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東周公

索引 東周公

東周公(とうしゅうこう)は、戦国時代に現れた周の諸侯。 紀元前368年、趙の成侯が韓とともに周を攻撃した。紀元前367年、趙と韓は西周の威公の末子の公子班(恵公)を立てて鞏に封じさせた。これが東周である。さきに西周(王城)が成立しており、周王の領土(成周)も含めて周は3分されることとなって、周の弱体化はますます進んだ。紀元前249年、東周君が諸侯と図って秦を陥れようとしたことから、呂不韋によって東周君は殺害され、その領土は秦に併呑された。.

15 関係: 史記呂不韋紀元前249年紀元前367年紀元前368年韓 (戦国)鞏義市西周公趙 (戦国)成侯 (趙)戦国策戦国時代 (中国)昭文君

史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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呂不韋

呂 不韋(りょ ふい、、? - 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の本当の父親との説もある。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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紀元前249年

紀元前249年は、ローマ暦の年である。当時は、「プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウス・プッルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元505年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前249年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前367年

紀元前367年は、ローマ暦の年である。当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元387年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前367年と表記されるのが一般的となった。.

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紀元前368年

紀元前368年は、ローマ暦の年である。当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元386年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前368年と表記されるのが一般的となった。.

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韓 (戦国)

韓(かん)は、中国戦国時代に存在した国で、戦国七雄の一国(紀元前403年 - 紀元前230年)。地方名としての韓は、現在の河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部にあたる。.

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鞏義市

鞏義市(きょうぎ-し)は中華人民共和国河南省鄭州市に位置する県級市。まもなく区に昇格する予定。.

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西周公

西周公(せいしゅうこう)は、戦国時代に現れた周の諸侯。 紀元前440年、周の考王が弟の姫掲(桓公)を河南(王城)に封じたことにはじまる。これが西周である。紀元前367年に東周(鞏)が成立すると、周王の領土(成周)も含めて周は3分されることとなって、周の弱体化はますます進んだ。紀元前256年、秦の攻撃を受けて、西周の文公は降伏し、西周は滅んだ。.

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趙 (戦国)

趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙、または嬴(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。.

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成侯 (趙)

成侯(せいこう、生年不詳 - 紀元前350年)は、戦国時代の趙の君主。名は種。敬侯の子。紀元前375年、敬侯が死去すると、後を嗣いで趙侯となった。子に粛侯。 紀元前374年、が侯位を求めて起兵した。紀元前372年、を趙の宰相に任用した。衛を攻撃して、その郷邑73を奪った。魏軍に藺で敗れた。紀元前371年、秦と高安で戦って秦軍を撃破した。 紀元前370年、斉軍を鄄で攻撃した。魏軍の進攻を受けて懐で敗れた。鄭を攻め落としてその地を韓に与えた。その代わりに韓は長子を趙に割譲した。紀元前369年、魏を攻撃して湪沢で魏軍を撃破し、魏の恵王を包囲した。 紀元前368年、斉に進攻して、長城まで達した。韓とともに周を攻撃した。紀元前367年、韓とともに周を分割した。紀元前366年、斉と阿下で戦った。紀元前365年、衛を攻撃して、甄を奪った。 紀元前364年、秦が魏を攻撃すると、成侯は軍を石阿に送って魏を救援した。紀元前363年、秦が魏の少梁を攻撃すると、成侯は魏を救援した。 紀元前362年、魏軍に澮で敗れ、皮牢を奪われた。成侯は韓の昭侯と上党で会合した。紀元前361年、韓とともに秦を攻撃した。紀元前360年、魏を助けて斉を攻撃した。紀元前359年、韓や魏と晋を分割し、晋君を端氏に封じた。 紀元前358年、成侯は魏の恵王と葛孼で会見した。紀元前356年、斉の威王や宋公と平陸で会合し、燕の文公と阿で会合した。紀元前355年、魏が材木を贈ってきたため、それを使って檀台を作った。 紀元前354年、魏軍が侵攻してきて趙の邯鄲は包囲された。紀元前353年、魏軍が邯鄲を陥落させた。斉軍が邯鄲救援を名目に出兵し、で魏軍を撃破した。紀元前351年、魏の恵王が邯鄲を返還してきたため、成侯は漳水のほとりで盟を交わした。秦軍が趙の藺を攻撃してきた。 紀元前350年、成侯は死去した。在位25年。.

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戦国策

『戦国策』(せんごくさく)は、前漢の劉向の撰になり、戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に編集し、まとめ上げた書物。全33篇。「戦国時代」という語はこの書に由来する。.

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戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

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昭文君

昭文君(しょうぶんくん、生没年不詳)は、東周の公。一説に周王として即位したと伝わり、姓は姫で諱は傑というため「君傑」とも伝わる。 『史記』や『戦国策』などの信頼できる史料に諱の記載がなく、後世の家譜による伝承にすぎないなど、諸説がある。 それによると、温の桓公掲(貞定王の末子)の曾孫と伝わり、祖父は温の威公で、父は温の恵公で西周の公である兄の武公と争ったと伝わる。後に宗家の赧王の生前に東周公となった。 昭文君の存在は諸説があり、父とされる東周(温)の恵公と同一人物とする説、天子として即位して恵王を称したとする説、東周公最後の東周文君であったとする説、兄とされる西周の武公あるいはの武君と同一人物とする説、東周の靖公と同一人物とする説などがある。 赧王の死後も、昭文君の東周公位あるいは周王位は7年間存続した。周の王権の象徴である九鼎はかれの手中にあり、ある程度の君主権を確立していたとは推定される。ただし九鼎は赧王の死をもって秦に奪われたとする見解もある。 赧王の死後、昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。昭文君は呂不韋により殺害されたとも、陽人聚に遷されて周宗室の祭祀を継承したとも伝えられている。 Category:周の王 Category:春秋戦国時代の人物.

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