ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

東西教会の分裂

索引 東西教会の分裂

東西教会の分裂(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる。 分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年とされることが多い。 しかし395年にローマ帝国が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)などが増大した - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一) - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)。そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、いまだに東西両教会の「合同」は成立していない - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)。 キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。.

140 関係: 助祭十字軍古代ギリシア語司祭大司教大シスマ奉神礼宝座 (正教会)対立教皇不朽体府主教復古カトリック教会修道士北米聖公会ナポリミナレットミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)マンハッタン宣言ハノーヴァー朝ポーランド正教会モラヴィアモラヴィア王国モスクモスクワ総主教ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)ルーマニア正教会ルーシレオ9世 (ローマ教皇)ロマノフ朝ローマローマ帝国ロシア革命ロシア正教会ヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)ブレスト合同プロテスタントパレオロゴス王朝パウロ6世 (ローマ教皇)ビザンティン・ハーモニーフランシスコ (ローマ教皇)フル・コミュニオンフィリオクェ問題フィレンツェ公会議フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)ベネディクト16世 (ローマ教皇)アメリカ合衆国アヤソフィアアレクサンドリア総主教庁アンティオキア総主教庁アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)...イエズス会イコノクラスムイコノスタシスイスタンブールイタリアウクライナウクライナ東方カトリック教会エルサレムエルサレム総主教庁エピクレーシスエキュメニズムエクス・カテドラオフリドのクリメントオスマン帝国カール大帝カトリック教会キリル1世 (モスクワ総主教)キリスト教キリスト教諸教派の一覧ギリシア語コンスタンティノープルコンスタンティノス9世モノマコスコンスタンティヌスの寄進状コンスタンディヌーポリ総主教庁シスマジャパンタイムズジグムント3世スラヴ語派スルターンターバン再建典礼皇帝破門福音派秘跡第1バチカン公会議第2バチカン公会議第4回十字軍総大司教総主教独立正教会相互聖餐聖堂聖体聖体礼儀聖別聖ゲオルギオス教会聖公会聖霊領聖西ローマ帝国西方教会首座主教詠隊高橋保行輔祭至聖所枢機卿東ローマ帝国東方典礼カトリック教会機密 (正教会)正教会正教徒洗礼日本ハリストス正教会救世主ハリストス大聖堂教会教会大分裂教会会議教皇教皇不可謬説教皇冠教皇首位説1054年11世紀1204年12月7日14世紀1596年15世紀16世紀1840年1870年1920年1964年1965年2006年395年476年 インデックスを展開 (90 もっと) »

助祭

助祭(じょさい、)はキリスト教における教会職務のひとつで、ギリシャ語のδιάκονος(奉仕者の意)を語源とする。カトリック教会では、司祭につぐ職位。正教会では「輔祭」の訳語を、聖公会などプロテスタントでは「執事」という訳語を用いている。 ラテン語ではdiaconusといい、トリエント公会議では「聖職位階の上位」であったが、第2バチカン公会議ではそれまで存在した副助祭、祓魔師、読師、守門という四つの下級叙品が廃止されたため、現代では「聖職位階の下位」(『教会憲章』29項)となっている。 第二バチカン公会議以来、助祭を司祭への通過点や、ミサなどの典礼における単なる「司祭の補助」と見なすのではなく、助祭として固有の職務を再確認する方向に進んでいる。これに伴い司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭 (permanent deacon) の制度が復活し、最近では日本でも登場し始めている。 また、中世以降(現教会法でも)、助祭は男性に限られているが、カルケドン公会議などで40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史において見られる。 Category:キリスト教の称号・役職 Category:カトリック en:Deacon id:Diakon pl:Diakonat.

新しい!!: 東西教会の分裂と助祭 · 続きを見る »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と十字軍 · 続きを見る »

古代ギリシア語

古代ギリシア語(こだいギリシアご、Ἑλληνική、現代ギリシア語:Αρχαία ελληνική γλώσσα)は、ギリシア語の歴史上の一時期を指す言葉。古代ギリシアの、アルカイック期(紀元前8世紀 - 前6世紀)、古典期(前6世紀 - 前4世紀)、ヘレニズム期(前4世紀 - 後6世紀)の3つの時代に跨がっており、様々な方言が存在し、古典ギリシア語もその一つである。.

新しい!!: 東西教会の分裂と古代ギリシア語 · 続きを見る »

司祭

司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.

新しい!!: 東西教会の分裂と司祭 · 続きを見る »

大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。.

新しい!!: 東西教会の分裂と大司教 · 続きを見る »

大シスマ

大シスマ(だいシスマ).

新しい!!: 東西教会の分裂と大シスマ · 続きを見る »

奉神礼

在のコンスタンディヌーポリ総主教座聖堂である聖ゲオルギオス大聖堂の内観。奉神礼時の光景。詠隊が歌っている。左側に至聖所のイコノスタシスが写っている。 奉神礼(ほうしんれい、λειτουργία高橋保行『ギリシャ正教』162頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002), Богослуже́ние, Liturgy)は、正教会における奉事・祈りの総称。日本ハリストス正教会の訳語。カトリック教会における典礼に相当する。 公祈祷(時と場所を定めて行われる公的な祈祷)と私祈祷(日々の生活の場や私室等において行う祈祷や臨時祈祷等)のいずれも含む。公に行う狭義の奉神礼を指す事を特に示したい場合には「公祈祷」「公奉神礼」といった用語が用いられる。 聖体礼儀などの機密を含む礼儀の他にも、毎日の奉事である時課、さらに成聖式・各種祈願・モレーベン・パニヒダ・埋葬式などの機会に応じた祈祷などが含まれる。 より広義には、奉神礼には日々の生活までが含まれる。正教会では奉神礼(=リトゥルギア)の範囲をどこからどこまでというように明確に区分する事を避け、奉神礼を広義の奉神礼としての生活の雛形として捉えるべきである事を教えている。 本記事では祈り・儀礼の総称としての奉神礼について詳述する。.

新しい!!: 東西教会の分裂と奉神礼 · 続きを見る »

宝座 (正教会)

ヴァラーム修道院の顕栄聖堂の至聖所にある宝座(写真中央)。七燭台が後方に置かれ、さらに向こう側の壁際には奉献台が覆いを掛けられた状態で置かれている。 宝座(寶座、ほうざ, Αγία Τράπεζα, Престол)とは、正教会の聖堂内の至聖所に設けられる祭壇。聖体礼儀の中心をなす台座であり、至聖所の中心に設けられる。聖堂の中心的存在として位置付けられる。形状が四角形であるのは、福音が世界の四方へ広がっていく事を象徴するとされる。 また、正教会では天使の一階級名でもある。 日本正教会訳聖書および日本正教会の祈祷書では旧字体である「寶座」が用いられているが、「宝座」の表記も同教会で用いられる。以下、本記事では一部を除き、「宝座」の表記を用いる。.

新しい!!: 東西教会の分裂と宝座 (正教会) · 続きを見る »

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と対立教皇 · 続きを見る »

不朽体

不朽体(ふきゅうたい)は正教会(日本ハリストス正教会)の用語で、聖人の遺体のこと。聖人は来世の生命を先取りして得ていると信じられ、このため来世の光栄体(聖書では「朽ちない身体」)同様、その今生における身体も神の恩寵によって不朽のものとされたと捉えてこのように呼ぶ。 聖像(イコン)と同様崇敬の対象となる。 正教会においては、教会の宝座(祭壇)の下には不朽体を安置することが望ましいと考えられている。堂の献じられた聖人は、宝座の下に安置された不朽体の聖人と、同一であることを要さない。(つまり、聖人に献じた堂であっても、必ずしもその同一の聖人の不朽体を宝座の下に安置する必要はなく、別人であってもよい。) 信者が崇敬を表するには、十字を二回画き、そののち不朽体に接吻し、しかるのち祈祷し、再び十字を画く。接吻は必ずしも直接なされることを要さず、ガラスケース等を介して行われることがしばしばある。ある聖人の聖像にその不朽体の一部を釘などで固定することもある。この場合多く保存の便を顧慮し、不朽体の上に覆いを施す。 一部の聖人には、不朽体の発見、移動などが特別の祭日とされるものがある。次のものが特によく知られている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と不朽体 · 続きを見る »

府主教

ンボスキニオン(チョトキ)と呼ばれる、正教会での数珠状の祈りの用具。リヤサを着用している。 府主教(ふしゅきょう、Μητροπολίτης, Митрополит, metropolitan)はキリスト教のうちで正教会の主教品の位階の一つで、日本正教会の訳語。カトリック教会の管区大司教、あるいは首都大司教に相当する。 正教会の場合、主教の上位聖職者として、総主教、府主教、大主教がある。各地域の正教会毎に序列が異なる。.

