伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。 周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。 1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。.

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伊藤隆 (歴史学者)

伊藤 隆(いとう たかし、1932年(昭和7年)10月16日 - )は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。専攻は日本近現代政治史。 日本近代史、特に昭和戦前期政治史研究の重鎮で、多くの近代日本一次史料の発掘公刊を代表として精力的に行った。「日本教育再生機構」顧問、新しい歴史教科書をつくる会元理事。国家基本問題研究所理事。.

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伊東巳代治

伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日(1857年5月29日) - 昭和9年(1934年)2月19日)は、明治、大正、昭和期の官僚、政治家。従一位勲一等伯爵。長崎県長崎市出身。.

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伊沢多喜男

伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体:伊澤、明治2年11月24日(1869年12月26日) - 昭和24年(1949年)8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。.

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佐々木高行

佐々木 高行(ささき たかゆき、文政13年10月12日(1830年11月26日) - 明治43年(1910年)3月2日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)と改名した後に現在の呼称に変えた。佐佐木高行とも書かれる。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。日記『保古飛呂比』の著者でもある。 藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。明治政府高官の中でも保守派を代表する1人であり、明治天皇の信任を楯に政治体制を巡り伊藤博文らと争った。.

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佐々木惣一

佐々木 惣一(ささき そういち、1878年(明治11年)3月28日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の憲法学者、行政法学者。法学博士。貴族院議員(勅選)。京都大学名誉教授。立命館大学学長。京都市名誉市民。文化功労者、文化勲章受章者。贈正三位、贈勲一等瑞宝章(没時追贈)。.

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佐藤尚武

佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官・政治家。林内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 1931年(昭和6年)、勲一等瑞宝章。1934年(昭和9年)、勲一等旭日大綬章、没後勲一等旭日桐花大綬章と従二位を追贈される。.

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佐野常民

佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。.

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土方久元

土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日)は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。.

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北垣国道

北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日(天保7年8月7日) - 1916年(大正5年)1月16日)は、幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。幼名は捨蔵。通称は晋太郎。号は静屋。 高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。.

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ロンドン海軍軍縮会議

ンドン海軍軍縮会議(ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、イギリスのロンドンで開かれた。開催期日は1月21日から4月22日。 当初、イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアの第一次世界大戦の戦勝国である五大国、かつ五大海軍国により会議がもたれたが、フランスおよびイタリアは潜水艦の保有量制限などに反発し、結局部分的な参加にとどまった。.

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周布公平

周布 公平(すふ こうへい、1851年1月7日(嘉永3年12月6日) - 1921年(大正10年)2月15日)は、明治時代日本の政治家・官僚。長門国萩城下(現在の山口県萩市)出身。長州藩士周布政之助(兼翼)の次男・嫡子。周布兼道の父。男爵、貴族院議員。.

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品川弥二郎

品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日(1843年11月20日)- 明治33年(1900年)2月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。.

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内大臣府

内大臣府(ないだいじんふ)は、明治中頃から戦前昭和にかけて日本に存在した制外官の一つ。宮中にあって天皇を常侍輔弼し、宮廷の文書事務などを所管した内大臣(ないだいじん)を支える機関として1885年(明治18年)に創設され、終戦直後の1945年(昭和20年)にGHQにより廃止された。.

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内田康哉

内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日(慶応元年8月10日) - 1936年(昭和11年)3月12日)は、日本の外交官・政治家。伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である。.

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内閣総理大臣

内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、prime minister of Japan)とは、日本国において行政権の属する内閣の首長たる国務大臣である(憲法第66条1項)。したがって、日本国における政府の長である。文民(憲法第66条2項)かつ国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて天皇によって任命される(憲法第6条)。略称は総理大臣ないしは総理。一般的には首相、またはまれに宰相とも言う。現任は安倍晋三。.

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内閣総辞職

内閣総辞職(ないかくそうじしょく)とは、内閣を構成する内閣総理大臣及び国務大臣の全員が、同時にその地位を辞することをいう。単に総辞職ともいう。なお、個々の大臣は辞任すると表現するのが一般的で、辞職すると言うことはない(辞職するのは国会議員職の方)。.

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八代六郎

八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。.

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八田善之進

八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2月1日『20世紀日本人名事典 そ-わ』2003頁。 - 1964年(昭和39年)1月7日)は、日本の内科医学者。枢密顧問官、医学博士。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元帥 (日本)

日本における元帥(げんすい)は、1872年(明治5年)から1873年(明治6年)においては階級(陸軍元帥)、1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号(元帥)である。自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。.

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元田肇

元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日(安政5年1月15日) - 1938年(昭和13年)10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。.

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元田永孚

元田 永孚(もとだ ながざね、文政元年10月1日(1818年10月30日) - 明治24年(1891年)1月22日)は、日本の武士・熊本藩士、儒学者。男爵。名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。号は東皐、樵翁。.

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元老

元老(げんろう)は、大日本帝国において、天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、また定義した法律も存在しないため、憲法外機関とされる。.

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。.

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勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。.

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勅任官

勅任官の位置づけ 勅任官(ちょくにんかん)は明治憲法下の官吏区分で、高等官の一種であった。奏任官の上位に位置し、広義には親任官と高等官一等と二等を総じて勅任官と呼んだが、狭義には高等官一等と二等のみを勅任官といった。親任官と勅任官に対しては、敬称に閣下を用いた。.

