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未央宮

索引 未央宮

未央宮(びおうきゅう)は、古代中国の前漢の都である長安の南西部にあった宮殿であり、前漢の皇帝の居場所であった。 『三輔黄図』によると漢の高祖7年(紀元前200年)に、少府陽城延(『漢書』高恵高后文功臣表)の指揮のもと、丞相蕭何が主導して造営を開始した。高祖劉邦はその壮麗さに「天下が争い苦しんだばかりでまだどうなるか分からないというのに、なぜそんな壮麗な宮殿を造るのか」と難色を示したが、蕭何は「天子は四海の内全てを家とするものですから、壮麗でなければ威厳がありません。それに後世に新たに作る必要がないようにするのです」と答えた。劉邦は喜び、長安に遷都した(『漢書』高帝紀下)。 高祖9年(紀元前198年)には未央宮で宴会を行っているが、全て完成してはおらず、高祖は自分の宮殿としては既に存在していた長楽宮を使用している。次の恵帝からは未央宮を使うようになり、長楽宮は皇太后の宮殿となった。皇帝の宮殿であることから警護として衛尉が置かれた。 『三輔黄図』によると宮殿は周囲28里であり、これは現代の発掘調査による未央宮の全長8,800メートルとほぼ符合する。前殿、宣室殿、温室殿、清涼殿、麒麟殿、金華殿、承明殿、掖庭宮、椒房殿、高門殿、金馬門などのさまざま建物があった。諸侯や大臣と朝会を開く場所である前殿は龍首山の丘陵を利用して建てられており、長安の城壁より高い位置にあった。 王莽は漢を簒奪し皇帝に即位すると、未央宮を「寿成室」と改称し、前殿を「王路堂」と改称した(『漢書』王莽伝中)。王莽の新が滅んだ際、未央宮は反乱軍のため焼けた。長楽宮はじめ他の宮殿は無事であったため、長安に入った更始帝劉玄や赤眉の劉盆子は長楽宮に入った(『後漢書』劉玄伝、劉盆子伝)。しかし赤眉により他の宮殿も被害にあった。 未央宮遺跡は2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。.

21 関係: 劉盆子劉邦少府丞相後漢書シルクロード (世界遺産)前漢皇太后皇帝王莽紀元前198年紀元前200年衛尉赤眉軍蕭何長安長楽宮恵帝 (漢)漢書更始帝

劉盆子

劉 盆子(りゅう ぼんし、10年 - ?)は、新末後漢初に新朝に対して叛乱を起こした赤眉政権の皇帝。兄に劉恭、劉茂がいる。.

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劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

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少府

少府(しょうふ)とは、中国の官名である。.

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丞相

丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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シルクロード (世界遺産)

ルクロード。実際に世界遺産リストに登録されているのは、まだごく一部である。 この記事では、世界遺産としてのシルクロードについて扱う。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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王莽

王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.

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紀元前198年

紀元前198年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前200年

紀元前200年は、ローマ暦の年である。.

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衛尉

衛尉(えいい)とは、中国の官名である。.

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赤眉軍

赤眉軍(せきびぐん)は、新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。.

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蕭何

蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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長楽宮

長楽宮(ちょうらくきゅう)は、古代中国の前漢の都である長安にあった宮殿である。 『三輔黄図』によると元は秦の興楽宮だったものを流用したもので、漢の高祖5年(紀元前202年)後9月に高祖劉邦は少府陽城延(『漢書』高恵高后文功臣表)の指揮のもと長楽宮を造営させ(『漢書』高帝紀下)、同7年(紀元前200年)に完成した。同年に長安に遷都してからは長楽宮が皇帝である高祖劉邦の宮殿だったが、次の恵帝からは完成した未央宮を使うようになり、長楽宮は皇太后の宮殿となった。皇帝のいる未央宮より東側にあったため、「東宮」とも呼ばれた。 『三輔黄図』によると宮殿は周囲20里であり、これは現代の発掘調査による長楽宮の全長10,370メートルとほぼ符合する。長楽宮には前殿、鴻台、臨華殿、温室殿、長信宮、長秋宮、永寿殿、永寧殿などの建物があった。王莽は漢を簒奪し皇帝に即位すると、長楽宮を「常楽室」と改称した(『漢書』王莽伝中)。 皇帝の宮殿である未央宮の警護をする衛尉と同様に、皇太后の宮殿である長楽宮にも警護するために長楽衛尉が置かれた。 前漢が滅びた後、王莽の新が滅んだ際、未央宮は反乱軍のため焼けたが、長楽宮はじめ他の宮殿は無事であったため、長安に入った更始帝劉玄や赤眉の劉盆子は長楽宮に入った(『後漢書』劉玄伝、劉盆子伝)。しかし赤眉により他の宮殿も被害にあった。.

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恵帝 (漢)

恵帝(けいてい)は、前漢の第2代皇帝。諱は劉盈(りゅう えい)。生年は紀元前210年、紀元前213年の2説がある。.

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漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

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新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。 周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、 具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。 遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、 やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。 新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照。.

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更始帝

更始帝(こうしてい)は、新末後漢初の緑林軍による更始政権の皇帝。姓は劉、諱は玄。南陽郡蔡陽県(現在の湖北省棗陽市西南)の人。元来は前漢の宗室であり、祖父は蒼梧郡太守の劉利、父は劉子張で、光武帝劉秀の族兄に当たる。正室は趙萌の娘。側室は平林の豪族の娘・何氏と韓氏。子は劉求・劉歆・劉鯉(寿光侯)。孫は劉巡(求の子)、曾孫は劉姚(巡の子)。.

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