ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

東突厥

索引 東突厥

東突厥(ひがしとっけつ、拼音:Dōng Tūjué)は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力。これに対し、西側の勢力を西突厥と言う。東突厥は大きく分けて3つの時期に分類でき、1つ目が第一可汗国期、2つ目が羈縻(きび)政策期、3つ目が第二可汗国期となる。744年、最後の東可汗が回紇(ウイグル)によって殺されると、東突厥の旧領は回鶻可汗国に取って代わった。.

168 関係: 劉武周古テュルク語史万歳吐谷渾堅昆大司農大将軍大業天授 (武周)太宗 (唐)契丹始畢可汗室韋尚書小松久男山川出版社岩波講座世界歴史岩波書店左賢王丁零中宗 (唐)中国世襲万歳通天三上次男并州幽州仁寿 (隋)仏教伊然可汗チュルク語族チョイレン銘文バイン・ツォクト碑文モンゴル高原ピン音テュルク系民族ホショ・ツァイダム碑文咸亨アルタイ山脈イスラム帝国ウテュケン山ウイグルオグズカルルクカガンソグディアナソグド人ソグド語処羅可汗...啓民可汗元帥回鶻皇后皇太子皇帝玄宗 (唐)王世充睿宗 (唐)礼部突厥突厥文字突利可汗竇建徳総督義成公主羈縻政策烏蘇米施可汗煬帝登利可汗白眉可汗隋書聖暦道教達頭可汗靺鞨頡利可汗西域西突厥首都骨咄葉護高ケイ高車高開道高昌講談社護雅夫貞観 (唐)車鼻可汗黄門侍郎都藍可汗阿史那伏念阿史那骨咄禄阿史那默啜阿史那泥孰匐阿史那思摩阿波可汗開皇薛延陀闕特勤金石文長安長寿 (武周)鉄勒雁門郡李軌李淵李憲梁師都森安孝夫楊堅楊再思楊素楊諒武徳武則天毘伽可汗永淳沙鉢略可汗昭武九姓新唐書旧唐書懐仁可汗景雲 (唐)1974年2005年2007年581年582年587年597年599年601年609年615年618年619年620年630年631年639年644年646年649年650年670年674年679年680年681年682年690年692年693年696年698年699年710年711年716年731年734年741年742年744年745年 インデックスを展開 (118 もっと) »

劉武周

劉 武周(りゅう ぶしゅう)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

新しい!!: 東突厥と劉武周 · 続きを見る »

古テュルク語

古テュルク語とは、東古テュルク語、オルホン・テュルク語とも言い、7世紀~13世紀にかけて東突厥、ウイグル可汗国による碑文が発見されており、記録が残るものの中ではテュルク諸語で最古の例である。 古テュルク語は、突厥文字、ウイグル文字、マニ文字、ブラーフミー文字『』 P.457 「表1 イスラーム化以前の中央アジアにおける言語と文字」の列「古代トルコ語」などの文字で書かれた記録が残っている。.

新しい!!: 東突厥と古テュルク語 · 続きを見る »

史万歳

史万歳(し ばんざい、549年 - 600年)は、中国の隋の軍人。本貫は京兆郡杜陵県。.

新しい!!: 東突厥と史万歳 · 続きを見る »

吐谷渾

吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.

新しい!!: 東突厥と吐谷渾 · 続きを見る »

堅昆

堅昆(けんこん、拼音:Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては鬲昆(へきこん、Gékūn),契骨(けいこつ、Qìgŭ),居勿(きょぶつ、Jūwù),結骨(けつこつ、Jiégŭ),紇骨(こつこつ、Gēgŭ),紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī),黠戛斯(かつかつし、Xiájiásī),戛戛斯(かつかつし、Jiájiásī),吉利吉思,乞力吉思,乞児吉思,乞里吉思などと記された。現代のキルギス人(天山キルギズ)と区別するためイェニセイ・キルギズとも呼ばれる。現在のハカス人の祖先にあたる。.

新しい!!: 東突厥と堅昆 · 続きを見る »

大司農

大司農(だいしのう)は古代中国の官職名。.

新しい!!: 東突厥と大司農 · 続きを見る »

大将軍

大将軍(だいしょうぐん、たいしょうぐん)は、中国および日本における歴史上の官職の一つ。.

新しい!!: 東突厥と大将軍 · 続きを見る »

大業

大業(たいぎょう)は、隋の煬帝楊広の治世に行われた年号。605年 - 618年。.

新しい!!: 東突厥と大業 · 続きを見る »

天授 (武周)

天授(てんじゅ、𠀑𥢓とも)は、武周の武則天の治世に使用された元号。690年 - 692年。.

新しい!!: 東突厥と天授 (武周) · 続きを見る »

太宗 (唐)

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.

