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有楽流

索引 有楽流

有楽流(うらくりゅう)は、織田信長の実弟織田長益(有楽斎)に始まる茶道の流派の一つ。四男織田長政の系統の大和芝村藩、五男織田尚長の系統の大和柳本藩の家中で嗜まれ、現在は長政の末裔を宗家としている。また長益の次男織田頼長、その長男織田長好、信長の孫織田貞置と継承され、貞置以降のものを貞置流ともいう。さらに、貞置の甥織田貞幹を召し抱えた尾張藩の家中に伝えられ、現在まで続く流派として尾州有楽流(びしゅううらくりゅう)がある。.

53 関係: 大坂の陣大和国如庵子爵宇陀松山藩小牧・長久手の戦い尾張藩幕末建仁寺徳川家康利休七哲味舌藩元和 (日本)織田尚長織田信貞織田信長織田信雄織田頼長織田貞幹織田貞置織田輔宜織田長好織田長定織田長宇織田長亮織田長弘織田長純織田長義織田長猷織田長益織田長頼織田長表織田長恭織田長清織田長明織田長易織田長政 (大名)織田長教芝村藩遠山友寿高家 (江戸時代)豊臣秀吉茶道関ヶ原の戦い苗木藩柳本藩武野紹鴎本能寺の変明治維新昭和...旗本摂津国慶安 インデックスを展開 (3 もっと) »

大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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如庵

茶室如庵 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽苑にある茶室である。昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって現在地に移築された。国宝指定は昭和26年(1951年)。この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという。なお、有楽斎はこれより前に如庵の名を持つ茶室を大坂天満屋敷にも好んで(造って)おり、同じ有楽苑内に「元庵」の名で復元されている。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宇陀松山藩

宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀)に陣屋が置かれた。 松山西口関門(国の史跡).

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小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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利休七哲

利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中で挙げられている。 その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。.

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味舌藩

味舌藩(ましたはん)は、摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市三島)にあった藩である。藩庁を味舌陣屋に置いたが、むしろ大和国に所領の多くがあった。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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織田尚長

織田 尚長(おだ なおなが、慶長元年(1596年)- 寛永14年11月3日(1637年12月19日))は、大和柳本藩の初代藩主。尚長流織田家初代。 織田信長の弟・織田長益の五男。正室はなし(一説には持明院氏ともいう)。子は織田長種(長男)、娘(坊城俊完室)、娘(神尾元珍室)、娘(甘露寺経長室)、娘(蜷川親房正室)の1男4女。官位は従五位下武蔵守、越後守、大和守。.

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織田信貞

織田 信貞(おだ のぶさだ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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織田頼長

織田 頼長(おだ よりなが、天正10年(1582年) - 元和6年9月20日(1620年10月15日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、茶人。豊臣氏の家臣。織田長益(有楽斎)の次男。別名に秀信(ひでのぶ)、長頼(ながより)。通称は孫十郎、左門、雲正寺道八。官位は従四位下侍従。.

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織田貞幹

織田 貞幹(おだ さだもと)は、尾張藩家老。織田信長九男・信貞の子孫。尾州有楽流茶人。.

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織田貞置

織田 貞置(おだ さだおき、元和3年(1617年) - 宝永2年6月2日(1705年7月22日))は江戸時代前期から中期の高家旗本で茶人。織田信貞の次男。織田信長の孫。幼名は出来丸。通称は左京亮、五郎左衛門、主計頭。官位は従五位下侍従。号は一谷茅翁、永年堂、黄雀軒、文芳翁、山花、三過老人など。.

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織田輔宜

織田 輔宜(おだ すけよし、享保17年(1732年) - 寛政11年8月29日(1799年9月28日))は、大和国芝村藩第7代藩主。長政流織田家7代。 第6代藩主織田長亮の長男。母は正室・細川有孝の養女(細川利昌の娘)。正室は土岐頼稔の娘。継室は毛利政苗の娘(のち離婚)。子はなし。通称は幸次郎。官位は従五位下丹後守。.

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織田長好

織田 長好(おだ ながよし、元和3年(1617年) - 慶安4年5月20日(1651年7月7日))は、江戸時代前期の武士。織田頼長の長男で、織田信長の従孫に当たる。通称は三五郎。.