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国会議事堂

国会議事堂(こっかいぎじどう)は、国会が開催される建物。現在の建物は1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設された。東京都千代田区永田町一丁目にある。建物は左右対称形を成しており、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されている。.

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国務大臣

国務大臣(國務大臣.こくむだいじん)とは、日本国の内閣の構成員を指す。閣僚(かくりょう)、閣員(かくいん)とも言われる特別職国家公務員である。.

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倉富勇三郎

倉富 勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう、嘉永6年7月16日(1853年8月20日) - 昭和23年(1948年)1月26日)は、明治から昭和にかけての司法・宮内官僚。法学博士。男爵。 法制局長官、貴族院勅選議員、枢密院議長。法典調査会刑法起草委員。作家広津柳浪は夫人の兄に当たる。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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皇室令

皇室令(こうしつれい)とは、旧皇室典範を根拠として、皇室典範に属する法体系いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた、皇室に関係する一連の天皇の命令を指す。これは大日本帝国憲法に属する法体系いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。.

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皇室典範

皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.

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皇宮警察本部

皇宮警察本部(こうぐうけいさつほんぶ、Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ警察法 第29条。天皇陛下及び皇后陛下、皇太子殿下その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。 英訳の「」は皇居内の皇族の近衛や親衛隊とも読めるが、形式上は警察の内部組織であるとされる。 本部長は、皇宮警視監の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。 本部の紋章は五三桐である。桐紋は菊花紋章と並んで古から皇室の象徴とされている紋章である。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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皇族会議

皇族会議(こうぞくかいぎ)は、1889年(明治22年)、旧皇室典範に基づいて設置された機関である。.

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石原健三

石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4年1月13日) - 1936年9月4日)は、日本の内務官僚、裁判官、政治家。枢密顧問官、貴族院議員。.

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石塚英蔵

石塚 英蔵(いしづか えいぞう、1866年10月31日(慶応2年7月23日) - 1942年(昭和17年)7月28日)は、日本の官僚、政治家。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官、日本赤十字社常議員。.

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石井菊次郎

石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。.

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石黒忠悳

石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、弘化2年2月11日(1845年3月18日) - 1941年(昭和16年)4月26日)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。.

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石渡敏一

石渡 敏一(いしわたり びんいち『慶應義塾入社帳 第1巻』676頁には「イシワタ トシカツ」とふりがなが付されている。慶應義塾に入った時点で本人が申告した姓名の読みである。、1859年12月19日(安政6年11月26日『日本近現代人物履歴事典』48頁。) - 1937年(昭和12年)11月18日)は、官僚、政治家。法学博士。大審院検事、司法次官、貴族院勅選議員、枢密顧問官。法典調査会刑法起草委員。位階・勲等は正三位勲一等。江戸(後の東京)出身。石渡荘太郎の父。.

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珍田捨巳

珍田捨巳 珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日(安政3年12月24日) - 1929年(昭和4年)1月16日)は、日本の外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官。キリスト教牧師(メソジスト派)。.

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福岡孝弟

福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日(1835年3月3日) - 大正8年(1919年)3月7日)は、日本の幕末から明治時代の土佐藩士、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。.

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福田雅太郎

福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1932年6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従三位勲一等功三級、。最終階級は陸軍大将。.

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秩父宮

秩父宮(ちちぶのみや)は、宮家の一つ。 1922年(大正11年)6月25日、大正天皇の第二皇子淳宮雍仁親王が、20歳の誕生日を迎えるとともに創設。.

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税所篤

所 篤(さいしょ あつし、文政10年11月5日(1827年12月22日)- 明治43年(1910年)6月21日)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚。子爵。内国事務権判事、西日本各地の県知事・県令、元老院議官、宮中顧問官、枢密顧問官等を歴任した。通称は喜三左衛門、容八、長蔵。号は巌舎、鵬北。初名は篤満、後に篤信とも名乗った。剛直をもって知られ、旧幕時代は王事に奔走し、一時は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と並び称された薩摩閥の重鎮である。.

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穂積陳重

積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) - 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。.

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窪田静太郎

静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。.

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竹越與三郎

竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日))は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史学者・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正四位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。 明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」を以て自由帝国主義に根差した独自の文明論、文明史観を論じた。.

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立憲民政党

立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、日本の昭和時代の政党。略称は民政党(みんせいとう)。帝国議会において、一時、立憲政友会の対立会派として、二大政党政治を確立した。.

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立憲政友会

立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、戦前の帝国議会において日本最初の本格的政党政治を行った政党。略称は政友会(せいゆうかい)。.

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第1次山縣内閣

1890年(明治23年)11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度が開始され、下院として衆議院・上院として貴族院による両院制の帝国議会を設立した。また現在でも行われている国会での内閣総理大臣施政方針演説及び財務大臣(大蔵大臣)による財政演説を最初に行ったのはこの第1次山縣内閣の時でもある。.

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第1次若槻内閣

憲政会単独内閣を組閣した加藤高明が1926年(大正15年)1月22日に、現職総理のまま病に倒れ急逝したことから、加藤高明政権の内務大臣だった若槻禮次郎に、摂政宮裕仁親王が組閣の大命を下し、組閣された。 第1次若槻禮次郎内閣のトピックスとして、.