新しい!!: 東突厥と太宗 (唐) · 続きを見る »

契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

新しい!!: 東突厥と契丹 · 続きを見る »

始畢可汗

始畢可汗(しひつかがん、拼音:Shǐbìkĕhàn、? - 619年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の子。始畢可汗(シビル・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄吉世(『旧唐書』・『新唐書』では咄吉)という。.

新しい!!: 東突厥と始畢可汗 · 続きを見る »

室韋

室韋(しつい、)は、6世紀から10世紀まで中国東北部のチチハル周辺にある嫩江、アルグン川、黒竜江流域に存在していた民族。初めは失韋国と書かれた。また、モンゴル系民族の源流と考えられており、『オルホン碑文』にある三十姓タタル(オトゥズ・タタル、)にも比定されている。.

新しい!!: 東突厥と室韋 · 続きを見る »

尚書

尚書(しょうしょ)。.

新しい!!: 東突厥と尚書 · 続きを見る »

小松久男

小松 久男(こまつ ひさお、1951年2月 - )は、日本の歴史学者、中央アジア史学者、東京大学名誉教授、東京外国語大学大学院総合国際学研究院特任教授。 妻はオスマン帝国史研究者・筑波大学教授の小松香織。東京都出身。.

新しい!!: 東突厥と小松久男 · 続きを見る »

山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

新しい!!: 東突厥と山川出版社 · 続きを見る »

岩波講座世界歴史

岩波講座世界歴史(いわなみこうざせかいれきし)は、岩波書店から刊行された歴史学(世界史)に関する叢書。原始・古代から現代にいたる世界の全歴史をカバーし、岩波講座シリーズの一つをなしている。これまでに同名のシリーズが2回刊行されている。.

新しい!!: 東突厥と岩波講座世界歴史 · 続きを見る »

岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

新しい!!: 東突厥と岩波書店 · 続きを見る »

左賢王

左賢王(さけんおう)は古代の北アジアから中央アジアにかけて存在した遊牧国家、匈奴の国制における地位・称号の一つ。匈奴では右賢王と共に単于に次ぐ地位である。 匈奴は中国の制度に当てはめれば皇帝に当たる単于がおり、その下に左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯といった地位があった。それぞれ1万騎から数千騎を擁し、全部で24の長があった。左右賢王はその中でも最も地位が高く、国も最大である。24の長の下には千長、百長、什長、裨小王、相、都尉、当戸、且渠といった部下がいた。 左賢王は単于の後継ぎが就く地位であり、中国の制度で言えば皇太子である。 左右賢王の「賢」は匈奴の言葉の「屠耆」を翻訳したものである。 左賢王以下の「左」と付く地位の者は東方に陣取った。.

新しい!!: 東突厥と左賢王 · 続きを見る »

丁零

丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.

新しい!!: 東突厥と丁零 · 続きを見る »

中宗 (唐)

中宗(ちゅうそう)は、唐の第4代・第6代皇帝。諱は顕。.

新しい!!: 東突厥と中宗 (唐) · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 東突厥と中国 · 続きを見る »

世襲

世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。家に伝わる爵位を継承することを襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合についていうこともある。近代の政治家の世襲については、世襲政治家も参照のこと。.

新しい!!: 東突厥と世襲 · 続きを見る »

万歳通天

万歳通天(ばんざいつうてん、万歳通𠀑)は、武周の武則天の治世に使用された元号。696年 - 697年。.

新しい!!: 東突厥と万歳通天 · 続きを見る »

三上次男

三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の東洋学者、考古学者。.

新しい!!: 東突厥と三上次男 · 続きを見る »

并州

并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。.

新しい!!: 東突厥と并州 · 続きを見る »

幽州

幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。.

新しい!!: 東突厥と幽州 · 続きを見る »

仁寿 (隋)

仁寿(じんじゅ)は、隋の文帝楊堅の治世に行われた2番目の元号。601年 - 604年.

新しい!!: 東突厥と仁寿 (隋) · 続きを見る »

仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

新しい!!: 東突厥と仏教 · 続きを見る »

伊然可汗

伊然可汗(いねんかがん、拼音:Yīránkĕhàn、? -734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。毘伽可汗の長子。姓は阿史那氏、名は不明。伊然可汗とは可汗号で、イネル・カガン(Inäl Qaγan)を漢字表記したもの。.

新しい!!: 東突厥と伊然可汗 · 続きを見る »

チュルク語族

チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.

新しい!!: 東突厥とチュルク語族 · 続きを見る »

チョイレン銘文

チョイレン銘文(チョイレンめいぶん、英語:The Choir monument)は、モンゴル国にある突厥時代の銘文。いわゆる突厥文字で書かれたものとしては最も古く、おそらくは初めて突厥文字が使用された銘文であると思われる三上次男・護雅夫・佐久間重男『人類文化史4 中国文明と内陸アジア』。.