新しい!!: 東西教会の分裂と府主教 · 続きを見る »

復古カトリック教会

復古カトリック教会(ふっこカトリックきょうかい、Altkatholische Kirche, Old Catholic Church)は、1870年の第1バチカン公会議で決定された教皇不可謬説などに反対し、ローマ・カトリック教会から分離して成立したキリスト教の教派。おもに1870年代に、ローマ・カトリック教会から離れた、ドイツ語圏のカトリック教会から構成された。 オランダ・南ドイツ・スイス・オーストリアなど中欧圏を中心に信者がいるほか、アメリカなどにも教会がある。古カトリック教会とも。また同教会の運動・主張を指す場合、復古カトリック主義とも呼称される。初期の著名な指導者にドイツの神学者ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガーがいる『キリスト教大事典 改訂新版』911頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版。.

新しい!!: 東西教会の分裂と復古カトリック教会 · 続きを見る »

修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

新しい!!: 東西教会の分裂と修道士 · 続きを見る »

北米聖公会

北米聖公会(The Anglican Church in North America (ACNA))は、キリスト教の教派で、聖公会の伝統を守る。アングリカン・コミュニオンのメンバーではないものの、ナイジェリアとウガンダの聖公会とはフル・コミュニオンの関係にある。アメリカ合衆国とカナダの28の教区からなる。 2008年12月4日にイリノイ州で教会の規則を作成し、2009年6月22日に批准。 北米聖公会は同性愛を認める米国聖公会とカナダ聖公会のリベラルに抗して、保守的キリスト教の神学的立場から形成された。 2009年6月22日に創立大会が行われる。福音派の指導者リック・ウォレンとアメリカ正教会の首座主教ヨナ・パフハウゼンが説教した。.

新しい!!: 東西教会の分裂と北米聖公会 · 続きを見る »

ナポリ

ナポリ(Napoli; ナポリ語: Napule)は、イタリア南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約98万人の基礎自治体(コムーネ)。カンパニア州の州都であり、ナポリ県の県都でもある。ローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市で、南イタリア最大の都市である。都市圏人口は約300万人。 ナポリ湾に面した港湾都市・工業都市である。古代ギリシア人によって建設された植民市に起源を持ち、13世紀以降はナポリ王国の首都として南イタリアの政治・経済の中心地となった。ヴェスヴィオ火山を背景とする風光明媚な景観で知られる観光都市であり、「ナポリを見てから死ね (vedi Napoli e poi muori)」日本のことわざでいうところの「日光を見ずに結構と言うな」と謳われる。旧市街地は「ナポリ歴史地区」として世界遺産に登録されている。ナポリ周辺にも、ヴェスヴィオ火山やポンペイの遺跡、カプリ島などの観光地を有する。.

新しい!!: 東西教会の分裂とナポリ · 続きを見る »

ミナレット

ミナレット(Minaret)は、モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた杉村「ミナレット」『新イスラム事典』、471-472頁。 ミナレットはアラビア語で「火、光を灯す場所」を意味するマナーラ (منارة manāra) が英語に転訛した言葉である。アラビア語では「光(ヌール)」「火(ナーラ)」から派生したマナール (منار manār) あるいはマナーラ (منارة manāra) のほか、「アザーンを行う場所」を意味するマアザナと呼ばれることもある。トルコ語では「ミナレ(Minare)」と呼ばれ、エジプトやシリアでは「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、北アフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」とも呼ばれる。南アジアではミーナール (مينار mīnār) とも呼ばれる。日本語では「光塔」「尖塔」と訳されることもある深見『イスラム建築がおもしろい』、42-43頁。.

新しい!!: 東西教会の分裂とミナレット · 続きを見る »

ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)

ミハイル1世キルラリオス(Μιχαήλ Α΄ Κηρουλάριος, Michael I Cerularius, 1000年頃 - 1059年)は、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教(在位:1043年 - 1059年)。「ミハイル」は中世以降変化したギリシャ語・現代ギリシャ語の読みを反映した転写で、古典ギリシャ語の再建音風の転写をすれば、ミカエル1世ケルラリオスもしくはミカエール1世ケールーラリオスとなる。ミカエル・ケルラリオスとも表記される。.

新しい!!: 東西教会の分裂とミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) · 続きを見る »

マンハッタン宣言

マンハッタン宣言 キリスト者の良心の呼び掛け(マンハッタンせんげん キリストしゃのりょうしんのよびかけ、Manhattan Declaration: A Call of Christian Conscience)は、アメリカ合衆国の保守的福音派、カトリック教会内の保守派、北米聖公会、正教会の指導者152名(発表前日時点)が署名し2009年11月20日に発表されたキリスト教の宣言 。進行中の政治および社会的論議を念頭におきつつ、同性結婚や人工妊娠中絶を容認する法制度へ反対するキリスト教、プロライフの立場を再確認し、市民的不服従を通じて積極的にこの立場へ参画することを呼びかけている 。.

新しい!!: 東西教会の分裂とマンハッタン宣言 · 続きを見る »

ハノーヴァー朝

ハノーヴァー朝(ハノーヴァーちょう、英語:)は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家から国王を迎えて成立した。 ハノーヴァー家(House of Hanover )は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の分邦の一つカレンベルク侯領(1692年からハノーファー選帝侯領)の君主の家系であったが、ステュアート家の血筋を引いていたことからイギリスの王家となり、ハノーファー選帝侯領(1814年からハノーファー王国)とイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。1837年、女王ヴィクトリアの即位によりハノーファー王国との同君連合を解消した。 1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバートの家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。 なお、初代(ジョージ1世)から4代(ジョージ4世)まで、連続して4人の「ジョージ」(ゲオルク)という名の王が在位していたことから、この時期を特にジョージ王朝(時代)と称することがあり、文化史ではこの時期を中心とした「ジョージアン時代」という区分もある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とハノーヴァー朝 · 続きを見る »

ポーランド正教会

ポーランド正教会(ポーランド独立正教会とも。Polski Autokefaliczny Kościół Prawosławny)は、世界の正教会とフル・コミュニオンにある独立正教会の一つである。同教会は第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復した際、東部在住のポーランド人・ウクライナ人・ベラルーシ人の正教徒を管轄するために1924年に設立された。 正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ポーランド正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。.

新しい!!: 東西教会の分裂とポーランド正教会 · 続きを見る »

モラヴィア

モラヴィア(Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(Morava)、ドイツ語ではメーレン(Mähren)と呼ばれる。面積は約26,000km2稲野「モラビア」『東欧を知る事典』新版、574-575頁。.

新しい!!: 東西教会の分裂とモラヴィア · 続きを見る »

モラヴィア王国

ワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。 キュリロスの像(モラヴィア地方・オロモウツにある三位一体柱の一部) モラヴィア王国 (Veľkomoravská ríša) は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。.

新しい!!: 東西教会の分裂とモラヴィア王国 · 続きを見る »

モスク

モスク(mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ を行う場所)の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ、清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼び名である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。.

新しい!!: 東西教会の分裂とモスク · 続きを見る »

モスクワ総主教

モスクワ総主教公邸の一室。歴代モスクワ総主教の肖像が掛けられている。ここでは多くの総主教達がクーコリを被った姿で描かれている。 モスクワ総主教(モスクワそうしゅきょう)は、ロシアの独立した正教会であるロシア正教会の長たる総主教。正式の称号はモスクワおよび全ロシアの総主教である。現在のモスクワ総主教はキリル1世である(2009年2月1日より)。.

新しい!!: 東西教会の分裂とモスクワ総主教 · 続きを見る »

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus PP.、英:John Paul II、伊:Giovanni Paolo II、波:Jan Paweł II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。 カトリック教会の聖人で、ヨハネ23世とともに、ピウス10世以来60年ぶりに列聖された教皇である。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。 冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たした。 また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。.

新しい!!: 東西教会の分裂とヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ルーマニア正教会

ルーマニア正教会(ルーマニアせいきょうかい、ルーマニア語:Biserica Ortodoxă Română 、英語:Romanian Orthodox Church)は、正教会に属する独立教会のひとつ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。 正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(ルーマニア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。.

新しい!!: 東西教会の分裂とルーマニア正教会 · 続きを見る »

ルーシ

ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.

新しい!!: 東西教会の分裂とルーシ · 続きを見る »

レオ9世 (ローマ教皇)

レオ9世(Leo IX, 1002年6月21日 - 1054年4月19日)は、ローマ教皇(在位:1049年 - 1054年)。ヒルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)らの人材を得て教会改革に尽力した教皇。聖別されており、教会慣用名はレオ小林(1966)巻末「歴代法王表」p.7。.

