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木下昌直

索引 木下昌直

木下 昌直(きのした まさなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。龍造寺氏に仕えて武勇の誉れ高く、龍造寺四天王の一人と称される。.

31 関係: 天正島原半島島津氏京都佐賀藩鍋島直茂鍋島氏龍造寺四天王龍造寺隆信龍造寺氏葉隠肥前国梶峰城武将永禄江戸時代沖田畷の戦い戦国大名戦国時代 (日本)文禄文禄・慶長の役慶長1562年1578年1584年1592年1610年3月24日 (旧暦)4月13日 (旧暦)5月4日6月4日

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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島原半島

島原半島のランドサット。スペースシャトル標高データにより陰影を付けた。 島原半島(しまばらはんとう)は、九州の西北にあって、西、そして南に向けてくの字状に突き出した陸地の南部から、3つに分かれる半島群のうち、もっとも左、南東に突き出す半島である。全体は、北岸は有明海に面する。その西部、半島の付け根部の有明海は諫早湾と呼ばれる。東岸から東南岸は有明海の開口部である島原湾に面し、熊本市、宇土半島、天草上島と対峙する。南端は瀬詰崎といい、ここから早崎瀬戸を挟んで天草下島まで 4.4 km ほどである。西岸は橘湾に面し、長崎半島に対峙する。半島中央の幅は約 15 km 、長さは測り方によるが約 40 km である。 半島中心部は雲仙と呼ばれ、普賢岳の標高は 1359.3 m 、平成新山は 1486 m である。雲仙温泉などの温泉にも恵まれている。 一部は雲仙天草国立公園に指定されている。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。.

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鍋島氏

鍋島氏(なべしまし)は、近世の佐賀藩藩主の氏族。血縁的には武藤氏の一族・少弐氏の男系である(系譜を参照)。.

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龍造寺四天王

龍造寺四天王(りゅうぞうじしてんのう)は、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の配下の武将で、武勇に優れていた4人を顕彰した呼称。史料上では「隆信(公)四天王」ともいう。 龍造寺氏について記された複数の史料で確認する事ができ、特に龍造寺氏の支配権・家臣団をほぼそのまま引き継いだ佐賀藩の公人の手による記録にも名が現れる事から、18世紀初頭ころには既に定着していたものと考えられる。成員については「四天王」の名の通り四名の武将の名が挙げられているが、資料によって多少の異動があり、「四天王として挙げられている武将」は計5名が確認できる。なお類似のものに「四本槍」あるいは「四天王の槍柱」があるが、これらは「龍造寺隆信の旗本」からの選抜とされ、四天王よりも定義がやや狭まっている。.

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龍造寺隆信

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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葉隠

『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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梶峰城

梶峰城(かじみねじょう)は佐賀県に存在した山城。別名、多久城(たくのじょう)。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沖田畷の戦い

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1562年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1584年

記載なし。

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1592年

記載なし。

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1610年

記載なし。

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3月24日 (旧暦)

旧暦3月24日は旧暦3月の24日目である。六曜は友引である。.

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4月13日 (旧暦)

旧暦4月13日は旧暦4月の13日目である。六曜は仏滅である。.

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5月4日

5月4日(ごがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から124日目(閏年では125日目)にあたり、年末まではあと241日ある。誕生花はヤマブキ。.

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6月4日

6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。誕生花はイロマツヨイグサ、マツバギク。.

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