新しい!!: 東突厥とチョイレン銘文 · 続きを見る »

バイン・ツォクト碑文

バイン・ツォクト碑文(バイン・ツォクトひぶん)は、モンゴル国のバイン・ツォクト遺跡にある東突厥(第二可汗国)時代の碑文で、(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 - Tonyuquq:暾欲谷、阿史徳元珍)が自らを称えて建てたもの。そのため、トニュクク碑文とも呼ばれる。.

新しい!!: 東突厥とバイン・ツォクト碑文 · 続きを見る »

モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

新しい!!: 東突厥とモンゴル高原 · 続きを見る »

ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

新しい!!: 東突厥とピン音 · 続きを見る »

テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

新しい!!: 東突厥とテュルク系民族 · 続きを見る »

ホショ・ツァイダム碑文

ホショ・ツァイダム碑文(ホショ・ツァイダムひぶん)は、8世紀に建てられた東突厥第二可汗国時代の碑文で、発見地であるホショ・ツァイダム(Khöshöö Tsaidam)からその名がつけられた。ホショ・ツァイダム碑文にはビルゲ・カガン(Bilgä Qaγan、毘伽可汗)を称えた碑文と、キュル・テギン(Köl Tägin、Kül Tegin、闕特勤)を称えた碑文の2種類あるので、それぞれビルゲ・カガン碑文、キュル・テギン碑文と呼ばれる。また、オルホン川流域にあることからオルホン碑文とも呼ばれる。.

新しい!!: 東突厥とホショ・ツァイダム碑文 · 続きを見る »

咸亨

咸亨(かんこう)は、唐の高宗李治の治世に使用された元号。670年 - 674年。.

新しい!!: 東突厥と咸亨 · 続きを見る »

アルタイ山脈

アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも。.

新しい!!: 東突厥とアルタイ山脈 · 続きを見る »

イスラム帝国

イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.

新しい!!: 東突厥とイスラム帝国 · 続きを見る »

ウテュケン山

ウテュケン山(テュルク語:Ütükän yïš)は、現在のモンゴル国にあるハンガイ山脈に比定される山の歴史的呼び名。ウテュケン山(Ütükän yïš)という名は『オルホン碑文』に刻まれているもので、中国史書でも於都斤山、烏徳鞬山、都尉鞬山、都斤山、大斤山、鬱督軍山などと表記された。ウテュケン山はテュルク系遊牧民の聖地とされ、たびたび遊牧国家の首都となった。.

新しい!!: 東突厥とウテュケン山 · 続きを見る »

ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

新しい!!: 東突厥とウイグル · 続きを見る »

オグズ

ペチェネグ汗国とその周辺国。中央右下がオグズ葉護国(OĞUZ YABGULUĞU) オグズ(Oghuz)は、かつて中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族。10世紀以降になると南下してトゥルクマーン(「テュルクに似たもの」の意)という名で呼ばれるようになり、その一部はセルジューク朝などのイスラーム王朝を建てた。.

新しい!!: 東突厥とオグズ · 続きを見る »

カルルク

ルルク(古代テュルク語:12px12px12px12px、Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄,葛邏禄,葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラブ語では قارلوق (Qarluq)と記された。.

新しい!!: 東突厥とカルルク · 続きを見る »

カガン

ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.

新しい!!: 東突厥とカガン · 続きを見る »

ソグディアナ

ディアナ(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。バクトリアの北、ホラズムの東、康居の南東に位置する地方。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当する。イラン系の言語を話すソグド人と呼ばれる民族が居住したことからつけられたギリシャ語・ラテン語の名称で、西からみてオクサス川(アムダリヤ川)の向こう側にあることから、トランスオクシアナとも呼ばれる。中国の歴史書では粟特と記されている。 もともとイランとの政治的・文化的なつながりが深く、アケメネス朝時代の紀元前6世紀にはペルシア帝国に併合されてその地方州となった。この時、ソグディアナにアラム文字が持ち込まれ、のちにソグド語がアラム文字で表記されるようになった。アケメネス朝の滅亡後はマケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服され、その死後は南に位置するバクトリアの地方州とされた。 内陸アジアの東西交通・南北交通の要衝であることから周辺勢力の侵入が著しく、さらに大月氏、康居、クシャーナ朝、エフタル、突厥など周辺の遊牧国家の支配を受けたり、サーサーン朝のもとでイランの支配に服したりした。住民のソグド人も交通の要衝であることや、強大な遊牧国家の傘下にあることを生かして交易活動に従事するようになり都市文明が繁栄する。 8世紀にはアラブ人によって征服され、イスラム教を受容した。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマー・ワラー・アンナフルの名で呼び、やがてこの地名が定着する。イスラム時代には言語的に近世ペルシア語を用いるようになってソグド語が廃れ、イランとの文化的な繋がりをより緊密にした。後には言語的なテュルク化が進み、ペルシア語の一種であるタジク語とテュルク諸語のウズベク語が話されるようになって現代に至っている。.