新しい!!: 東西教会の分裂とレオ9世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ロマノフ朝

マノフ朝(ロマノフちょう、1613年 - 1917年)は、1613年から1917年までロシアに君臨したロシアの歴史上最後の王朝である。1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して成立した。その後1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命で滅亡した。 政体はロシア・ツァーリ国とロシア帝国に分かれ、首都はモスクワからサンクトペテルブルク(ペトログラード)に遷っている。また王家はロマノフ家からドイツ貴族のホルシュタイン=ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しい(後述)。 このように歴史学上では区分されるが、1913年に「」が挙行されるなど、ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いた王朝であるという認識を当時の人々は持っていた(ハプスブルク家とハプスブルク・ロートリンゲン家、ハノーバー朝とウィンザー朝参照)。現在でも単に「ロマノフ朝」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いたロシアの王朝」と指すのが一般的である。.

新しい!!: 東西教会の分裂とロマノフ朝 · 続きを見る »

ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

新しい!!: 東西教会の分裂とローマ · 続きを見る »

ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

新しい!!: 東西教会の分裂とローマ帝国 · 続きを見る »

ロシア革命

ア革命(ロシアかくめい, Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ, Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。 「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とロシア革命 · 続きを見る »

ロシア正教会

ア正教会(ロシアせいきょうかい、Русская Православная Церковь、Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。 正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。 教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名である。 本項では日本正教会による訳語を断りなく用いる場合がある。 17世紀の奉神礼改革に反対し古い奉事方法を守ったために主流派ロシア正教会から追放された古儀式派は、自らこそが正統なロシア正教会だとしている。.

新しい!!: 東西教会の分裂とロシア正教会 · 続きを見る »

ヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)

米国大統領バラク・オバマと会談するヴァルソロメオス1世(イスタンブール、2009年4月7日) ヴァルソロメオス1世総主教(Πατριάρχης Βαρθολομαίος Α、Patrik I. Bartholomeos、Patriarch Bartholomew I、1940年2月29日 - )は、コンスタンディヌーポリ全地総主教であり、正教会の第一人者("first among equals")である。1991年11月2日より在位しており、ヴァルソロメオス1世は世界の3億人の正教信徒の精神的指導者である Ecumenical Patriarch Bartholomew: insights into an Orthodox Christian worldview (2007) John Chryssavgis International Journal of Environmental Studies, 64, (1);pp: 9 - 18。 転写には様々な方法があるが、本記事名は現代ギリシア語からの転写に拠った。.

新しい!!: 東西教会の分裂とヴァルソロメオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) · 続きを見る »

ブレスト合同

ブレスト合同(ブレストごうどう、Берасьце́йская у́нія、Берестейська унія、Union of Brest)とは、1596年にウクライナ東方カトリック教会が成立した、教会の合同を言う。 ブレストの位置(ベラルーシの地図).

新しい!!: 東西教会の分裂とブレスト合同 · 続きを見る »

プロテスタント

プロテスタント(Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。.

新しい!!: 東西教会の分裂とプロテスタント · 続きを見る »

パレオロゴス王朝

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とパレオロゴス王朝 · 続きを見る »

パウロ6世 (ローマ教皇)

パウロ6世(Paulus PP.、Paul VI、1897年9月26日 - 1978年8月6日)は、第262代ローマ教皇(在位:1963年6月21日 - 1978年8月6日)。カトリック教会の福者。 本名はジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ(Giovanni Battista Montini)。第2バチカン公会議をヨハネ23世から引継いで全うし、その理念の実施を促進。パウルス6世とも表記される。.

新しい!!: 東西教会の分裂とパウロ6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ビザンティン・ハーモニー

ビザンティン・ハーモニー(ビザンチン・ハーモニー、シンフォニア、Симфония, Byzantine harmony, or Symphonia)とは、国家と教会の関係のあり方を指す、正教会における神学・政治学上の基本的概念。国家と教会の両者を対立関係(いずれかが上位であるか、両者が同等なものであるかを問わない)にあるものとしてではなく、互いに立場を尊重・理解して支え合い、この世を来世の写しとするために共に歩むものとして位置づける高橋(1980: 87-91)。 正教会において西方教会と異なる教会伝統、神学理解、歴史的経緯を経て形成された。西方教会において問題となる皇帝教皇主義、教皇皇帝主義、政教分離とは異なる概念。 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の政体につき皇帝教皇主義との説明がなされる事があるが、これは西欧からの視点で後世に作られた術語である。正教会側は東ローマ帝国における政治理念につき、ビザンティン・ハーモニーとして理解する。.

新しい!!: 東西教会の分裂とビザンティン・ハーモニー · 続きを見る »

フランシスコ (ローマ教皇)

フランシスコ(Franciscus、Francesco、Francisco、Francis、1936年12月17日 - )は、第266代ローマ教皇(在位:2013年3月13日 - )。就任カトリック教会では「就任」もしくは「着座」という用語が使われる。(カトリック中央協議会)は3月19日であり、この日にサン・ピエトロ広場において就任ミサを執り行った。.

新しい!!: 東西教会の分裂とフランシスコ (ローマ教皇) · 続きを見る »

フル・コミュニオン

フル・コミュニオン(Full communion)はキリスト教の教会論において、相互に同じ教理を分かち合う、共同体同士もしくは共同体と個人との間にある、コミュニオンの関係を表す術語。 カトリック教会と正教会は、それぞれの地域教会にフル・コミュニオンを認めて一つの統一された教会としている。他の西方の諸教派は術語「フル・コミュニオン」を、異なったアイデンティティをもつそれぞれの教会・共同体において実際的にアレンジして用いている。 日本語におけるフル・コミュニオンの類語としては完全相互陪餐などがあるが、ほとんどの教派において完全な(Full)コミュニオン(communion)とは聖餐(陪餐・聖体拝領・領聖)の局面のみに限定されないため、フル・コミュニオンと完全相互陪餐は同義ではない。.

新しい!!: 東西教会の分裂とフル・コミュニオン · 続きを見る »

フィリオクェ問題

フィリオクェ問題(フィリオクェもんだい)とは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の解釈・翻訳をめぐる問題である。キリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主因となった。 西方教会でいう聖霊すなわち正教会でいう聖神は、父なる神と、子にして神であり人でもあるイエス・キリストとともに、三位一体を構成する。問題は、正教会では「聖神は父より発する」とされるが、カトリック教会では「聖霊は父と子より発する」とされる点の相違である。 「フィリオクェ」という語はラテン語で「また子より」を意味する “Filioque” の音写である。Filioque とは、「子」を意味する名詞 filius の奪格 filio に、「~もまた」を意味する接尾辞的接続詞 -que が附加されたものである。古典ラテン語の発音からいうと「フィーリオークェ」とするのが最も原音に近いが、ラテン語を日本語に写す際には長音は省かれることが多く、また教会ラテン語では長母音と短母音との区別がないため、一般に「フィリオクェ」と読まれる。また、表記の違いにより「フィリオケ問題」や「フィリオクエ問題」とも呼ばれる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とフィリオクェ問題 · 続きを見る »

フィレンツェ公会議

フィレンツェ公会議(フィレンツェこうかいぎ)は1430年代にイタリアで(初めはフェラーラで1438年から、フィレンツェで1439年から)開催されたキリスト教(カトリック)の公会議。バーゼル公会議(1431年 - )が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派らはイタリアに移転し、公会議派はバーゼル(スイス)に留まった。イタリアでは主に東方正教会とローマ・カトリック教会の再合同について議論された。 バーゼルでの会期をあわせてバーゼル公会議あるいはバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議と呼んだり、公会議の後半会期にあたるフェラーラからフィレンツェ、ローマで行われた会期をフェラーラ・フィレンツェ公会議などと呼ぶこともある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とフィレンツェ公会議 · 続きを見る »

フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)

