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東亜同文会

索引 東亜同文会

東亜同文会(とうあどうぶんかい)とは、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる。現在の霞山会の前身である。.

94 関係: 劉坤一報償費大内暢三大石正巳大隈重信大津麟平外務省外濠 (東京都)孫文宮崎滔天宗方小太郎小川平吉小村欣一山田良政岸田吟香川島浪速上海市中央大学附属中学校・高等学校三宅雪嶺平山周康有為広東省井上雅二井手三郎張之洞佐原篤介佐々友房佐藤正 (陸軍草創期)志賀重昂北京興亜学院北里柴三郎アジア主義アジア・モンロー主義内田康哉内田良平 (政治運動家)内藤湖南副島種臣国民同盟会犬養毅矢田七太郎神鞭知常福本日南竹越與三郎第2次山縣内閣第三セクター第二次世界大戦笹森儀助義和団の乱留学花房義質...谷干城貴族院議長 (日本)黒龍会近衛篤麿近衛文麿霞山会興亜会長岡護美長谷場純孝陸羯南柏原文太郎林毅陸東京東亜同文書院大学 (旧制)東邦協会杉浦重剛根津一梁啓超榎本武揚欧米江藤新作池辺三山洋務運動渡辺洪基本間喜一戊戌の変法戊戌の政変明治昭和日露戦争日清戦争日本日本人政教社1896年1897年1898年1918年1943年1946年1948年1950年731部隊 インデックスを展開 (44 もっと) »

劉坤一

劉 坤一(りゅう こんいつ、Liu Kunyi、道光10年(1830年) - 光緒28年9月26日(1902年10月27日)は清末の軍人・官僚。字は硯荘。曽国藩・左宗棠の死後、張之洞と共に後期の洋務運動を指導した。.

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報償費

報償費(ほうしょうひ)とは、官庁の勘定科目の1つ。役務、負担に対し償う費用。このうち支出の内容を明らかにする必要がなく、機密の用途に充てる費用予算に計上される経費は、機密費とも呼ばれる。.

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大内暢三

大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月15日『第二十八議会衆議院議員写真列伝』P.167 - 1944年(昭和19年)12月31日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、東亜同文書院院長・同大学学長。.

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大石正巳

大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4月11日(1855年5月26日) - 昭和10年(1935年)7月12日)は、日本の政治家。衆議院議員・農商務大臣などを務めた。土佐国(高知県)出身。.

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大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

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大津麟平

大津 麟平(おおつ りんぺい、慶応元年10月(1865年) - 1939年(昭和14年)12月31日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。県知事。.

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外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称:MOFA)は、日本の行政機関の一つである。 外務省設置法第3条により、「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」を任務とする。.

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外濠 (東京都)

江戸城総構え。左側外周、御成門 - 溜池 - 水道橋、および水道橋 - 一ツ橋門の日本橋川が外濠。 外濠(そとぼり)とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。 1970年代の飯田濠埋め立てまで、濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般である。.

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孫文

孫 文(そん ぶん、1866年11月12日(清同治5年10月初6日) - 1925年(民国十四年)3月12日)は、中国の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として、近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。 中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。.

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宮崎滔天

宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた。.

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宗方小太郎

宗方 小太郎(むなかた こたろう 1864年8月6日(元治元年7月5日『新版 日本外交史辞典』993頁。) - 1923年(大正12年)2月5日)は、熊本生まれのジャーナリスト・大陸浪人。号北平。.

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小川平吉

小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1942年(昭和17年)2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民『人事興信録.

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小村欣一

小村 欣一(こむら きんいち、1883年(明治16年)5月13日 - 1930年(昭和5年)12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。.

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山田良政

山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。.

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岸田吟香

岸田 吟香(きしだ ぎんこう、1833年6月15日(天保4年旧暦4月28日)、一説に同天保4年旧暦4月8日(1833年5月26日)- 明治38年(1905年)6月7日は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」(せいきすい)を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 1872年(明治5年)に卵かけご飯を食べた日本で初めての人物とされ、周囲に卵かけご飯を勧めたとされる。なお江戸後期の天保9年(1838年)には鍋島藩の『御次日記』において、客人に饗応された献立に「御丼 生卵」が見られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。.

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川島浪速

川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。.

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上海市

上海市(シャンハイし、、 ()、呉語発音: 、)は、中華人民共和国の直轄市である。 有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。 2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超え、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)であり、いずれも首都の北京市を凌ぎ中国最大である。中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されている。 略称は滬(/こ:フー)だが、古称の申(しん:シェン)も用いられる。.