新しい!!: 東突厥とソグディアナ · 続きを見る »

ソグド人

ド人(そぐどじん、sogd)は、中央アジアのゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシス灌漑農耕民族。また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行った。近年の研究では、シルクロードを経済的に支配していたといわれている。 居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、マケドニアのアレクサンドロス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のソグド語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド文字を利用し、宗教的にはゾロアスター教、のちに一部がマニ教を信奉して、東方のイラン系精神文化を中国にもたらした。その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナ地方はのちに、ウズベク人南下によるテュルク化が進んでいった。 紀元前2世紀頃のソグド人(ソグディアノイ)の位置。.

新しい!!: 東突厥とソグド人 · 続きを見る »

ソグド語

ド語は、中期イラン諸語のひとつであり、ザラフシャン川流域のソグディアナ(現在のサマルカンド、パンジケント、フェルガナなどを中心としたウズベキスタンやタジキスタンの一部に相当)で用いられた言語。現在では死語。.

新しい!!: 東突厥とソグド語 · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 東突厥と唐 · 続きを見る »

処羅可汗

処羅可汗(しょらかがん、拼音:Chùluókĕhàn、? - 620年)は、東突厥の可汗。始畢可汗の弟。処羅可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。俟利弗設というのは官職名である。.

新しい!!: 東突厥と処羅可汗 · 続きを見る »

啓民可汗

啓民可汗(呉音:けいみんかがん、漢音:けいびんかかん、拼音:Qǐmínkĕhàn、? - 609年)は、東突厥の可汗。沙鉢略可汗の子。啓民可汗というのは称号で、正しくは意利珍豆啓民可汗(いりちんとうけいびんかかん:意智健の意)といい、姓は阿史那氏、名は染干(センガン)という。.

新しい!!: 東突厥と啓民可汗 · 続きを見る »

元帥

元帥(げんすい、(陸軍、空軍)、Admiral of the fleet他(海軍))は、軍隊における階級、又は称号。元帥号とも。階級を示す場合には大将よりも更に上位で軍隊における最上級の階級であり、称号を示す場合には大将または上級大将の階級を持つ者の中から選ばれることが一般的である。広義の元帥には「大元帥・元帥・将帥・次帥・副元帥・代帥」などが区分されることもある。陸海空軍で呼称の異なる元帥を総称しFive-star rankと呼ぶこともある。.

新しい!!: 東突厥と元帥 · 続きを見る »

回鶻

回鶻(かいこつ、ウイグル、拼音:Huígŭ、古代テュルク語:10px10px10px10px【Uyγur】、ウイグル語:ئورخۇن ئۇيغۇر خانلىقى)は、テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、可汗国)。ウイグル帝国森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』,ウイグル国小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の史書による漢字表記には迴紇『旧唐書』列伝第一百四十五 迴紇、回紇『新唐書』列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下、迴鶻、回鶻などがある。.

新しい!!: 東突厥と回鶻 · 続きを見る »

皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

新しい!!: 東突厥と皇后 · 続きを見る »

皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

新しい!!: 東突厥と皇太子 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: 東突厥と皇帝 · 続きを見る »

玄宗 (唐)

宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.

新しい!!: 東突厥と玄宗 (唐) · 続きを見る »

王世充

王世充(おう せいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。隋朝の恭帝侗を廃して鄭国を建てた。 隋朝の有力な部将であり、煬帝の時代には反乱軍を撃破して活躍し、恭帝侗の時代には反乱軍団を保有していた李密を降伏させた。619年に恭帝侗を廃して鄭の皇帝に即位すると、李淵率いる唐の軍事的圧力を受けて夏国の竇建徳に救援を求めたが、竇建徳が唐の李世民(太宗)に敗れると王世充も唐に降伏した。李淵は王世充の一族を巴蜀(四川)の流刑に処したが、道中で父親を王世充に殺されていた独孤修徳に殺害された。.

新しい!!: 東突厥と王世充 · 続きを見る »

睿宗 (唐)

睿宗(えいそう)は、唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の第8子で、中宗の弟に当たる。.

新しい!!: 東突厥と睿宗 (唐) · 続きを見る »

礼部

部(れいぶ)は、六部の一で、礼楽儀仗・教育・国家祭祀・宗教・外交・科挙などを司掌した。 祖型は漢代にまで遡り、歴代王朝を通じて整備が進み、一時は祠部と改称された。唐代には、長官に(礼部尚書)、次官に侍郎(礼部侍郎)が置かれ、礼部に属する礼部司(礼楽・儀式・衣冠など)・祠部(しぶ)司(祠祀・国忌・廟・諱・天文・医薬・宗教)・膳部(ぜんぶ)司(飯膳・食糧)・主客(しゅかく)司(外交)の4司それぞれに判官であるとが設置された。科挙の学術試験は礼部侍郎が司掌するが、その合格者は更に吏部で身言書判が試験(吏部試)されて官吏に登用される定めであった。 宋代には代官を充てていたが、元豊年間(基督教暦11世紀後葉)の改革で復旧し、明、清代を通じて存在した。清宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で廃止された。.