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細川潤次郎

細川 潤次郎(ほそかわ じゅんじろう、1834年3月11日(天保5年2月2日) - 1923年(大正12年)7月20日)は、幕末の土佐藩藩士、明治・大正時代の法制学者・教育者。男爵。幼名は熊太郎、諱は元(はじめ)。十洲と号した。 政治的要職としては司法大輔・貴族院副議長位であったが、日本の近代法導入の功績に関しては江藤新平と並んで高く評価されている。また、福沢諭吉に明治新政府に出仕するよう最後まで説得にあたった。.

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緊急勅令

緊急勅令(きんきゅうちょくれい)とは大日本帝国憲法第8条第1項により、帝国議会閉会中に「緊急の必要がある」場合に法律に代わるものとして制定された勅令。広義には、第70条に基づく勅令による財政上の緊急処分を含む。この項では広義のものについて記述する。なお後述のとおり、ひとつの勅令が第8条と第70条の双方に基づいて制定されたものもある。 下記の一覧にあるとおり大日本帝国憲法下において108本の緊急勅令が制定された。 このうち第8条のみに基づくものが83本、第8条と第70条の双方に基づくものが7本、70条にのみ基づくものが18本となっている。.

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罷免

罷免(ひめん)とは、公務員の職を強制的に免ずることをいう。.

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美濃部達吉

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家、東京帝国大学名誉教授。 天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。 妻・多美子は菊池大麓の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。兄に朝鮮銀行総裁等を務めた美濃部俊吉がおり、その子である商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。同志社大学教授の浜矩子は曾姪孫。.

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真野文二

真野 文二(まの ぶんじ、1861年12月15日(文久元年11月14日) - 1946年(昭和21年)10月17日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の機械工学者。号は蜂声。 文部省実業学務局長、九州帝国大学(九州大学の前身)総長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。.

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統帥権

統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことをいう。.

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田健治郎

健治郎(でん けんじろう、安政2年旧暦2月8日(西暦換算1855年3月25日)- 昭和5年(1930年)11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市)出身。幼名は梅之助、号に譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。.

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田中不二麿

中 不二麿(たなか ふじまろ、弘化2年6月12日(1845年7月16日) - 明治42年(1909年)2月1日)は、日本の幕末・明治期の武士、官僚、政治家。位階爵位は正二位子爵。号は夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。 尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。 明六社会員。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。.

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田中隆三 (政治家)

中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日(元治元年10月15日) - 1940年(昭和15年)12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。.

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由井正臣

由井 正臣(ゆい まさおみ、1933年1月10日 - 2008年4月4日)は、日本の歴史学者、早稲田大学名誉教授。専攻は日本近代史。長野県出身。 近代日本における軍部の成立や田中正造についての研究で知られる。.

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無任所大臣 (日本)

本項では、日本の無任所大臣について詳述する。日本において無任所大臣は内閣総理大臣や各省の大臣が所管しない事務を執り行う国務大臣のことである。広義には各省大臣以外の大臣を指し、内閣官房長官、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣も含まれるが、狭義ではこれらを除いた、どの行政機関をも管掌しない大臣を指す。他国にも、同様の制度が存在する。 なお、この語は公式な法令用語ではなく、通称あるいは学問上の呼称にとどまる。広義の無任所大臣の対義語として「主任の大臣」がある。.

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牧野伸顕

牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。以前の諱は是利(これとし)茶谷によると一時是利(これとし)と名乗ったという(1874年 - 1878年)。。 大久保利通は父、吉田茂は女婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。.

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目賀田種太郎

賀田 種太郎(めがた たねたろう、1853年8月25日(嘉永6年7月21日) - 1926年(大正15年)9月10日)は、日本の政治家・官僚・法学者・裁判官・弁護士・貴族院議員・国際連盟大使・枢密顧問官。男爵。専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。.

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百瀬孝

孝(ももせ たかし、1938年 - )は、日本の福祉学・歴史学者。 栃木県生まれ。1962年東京大学教育学部教育学科卒業、八幡製鐵(現新日本製鐵)株式會社入社、1994年退職。仙台大学教授、群馬医療福祉大学教授、早稲田大学現代政治経済研究所特別研究員を歴任。.

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百武三郎

武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。.

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花房義質

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。.

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芳川顕正

芳川 顕正(よしかわ あきまさ、天保12年12月10日(1842年1月21日) - 大正9年(1920年)1月10日)は、日本の官僚、政治家。阿波国麻植郡山川町(後の徳島県吉野川市)出身。父は原田民部。伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。 男子に恵まれず、四女の鎌子に子爵・曾禰荒助の次男を婿養子にとって家を継がせた(芳川寛治)。三女の富子は藤田財閥2代目藤田平太郎妻。.

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芳澤謙吉

芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身。.

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鎌田栄吉

鎌田 榮吉(かまた えいきち、1857年2月15日(安政4年1月21日国立公文書館『鎌田栄吉』では、鎌田本人は「安政4年1月21日」は戸籍の日付で、実際には「安政4年8月26日」生まれであると語っている。) - 1934年(昭和9年)2月6日)は、紀州藩出身の明治期の官僚、政治家。枢密顧問官、貴族院議員、衆議院議員、文部大臣、第4代慶應義塾塾長、帝国教育会長、造士館教頭。正三位勲一等。号は竹堂。.

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遠藤源六

遠藤 源六(えんどう げんろく、1872年9月17日(明治5年8月15日)- 1971年(昭和46年)5月13日)は、日本の海軍文官、法制官僚、法学者。行政裁判所長官、枢密顧問官、明治大学教授、法学博士。号・虚舟『20世紀日本人名事典 あ-せ』441頁。。.