フォティオス(ギリシャ語:Φώτιος, ラテン文字表記:Photios, 820年 - 897年)は、中世の東ローマ帝国の知識人、官僚、キリスト教の聖職者。コンスタンティノポリス総主教(在位:858年 - 867年、877年 - 886年)。正教会では聖人である(聖フォティオス)。記憶日は2月6日。ユリウス暦使用教会では2月19日。 フィリオクェ問題について「及び子からの発出」に反対する説を唱えた。またキュリロスとメトディオスによるスラヴ人への宣教を後援した。 もともとフォティオスは、当時の東ローマ帝国を代表する学者であった。彼は7世紀の戦乱で散逸してしまった古代ギリシアの文献の収集に努め、コンスタンティノポリスに置かれた帝国大学哲学科の教授も務めていた。851年頃に皇帝直属官僚の尚書局長官に任命され、さらに858年には皇帝ミカエル3世(在位:838年-867年)によってコンスタンティノポリス総主教に任命された。 フォティオスが任命されると、それまで教会の聖職者でなく在俗の信徒であった彼がその職に適格かどうかをめぐって議論が起こった。前総主教イグナティオス支持の修道士を中心とする反フォティオス派は、ローマ教皇と手を結んで激しく反発し、863年にはローマ教皇ニコラウス1世がラテラノの教会会議でフォティオスの廃位を宣言した。 それに対して、867年に皇帝ミカエル3世主宰の教会会議が教皇ニコラウス1世を破門し、ローマ教会のフィリオクェ問題について「子からも発出する」とした教義を異端と決定した。これによってローマとコンスタンティノポリスの教会は、後に「」(863年-867年)と呼ばれる対立状態に陥った。 867年にクーデターでバシレイオス1世(在位:867年-876年)が東ローマ皇帝となると、バシレイオス1世はローマ教会との関係改善をねらってフォティオスを罷免し、イグナティオスを再任。さらには869年から870年、第4回コンスタンティノポリス公会議によってフォティオスの追放を議決した。 しかし、その後もブルガリアの教会の帰属問題などでローマ教皇との関係は改善しなかったため、考えを改めたバシレイオス1世は877年にフォティオスを総主教に再任し、皇子達の教育を任せた。879年から880年にかけてのコンスタンティノポリスの教会会議では、教皇の特使もフォティオスの復権を認め、「フォティオスの分離」は終結した。 フォティオスはその後も総主教を務めたが、886年にバシレイオス1世が死去し、フォティオスの教え子であったバシレイオスの息子レオーン6世(在位:886年-912年)が皇帝に即位すると、父バシレイオスと対立していたレオーン6世は父の協力者であったフォティオスをアルメニアへ追放し、フォティオスはそこで死亡した。 フォティオスは古代ギリシアの古典に対して非常に造詣が深く、その博識ぶりは政敵イグナティオス派の人物も驚嘆するほどであったという(イグナティオス派は「悪魔に魂を売って知識を得たに違いない」と非難していた)。彼によって始められた古代ギリシア文化の復興は、レオーン6世の息子コンスタンティノス7世の時代に後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の一大興隆をもたらすことになる。このフォティオスの編纂とされる、280冊もの古典に関する書評を記載した「図書総覧」(:en:Bibliotheca)は、彼が845年にサマーラのアッバース朝の宮廷へ使者として派遣された時に編纂された、という議論がある。つまり、アッバース朝のギリシア古典翻訳運動に刺激を受けて編纂した、という可能性がある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とフォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) · 続きを見る »

ベネディクト16世 (ローマ教皇)

ベネディクト16世(Benedictus PP.、Benedict XVI、1927年4月16日 - )は、第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - 2013年2月28日)。719年ぶりに自由な意思によって生前退位し名誉教皇となった。ベネディクトゥス16世と表記されることもある。 ドイツ出身で本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)。.

新しい!!: 東西教会の分裂とベネディクト16世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

新しい!!: 東西教会の分裂とアメリカ合衆国 · 続きを見る »

アヤソフィア

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったMüller-Wiener (1977), p. 112.が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり"." ArchNet.、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(Ayasofya Müzesi)として使われている。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。.

新しい!!: 東西教会の分裂とアヤソフィア · 続きを見る »

アレクサンドリア総主教庁

アレクサンドリア総主教庁は、パパ・アレクサンドリア総主教の機関・座所を言う。アレクサンドリア総主教は現在2人いる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とアレクサンドリア総主教庁 · 続きを見る »

アンティオキア総主教庁

アンティオキア総主教庁(アンティオキアそうしゅきょうちょう、現代ギリシア語:Πατριαρχεῖον Ἀντιοχείας, 英語:Greek Orthodox Patriarchate of Antioch and All the East, アラビア語:بطريركية أنطاكية وسائر المشرق للروم الأرثوذكس)は正教会に属する教会。古代の五総主教座のひとつである。正式名称は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」。アンティオキア正教会と呼ばれることもある。シリアにおける教会の中では最大多数派。.

新しい!!: 東西教会の分裂とアンティオキア総主教庁 · 続きを見る »

アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)

ンスタンディヌーポリ総主教アシナゴラス(Ο Πατριάρχης Κωνσταντινουπόλεως Αθηναγόρας, 1886年3月25日 - 1972年1月7日)は、1886年にイピロスのヴァシリコ(Vasiliko)村に、俗名アリストクリス・スピルー(Αριστοκλής Σπύρου)として生まれた。「アシナゴラス」は現代ギリシア語転写であり、「アテナゴラス」(もしくはアテーナゴラス)は、古典ギリシア語の再建音転写。.

新しい!!: 東西教会の分裂とアシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教) · 続きを見る »

イエズス会

イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.

新しい!!: 東西教会の分裂とイエズス会 · 続きを見る »

イコノクラスム

イコノクラスム(iconoclasm, εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である(英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。 キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とイコノクラスム · 続きを見る »

イコノスタシス

イコノスタシス(iconostasis、「聖障(せいしょう)」と訳される)とは聖所(せいじょ・内陣)と至聖所(しせいじょ)を区切る、イコンで覆われた壁である。正教会と東方諸教会の聖堂で用いられる。日本正教会ではロシア語の""(イコノスタス)に準拠し「イコノスタス」と呼ばれる事が多いが、ギリシャ語()・英語(Iconostasis)に由来する「イコノスタシス」の表記も用いられる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とイコノスタシス · 続きを見る »

イスタンブール

イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とイスタンブール · 続きを見る »

イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

新しい!!: 東西教会の分裂とイタリア · 続きを見る »

ウクライナ

ウクライナ(Україна、)は、東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。 16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。 キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国やポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。 歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係が深い。 また本来の「ルーシ」「ロシア」とは、現在のロシア連邦よりもウクライナを指した。.

新しい!!: 東西教会の分裂とウクライナ · 続きを見る »

ウクライナ東方カトリック教会

ウクライナ国内で最も有名なウクライナ・カトリック教会、聖ユーラ大聖堂。 ウクライナ東方カトリック教会(ウクライナ語:Українська Греко-Католицька Церкваウクライィーンスィカ・フレーコ・カトルィーツィカ・ツェールクヴァ英語表記:The Ukrainian Greek Catholic Church (略記:UGCC))は、キリスト教の一派で、カトリック教会と完全な一致を保ちながら独立自治の立場にある東方典礼カトリック教会(帰一教会、東方カトリック教会)の一つ。ウクライナ・ギリシア・カトリック教会ともいう。この場合の「ギリシア」は、典礼様式と伝統がビザンティン典礼であることを指し、ラテン典礼の「ローマ」カトリック教会とは区別され、典礼は正教会と同じ形式によって行う。.

新しい!!: 東西教会の分裂とウクライナ東方カトリック教会 · 続きを見る »

エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

新しい!!: 東西教会の分裂とエルサレム · 続きを見る »

エルサレム総主教庁

生神女福音聖堂(エルサレム総主教庁所属)。 エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。 451年までエルサレムには正教の主教座が置かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。 記録に残る最古のエルサレム総主教は62年のイアコフであり、これは伝承によれば「義人イヤコフ」と同一の人物である。イスラム教登場後、パレスチナがアラブ人に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムから追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。 今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳墓教会に置かれている。.

新しい!!: 東西教会の分裂とエルサレム総主教庁 · 続きを見る »

エピクレーシス

ピクレーシス、(epiclesis、epiklesis)とは、三位一体の第三位格である聖霊を求める祈りである。聖餐の聖別のとき司祭によって唱えられるが、キリスト教の教派により相違がある。 聖公会の高教会(ハイチャーチ)などでは結婚における聖霊を求める祈りもエピクレーシスと呼ばれる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とエピクレーシス · 続きを見る »

エキュメニズム

ュメニズム(Ecumenism)とは、キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のことである。世界教会主義(せかいきょうかいしゅぎ)ともいう。転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もある。.

新しい!!: 東西教会の分裂とエキュメニズム · 続きを見る »

エクス・カテドラ

・カテドラ(ex cathedra)とは、ローマ・カトリック教会の用語で、ローマ教皇(教皇)が持つ権威(または職権)のうち、最高のものとされるもの。またその行使による教理宣言。聖座宣言、または教皇座宣言とも訳される。教会においてこの権威は、首位権および不可謬(ふかびゅう)性が成り立つと考えられている。ただし、単に裁治権においての首位を有する教皇の一般的な権威を指す場合はローマ使徒座という言い方で区別される。なお、ラテン語のカテドラ(cathetra)とは、司教座のことを意味する。.