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中央大学附属中学校・高等学校

中央大学附属中学校・高等学校(ちゅうおうだいがくふぞくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都小金井市に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第2学年から混合してクラスを編成する併設型中高一貫校。学校法人中央大学が設置する附属学校。生徒数は約1,500名。略称は「中附」(ちゅうふ)。 中央大学の附属校のうちで最も生徒数が多い。旧制目白中学校を母体としている。.

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三宅雪嶺

三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。国粋主義者。右翼。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎.

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平山周

平山 周(ひらやま しゅう、明治3年(1870年)3月-昭和15年(1940年)4月21日)は、明治から昭和にかけてのアジア主義者。号は二楸庵・万里。.

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康有為

康 有為(こう ゆうい)は、清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。.

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広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

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井上雅二

井上 雅二(いのうえ まさじ、1877年(明治9年)6月23日 - 1947年(昭和22年)6月23日)は、日本のアジア主義者・南進論者・実業家・衆議院議員(中正倶楽部所属)。.

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井手三郎

井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日衆議院事務局『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』、1940年)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。.

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張之洞

張 之洞(ちょう しどう)は清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで「四大名臣」とも称される。字は孝達、号は香濤・香巌・壺公・無競居士・抱冰。従兄弟に同時代の政治家である張之万、子に張燕卿・張仁蠡、孫に張厚琬(いずれも中華民国の政治家)などがいる。.

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佐原篤介

佐原 篤介(さわら とくすけ、1874年(明治7年)2月4日 - 1932年(昭和7年)7月17日)は、明治期のジャーナリスト。諱は希元、筆名は滬上槎客。勲五等瑞宝.

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佐々友房

佐々 友房(さっさ ともふさ、嘉永7年1月23日(1854年2月20日) - 明治39年(1906年)9月28日)は熊本出身の教育者、言論人、政治家。元衆議院議員。鵬州、克堂と号す。幼名寅雄。後、坤次。 戦国武将、佐々成政の子孫という。熊本日日新聞社長、参議院議員をつとめた佐々弘雄は三男、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行と、婦人運動家から参議院議員になった紀平悌子は孫に当たる。.

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佐藤正 (陸軍草創期)

佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島藩出身。広島県平民『人事興信録 5版』(大正7年)さ九。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。.

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志賀重昂

志賀重昂 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。.

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北京興亜学院

北京興亜学院 (ペキンこうあがくいん) は、中国語・中国文化の研究教育団体だった北京同学会によって1939年 (昭和14年) に設立され、1941年に旧制専門学校となった学校。1943年からは東亜同文会による運営となった。.

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北里柴三郎

北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。 私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。 「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。門下生らはドンネル先生ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意。との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。.

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アジア主義

アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。.

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アジア・モンロー主義

アジア・モンロー主義(あじあ・もんろーしゅぎ)とは、アジア主義の一種。モンロー主義のように、アジアにおける排他的な覇権(自給自足圏)を確立することによって、大日本帝国の自立を図ろうとするものを指す。東亜新秩序・大東亜共栄圏の基礎となった。東洋モンロー主義、東亜モンロー主義、極東モンロー主義、日本モンロー主義とも呼ばれる。 1898年11月、近衛篤麿が「亜細亜のモンロー主義」を打ち出したことが始まりとされる。第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種平等法案が否決され、さらに1924年(大正13年)に排日移民法案がアメリカ議会を通過すると、日本国内には「アジア同盟で米英に対処すべし」との考えが生まれ高まった。1924年11月28日には、孫文が神戸で「大亜細亜主義」の講義を行い、新しい展開が生まれ、イギリスのインドへの圧政とインド人への同情とその後の国際的孤立、欧米列強のブロック経済による経済的圧迫が日本に大アジア主義的思想を育て、それが明治以来のアジア主義や南進論とも重なり、「アジア・モンロー主義」が誕生した。 満洲事変以降、ワシントン体制に対抗する論理として本格的な展開を見せる。1934年4月、外務省情報部長であった天羽英二の非公式談話(天羽声明)は、欧米から「アジア・モンロー主義宣言」とみなされ、非難された。.

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内田康哉

内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日(慶応元年8月10日) - 1936年(昭和11年)3月12日)は、日本の外交官・政治家。伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である。.

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内田良平 (政治運動家)

内田 良平(うちだ りょうへい、明治7年(1874年)2月11日 - 昭和12年(1937年)7月26日)は、日本の国家主義者・右翼運動家・アジア主義者。黒龍会主幹、大日本生産党総裁。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。.

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国民同盟会

国民同盟会(こくみんどうめいかい)は、明治時代の1900年9月に成立した政治団体。国民同志会と混同されることもある。貴族院議長近衛篤麿の東亜同文会を中心として貴族院議員や憲政本党・帝国党などの衆議院議員、頭山満・犬養毅・平岡浩太郎・鳥尾小弥太に代表される右翼や対外硬派の人々が結集した。 義和団の乱以後のロシアの満洲進出に警戒感を抱き、日本政府に対して強硬策を取るように迫った。だが、清露間で満洲還付の交渉が成立し、日英同盟が結ばれたことによって世論の危機感が一時的に沈静化したため、1902年4月に解散した。だが、その後ロシア軍の満洲撤退が行われなかったことから、近衛を中心に対露同志会が結成されることになる。 Category:明治時代の政治団体 Category:対外硬派.

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犬養毅

養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日(安政2年4月20日) - 1932年(昭和7年)5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。 中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。.

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矢田七太郎

七太郎(やだ しちたろう、1879年(明治12年)12月4日 - 1957年(昭和32年)3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。.

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神鞭知常

鞭知常(1898年) 神鞭 知常(こうむち ともつね、嘉永元年8月4日(1848年9月1日) - 明治38年(1905年)6月21日)は明治時代の官僚、衆議院議員(当選回数は計7回)。文官高等試験委員長,臨時政務調査委員などもつとめた。大日本協会、国民同盟会、対露同志会などの組織結成に参加した。.

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福本日南

福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日)は、日本のジャーナリスト、政治家、史論家。.

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竹越與三郎

竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日))は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史学者・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正四位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。 明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」を以て自由帝国主義に根差した独自の文明論、文明史観を論じた。.

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第2次山縣内閣

記載なし。

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第三セクター

三セクター(だいさんセクター)は、第一セクター(国および地方公共団体が経営する公企業)や第二セクター(私企業)と異なる第三的方式による法人。略称は三セク(さんセク)。 意味は以下2通り。; α NPO・市民団体などの非営利団体。; β 国や地方公共団体と民間が合同で出資・経営する企業。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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笹森儀助

蚊を追い払うために腰に団扇をさしているが、暑さのためにまくしあげた単衣の下からは、虫に刺されて腫れた足が露出している。 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。.

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義和団の乱

義和団のメンバー 1900-1904年の東アジア時局図 義和団の乱(ぎわだんのらん、)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。 義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。 当初は義和団を称する秘密結社による中国での排外運動であったが、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。禁圧の過程でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に電信ケーブルを敷設した。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。.

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留学

留学(りゅうがく、るがく)とは、自国以外の国に在留して学術・技芸を学ぶことをいう。広義には自国内の遠隔地に生活拠点を移して学術・技芸を学ぶこと(国内留学)を含める場合もある。 留学している人を「留学生」(りゅうがくせい、るがくしょう)という。.

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花房義質

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。.

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谷干城

谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。通称は申太郎、守部。号は隈山。 第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。位階勲等爵位は陸軍中将正二位勲一等子爵。 熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。.

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貴族院議長 (日本)

貴族院議長(きぞくいんぎちょう)は、大日本帝国憲法に基づき設置されていた日本の帝国議会の両院制を構成する貴族院(上院)の議長である。.

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黒龍会

黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である。中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江に名前が由来する。対露開戦を主張。玄洋社の海外工作センターといわれた。海外では日本の壮士集団、BLACK DRAGON SOCIETYとして恐れられていた堀幸雄 『最新 右翼辞典』 柏書房 2006年11月 P 227-228。1931年に大日本生産党を結成。1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力のある国家主義団体として解散させられた。.

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近衛篤麿

近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。.

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近衛文麿

近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。 貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、大政翼賛会総裁(初代)などを歴任した。.

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霞山会

霞山会館が入居する霞が関コモンゲート西館(画像左) 一般財団法人霞山会(かざんかい)は、日本の財団法人。東亜同文会を前身とし、日本とアジア諸国の国際交流を目的とする。事務所は東京都港区赤坂の赤坂霞山ビルに所在。 財団の事業の一つとして、会議室・宴会場・レストランなどの施設を持つ霞山会館(かざんかいかん)を運営している。同会館は、霞が関コモンゲート西館(霞山会館ビル)37階に所在する。.