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荒井賢太郎

水野錬太郎(右)とともに 荒井 賢太郎(あらい けんたろう、文久3年10月15日(1863年11月25日) - 昭和13年(1938年)1月29日)は、日本の官僚・政治家。新潟県士族『人事興信録.

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荒木寅三郎

荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう 1866年11月23日(慶応2年10月17日)-1942年1月28日)は日本の医学者。京都帝国大学総長、学習院長や枢密顧問官を歴任する。.

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菊池大麓

菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。.

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菅原通敬

菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。.

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青木周蔵

青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日(天保15年1月15日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治、大正期の日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。爵位は子爵。.

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西徳二郎

西徳二郎 西 徳二郎(にし とくじろう、1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官、枢密顧問官、薩摩藩出身の男爵。 若年のころはロシアの帝都サンクトペテルブルクに遊学し、その後はロシア・中国(清)両勢力圏に挟まれる中央アジアを調査した経歴を持つ。19世紀末に外務大臣を務め、日本とロシアの韓国問題を調停したことで知られる。子に、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで活躍し、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐がいる。.

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西園寺公望

1871年〜1880年、パリ留学時代 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日(1849年12月6日)グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している - 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32) 。 戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。 その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任した。明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。.

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西郷従道

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ佐々木隆(2002)p.96。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)、内務大臣(第4・5・18代)、貴族院議員を歴任した。.

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西野元

西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 – 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。.

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親任官

親任官の位置づけ 親任官(しんにんかん)は、大日本帝国憲法下における官吏の階級の一つ。明治憲法下の官僚制度での最高の位置付けで、天皇の親任式を経て任命される。親任官と勅任官に対しては、敬称に閣下を用いた。 なお、日本国憲法下においても、内閣総理大臣と最高裁判所長官は親任式で天皇から任命されるが、同憲法施行に伴って親任官・勅任官などの区分が廃止されたため、現在「親任官」と呼ばれる官等は存在しない。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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親王宣下

親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。ここでは、主に日本の皇室について記載する。 明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に、世襲親王家の当主など天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった。 親王宣下が始まったのは淳仁天皇以後である。 たとえば、以仁王、後西天皇の皇女貞宮、後世の比丘尼御所は宣下がなかったので、諸王である。 これに対して、孫王であっても宣下を賜れば親王であり、その最初は小一条院の子敦貞、敦元の2王および儇子、嘉子の2王女である。2王は三条天皇の皇子に準じて親王であり、2王女は天皇の養女として内親王の宣下があった。 この制度によって親王宣下を受けた者で、最後の生存者は1945年(昭和20年)5月に薨去した閑院宮載仁親王である。最後に親王宣下を受けた人物は1886年(明治19年)5月に宣下を受けた東伏見宮依仁親王、親王宣下を受けた最も若い人物は1875年(明治8年)1月生の華頂宮博厚親王である。 現代では皇室典範により、嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫が親王及び内親王であると定められており、皇族は生まれながらにして地位が決まっているため、親王宣下という形で王などの皇族に親王位を与える制度はなくなっている。ただし、王が天皇に即位した場合、その天皇の兄弟姉妹たる王及び女王に親王及び内親王の地位を与えるものとすることが皇室典範第7条に定められている。 Category:身位 *しんのうせんけ.

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香川敬三

幕末期の香川敬三 香川 敬三(かがわ けいぞう、天保10年11月15日(1839年12月20日) - 大正4年(1915年)3月18日)は、水戸藩出身の勤皇志士。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官。諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、華族に編入される。爵位制度ができると子爵となり、のちに伯爵位。従一位勲一等旭日桐花大綬章。生年は天保10年(1839年)という説もある。墓所は青山霊園。.

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諮問

記載なし。

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高島鞆之助

島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日(1844年12月18日) - 大正5年(1916年)1月11日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家、華族。薩摩藩士・高島喜兵衛の四男。諱は昭光。階級は陸軍中将、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任した。また、現在の追手門学院小学校の前身である、大阪偕行社附属小学校の設立者でもある。当時の自宅は上智大学四谷キャンパスのクルトゥルハイム聖堂として現存する。.

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高崎正風

崎 正風(たかさき まさかぜ、天保7年7月28日(1836年9月8日) - 明治45年(1912年2月28日)は志士、作詞家。二条派の歌人。通称は左太郎、他に伊勢、豊麿、左京とも。号は宝義堂。長男元彦は日露戦争で戦死し、その跡は正光、正人と続く。.

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高松宮宣仁親王

松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年(明治38年)1月3日 - 1987年(昭和62年)2月3日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今上天皇の叔父にあたる。有栖川宮の祭祀を継承。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。.

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鳥尾小弥太

鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日(1848年1月10日) - 明治38年(1905年)4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。.

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鳩山一郎

鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。55年体制最初の内閣総理大臣。.

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軍令部

軍令部(ぐんれいぶ)は、日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。.

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黒田内閣

本項では、黒田の総理辞任後2ヵ月間にわたって存在した内大臣の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざんていないかく)についても解説する。三條暫定内閣は、1889年(明治22年)10月25日から同年12月24日まで続いた。.

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黒田長成

黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で侯爵。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知である。妻は公爵島津忠義の娘、清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田長政から数えて福岡黒田家13代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。.