新しい!!: 東西教会の分裂とエクス・カテドラ · 続きを見る »

オフリドのクリメント

フリドのクリメント(古代教会スラヴ語: Климє́нтъ Охрїдьскъ, ブルガリア語・マケドニア語: Свети Климент Охридски, 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)と聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリドの主教となった人物。正教会で聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった。.

新しい!!: 東西教会の分裂とオフリドのクリメント · 続きを見る »

オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

新しい!!: 東西教会の分裂とオスマン帝国 · 続きを見る »

カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

新しい!!: 東西教会の分裂とカール大帝 · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とカトリック教会 · 続きを見る »

キリル1世 (モスクワ総主教)

モスクワ総主教キリル1世(Патриарх Кирилл、1946年11月20日 - )は、サンクトペテルブルク出身の、モスクワ総主教。.

新しい!!: 東西教会の分裂とキリル1世 (モスクワ総主教) · 続きを見る »

キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

新しい!!: 東西教会の分裂とキリスト教 · 続きを見る »

キリスト教諸教派の一覧

リスト教諸教派の一覧(キリストきょうしょきょうはのいちらん)は、キリスト教の諸教派(宗派)を歴史的教義的に関係するものをまとめて一覧する。また、各教派に所属する個々の教会組織・教団についても掲載する。.

新しい!!: 東西教会の分裂とキリスト教諸教派の一覧 · 続きを見る »

ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

新しい!!: 東西教会の分裂とギリシア語 · 続きを見る »

コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

新しい!!: 東西教会の分裂とコンスタンティノープル · 続きを見る »

コンスタンティノス9世モノマコス

ンスタンティノス9世モノマコス(ギリシア語:Κωνσταντίνος Θʹ Μονομάχος, Kōnstantinos IX Monomakhos, 1000年 - 1055年1月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:1042年 - 1055年)。ロマノス3世アルギュロスの縁戚。モノマコスは姓で、「孤独な戦士」の意。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス9世モノマホス」となる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とコンスタンティノス9世モノマコス · 続きを見る »

コンスタンティヌスの寄進状

教皇シルウェステル1世に寄進する皇帝コンスタンティヌス1世。13世紀のフレスコ。 コンスタンティヌスの寄進状(コンスタンティヌスのきしんじょう、Constitutum Donatio Constantini)は、8世紀中ごろに偽造された文書(偽書)。かつてはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が教皇領を寄進した証拠の文書とされ、教権の重要な根拠の一つであった。『偽イシドールス教令集』に掲載されていた。 8世紀当時、東ローマ帝国からの独立性を主張するために造られたと考えられている。800年のフランク王国カール大帝への戴冠もこの偽書を根拠として行われた。中世におけるローマ教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争の際にも根拠とされ、また東方教会との対立問題ではカトリック教会の独立性を主張するために引用された。11世紀以後も、教皇の世俗権と皇帝に対する優位性(「世界はローマ教皇に帰属する」という主張)の根拠として使用された。 15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語文献に使われている用法とは異なる点があることに気付き、『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』を発表した。その後幾度もの論争を経て、18世紀に偽作であることが確定した。.

新しい!!: 東西教会の分裂とコンスタンティヌスの寄進状 · 続きを見る »

コンスタンディヌーポリ総主教庁

ンスタンディヌーポリ全地総主教庁(コンスタンディヌーポリぜんちそうしゅきょうちょう、,, )は、正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会である。管掌・統括するのはコンスタンディヌーポリ総主教。 単に「コンスタンディヌーポリ総主教庁」もしくは「全地総主教庁」とも表記される。日本ハリストス正教会の奉神礼ではコンスタンティノポリ総主教と呼称される。一般にはコンスタンティノープル総主教とも。 初代総主教は十二使徒の一人である聖アンドレアスとされている。現在の総主教はヴァルソロメオス1世(1991年 - )である。 総主教庁の所在地コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)は、現在のトルコ共和国最大の都市イスタンブールにあたる。総主教座はイスタンブール旧市街の金角湾に面したファナリ地区に建つ聖ゲオルギオス大聖堂に置かれている。コンスタンティノポリスには、時代・地域によって様々な都市名の転写があるため様々な表記が存在するが、いずれも誤りではない。これについては当記事内の「都市名の転写・カナ表記」の節で詳述する。 1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、他にギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などがあるが、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。その教義や全正教会の性格については正教会の項を参照。.

新しい!!: 東西教会の分裂とコンスタンディヌーポリ総主教庁 · 続きを見る »

シスマ

マ(ラテン語: Schisma、ドイツ語も同じ綴り)とは、「分裂」を意味する語で、宗教史上、宗教団体の分裂を指す。日本語文献では、キリスト教について使われることがほとんどであるが、元来はキリスト教に限定されるものではない。古典ギリシア語で、(布などを)引き裂くこと、あるいは、その裂け目を意味する"σχίζω"に由来する。ラテン語の発音からスキスマと表記されることもある。シスマは、ドイツ語の発音に由来する。また、離教(りきょう)、教会分裂(きょうかいぶんれつ)とも訳される。 異端が、教義をめぐる対立を理由として多数派が少数派を切り捨てるものであるのに対し、シスマは教義とは無関係に、教団組織のトップ(カトリック教会の場合はローマ教皇)の個人的な資質や適格・地位などに異議を有する一派がその権威を否定して、その組織の下で信仰を続けることを拒絶し、自ら離脱するという違いがある。但しこの場合、離脱した側は主観的には自らが「離脱した」とは捉えず、「我々こそが正統」と意識する場合が殆どである。また客観的にも、分裂した両者のいずれが「正統」であるかは判別し難い場合が多い。 異端とシスマは、概念上は上記のように区別されるが、現実には双方の要素を含む場合も多く、区別が困難な場合もある。そして、両者はしばしば混同されてきた。 キリスト教においては、その歴史上、何度もシスマを繰り返してきた。カトリック教会の場合、離脱した一派は、独自の教皇を立てることも多く、過去40人以上の対立教皇が誕生した。 社会的影響が特に大きかった次の2つのシスマは、「大シスマ」とも呼ばれる。.

新しい!!: 東西教会の分裂とシスマ · 続きを見る »

ジャパンタイムズ

ャパンタイムズ (The Japan Times) は.

新しい!!: 東西教会の分裂とジャパンタイムズ · 続きを見る »

ジグムント3世

ムント3世(Zygmunt III、1566年6月20日 - 1632年4月19日)はポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1587年 - 1632年)、ヴァーサ朝第4代のスウェーデン王(在位:1592年 - 1599年)。スウェーデン王ヨハン3世と、王妃でポーランド王ジグムント1世の娘カタジナの長男。スウェーデン王としてはシギスムンド(Sigismund)と称される。.

新しい!!: 東西教会の分裂とジグムント3世 · 続きを見る »

スラヴ語派

ラヴ語派(スラヴごは)とは、インド・ヨーロッパ語族バルト・スラヴ語派の一派で、スラヴ系諸民族が話す言語の総称。かつては同民族の祖先スラヴ人に話される「スラヴ祖語」が存在したと想定されるが、スラヴ人の民族大移動の頃(5 - 6世紀)から分化が進み、次第に各語群が独自の特徴を明確にし始め、12世紀には単一言語としての統一は完全に失われた。.

新しい!!: 東西教会の分裂とスラヴ語派 · 続きを見る »

スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

新しい!!: 東西教会の分裂とスルターン · 続きを見る »

ターバン

ターバン(アラビア語:عمامة `imāma)は伝統的に中東諸国およびインドで用いられる頭に巻く帯状の布。 イスラームではアッバース朝期以降、宗教的敬虔さの象徴として扱われ、現代でもウラマーやイスラーム復興に親近感を持つ者が好んで用いる。またインドなどのシク教徒も日常的に用いており、インドにおいてはターバン着用者は二輪車運転時のヘルメット着用を免除されているほか、軍隊にも制定品が準備されている。 こうしたことからターバンはイスラームやインドに対する外部からのイメージの中で重要な位置を占めるが、現在では単に頭部の布巻きものという非常に広い意味を持っている。したがって必ずしもイスラームなどと結びつけられるものではなく(たとえばフェルメールの「真珠の耳飾の少女」の別名「青いターバンの少女」や、黄巾の乱の英語表現Yellow Turban Rebellionなど)、布を巻いた形状の帽子もターバンと呼ばれて売り出されている。.

新しい!!: 東西教会の分裂とターバン · 続きを見る »

再建

再建(さいけん).

新しい!!: 東西教会の分裂と再建 · 続きを見る »

典礼

典礼(てんれい)とは、定まった儀式・儀礼あるいはこれを司る役である。通常はキリスト教(カトリック教会)のそれを指すことが多いが、釈奠典礼とも呼称される儒教の祖孔子を祀る儀礼である釈奠なども一般に典礼と呼ばれる。 本項目ではカトリック教会における典礼、すなわち公的礼拝およびその様式について述べるが、媒体によってはカトリック教会に限定されない術語として「典礼」が用いられる場合もあるため、キリスト教の他教派のものについても部分的に解説する。.