新しい!!: 東突厥と礼部 · 続きを見る »

突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

新しい!!: 東突厥と突厥 · 続きを見る »

突厥文字

突厥文字(とっけつもじ)は突厥によって古テュルク語の表記に5世紀から用いられたアルファベットであり、代表的なものとしてオルホン碑文に書かれたものがあるため、オルホン文字とも呼ばれる。.

新しい!!: 東突厥と突厥文字 · 続きを見る »

突利可汗

突利可汗(呉音:どちりかがん、漢音:とつりかかん、拼音:Tūlìkĕhàn、602年 - 631年)は、東突厥の小可汗。始畢可汗の嫡子で頡利可汗の甥。突利可汗(テリスカガン:Tölis-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は什鉢苾(しゅうはつひつ)という。.

新しい!!: 東突厥と突利可汗 · 続きを見る »

竇建徳

竇 建徳(とう けんとく)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

新しい!!: 東突厥と竇建徳 · 続きを見る »

総督

総督(そうとく)とは、以下のことを指す。.

新しい!!: 東突厥と総督 · 続きを見る »

義成公主

義成公主(ぎせいこうしゅ、? - 630年)は、隋の宗室で、父は楊諧、弟は楊善経と伝わるが、諱と隋の皇室との親族関係は不詳である。.

新しい!!: 東突厥と義成公主 · 続きを見る »

羈縻政策

羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。.

新しい!!: 東突厥と羈縻政策 · 続きを見る »

烏蘇米施可汗

烏蘇米施可汗(呉音:うそまいせかがん、漢音:おそべいしかかん、拼音:Wūsūmǐshīkĕhàn、? - 744年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。判闕特勒の子。姓は阿史那氏、名は不明。可汗号である烏蘇米施可汗の原音はオズミシュ・カガンという。.

新しい!!: 東突厥と烏蘇米施可汗 · 続きを見る »

煬帝

帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.

新しい!!: 東突厥と煬帝 · 続きを見る »

登利可汗

登利可汗(とうりかがん、拼音:Dēnglìkĕhàn、? - 741年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。毘伽可汗の次子で、伊然可汗の弟。姓は阿史那氏、名は不明。登利可汗というのは唐から授かった可汗号で、テングリ・カガン(Täŋri Qaγan)を漢字表記したもの。初めは苾伽骨咄禄可汗(ビルゲ・クトゥルグ・カガン)と号した。.

新しい!!: 東突厥と登利可汗 · 続きを見る »

白眉可汗

白眉可汗(呉音:びゃくみかがん、漢音:はくびかかん、拼音:Báiméi Kĕhàn、? - 745年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。判闕特勒の子で烏蘇米施可汗の弟。可汗になる前が白眉特勒(はくびテギン)だったため、白眉可汗と呼ばれる。姓は阿史那氏、名は鶻隴匐(こつりょうふく)という。阿史那氏最後の突厥可汗であった。.

新しい!!: 東突厥と白眉可汗 · 続きを見る »

隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

新しい!!: 東突厥と隋 · 続きを見る »

隋書

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.

新しい!!: 東突厥と隋書 · 続きを見る »

聖暦

聖暦(せいれき、𨲢暦とも)は、武周の武則天の治世に使用された元号。698年 - 700年。.

新しい!!: 東突厥と聖暦 · 続きを見る »

道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

新しい!!: 東突厥と道教 · 続きを見る »

達頭可汗

達頭可汗(漢音:たつとうかがん、拼音:Dátóukĕhàn、生没年不詳)は、突厥の西面可汗。室點蜜(イステミ)の子。達頭可汗というのは封号で、姓は阿史那氏、名は玷厥(てんけつ)という。.

新しい!!: 東突厥と達頭可汗 · 続きを見る »

靺鞨

靺鞨(まつかつ、まっかつ、拼音:Mòhé)は、中国の隋唐時代に中国東北部、沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。.

新しい!!: 東突厥と靺鞨 · 続きを見る »

頡利可汗

頡利可汗(漢音:けつりかがん、拼音:Jiélìkèhán/Jílìkèhán、? - 634年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の第三子。始畢可汗、処羅可汗の弟。頡利可汗(イリグ・カガン Ilig-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄苾(とひつ)という。.

新しい!!: 東突厥と頡利可汗 · 続きを見る »

西域

西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).

新しい!!: 東突厥と西域 · 続きを見る »

西突厥

西突厥(にしとっけつ、拼音:Xī Tūjué)は、582年に突厥から分離した西の勢力。これに対し東の勢力を東突厥という。西突厥は中央アジアを支配し、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,トハリスタン、西はカスピ海までをその版図とした。657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻政策下に入った。741年頃に西突厥の阿史那氏が滅ぶと、その後は(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク)が実権を握るようになった。西突厥は別に十姓(オン・オク、on-oq、)とも呼ばれた。.