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黒田清綱

黒田 清綱(くろだ きよつな、1830年4月13日(天保元年3月21日) - 1917年(大正6年)3月23日)は、幕末の薩摩藩士。明治期期の官吏・歌人・正二位・勲一等・子爵。薩摩藩士黒田清直の嫡男。母はお守(小倉氏)。通称は新太郎・嘉右衛門・嘉納。雅号は滝園。庶子に黒田清秀・養嗣子に黒田清輝(弟の実子)。同じ薩摩藩出身の黒田清隆との直接の血縁は無い。.

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黒田清隆

黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆」ないし「黑田淸隆」である。、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。.

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黒木為もと

黒木 為楨(くろき ためもと、天保15年3月16日(1844年5月3日) - 大正12年(1923年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。.

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近衛篤麿

近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。.

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近衛文麿

近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。 貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、大政翼賛会総裁(初代)などを歴任した。.

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蜂須賀茂韶

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。.

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都筑馨六

都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日(万延2年2月17日) - 1923年(大正12年)7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。都築と表記される場合がある。.

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鈴木荘六

鈴木荘六書による忠魂碑、大阪府枚方市 鈴木 荘六(すずき そうろく、元治2年2月19日(1865年3月16日)- 昭和15年(1940年)2月20日)は、日本陸軍の軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級。第4代帝国在郷軍人会長。.

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鈴木貫太郎

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級・栄典は海軍大将従一位勲一等功三級男爵。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留めた。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、第二次世界大戦を終戦に導いた。.

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船越衛

船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。.

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阪本さん之助

阪本 釤之助(さかもと さんのすけ、安政4年6月24日(1857年8月13日) - 昭和11年(1936年)12月16日)は、日本の官僚、政治家、詩人。俳号・三橋、雅号・蘋園(ひんえん)。.

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関屋貞三郎

関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年(明治8年)5月4日 - 1950年(昭和25年)6月10日)は、日本の官僚。宮内次官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。栃木県出身。.

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閑院宮載仁親王

閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1945年(昭和20年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人、日本赤十字社総裁。伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。 後継のいなくなった閑院宮を継ぎ第6代当主となる。1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。 また、貴族院創設と同時に皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めたが、これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である。.

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藤沢幾之輔

藤沢 幾之輔(ふじさわ いくのすけ『日本人名大事典 現代』、673頁。、1859年3月20日(安政6年2月16日) - 1940年(昭和15年)4月3日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家、弁護士。衆議院議員、衆議院議長『コンサイス日本人名事典 第4版』、1124頁。、第1次若槻禮次郎内閣の商工大臣、貴族院議員を歴任した。号は成天。.

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藤沼庄平

藤沼庄平 藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2月17日 - 1962年(昭和37年)1月2日)は日本の官僚、政治家。.

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藩閥

藩閥(はんばつ)とは、明治時代を通じて日本の政府や陸海軍の要職をほぼ独占していた「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身の有力者によって形成されていた概念的な寡頭制に対する批判的な呼称。西洋言語では「Meiji oligarchy、Oligarchie de Meiji」と訳される。.

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野村吉三郎

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣をつとめたのち、第二次近衛内閣のとき駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走して戦争回避を模索した。.

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野村靖

野村 靖(のむら やすし、天保13年8月6日(1842年9月10日) - 明治42年(1909年)1月24日)は日本の武士、政治家。子爵。名は和作、靖之助。号を欲庵、香夢庵主。官位は正二位。山口県萩市萩往還公園に天野清三郎と並んだ銅像が立っている。.

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重臣会議

重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和戦前・戦中期の日本において、後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった。最後の元老・西園寺公望の最晩年からその元老としての機能を引き継ぐ形で始まり、戦後に内大臣府が廃止されるまで度々開催された。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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金子堅太郎

金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日(1853年3月13日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。 伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画。また、皇室典範などの諸法典を整備した。日本法律学校(現・日本大学)初代校長。.

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鉄筋コンクリート

鉄筋コンクリート(てっきんコンクリート、reinforced concrete, RC)は、コンクリートの芯に鉄筋を配することで強度を高めたものを指す。コンクリートと鉄を組み合わせることで互いの長所・短所を補い合い、強度や耐久性を向上させるものである。鉄筋混凝土とも表記。 建築や土木分野では極めて一般的な建材・工法である。鉄筋が入っていないことを強調するためにあえて「無筋コンクリート」という表現もある。歴史的には戦時中の日本では、鉄材不足を補うために竹筋コンクリートが用いられた時期もある。.

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陸奥宗光

奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)は、日本の政治家、外交官、武士(紀州藩藩士)。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。 正二位・勲一等・伯爵。家紋は仙台牡丹。.

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柳原前光

柳原 前光(やなぎわら さきみつ)は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家21代当主。大正天皇の伯父。.

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柳田國男

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた。帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いた牧田茂『柳田國男』(中公新書、1972年)。 「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。.

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枢密院

枢密院(すうみついん)は、国王・皇帝の諮問機関である。大統領が元首を務める共和制国家にはこのような機関はない。 「枢密」とは機密や政治上の重要な秘密のこと。.