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織田長定

織田 長定(おだ ながさだ、元和2年(1616年)- 寛文12年閏6月4日(1672年7月27日))は、大和戒重藩の第2代藩主。長政流織田家2代。 初代藩主・織田長政の長男。正室は金森重頼の娘。子は織田長明(長男)ら1男1女。通称は左近。官位は従五位下豊前守。.

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織田長宇

織田 長宇(おだ ながのき、明和3年(1766年) - 天保10年5月25日(1839年7月5日))は、大和国芝村藩第9代藩主。長政流織田家9代。 第8代藩主織田長教の長男(次男とも)。正室は阿部正賀の養女(阿部正保の娘)。子は織田長恭(三男)、萩原言偏(五男)、荻原徳拠(六男)、渡会喬久(七男)など7男6女。なお、竹尾善筑は、その著書『即事考』に長宇の娘が家来と駆け落ちした事件を記している。通称は徳三郎。官位は従五位下左衛門佐。.

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織田長亮

織田 長亮(おだ ながあき、元禄11年(1698年) - 享保18年6月7日(1733年7月17日))は、大和国芝村藩第6代藩主。長政流織田家6代。 第4代藩主織田長清の五男。正室は細川有孝の養女(細川利昌の娘)。子は織田輔宜(長男)、織田益聡(次男)、織田長教(三男)、娘(南部信興正室)、娘(本善寺住詮室)など3男4女。初名は輔世。通称は又助。官位は従五位下、肥前守。.

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織田長弘

織田 長弘(おだ ながひろ、元禄10年(1696年)- 正徳4年7月19日(1714年8月28日))は、大和芝村藩第5代藩主。長政流織田家5代。 第4代藩主織田長清の三男。正室、子ともになし。通称は竹助、主税。.

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織田長純

織田 長純(おだ ながずみ、安政3年10月25日(1856年11月22日) - 大正9年(1920年)11月29日)は、日本の華族。通称は徳次郎。位階は正三位。爵位は子爵。 夫人、子女ともにいない。養子は織田長義(弟長表の長男)。.

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織田長義

織田長義(おだ ながのり、1890年(明治23年)8月15日 - 1919年(大正8年)1月18日)は明治期、大正期の華族。織田長表の長男。生母は森氏。 子爵であった伯父長純の養子となる。1903年(明治36年)7月、学習院初等学科を卒業。1910年8月20日、従五位に叙任する。1917年(大正6年)4月、久世広業の三女八重子と結婚する。媒酌人は織田信恒であった。1919年(大正8年)1月18日、養父長純に先立ち死去。墓所は重秀寺。翌年11月19日に養父長純も死去したため、織田家は長義の遺児長繁によって相続された。 夫人は久世広業の三女八重子(夫の死後、離籍)。一男あり。 なかのり Category:戦前日本の人物 Category:1890年生 Category:1919年没.

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織田長猷

織田 長猷(おだ ながみち、嘉永5年7月21日(1852年9月4日) - 明治13年(1880年)6月30日)は大和芝村藩主織田長易の長男。通称は敬之助。官位は従五位。.

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織田長益

織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。.

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織田長頼

織田 長頼(おだ ながより)は、大和宇陀松山藩の第3代藩主。高長系織田家2代。.

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織田長表

織田 長表(おだ ながすえ、慶応元年4月10日(1865年5月4日) - 明治31年(1898年)6月15日)は明治期の華族。元大和芝村藩主織田長易の六男。通称は才三郎。 慶応元年(1865年)4月10日誕生。明治31年(1898年)6月15日、33歳で死去。墓寺は重秀寺。 夫人は森長宝の養妹琴子。子には、長男長義(織田長純養子)、次男長博(森ひさ養子)、長女花子(伊達宗経夫人)、次女次子の二男二女がいる。 なかすえ Category:明治時代の人物 Category:1865年生 Category:1898年没.

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織田長恭

織田 長恭(おだ ながやす、寛政13年1月5日(1801年2月17日) - 明治12年(1879年)3月7日)は、大和国芝村藩第10代藩主。長政流織田家10代。 第9代藩主・織田長宇の三男。母は阿部正保の娘(長宇正室、阿部正賀養女)。正室は本庄宗允の娘貞子。継室も本庄宗允の娘。子は長女勝子(織田長易正室)など8女。幼名は愛之助。官位は従五位下丹後守。.