新しい!!: 東西教会の分裂と典礼 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: 東西教会の分裂と皇帝 · 続きを見る »

破門

(はもん)は.

新しい!!: 東西教会の分裂と破門 · 続きを見る »

福音派

福音派(ふくいんは、Evangelical、エヴァンジェリカル)は、キリスト教のプロテスタントを神学や信仰の姿勢によって比較分類する際に用いられる用語である。語源はギリシア語の「: 福音)」である。 福音派自身による簡潔な定義は、「福音に献身する者」である。日本福音同盟の「自由主義神学(リベラル)に対しての福音主義、エキュメニカル派に対しての福音派」という表現に、これが表されている。日本の福音派とは、「聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという、聖書の十全霊感(聖書信仰)を信じるすべての教会」である。この聖書信仰は「福音派全体の恵みの絆」と呼ばれる。 組織としては、日本プロテスタント聖書信仰同盟から日本福音同盟、世界福音同盟が代表的であるが、そこに属さない福音派の教会も存在する。正教会の総主教やカトリック教会の教皇といった指導者は存在せず、聖書を信仰する多くの新宗教の緩やかな連帯である。 現在、世界的に福音派の信仰として広く認められているのはローザンヌ誓約である。.

新しい!!: 東西教会の分裂と福音派 · 続きを見る »

秘跡

跡(ひせき、μυστηριον、sacramentum、sacrament, サクラメント)は、カトリック教会の用語で、「イエス・キリストによって制定され、教会にゆだねられた、神の恵みを実際にもたらす感覚的しるし」のことカトリック教会のカテキズムより。(『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』137頁、カトリック中央協議会 ISBN 978-4-87750-153-2 )。かつては「秘蹟」とも書かれていた。キリスト教の他の教派にも相当するものがあるが、日本では教派によって訳語が異なる。 秘跡(サクラメント)は、正教会では「機密(きみつ)」、聖公会では「聖奠(せいてん)」、プロテスタントでは「礼典・聖礼典(れいてん、せいれいてん)」などと言い、意味も異なっていることがある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と秘跡 · 続きを見る »

第1バチカン公会議

1バチカン公会議(だい1バチカンこうかいぎ、Concilium Vaticanum Primum)は、ローマ・バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において、1869年12月8日から1870年10月20日の4会期にわたって行われた、カトリック教会の20回目の公会議。.

新しい!!: 東西教会の分裂と第1バチカン公会議 · 続きを見る »

第2バチカン公会議

2バチカン公会議(だい2バチカンこうかいぎ、、1962年~1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。 この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と第2バチカン公会議 · 続きを見る »

第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

新しい!!: 東西教会の分裂と第4回十字軍 · 続きを見る »

総大司教

総大司教(そうだいしきょう)は、カトリック教会において最高の裁治権をもつ司教職。 原語であるギリシャ語"πατριαρχής"(パトリアルケース、英語:Patriarch)は正教会では「総主教」と訳されるが、正教会の総主教は各国の正教会の首長であり聖職者の最高位であるため、その権限は西方の総大司教とは大きく異なる(「正教会の総主教」の段落で後述)。 ギリシャ語"πατριαρχής"(パトリアルケース)は、父を意味するπατήρ (pater)「パーテル」とリーダーなどを意味する ἄρχων (archon)「アルコン」の複合語である。ラテン語では"patriarcha"(パトリアルカ)という。この語は旧約聖書の七十人訳において、族長時代の族長のことを指していた。.

新しい!!: 東西教会の分裂と総大司教 · 続きを見る »

総主教

総主教(そうしゅきょう、Πατριάρχης, ロシア語・ブルガリア語: Патриарх, Patriarch)は、東方教会(正教会、東方諸教会)における最高位聖職者であり、主教品の最上位。正教会においては特定の独立正教会の首座主教に付与される称号(首座主教であっても総主教ではない主教が正教会には居る)。 総主教の管轄する教区・教会・事務局・総主教邸は総主教庁(Patriarchate)と呼ばれる。.

新しい!!: 東西教会の分裂と総主教 · 続きを見る »

独立正教会

立正教会(どくりつせいきょうかい、Αυτοκεφαλία, Автокефалия, Autocephaly(Autocephalous Church))とは、ヒエラルキーを有する教会、特に正教会と非カルケドン派の教会において、その最高位の主教がより上位の主教に対して報告を行わない教会の地位形態をいう。.

新しい!!: 東西教会の分裂と独立正教会 · 続きを見る »

相互聖餐

互聖餐(そうごせいさん)または相互陪餐(そうごばいさん)とは、超教派の交わり、エキュメニカルの運動の一つで、二つの教会の信徒がある教会でともに聖餐に与ること。二つの教会の信徒が互いにともに聖餐に与ることができる場合を完全相互陪餐と呼ぶ。 教会・教派によって陪餐を許す基準が異なるため、ある教会が他方の教会の信者に陪餐を許可する場合でも、他方の教会が陪餐を許すとは限らないため、非対称がおきる。陪餐を許すかどうかの基準としてもっとも重視されるものに、各教会の聖体論の違いがある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と相互聖餐 · 続きを見る »

聖堂

聖堂 は宗教施設の一つである。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖堂 · 続きを見る »

聖体

トリック教会、聖公会、および一部プロテスタントで用いられる、「ホスチア」とも呼ばれる無発酵パン。写真のように薄い形状をしたものがよく用いられるが、稀に煎餅のように厚い無発酵パンを用いる教会もある。 正教会の聖体礼儀で使われる聖パン(プロスフォラ)。写真に写っているのは聖変化に用いられる大きなパンではなく、聖体礼儀中の記憶と呼ばれる祈りに使われる小さなパンであるが、形状は同じものである。 聖体(せいたい)とは、カトリック教会、正教会、東方諸教会などキリスト教諸教派において、ミサや聖体礼儀で食するために特殊なパンを聖別し、キリストの体の実体として信じられ、食べられるもの。 聖別によってパンとぶどう酒(赤ワイン)がキリストの体と血の実体に変化することを聖変化という。聖変化が典礼中のどの時点で行われるかについては、教派によって神学的見解が異なる。 カトリックでは、聖体のパンとしてイースト菌(酵母)を使わない一種のウエハースを用い、これをホスチアと呼ぶ。ホスチア (hostia) はラテン語で「いけにえ(の供え物)」という意味で、もともとは聖体として聖別されたパンとぶどう酒を指していたが、聖別されたパンの方だけをホスチアと呼ぶようになり、さらには聖餐用に作られた聖別される前の種なしパンをもホスチアと呼ぶに至った。聖餐式にホスチアと呼ばれるパンを用いるようになったのは12世紀頃からであるが、種なしパンの使用は9世紀頃に遡る。 これに対し、東方教会ではイーストを用いた発酵パンを使用する。聖変化する前のパンをプロスフォラ(聖餅; せいへい)と呼ぶ(なお、聖変化に用いるパン以外にも「記憶」の祈りなどに聖餅の用途は存在する)。変化したのちのものを「聖体」と呼ぶことはカトリック教会と同様である。なおカトリック教会、正教会共に「御聖体」(ごせいたい)と呼ぶことが多い。また正教会では、変化したぶどう酒とセットに捉えて「尊体尊血」(そんたいそんけつ)と呼ぶことも多い。 カトリック教会の場合、パンとぶどう酒の両方を指して聖体という場合がある。このためその両方を信者が食することを特に「両形色(両形態)による拝領」と呼ぶ。 これに対して正教会では尊体と尊血を基本的につねにともに領聖するため、特別の用語は存在しない。 カトリック教会および正教会においては、乳児や重篤な病人などで固形物を嚥下不可能な場合、尊体の領聖を行わず尊血のみをもって聖体の領聖とみなすことがある。 プロテスタントの共在説や象徴説、臨在説では化体説を認めないので、聖体という呼び方はしない。ただし、プロテスタント教派に分類されているうちで、聖公会(アングリカン)では聖別後のパンとぶどう酒をそれぞれ聖体・聖血と呼ぶ。ラテン典礼の流れを汲む聖公会でも、カトリックのホスチアと同様のイーストを使用しない無発酵のパンを用い、ウエファーやホストと呼ぶ。また、聖公会の聖餐式(ユーカリスト)で信者は両方を受けるが、この形を「二種陪餐」という。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖体 · 続きを見る »

聖体礼儀

聖体礼儀(聖體禮儀、せいたいれいぎ、,, )は正教会で最も主要な機密である聖体機密を含む、最も重要な奉神礼。 正教会において聖体礼儀は、「教会それ自体の真の本質であるたったひとつの共同の機密」「天上と地上の神の共同体としての教会の本質の一つの機密的現れ」「ハリストスの神秘的な『からだ』」「ハリストスの『花嫁』としての教会のかけがえのない機密的啓示」であるとされる。それゆえ場合によっては、単に「祈りの一つ」「機密の一つ」と捉えることを否定するのみならず、「最大の祈祷」「最高の祈祷」という表現すら(祈祷という枠組みにとどまらないのでそうした表現をさらに越えると捉えられることから)不適当であるとされることすらある。 イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)自身により、機密制定の晩餐(最後の晩餐)において制定されたとされる。 聖体機密のみならず神品機密も聖体礼儀において行われる。 聖体礼儀をはじめとする奉神礼は教会の聖伝であり、正教会である限り聖体礼儀の構造への恣意的な変更は認められない。 聖体にかかる礼拝という点ではカトリック教会のミサ、聖公会およびプロテスタントにおける聖餐式に相当するが、正教会の聖体礼儀とカトリック教会のミサとは形式は全く異なるものであり、聖体礼儀をミサと呼ぶのは誤りである。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖体礼儀 · 続きを見る »

聖別

聖別(せいべつ、ἁγιασμός, consecration)は、カトリックや聖公会などで使用される神学用語。正教会では成聖(せいせい)という。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖別 · 続きを見る »

聖ゲオルギオス教会

当記事聖ゲオルギオス教会は、聖ゲオルギオスを記念・記憶する教会についての曖昧さ回避記事。 教派・教会により、聖ゲオルギオス大聖堂、聖ゲオルギオス聖堂、聖ゲオルギオス教会といった複数の表記パターンがある。また、各言語において「聖ゲオルギオス」に相当する人名表記が異なる。各言語表記の教会名も列記する(記事名となっているギリシャ語表記を筆頭とし、以下言語別50音順)。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖ゲオルギオス教会 · 続きを見る »

聖公会

聖公会(せいこうかい、Anglicanism, Anglican Church)は、イングランド国教会 (Church of England) の系統に属するキリスト教の教派。「聖公会」とは聖なる公同の教会(holy catholic church)という意味であり、1887年から日本で、その後中国でも用いられるようになった名称である。 聖公会は自らを、西方教会におけるカトリック教会とプロテスタントの中間として位置づけ、そのことから「中道(Via Media)」の教会であると自認している(系統概略図も参照)。 世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合を、アングリカン・コミュニオン (Anglican Communion)という。アングリカン・コミュニオンはイングランド国教会を母体とし、カンタベリー大主教の指導的地位を認めるが、裁治権はカンタベリー大主教にはない。聖公会の教会組織は、国家ごとに独立して自治を行う形態をとっている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖公会 · 続きを見る »

聖霊

聖霊(せいれい、Άγιο Πνεύμα、Spiritus Sanctus、Holy Spirit、日本正教会では聖神゚:せいしん)は、キリスト教において、三位一体の神の位格の一つ神゚は「神」に半濁点の「゜」をつけたもので、唯一神と区別するために付す。。聖霊について論じる神学を聖霊論という。 広く「第三の位格」とも説明される一方で、「第三の」といった数え方をせずに「ペルソナ(位格)の一者」「個位(のひとつ)」「神格(のひとつ)」とだけ説明される場合もある。4世紀に聖霊論を展開した聖大バシレイオス(聖大ワシリイ)は、聖霊に限らず、三位一体の各位格に言及する際に、数を伴わせることに批判的である聖大バシレイオス(聖大ワシリイ)は、「第一に、第二に、第三に」「一つには…、二つには…、三つには…」といった数え方・言及の仕方を三位一体に適用することに批判的である。彼はその根拠として、マタイによる福音書28章19節を挙げ、そこでイエス・キリストが「父と子と聖霊」を述べる際に数を伴わせていない事を挙げている。。 本項で扱う聖霊に漢字「精霊」を当てるのは誤字(もしくは誤変換)であるΆγιο Πνεύμαは「聖なるプネウマ(霊)」、Holy Spiritも聖なるスピリット(霊)」であって、「精」の字(「精霊」)は教会で使われないのみならず、語義的にも不適切である。。.

新しい!!: 東西教会の分裂と聖霊 · 続きを見る »

領聖

聖(りょうせい)とは正教会(ギリシャ正教)において、ハリストス(キリストを中世以降のギリシャ語で読んだ転写)の尊体(そんたい)・尊血(そんけつ)に聖変化したパンと葡萄酒を領食(りょうしょく)すること。日本ハリストス正教会の用語。カトリック教会の聖体拝領、聖公会・プロテスタントの陪餐に相当する。 正教会では、相互間で承認を受けた正教会の信徒以外に領聖することを認めていない。 多くは聖体礼儀において行われるが、病床にある病人が司祭から尊体・尊血を受けるなどの場合もある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と領聖 · 続きを見る »

西ローマ帝国

西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.

新しい!!: 東西教会の分裂と西ローマ帝国 · 続きを見る »

西方教会

西方教会(せいほうきょうかい、Western Christianity) は、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(ローマ・カトリック教会、聖公会、プロテスタント、アナバプテストなど)の総称。ローマ・カトリック教会のみを指す場合もある。東方教会の対語。 ただし、東方典礼カトリック教会は完全にローマ・カトリック教会の一員であるが、基本的に東方教会に分類される(まれに西方教会に分類されることもある)。.

新しい!!: 東西教会の分裂と西方教会 · 続きを見る »

首座主教

首座主教(しゅざしゅきょう、Προκαθήμενοι, Primate, Примас)とは、キリスト教の聖職者の役職のひとつである。正教会に属する日本ハリストス正教会、および聖公会に属する日本聖公会などで用いられる用語である。 英語表記は "Primate" が一般的だが、アングリカン・コミュニオンのうち、スコットランド聖公会と歴史上その流れを汲んだ米国聖公会では "Presiding Bishop" と呼ぶ。聖公会には「総裁主教」(そうさいしゅきょう)との表記もある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と首座主教 · 続きを見る »

詠隊

在のコンスタンディヌーポリ総主教座聖堂である聖ゲオルギオス大聖堂の内観。奉神礼時の光景。右詠隊(正教会の詠隊が左右に分かれる場合の、右側の詠隊を指す語)が歌っている。左側に至聖所のイコノスタシスが写っている。 詠隊(えいたい)とは、正教会の奉神礼(礼拝・典礼)において果たされる定められた役割、および定められた役割を担う人々のことを言う。他教派のキリスト教における聖歌隊とほぼ同義の意味で用いられることもあるが、後述の通り、文脈によっては微妙に異なる意味で使われている場合がある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と詠隊 · 続きを見る »

高橋保行

イオアン高橋保行(たかはし やすゆき、イオアンは聖名:1948年 - )は、正教会の長司祭、神学者、歴史家。 東京都生まれ。1972年、聖ウラジミール神学大学院卒業。1974年、東京復活大聖堂司祭に叙聖される。1993年から東京女子大学講師として教鞭をとった。また日本ハリストス正教会の聖職者養成機関である東京正教神学院でも講師を務めた。後にアメリカ合衆国に渡り、2008年6月現在アメリカ正教会で司祭職を務めている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と高橋保行 · 続きを見る »

輔祭

輔祭(ほさい、Διάκονος、Диакон、Deacon)は正教会における神品(聖職者)の職分のひとつ。主教・司祭の許(もと)で、主教・司祭を奉神礼において補佐する。日本正教会の訳語。男性の正教徒が主教による神品機密によって叙聖されることにより、輔祭職に就く。 他教会との比較では、カトリック教会の助祭、聖公会の執事に相当する。なお、正教会における「執事」は、他教派では一般の信徒が務める「教会役員」等に相当する。 輔祭の中に細分化された位階として、首輔祭・長輔祭がある。稀に「補祭」との表記が見られるがこれは誤りである。.

新しい!!: 東西教会の分裂と輔祭 · 続きを見る »

至聖所

至聖所(しせいじょ)は、宗教的建築物の最も神聖な場所の呼称として幅広く用いられている。エジプトの神々を奉った神殿や、聖書の幕屋および神殿などにおいて、一番奥の部屋のことを指す。.

新しい!!: 東西教会の分裂と至聖所 · 続きを見る »

枢機卿

枢機卿(すうききょう、すうきけい、、)は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は、教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿()」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド.

新しい!!: 東西教会の分裂と枢機卿 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: 東西教会の分裂と東ローマ帝国 · 続きを見る »

東方典礼カトリック教会

東方典礼カトリック教会(とうほうてんれいカトリックきょうかい、、、)は、正教会や東方諸教会で用いられる典礼を使いながら、ローマ教皇権を認めてカトリック教会の教義を受け入れ、ローマ・カトリック教会とフル・コミュニオン関係にあるキリスト教の諸教会の総称。.

新しい!!: 東西教会の分裂と東方典礼カトリック教会 · 続きを見る »

機密 (正教会)

正教会における機密(きみつ、μυστήριον, Таинство)とは、「主(イイスス・ハリストス(イエス・キリスト))がすべての信者に恩寵を与えようとして自ら定める、見える状態でもって信者の霊魂に見えない神の恩寵を授けるものマカリイ p.381 - p.382」とされる。 狭義の機密は七件機密など、目に見える形で神の恩寵が授けられるものを指すが、広義の機密概念は、教会そのものを機密と捉える。 狭義の機密は、聖体礼儀等、定められた各種儀礼・形式に沿って執行される。西方教会でのサクラメント(カトリック教会では秘跡、プロテスタント教会では礼典、聖公会では聖奠と呼ばれる)に相当する。.

新しい!!: 東西教会の分裂と機密 (正教会) · 続きを見る »

正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

新しい!!: 東西教会の分裂と正教会 · 続きを見る »

正教徒

正教会の教会機構の図解。 正教徒(せいきょうと)とは、キリスト教の教派のひとつである正教の信者を意味する用語。正教信徒(せいきょうしんと)とも。日本ハリストス正教会でも頻繁に用いられる。一般には7つの全地公会議を認める諸教会(Eastern Orthodox)の信徒を指し、非カルケドン派(Oriental Orthodox)に所属する教会の信徒にはあまり用いられない。 グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会等、そのいずれもが正教会なのであり、同じ信仰を有している。 教義・教理は全く同じであり、機密(秘蹟)はいずれの教会のものも相互に有効であるとされ、いずれの教会に属する信徒も「正教徒」と呼ばれ、教会間の相互領聖は完全に行われており、フル・コミュニオンの関係にある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と正教徒 · 続きを見る »

洗礼

洗礼(せんれい、Βάπτισμα, Baptism、「バプテスマ」とも)は、キリスト教の入信に際して行われるサクラメント(大辞林)(機密、秘跡)。浸水(浸礼、身体を水に浸す)または灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって行われる。 正教会、カトリック教会、聖公会、および大半のプロテスタントで「洗礼」と表記されるが、バプテスト教会では専ら「浸礼」(しんれい)または「バプテスマ」と表記される。 洗礼を受けることを「受洗(じゅせん)」もしくは「受浸(じゅしん)」と言う。日本正教会では「領洗(りょうせん)」とも言う。 日本語の「洗礼」には、ここから派生した語義として「初めての経験」や通過儀礼などがあるが、本項ではキリスト教における洗礼を扱う。.

新しい!!: 東西教会の分裂と洗礼 · 続きを見る »

日本ハリストス正教会

函館ハリストス正教会復活聖堂 聖マトフェイ聖堂 日本ハリストス正教会(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)。 通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。 正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。 19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。 本項では日本ハリストス正教会で用いられている用語を断りなく用いることがある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と日本ハリストス正教会 · 続きを見る »

救世主ハリストス大聖堂

救世主ハリストス大聖堂表記出典:表記出典:(きゅうせいしゅハリストスだいせいどう、Храм Христа Спасителя )は、ロシアのモスクワにある正教会の大聖堂。ロシア正教会モスクワ総主教直轄の首座聖堂である。全世界にある正教会の大聖堂中、最も高い103メートルの偉容を誇る(ドームと十字架部分で35メートルの高さがある)。 モスクワ中央部モスクワ河畔に位置する 。 1883年6月7日(ユリウス暦:5月26日、主の昇天祭)に大聖堂は成聖された。しかし1931年に宗教弾圧政策をとるソ連によって爆破された。ソ連崩壊後の2000年8月19日(主の顕栄祭)に再建。.

新しい!!: 東西教会の分裂と救世主ハリストス大聖堂 · 続きを見る »

教会

教会(きょうかい).

新しい!!: 東西教会の分裂と教会 · 続きを見る »

教会大分裂

教会大分裂赤がアヴィニョン教皇庁支持。青がローマ教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた 教会大分裂(きょうかいだいぶんれつ、Magnum schisma occidentale)とは、1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した状態の事である。最も有名なシスマの1つで、単に「シスマ」という場合はこの事件を指すことも多く、また、「大シスマ」とも呼ばれる(「大シスマ」は、東西教会の分裂を指すこともある)。西方大離教、西方教会大分裂ともいう。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教会大分裂 · 続きを見る »

教会会議

教会会議(synodもしくはcouncil)とは、教会の会議。通常はキリスト教教会が、教義や管理上の問題を話し合うために催す会議を指す。公会議は教会全体の会議であるため(あるいはより正確には、会議の参加者たちを教会全体であるとみなす者が集めた会議であるため)にそう呼ばれる。 教会会議を示す英単語Synodは、ギリシャ語で集まりを意味するsynodosから来ており、ラテン語のconciliumと同義である。教会会議という言葉は元は司教:主教の会議を意味しており、現在でもカトリック教会と正教会ではその意味で用いられる。 時折、総会(general synodあるいはgeneral council)という言葉が公会議を指すために用いられることがある。またシノド(synod)という言葉は正教会で独立教会を統治している高い地位の主教達の会議を指すのに用いられることもある(聖シノド:Holy Synod)。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教会会議 · 続きを見る »

教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教皇 · 続きを見る »

教皇不可謬説

教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)は、カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。 教皇不可謬が教義として正式に宣言されたのは1870年の第1バチカン公会議においてであるが、その思想自体には初代教会以来の長い歴史的な伝統がある。カトリック神学において教皇不可謬性は教会のもつ四つの不可謬性(後述)のうちの一つとして考えられ、思想的に発展させられてきた。教皇不可謬の教義をめぐってはカトリック教会の内外で多くの議論が行われてきた。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教皇不可謬説 · 続きを見る »

教皇冠

教皇冠(きょうこうかん、ラテン語:Tiara、イタリア語:Tiara papale)は、ローマ教皇の地位を象徴する冠。時代を通じて数多くの教皇冠が用意され、過去の冠の一部は現存している。 冠を三段に重ねた形状から、三重冠(ラテン語:Triregnum、イタリア語:Triregno)ともいう。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教皇冠 · 続きを見る »

教皇首位説

教皇首位説(きょうこうしゅいせつ)とは、ローマ・カトリック教会の教理のひとつで、教会の規律と統治に関する問題および信仰と道徳に関する教義の問題の裁治権は、教皇の持つ使徒座の権威に首位があるという説。特に公会議よりも首位があるという説を意味し、公会議が優越するという公会議主義を否定する。また、殊に最高裁判官としての使徒座による判決は再審査できない。 この説は、フェラーラ・フィレンツェ公会議(バーゼル公会議、1431 - 45年)で確定され、第1バチカン公会議(1869-70年)で追認された。この際、後者に反発するグループが復古カトリック教会を形成した。 この説は、マタイによる福音書16章18、19節などを根拠として主張されている。この聖句の解釈を巡っては、カトリック教会とプロテスタント諸教会との間で見解が分かれている。 なお、正教会は教皇首位権を認めずこれが東西教会の分裂の原因の一つになったが、名誉上はローマの総主教が古代の五総主教座の首位であることを認めていた。しかし、ローマ教皇の権限の範囲を巡ってローマ・カトリック教会と東方正教会の間に論争があり、これは現在も東西教会の分裂が続く最も大きな要因の一つとなっている。.

新しい!!: 東西教会の分裂と教皇首位説 · 続きを見る »

1054年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1054年 · 続きを見る »

11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

新しい!!: 東西教会の分裂と11世紀 · 続きを見る »

1204年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1204年 · 続きを見る »

12月7日

12月7日(じゅうにがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。.

新しい!!: 東西教会の分裂と12月7日 · 続きを見る »

14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 東西教会の分裂と14世紀 · 続きを見る »

1596年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1596年 · 続きを見る »

15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 東西教会の分裂と15世紀 · 続きを見る »

16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

新しい!!: 東西教会の分裂と16世紀 · 続きを見る »

1840年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1840年 · 続きを見る »

1870年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1870年 · 続きを見る »

1920年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1920年 · 続きを見る »

1964年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1964年 · 続きを見る »

1965年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と1965年 · 続きを見る »

2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

新しい!!: 東西教会の分裂と2006年 · 続きを見る »

395年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と395年 · 続きを見る »

476年

記載なし。

新しい!!: 東西教会の分裂と476年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

東西分裂東西教会分裂

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »