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李文彩

索引 李文彩

李 文彩(り ぶんさい、Li Wencai、? - 1872年)は、清末の民衆反乱の指導者。チワン族。 広西省横州(現在の横県)出身。1850年より抗租運動に参加し、指導者となる。1853年より横州・永淳・霊山などを攻撃したが、占領できなかった。1856年、陳開が潯州に大成国を建てると、李文彩も参加して「定国公」に封ぜられた。1857年、李文彩は定北王梁昌率いる西征軍に加わり、横州・永淳を占領し、さらに南寧も攻略した。しかし1858年、清軍は南寧を奪回し、梁昌は平西王の区潤と内紛を起こした末に、広東省で捕らえられた。李文彩は横州を守っていたが、1859年に陥落した。 1860年、太平天国を離脱した石達開軍が広西省に到着すると、李文彩はこれに加わり、親天燕に任じられた。1862年より李文彩は石達開の左宰輔李福猷に従って貴州省から四川省に入ろうとしたが、1863年に李福猷が捕えられたため、李文彩は余党を率いて余老科率いる苗民軍・羅光明率いる斎教徒軍と連合することになった。 1865年、潘明杰率いる苗民軍と何徳勝率いる黄号軍(灯花教徒軍)と連合して貴陽に迫った。1869年に柳天成率いる苗民軍と連合して羊安で清軍に大勝を収め、勢いに乗って都匀を占領した。しかし1870年に都匀を失ったため、張秀眉率いる苗民軍の保護下に入った。しかし1872年、烏鴉坡の戦いで張秀眉が清軍に敗れて捕えられると、李文彩の軍勢も壊滅し、22年にわたる李文彩の戦いも終わった。.

36 関係: 南寧市号軍大成国太平天国の乱広西省広東省張秀眉ミャオ族チワン族四川省石達開貴州省貴陽市霊山県都イン市陳開抗租運動柳天成李福猷桂平市横県斎教1850年1853年1856年1857年1858年1859年1860年1862年1863年1865年1869年1870年1872年

南寧市

南寧市(なんねいし、、Namzningz)は中華人民共和国広西チワン族自治区の首府である。歴史的な簡称は邕(ヨウ)だが、近年緑化が進んでいることから緑城とも言われる。チワン族が全市人口の 56.3 パーセントを占める。.

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号軍

号軍(ごうぐん)は太平天国と同時期に清に反抗した貴州省の民衆蜂起軍。民間宗教の灯花教が母体。.

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大成国

大成国(だいせいこく)は清末の1855年から1864年まで存続した、天地会の蜂起軍が広西省に建立した政権である。1855年4月、広東省の天地会の首領の陳開と李文茂が軍勢4万を率いて広州を包囲したが攻略できず、千隻の船団を率いて広西省に入り、潯州府(現在の桂平市)を占拠し、大成国を建てた。潯州を秀京と改称し、年号を洪徳とし、貨幣を鋳造した。陳開は平潯王と称し、李文茂を平靖王に、梁培友を平東王に、区潤を平西王に、梁大昌を定北王に封じた。その後、邕州(現在の南寧市)・柳州に進軍し、長期にわたって清に対抗した。1861年、潯州が陥落し陳開は捕えられたが、戦闘は継続された。完全に壊滅したのは1864年である。.

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太平天国の乱

太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.

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広西省

広西省(こうせいしょう)は、かつて中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国広西チワン族自治区の大部分に相当する。.

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広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

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張秀眉

張 秀眉(ちょう しゅうび、Zhang Xiumei、1823年 ‐ 1872年)は清末に貴州省で起こった苗民(ミャオ族)蜂起(、かんどうきぎ)の指導者。.

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ミャオ族

ミャオ族(苗族、) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。自称はモン族 (Hmong) であるが、Hmongは狭義にはミャオ族の一支族に用いられる呼称である。中国では55の少数民族の一つである。.

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チワン族

チワン族(壮族)(チワンぞく、チワン語: Bouxcuengh, 旧表記 Bouчcueŋь, ポウシューン)は、主に中国南部やベトナム北部に住居する原住民族である。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万人(2010年の第6回全国人口調査統計による)が住み、中国最大の少数民族となっている。言語はタイ・カダイ語族に属するチワン語を話す。壮族(そうぞく)、チョワン族、チュアン族と言う日本語表現もある。.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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石達開

石 達開(せき たつかい、Shi Dakai、1831年 - 1863年6月25日)は、太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。 広西省貴県出身。チワン族との説もある。洪秀全が開いたキリスト教秘密結社拝上帝会に加入。1851年に金田蜂起がおこると左軍主将となり、翼王に封ぜられ、各地で戦功をたてた。 1853年の西征開始後、安徽省で政務にあたった。石達開は天朝田畝制度による土地改革を行う条件が整っていないと判断し、「旧に照らして徴税する」、すなわち従来通り地主が小作人から小作料を徴収して政府が地主から徴税を行うという政策をとった。これを「安慶改制」といい、その後の太平天国の占領地での基本方針となった。もっとも小作人の抗租運動について放置したため、地主は小作料を上げることができず、小作人の負担は軽減された。 1855年、江西省で曽国藩率いる湘軍に勝利をおさめ、南昌をのぞく江西省全域を占領した。 1856年、天京(南京)で北王韋昌輝が東王楊秀清の一党2万人を殺害したことを石達開が責めると、韋昌輝は石達開の家族を殺害した。石達開が城外に逃れて兵を集め、韋昌輝討伐を開始すると、洪秀全は韋を殺害した。この天京事変の結果、太平天国の官僚たちは石達開が政務を執ることを期待したが、洪秀全は石達開を疑い、兄の洪仁発・洪仁達を登用して牽制した。不安を感じた石達開は1857年に天京から離脱し、江西省、湖南省、広西省を転戦した。 石達開は四川省を根拠地にしようと考えていたが、彼の軍の中には天京に帰ることを望む者もいた。1860年、部将の彭大順・朱衣点らは天京への帰還を主張したが、石達開が聴かなかったため、彭大順・朱衣点・吉慶元は自分の部隊を率いて天京に出発した。この部隊は途中で清軍の攻撃を受けて、彭大順は戦死したが、朱衣点・吉慶元の部隊20万人は江西省で太平天国軍と合流した。 部隊の多くが離脱した後、石達開は広西省で数万人の兵を集め、1861年、10万余りの兵を率いて湖南省・湖北省を経て四川省東部に入った。四川の南方から長江を北上しようと何度も攻撃したが、清軍に阻まれた。そのため頼裕新に北上を、李福猷に東進を命じて清軍の兵力を分散させる作戦をとった。しかし1863年5月、大渡河で渡河に失敗し、清軍に退路を断たれ、20日余り包囲された。糧食が尽き、包囲の突破にも失敗して兵力を失ったため、6月13日に部下の命と引き換えに四川総督駱秉章に降伏し、部将の曽仕和・黄再忠・韋普成とともに成都で凌遅刑で処刑された。兵のうち、老弱の者と新兵は解散させられたが、二千人が殺害された。.

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貴州省

貴州省(きしゅうしょう、中国語:贵州省、拼音:Gùizhōu Shěng、英語:Guizhou)は、中華人民共和国南西部の省。省都は貴陽市。略称の黔(けん)は黒を意味する。.

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貴陽市

貴陽市の衛生画像 人民広場 貴陽市(きようし、、、)は、中華人民共和国貴州省の省都。市内に森林が多いことから林城の別名がある。市名は貴山の南にあることに由来する。.

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霊山県

霊山県(れいざん-けん)は中華人民共和国広西チワン族自治区欽州市に位置する県。.

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都イン市

都匀市(といん-し)は中華人民共和国貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州に位置する県級市。.

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陳開

陳 開(ちん かい、Chen Kai、1822年 ‐ 1861年)は大成国の指導者の一人。 広東省三水県出身の桶屋という説と、広東省南海県仏山鎮出身の船頭という説がある。天地会の指導者となり、金田蜂起に刺激を受け、1854年に李文茂らと蜂起して、広州を包囲した。しかし、陥落させることはできず蜂起軍は両広総督の葉名琛の反撃を受け、拠点を失った。 陳開・李文茂は広西省に逃れ、1855年に潯州を占領した。ここで陳開は大成国の建国を宣言し、洪徳と年号を定め、貨幣として洪徳通宝を発行した。陳開は鎮南王(のち平潯王と改称)、李文茂は平靖王、梁培友は平東王、区潤は平西王、梁昌は定北王を名乗り、潯州を秀京と改称した。さらに柳州・梧州・南寧を支配下に置いた。 1858年、梧州を出発した陳開率いる東路軍と、柳州を出発した李文茂率いる西路軍は桂林攻略を目指したが、桂林には蒋益澧率いる湘軍が応援に来ており、西路軍は敗れ、東路軍も撤退に追い込まれた。その後、柳州・梧州も失った。 1861年、清軍は秀京に総攻撃をかけ、激戦の末に陳開は水軍を失い、秀京城内に撤退した。しかし秀京では地主が蜂起して、陳開は秀京を脱出して太平天国の石達開軍に合流しようとした。しかし果たせずに捕らえられて斬られた。.

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抗租運動

抗租運動(こうそうんどう)は明・清代の中国における小作人(佃戸)の地主への抵抗運動である。 明代中期ごろより、中国では土地の私有が進展して、大量の土地が少数の地主に集中するようになった。それに伴い、多くの農民が小作人に転落し、重い小作料の支払いに悩まされるようになった。そのため小作人の反抗が発生するようになった。明の正統年間に福建省で発生した鄧茂七の乱は代表的な抗租運動である。 その後、小作人は地主の土地所有権を認めて穏当な小作料を支払うかわりに、土地の使用権を譲るように主張した。要求が容れられない場合、小作人は土地を占拠して小作料の不払いという手段を往々にして採用した。こうして大量の田畑で「一田両主」という現象が発生した。清代になると江蘇省・浙江省・福建省・江西省・広東省・広西省・湖南省の各地で地主と「二地主」(使用権を持った小作人)との土地権利をめぐる争いは常態化するようになった。 Category:中国の経済史 Category:中国の社会史 Category:明朝 Category:清朝.

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柳天成

柳 天成(りゅう てんせい、Liu Tiancheng、1817年 - 1870年)は、清末の苗民反乱の指導者。 貴州省都匀府出身。1855年5月に蜂起し、柳五王と称した。7月に都匀府城に進攻し、11月には羅光明らと連合して、八寨庁城を占領した。1856年、再び都匀府城に進攻して占領したが、すぐに撤退している。1858年、麻哈州を陥落させ、再び都匀府城を占領した。その後、羅光明や潘新簡らと連合して、茘波・独山・都匀一帯を転戦した。さらにその後は李文彩と連合して茘波・独山を占領した。1869年6月、柳天成軍と貴州提督張文徳軍が羊安で交戦したが、柳天成軍は張文徳を負傷させ、清軍の大部分を殲滅する勝利をおさめた。柳天成軍は勢いに乗って三たび都匀府城を占領した。しかし翌年に都匀府が清軍の包囲を受けると、内部に裏切りが出て柳天成は殺害され、4月に都匀府は陥落した。.

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李福猷

李 福猷(り ふくゆう、Li Fuyou、? - 1863年)は、太平天国の指導者の一人。 広東省英徳出身。掀天燕に封ぜられた。天京事変後の1857年から翼王石達開に従って、江西省・湖南省・広西省を転戦し、石達開から知謀を評価され、翼殿人台左宰輔に任ぜられた。1862年、石達開に従い、四川省に入った。李福猷は3万人を率いて雲南省昭通府を経て、貴州省に入り、貴州省から四川省を包囲する作戦をとることになった。しかし1863年、石達開の本隊が大渡河で全滅したとの報を聞き、天京への帰還を図った。当初は湖南省から東進する予定であったが清軍に阻まれたため、南下して広西省・広東省・江西省に入るルートに変更した。しかし広東省連州で清軍の追撃を受けて敗北し、李福猷は捕らえられて斬られた。.

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桂平市

桂平市(けいへいし)は中国の広西チワン族自治区貴港市に位置する県級市。珠江最大の支流・西江と鬱江が合流する場所にある水運の要所である。.

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横県

横県(おう-けん)は中華人民共和国広西チワン族自治区の南寧市に位置する県。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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斎教

斎教(齋教, 齋敎|、斋教、さいきょう)は、儒教・仏教・道教の三教に基づくとされる台湾および中国の宗教。中国臨済禅の傍流とされている。 Category:台湾の宗教 Category:中国の宗教.

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1850年

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1853年

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1856年

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1857年

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1858年

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1859年

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1860年

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1862年

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1863年

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1865年

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1869年

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1870年

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1872年

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