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織田長清

織田 長清(おだ ながきよ、寛文2年9月25日(1662年11月5日) - 享保7年10月7日(1722年11月15日))は、大和国戒重藩第4代藩主。同国芝村藩(初代)藩主。長政流織田家4代。 宇陀松山藩主織田長頼の三男。正室は織田政時の長女。継室は内田正衆の長女。子は織田衛保(次男)、織田長弘(三男)、織田長善(四男、高家旗本織田信門の養子)、織田長亮(五男、兄長弘の養子)、藤助(七男、近江総見寺住職)、娘(宝寿院行快室)など8男2女。通称は安千代、内匠。官位は従五位下丹後守。.

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織田長明

織田 長明(おだ ながあき、万治3年(1660年)- 元禄12年7月10日(1699年8月5日))は、大和戒重藩の第3代藩主。長政流織田家3代。 第2代藩主・織田長定の長男。正室、子女ともになし。通称は主殿。.

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織田長易

織田 長易(おだ ながやす、文政7年(1824年) - 明治6年(1873年)1月31日)は、大和国芝村藩第11代藩主。長政流織田家11代。 美濃国苗木藩主遠山友寿の五男。正室は織田長恭の長女勝子。子は織田長猷(長男)、渡会易簡(次男、渡会喬久養子)、織田長純(三男、兄長猷養子)、遠山友悌(四男、遠山友禄養子)、織田長表(六男)、次女鈴子(内藤政挙継室)ら8男2女。初名は友祝。通称は主水、弾正。官位は従五位下豊前守、摂津守。.

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織田長政 (大名)

織田長政(おだ ながまさ、天正15年(1587年) - 寛文10年2月18日(1670年4月7日))は、大和戒重藩初代藩主。長政流織田家初代。 織田長益(有楽斎)の四男。正室は高田藩主・松平重直の娘。子は長定(長男)、政時(次男)、長女(大田原政清正室)、次女(高家旗本織田貞置室)の2男2女。通称は荘蔵、ト斎。官位は従五位下、丹後守、左衛門佐。.

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織田長教

織田 長教(おだ ながのり、享保18年(1733年) - 文化12年6月24日(1815年7月30日))は、大和国芝村藩第8代藩主。長政流織田家8代。 第6代藩主織田長亮の三男。正室はなし。子は織田長宇(長男)、織田長格(次男)、織田長據(三男)など7男3女。初名は道教。通称は栄三郎。官位は従五位下豊前守。.

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芝村藩

芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.

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遠山友寿

遠山 友寿(とおやま ともひさ、天明6年11月25日(1787年1月14日)- 天保9年11月21日(1839年1月6日))は、美濃苗木藩の第11代藩主。 第9代藩主・遠山友清の長男・遠山友福の長男。母は側室・芳信院(江戸嘉兵衛の娘)。正室は丸亀藩主・京極高中の養女・琴。継室は岡部長教の娘・栄綱院。子に友禄(三男)、友訓(加藤姓)、織田長易(五男)、正章(久貝姓)。官位は従五位下、刑部少輔、美濃守。 幼名は左吉。天明7年(1787年)4月晦日、第10代藩主・友随の養嗣子であった父友福が早世した。そのため、天明8年4月22日、友寿が祖父友随の嫡孫となった。寛政4年(1792年)12月21日、祖父友随の隠居により、家督を相続した。幼少のためにしばらくは肥後人吉藩主・相良長寛の補佐を受けた。寛政9年2月9日、将軍・徳川家斉に拝謁した。享和元年(1801年)12月16日、従五位下刑部少輔に叙任する。後に美濃守に改めた。享和3年5月6日、駿府加番を命じられた。藩政においては、行き詰まった藩財政再建を目指して倹約令を頻繁に出し、借上や貸し下げ、さらには家臣の統率強化にも務めた。 天保9年(1838年)11月21日、53歳で死去し、跡を三男の友禄が継いだ。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。 ともひさ *11 Category:中津川市の歴史 Category:1787年生 Category:1839年没.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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苗木藩

苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の一部を領地としていた。.

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柳本藩

柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主格大名であった。.

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武野紹鴎

大仙公園内の武野紹鴎像 武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。 幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。 子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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