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枢密院官制

枢密院官制(すうみついんかんせい、明治21年4月30日勅令第22号)とは、1888年(明治21年)に定められた日本の勅令。枢密院についての規定がなされた。 大日本帝国憲法第56条に基づき規定されている。 1947年(昭和22年)の日本国憲法施行時に、「枢密院官制及事務規程等の廃止に関する勅令(昭和22年勅令第203号)」によって昭和22年5月2日限り廃止となった。.

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林友幸

林 友幸(はやし ともゆき、文政6年2月6日(1823年3月18日) - 明治40年(1907年)11月8日)は、日本の武士、政治家。元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。通称は周次郎、半七。栄典は勲一等旭日桐花大綬章伯爵。林博太郎の祖父。.

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林頼三郎

林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年(明治11年)9月6日 - 1958年(昭和33年)5月7日)は、日本の刑法法学者。検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。現在の埼玉県行田市出身。.

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林権助

林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又一郎は父星亮一『松江豊寿と会津武士道』2006年、ベストセラーズ(ベスト新書)、pp87-90、第三章 坂東俘虜収容所 韓国に派遣さる。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。.

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林毅陸

林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日)は、明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。枢密顧問官、衆議院議員、帝国学士院会員、第6代慶應義塾塾長、初代愛知大学学長等を歴任。号は弘堂。 位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。日本の外交史研究の先駆者として知られている。.

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恩赦

恩赦(英:Pardon、おんしゃ)とは、行政権(又は議会)により国家の刑罰権の全部又は一部を消滅若しくは軽減させる制度のことを言う。赦免復権とも。 現在はその権限が行政機関に帰属する例が多いが、フランスなどのように議会(立法機関)に一般的な恩赦の権能を与え、行政機関に個別的な恩赦の権能を与える仕組みになっていることもある。現在、共和制・君主制、大統領制・議院内閣制の政体の差に関係なく、多くの国で行われているhttp://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20170309/frn1703091130003-n1.htm。.

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条約

ウクライナ人民共和国)のボリシェヴィキ政府のあいだで結ばれた講和条約。 条約(じょうやく、treaty、traité、条约、معاهدة、Vertrag)は、文書による国家間の合意である。国際法にもとづいて成立する国際的合意であり、国家および国際機構を拘束する国際的文書が条約であると狭く解す場合もある經塚(2004)。現代では当事者能力をもつのは独立国家に加えて公的な国際機構があり、国際連合などの国際機関も締結主体となり得る。当事国は、原則として、当事国の憲法ないし基本法における手続・制約にもとづいて、国際法が禁止しないいっさいの内容を、交渉によって自由に作成することができる。合意した文書には、条約という名称以外に「協約」「協定」「規約」「憲章」「宣言」「交換公文」「議事録」「議定書」などの名称も使用されるが、名称が異なることによって効力の優劣があるわけではない(詳細後述)。.

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東久世通禧

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ、天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日『平成新修旧華族家系大成』下、384-385頁。)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家。 七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。華族(伯爵)。号は竹亭、古帆軒。.

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東京日日新聞

#東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身にあたる。略称は「東日」(とうにち)。.

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松室致

松室 致(まつむろ いたす、嘉永5年1月2日(1852年1月22日) - 昭和6年(1931年)2月16日)は、日本の司法官僚、政治家、教育者。検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、枢密顧問官を歴任。法政大学学長(1913年 - 1931年)。.

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松岡康毅

松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日(弘化3年6月23日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。従一位男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。.

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松平恆雄

松平 恆雄(まつだいら つねお、恒雄、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。.

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松平正直

松平 正直(まつだいら まさなお、天保15年2月26日(1844年4月13日) - 大正4年(1915年)4月20日)は、幕末の福井藩士、明治期の内務官僚、政治家、実業家。内務次官、県知事、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候、男爵。幼名・源太郎。字は子大。稲香、松坪と号す。.

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松井慶四郎

松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日(慶応4年3月5日) - 1946年(昭和21年)6月4日)は、明治から昭和時代の日本の外交官、外務大臣。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。.

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松浦鎮次郎

松浦 鎮次郎(まつうら しげじろう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 1945年9月28日)は、日本の文部官僚、教育者、政治家。.

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松方正義

松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年(1924年)7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。日本赤十字社社長。.

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杉孫七郎

杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日(天保6年1月16日)- 1920年(大正9年)5月3日)は、日本の武士・長州藩士。明治・大正期の官僚。諱は重華。字は子華。通称は徳輔・忠次郎・少輔九郎。号は松城・聴雨。.

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栗野慎一郎

栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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樺山資紀

樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月2日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。.

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樺山愛輔

樺山 愛輔(かばやま あいすけ、慶応元年5月10日(1865年6月3日) - 昭和28年(1953年)10月21日)は、日本の実業家、政治家。伯爵。.

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櫻井錠二

櫻井 錠二(さくらい じょうじ、1858年9月24日(安政5年8月18日) - 1939年(昭和14年)1月28日)は、日本の化学者。.

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櫻内幸雄

櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年(明治13年)8月14日 - 1947年(昭和22年)10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。.

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武井守正

武井 守正(たけい もりまさ、天保13年3月25日(1842年5月5日) - 大正15年(1926年)12月4日)は日本の武士(姫路藩士)、政治家、実業家。幼名寅三。鳥取県再置後第2代知事。男爵。作曲家武井守成の父。.

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水町袈裟六

水町 袈裟六(みずまち けさろく、元治元年3月11日(1864年4月16日) - 1934年(昭和9年)7月10日)は、日本の官僚。大蔵次官、英仏駐在財務官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官を歴任。横浜正金銀行頭取。法政大学総長。.

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江木千之

江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日 〉 - 1932年〈昭和7年〉8月23日)は、近代日本の文部・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、文部大臣などを歴任。号は狂塢。岩国藩士江木俊敬の長男。.

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池田成彬

池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日(1867年8月15日) - 昭和25年(1950年)10月9日)は、戦前の政治家、財界人。第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)、三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)を歴任。平沼内閣が潰れると、元老・西園寺公望から首相打診があったが陸軍が阿部信行を推したため立ち消えとなり「幻の首相」となった。 『成彬』は故実読みで「せいひん」とも、晩年の質素な生活から「清貧」とも呼ばれた。.

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河原春作

河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1月14日 – 1971年(昭和46年)10月11日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の文部官僚、教育者。.

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河合操

河合 操(かわい みさお、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1941年10月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。.

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河瀬真孝

河瀬 真孝(かわせ まさたか)、天保11年2月9日(1840年3月12日) - 大正8年(1919年)9月29日)は日本の武士(長州藩士)、官僚。はじめ石川新五郎、石川 小五郎(いしかわ こごろう)と称したが、のちに河瀬真孝、河瀬安四郎と改名。位階勲等は正二位勲一等、爵位は子爵。.

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河野敏鎌

河野 敏鎌(こうの とがま、天保15年10月20日(1844年11月29日) - 明治28年(1895年)4月24日)は、明治時代初期の藩閥政府の政治家。子爵。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。.

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河本文一

河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第8巻』167-180頁。 - 1960年(昭和35年)2月22日『山口県百科事典』188頁。)は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。.

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泉二新熊

泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年(明治9年)1月27日 - 1947年(昭和22年)10月25日)は、日本の裁判官、官僚、刑法学者。.

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深井英五

深井 英五(ふかい えいご、明治4年11月20日(1871年12月31日) - 昭和20年(1945年)10月21日)は、日本の銀行家・経済学者・著作家。第13代日本銀行総裁・貴族院議員。群馬県高崎市出身。歴代日銀総裁でもっとも経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として井上準之助をサポートした。ぎりぎりのところで日本経済を救った立役者として知られている。.

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渡辺千秋

渡辺 千秋(渡邉 千秋、わたなべ ちあき、1843年6月17日(天保14年5月20日) - 1921年(大正10年)8月27日)は、幕末の諏訪藩士、明治・大正期の官僚・政治家。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。.

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渡邊千冬

渡邊 千冬学術誌、研究書、辞典類などにおける歴史人物としての表記は「渡辺千冬」、『職員録』など存命時代に活字印刷において正字体に統一された表記が「渡邊千冬」、本人も「渡邊千冬」と署名している。(わたなべ ちふゆ、1876年(明治9年)5月1日 - 1940年(昭和15年)4月18日)は、明治期の政治家、実業家。書家としての号は「無劔(むけん)」。.

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清岡公張

清岡 公張(きよおか ともはる、1841年8月26日(天保12年7月10日) - 1901年(明治34年)2月25日)は、幕末の武士、明治時代の官僚。従二位勲一等子爵。通称は半四郎、号は東望。.

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清水澄

清水 澄(しみず とおる、1868年9月27日(慶応4年8月12日) - 1947年(昭和22年)9月25日)は、日本の憲法・行政法学者。学位は、法学博士。帝国学士院会員。枢密院議長。栄典は従二位勲一等。.

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清浦奎吾

清浦 奎吾(きようら けいご、1850年3月27日(嘉永3年2月14日) - 1942年(昭和17年)11月5日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。 貴族院議員、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任した。.

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満州事変

満州事変(まんしゅうじへん、)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍満洲駐留の大日本帝国陸軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件石原莞爾と板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判の田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満州鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政・北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』))に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。 関東軍はわずか5か月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。.

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潮恵之輔

潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年(明治14年)8月11日 - 1955年(昭和30年)1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。.

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濱口内閣

記載なし。

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濱口雄幸

濱口の署名「空谷」 濱口 雄幸学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「浜口雄幸」、存命当時の『職員録』など印刷物では「濱口雄幸」、御署名原本における署名も「濱口雄幸」である。(はまぐち おさち、1870年5月1日(明治3年4月1日) - 1931年(昭和6年)8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。.

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濱尾新

濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日(嘉永2年4月20日) - 1925年(大正14年)9月25日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育行政官、政治家。旧豊岡藩士。子爵。 文部省専門学務局長、元老院議官、東京帝国大学(東京大学の前身)総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任した。.

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朝鮮総督府

朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ、朝鮮語:조선총독부)は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、同年9月30日に設置された官庁である。庁舎は京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置された。 韓国統監府を前身とし、旧大韓帝国の政府組織を改組・統合したため朝鮮人職員を多く抱えていたが、枢要なポストはほぼ日本人が握っていた。初代総督は寺内正毅。総督は現役または予備役の陸海軍大将が歴任した。1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の敗戦にともない、連合国の指示により業務を停止するため、政務総監遠藤柳作によって呂運亨らに独立に向けて朝鮮建国準備委員会の組織化の打診があるも、その後も総督府の行政は継続され、行政権限は北緯38度線以南の占領行政機関となったアメリカ軍政庁へ引き継がれた。 総督府によりインフラの整備がおこなわれ、結果として伝染病の予防や出生率の増加におよび朝鮮総督府『統計年報』黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社、教育施設では皇民化教育、日本語やハングル崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』祥伝社の教育が進められたが、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まりなども行われた相賀徹夫著・編『日本大百科全書 15』1987年 小学館。これらの政策や事業に対しては批判する意見と評価する意見があり、現在も議論が続けられている。 建物は1948年の韓国の建国から1995年に金泳三大統領に爆破解体されるまで国会議事堂、中央庁、国立中央博物館とされた。.

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末松謙澄

末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日(1855年9月30日) - 大正9年(1920年)10月5日)は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治家・歴史家。子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。.

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本庄繁

本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年(明治9年)5月10日 - 1945年(昭和20年)11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。長男一雄は陸軍主計中佐。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。.

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本田親雄

本田 親雄(ほんだ ちかお、文政12年9月6日(1829年10月3日) - 明治42年(1909年)3月1日)は、幕末から明治時代にかけての武士、官僚。薩摩藩士。.

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有地品之允

有地 品之允(ありち しなのじょう、天保14年3月15日(1843年4月14日) - 大正8年(1919年)1月17日)は日本の軍人、政治家。海軍中将、貴族院議員、男爵。別名・信政。.

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有馬良橘

有馬 良橘(ありま りょうきつ、文久元年11月15日(1861年12月16日) - 昭和19年(1944年)5月1日)は、日本の軍人。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。.

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有松英義

有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日(文久3年6月10日)- 1927年(昭和2年)10月24日)は、日本の官僚。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。.

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最高裁判所 (日本)

記載なし。

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戒厳

戒厳(かいげん)とは、戦時や自然災害、暴動等の緊急事態において兵力をもって国内外の一地域あるいは全国を警備する場合に、国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍部の指揮下に移行することをいう。軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令を戒厳令(英語:martial law)という。 本来はテロなどによる治安悪化や過激な暴動を中止させるために発令が行われる。非常事態宣言との定義の違いは、戒厳令とは国の立法・司法・行政の一部又は全部を軍に移管させることである。通常の民事法・刑事法の適用は一部または全部停止され軍法による統治が行われる。また、裁判は軍事法廷の管轄となる場合がある。 戒厳令は、 クーデター ( タイは2006年と2014年 、エジプトは2013年)に伴い発生する例がある。(中国、 1989年の天安門事件)民衆の抗議・デモ等により政府が危機に陥った際に、反政府勢力を抑える目的で戒厳令が布かれることがある。また、大規模な自然災害の際には戒厳令が宣言される場合がある。戦時中であったり、または民政政府が機能していなかったり、民政政府が存在しない場合は、戒厳令が布かれる場合がある。このような例としては、第二次世界大戦後の復興期のドイツと日本 、そして米国南北戦争後の南部復興の時代などがある。典型的な戒厳令下では夜間外出禁止令を伴う。.

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明治宮殿

明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大戦末期まで、皇室の中心的施設であった。.

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明治記念館

明治記念館(めいじきねんかん)は、東京都港区元赤坂二丁目に所在する総合集宴会施設。 明治神宮による結婚式場として知られる。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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海江田信義

海江田 信義(かいえだ のぶよし、天保3年2月11日(1832年3月13日) - 明治39年(1906年)10月27日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動。雅号は黙声、静山、孤松。.

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斎藤実

斎藤 実(さいとう まこと、旧字体:齋藤 實、1858年12月2日(安政5年10月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。出生時の名前は富五郎(とみごろう)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。 第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務めているあいだに、子爵の称号を受けた。 犬養毅首相が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で射殺された。.

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日本国憲法

日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう)は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法。1947年(昭和22年)5月3日に施行された。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種。 昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。 1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し『世界大百科事典』(平凡社)「日本国憲法」の項目より、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を定め、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。 2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である(Webアーカイブ)出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。 原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。.

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政党

政党(せいとう)とは、共通の政治的目的を持つ者によって組織される団体である。18世紀のイギリス下院議員エドマンド・バークによれば名誉や徳目による結合であり、私利私欲に基づく人間集団(徒党)ではないとしている。.

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憲法

憲法(けんぽう)とは、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。一般的に国家は個々の国民に生殺与奪の権利を認めない。なお、法規範ではなく国家の政治的統一体の構造や組織そのものを指す場合もあり(事実的意味の憲法)佐藤幸治『憲法』青林書院 16~17頁、このほか憲法は多義的な概念として論じられる。国家における統治機構や統治者や為政者、また国民の義務や権利に加え、前文に「国」の成り立ちや政府樹立の目的、さらには「神」について記載されたりもする。.

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曾禰荒助

曾禰 荒助(そね あらすけ、新字体:曽祢、嘉永2年1月28日(1849年2月20日) - 明治43年(1910年)9月13日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、外交官。明治時代の歴代内閣で閣僚職を歴任した。伊藤博文が暗殺された後に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた。.

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曾我祐準

曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日(1844年2月13日) - 昭和10年(1935年)11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。.

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10月29日

10月29日(じゅうがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から302日目(閏年では303日目)にあたり、年末まであと63日ある。.

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1888年

記載なし。

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1889年

記載なし。

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1921年

記載なし。

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1927年

記載なし。

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1928年

記載なし。

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1930年

記載なし。

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1931年

記載なし。

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1946年

記載なし。

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1947年

記載なし。

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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5月2日

5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.

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