新しい!!: 東突厥と西突厥 · 続きを見る »

首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

新しい!!: 東突厥と首都 · 続きを見る »

骨咄葉護

咄葉護(漢音:こつとつようこ、拼音:Gŭduōyèhù、? - 742年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。姓は阿史那氏、名は不明。骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)というのは称号・官職名である。.

新しい!!: 東突厥と骨咄葉護 · 続きを見る »

高ケイ

(こう けい、? - 607年)は、中国の隋の政治家。字は昭玄。一名に敏。本貫は渤海郡蓨県。隋の文帝に腹心として仕え、隋の建国と中国の再統一に多大な功績を上げた。統一後も重臣として文帝を補佐し、真の宰相であると評されたが、皇太子楊勇の廃立に反対して失脚。後に煬帝の政治を批判し誅殺された。.

新しい!!: 東突厥と高ケイ · 続きを見る »

高車

車(こうしゃ、拼音:)は、4世紀から6世紀の中国の五胡十六国時代・南北朝時代にモンゴル高原の北に存在したテュルク系遊牧民の中国での呼び名。または、阿伏至羅(あふくしら、)が自立して建てた阿伏至羅国(阿伏至羅)を指す。.

新しい!!: 東突厥と高車 · 続きを見る »

高開道

開道(こう かいどう、生年不詳 - 624年)は、中国の隋末唐初の民衆叛乱の指導者。本貫は滄州陽信県(現在の山東省陽信県の西南)。.

新しい!!: 東突厥と高開道 · 続きを見る »

高昌

昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。.

新しい!!: 東突厥と高昌 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: 東突厥と講談社 · 続きを見る »

護雅夫

護 雅夫(もり まさお、1921年3月30日 - 1996年12月23日)は、日本の東洋学者、歴史学者。専攻は古代東洋史(中央アジア・突厥民族研究)。.

新しい!!: 東突厥と護雅夫 · 続きを見る »

貞観 (唐)

貞観(じょうがん)は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号。627年 - 649年)。太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功した。貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励されたかたわら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見た。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しい。.

新しい!!: 東突厥と貞観 (唐) · 続きを見る »

車鼻可汗

車鼻可汗(呉音:しゃびかがん、漢音:しゃひかかん、拼音:Chēbíkĕhàn、生没年不詳)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。突厥別部の突利部出身。車鼻可汗というのは可汗号で、正しくは乙注車鼻可汗(いつちゅうしゃひカガン、Yǐzhùchēbíkĕhàn)といい、姓は阿史那氏、名は斛勃(こくほつ、Húbó)という。.

新しい!!: 東突厥と車鼻可汗 · 続きを見る »

黄門侍郎

侍郎(こうもんじろう)は、中国の官職における職名の一つ。時代によっては、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)とも呼ばれた。略して黄門(こうもん)ということもある。後代には、門下侍郎(もんかじろう)となった。.

新しい!!: 東突厥と黄門侍郎 · 続きを見る »

胡(こ)は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。 もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。.

新しい!!: 東突厥と胡 · 続きを見る »

都藍可汗

都藍可汗(とらんかがん、拼音:Dōulánkĕhàn、? - 599年)は、突厥の可汗。沙鉢略可汗の子。都藍可汗というのは称号で、正しくは頡伽施多那都藍可汗(けつきゃしたなとらんかがん)といい、姓は阿史那氏、名は雍虞閭(ようぐりょ)という。.

新しい!!: 東突厥と都藍可汗 · 続きを見る »

阿史那伏念

阿史那 伏念(呉音:あしな ぶくねん、漢音:あしだ ふくでん、拼音:Āshǐnà Fúniàn、? - 681年)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。頡利可汗の従兄の子。.

新しい!!: 東突厥と阿史那伏念 · 続きを見る »

阿史那骨咄禄

阿史那 骨咄禄(呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、生没年不詳)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗。頡利可汗の族人。一時、唐によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国、突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、クトゥルグ(Qutluγ:“幸得たる者”の意)またはイルティリシュ・カガン(古テュルク語: - İltiriš-qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては骨吐禄、骨篤禄とも表記される。.

新しい!!: 東突厥と阿史那骨咄禄 · 続きを見る »

阿史那默啜

阿史那 默啜(呉音:あしな もくせち、漢音:あしだ ぼくせつ、拼音:Āshǐnà Mòchuò、? - 716年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の弟。『オルホン碑文』におけるカプガンカガン(古テュルク語: - Qapγan-qaγan)にあたる。.

新しい!!: 東突厥と阿史那默啜 · 続きを見る »

阿史那泥孰匐

阿史那 泥孰匐(呉音:あしな ないじゅくぶく、漢音:あしだ でいしゅくふく、拼音:Āshǐnà Níshúfú、? - 680年)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。『旧唐書』本紀第五では泥熟匐と表記。.

新しい!!: 東突厥と阿史那泥孰匐 · 続きを見る »

阿史那思摩

阿史那 思摩(呉音:あしな しま、漢音:あしだ しば、拼音:Āshǐnà Sīmó、? - 645年)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗で、唐の軍人。頡利可汗の族人で、咄六設(官名)の子。唐より国姓である李姓を賜り、李思摩と名乗った。.

新しい!!: 東突厥と阿史那思摩 · 続きを見る »

阿波可汗

阿波可汗(あはかがん、拼音:Ābōkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。木汗可汗の子。阿波可汗(原音:アパ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は大邏便(たいらへん)という。.

新しい!!: 東突厥と阿波可汗 · 続きを見る »

開皇

開皇(かいこう)は、隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。隋朝最初の年号。581年 - 600年。.

新しい!!: 東突厥と開皇 · 続きを見る »

薛延陀

薛延陀(せつえんだ、ピンイン:Xuēyántuó)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシアに分布したテュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の有力部族のひとつ。その中心氏族は一利咥氏といい、鉄勒諸部の中でも最も勢力の強い部族であった。.

新しい!!: 東突厥と薛延陀 · 続きを見る »

闕特勤

闕特勤(呉音:かちどくごん、漢音:けつとくきん、拼音:Quētèqín、684年 - 732年)は、東突厥第二可汗国の左賢王。阿史那骨咄禄の子で、毘伽可汗の弟。『突厥碑文』にある「キュル・テギン」(古テュルク語: 、Kül Tigin)の漢字転写とされる。『新唐書』では「闕特勒 (Quētèlè)」と誤記される。.

新しい!!: 東突厥と闕特勤 · 続きを見る »

金石文

金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。 ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。.

新しい!!: 東突厥と金石文 · 続きを見る »

長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

新しい!!: 東突厥と長安 · 続きを見る »

長寿 (武周)

長寿(ちょうじゅ)は、武周の武則天の治世に使用された元号。692年 - 694年。.

新しい!!: 東突厥と長寿 (武周) · 続きを見る »

鉄勒

鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている。.

新しい!!: 東突厥と鉄勒 · 続きを見る »

雁門郡

雁門郡(鴈門郡、がんもん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山西省北部に設置された。.

新しい!!: 東突厥と雁門郡 · 続きを見る »

李軌

李軌(り き)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

新しい!!: 東突厥と李軌 · 続きを見る »

李淵

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。.

新しい!!: 東突厥と李淵 · 続きを見る »

李憲

李憲(り けん、調露元年(679年) - 開元29年(741年))は、唐の第5代皇帝睿宗の長男で最初の皇太子。母は皇后劉氏、異母の庶弟に李隆基(玄宗)がいる。死後に譲皇帝という謚号が贈られて皇帝に准じた格式での葬礼を受けた。.

新しい!!: 東突厥と李憲 · 続きを見る »

梁師都

梁 師都(りょう しと)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

新しい!!: 東突厥と梁師都 · 続きを見る »

森安孝夫

森安 孝夫(もりやす たかお、1948年2月11日 - )は、日本の歴史学者。大阪大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。財団法人東洋文庫兼任研究員。博士(文学)。 敦煌・トゥルファン出土文書、モンゴル高原の碑文類、並びに漢籍史料を中心にイスラム化以前の中央ユーラシア史を研究。.

新しい!!: 東突厥と森安孝夫 · 続きを見る »

楊堅

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。.

新しい!!: 東突厥と楊堅 · 続きを見る »

楊再思

楊 再思(よう さいし、? - 709年)は、中国の唐代の政治家。本貫は鄭州原武県(現在の河南省原陽県の西南)。明経に及第し、694年、武則天の下で鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に上り、左粛政御史大夫を兼ねた。中宗が重祚すると、戸部尚書・同中書門下三品・京師留守に任ぜられ、弘農郡公に封ぜられた。のちに鄭国公に進んだ。死後、特進・并州大都督の位を追贈され、乾陵に陪葬された。諡を恭といった。 ---- 楊 再思(よう さいし、860年 - 954年)は、中国の唐末からの五代にかけての飛山蛮の首長。本貫は叙州(現在の湖南省黔陽県の西南)。楊居本の子。912年、叙州を誠州と改め、10人の子を分封して、十峒蛮酋と称した。 Category:709年没 Category:唐代の人物 Category:五代十国の人物 Category:860年生 Category:954年没.

新しい!!: 東突厥と楊再思 · 続きを見る »

楊素

楊 素(よう そ、? - 606年)は、中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道。楊旉の子、楊約、楊詢、楊慎、楊岳、楊戻、楊操らの兄、楊玄感、楊玄奨、楊玄縦、楊仁行、楊万石、楊積善の父。.