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興亜会

興亜会(こうあかい)は、1880年(明治13年)に日本で最初に設立されたアジア主義の総合機関。日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である。.

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長岡護美

長岡 護美(ながおか もりよし)は、明治期の外交官・華族(子爵)・貴族院議員。錦鶏間祗候、麝香間祗候。肥後熊本藩主・細川斉護の六男。.

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長谷場純孝

長谷場 純孝(はせば すみたか、嘉永7年4月1日(1854年4月27日) - 大正3年(1914年)3月15日)は、日本の政治家。 衆議院議員(11期)。.

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陸羯南

羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育てた。幼名は巳之太郎、のち実号が羯南。.

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柏原文太郎

柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。.

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林毅陸

林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日)は、明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。枢密顧問官、衆議院議員、帝国学士院会員、第6代慶應義塾塾長、初代愛知大学学長等を歴任。号は弘堂。 位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。日本の外交史研究の先駆者として知られている。.

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東京

西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.

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東亜同文書院大学 (旧制)

1945年中国に学校施設を接収され、1946年教職員・学生の引き揚げをもって閉学した。.

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東邦協会

東邦協会(とうほうきょうかい)は、1891年(明治24年)7月に創立されたアジア・太平洋地域研究団体。当初は、南進論者、アジア主義者、貿易立国論者が混在したが、次第に、アジア主義・国粋主義系の団体としての性格を強めた。.

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杉浦重剛

杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。 若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。.

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根津一

根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。.

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梁啓超

梁 啓超(りょう けいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネームをもつ。 建築家・建築史家の梁思成は長男、考古学者の梁思永は次男にあたる。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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欧米

欧米(おうべい)とは、ヨーロッパ州(欧州)とアメリカ州(米州。北アメリカ州と南アメリカ州)の3大州を指す。 狭義では、ヨーロッパの先進国及びアメリカ合衆国とカナダの北アメリカ2か国とを合わせた集団を指す。イギリス人が建国した、オセアニアにあるオーストラリアやニュージーランドを含める場合もある。.

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江藤新作

江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1910年(明治43年)1月6日)は、明治時代の政治家、衆議院議員。幼名松次郎。号は節山。初代司法卿、江藤新平の次男。次男は江藤夏雄(衆議院議員)。.

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池辺三山

池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日(文久4年2月5日)– 1912年2月28日)は、明治期の日本のジャーナリスト。本名は吉太郎、字は任道、諱は重遠、別号に鉄崑崙、無字庵主人、木生など。日本のジャーナリストの先駆けといわれる。.

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洋務運動

洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。 福建省福州の造船所・福州船政局.

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渡辺洪基

渡辺 洪基(わたなべ ひろもと / こうき、1848年1月28日(弘化4年12月23日) - 1901年(明治34年)5月24日)は明治時代の日本の官僚、政治家。幼名・孝一郎、号は浩堂。 学習院次長、元老院議官、工部少輔、東京府知事、帝国大学(東京大学の前身)初代総長、駐オーストリア公使、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めたほか、工手学校(工学院大学の前身)、大倉商業学校(東京経済大学の前身)の設立に関わった。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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本間喜一

本間 喜一(ほんま きいち、1891年(明治24年)7月15日 - 1987年(昭和62年)5月9日)は、日本の商法学者、教育者、検察官、裁判官、弁護士、司法官僚。愛知大学名誉学長、一橋大学名誉教授。初代最高裁判所事務総長。正四位勲二等旭日重光章。.

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戊戌の変法

戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。.

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戊戌の政変

戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)とは、清末において、光緒24年(1898年、戊戌年のおよそ100日間)に西太后が栄禄・袁世凱らと共に、武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派(反変法)のクーデターである。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本人

日本人(にほんじん、にっぽんじん、Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。.

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政教社

政教社(せいきょうしゃ)は、1888年(明治21年)、東京にできた政治評論団体。機関誌『日本人』、『亜細亜』、続いて『日本及日本人』を発行し、単行本も出版した。結成期の主張は、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしとの、国粋主義だった。性格を変えながら、1945年(昭和20年)まで存続した。.

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1896年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1898年

記載なし。

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1918年

記載なし。

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1943年

記載なし。

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1946年

記載なし。

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1948年

記載なし。

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1950年

記載なし。

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731部隊

731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。 満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。.

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