新しい!!: 東突厥と楊素 · 続きを見る »

楊諒

楊 諒(よう りょう、575年 - 605年)は、隋の文帝楊堅の五男。漢王に封ぜられたが、乱を起こして庶人に落とされた。字は徳章。またの名は傑。.

新しい!!: 東突厥と楊諒 · 続きを見る »

武徳

武徳(ぶとく)は、唐の高祖李淵の治世に行われた年号。唐朝最初の年号。618年 - 626年。.

新しい!!: 東突厥と武徳 · 続きを見る »

武則天

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.

新しい!!: 東突厥と武則天 · 続きを見る »

毘伽可汗

毘伽可汗(呉音:びがかがん、漢音:ひきゃかかん、拼音:Pígākĕhàn、683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の長子。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン(古テュルク語: - Bilgä Qaγan、Bilge Kağan)の漢字表記名。.

新しい!!: 東突厥と毘伽可汗 · 続きを見る »

永淳

永淳(えいじゅん)は、唐の高宗李治の治世に使用された元号。682年 - 683年。.

新しい!!: 東突厥と永淳 · 続きを見る »

沙鉢略可汗

沙鉢略可汗(古テュルク語: - Ϊšbara qaγan、呉音:しゃはちりゃくかがん、漢音:さはつりゃくかがん、拼音:Shābōlüèkĕhàn、? - 587年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の子。沙鉢略可汗(イシュバラカガン:Ïšbara-qaγan)というのは可汗号で、正しくは伊利倶盧設莫何始波羅可汗(いりくろせつばくかしはらかがん、イルキュルシャドバガイシュバラカガン:Il-kül-šad-baγa-ïšbara-qaγan)といい、姓は阿史那氏、名は摂図(せつと)という。.

新しい!!: 東突厥と沙鉢略可汗 · 続きを見る »

昭武九姓

昭武九姓(しょうぶきゅうせい、拼音:Zhāowŭjiŭxìng)とは、中国の南北朝時代から隋・唐時代にかけて、中央アジアのソグディアナ地方に存在していた9つのオアシス都市国家。9つの国王がいずれも昭武を国姓としたことから昭武九姓と呼ばれる。また、その国民の多くがソグド人(胡人)であるため、九姓胡とも呼ばれる。.

新しい!!: 東突厥と昭武九姓 · 続きを見る »

新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

新しい!!: 東突厥と新唐書 · 続きを見る »

旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 東突厥と旧唐書 · 続きを見る »

懐仁可汗

懐仁可汗(かいじんかがん、拼音:Huáirénkĕhàn、? - 747年)は、回鶻可汗国の初代可汗。氏族は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ、Qutluγ boila)。初めは骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン)と称したが、唐に入朝した際に骨咄禄毘伽闕懐仁可汗の称号を拝命した。.

新しい!!: 東突厥と懐仁可汗 · 続きを見る »

景雲 (唐)

景雲(けいうん)は、唐の睿宗李旦の治世に使用された元号。710年-712年。.

新しい!!: 東突厥と景雲 (唐) · 続きを見る »

1974年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と1974年 · 続きを見る »

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

新しい!!: 東突厥と2005年 · 続きを見る »

2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

新しい!!: 東突厥と2007年 · 続きを見る »

581年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と581年 · 続きを見る »

582年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と582年 · 続きを見る »

587年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と587年 · 続きを見る »

597年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と597年 · 続きを見る »

599年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と599年 · 続きを見る »

601年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と601年 · 続きを見る »

609年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と609年 · 続きを見る »

615年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と615年 · 続きを見る »

618年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と618年 · 続きを見る »

619年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と619年 · 続きを見る »

620年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と620年 · 続きを見る »

630年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と630年 · 続きを見る »

631年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と631年 · 続きを見る »

639年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と639年 · 続きを見る »

644年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と644年 · 続きを見る »

646年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と646年 · 続きを見る »

649年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と649年 · 続きを見る »

650年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と650年 · 続きを見る »

670年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と670年 · 続きを見る »

674年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と674年 · 続きを見る »

679年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と679年 · 続きを見る »

680年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と680年 · 続きを見る »

681年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と681年 · 続きを見る »

682年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と682年 · 続きを見る »

690年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と690年 · 続きを見る »

692年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と692年 · 続きを見る »

693年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と693年 · 続きを見る »

696年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と696年 · 続きを見る »

698年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と698年 · 続きを見る »

699年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と699年 · 続きを見る »

710年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と710年 · 続きを見る »

711年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と711年 · 続きを見る »

716年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と716年 · 続きを見る »

731年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と731年 · 続きを見る »

734年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と734年 · 続きを見る »

741年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と741年 · 続きを見る »

742年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と742年 · 続きを見る »

744年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と744年 · 続きを見る »

745年

記載なし。

新しい!!: 東突厥と745年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

北突厥

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »