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日野重光

索引 日野重光

日野 重光(ひの しげみつ、応安7年(1374年) - 応永20年3月16日(1413年4月16日))は、室町時代の公家。藤原北家真夏流の出身で裏松家を創始した。父は日野資康。姉に日野康子(足利義満御台所・北山院)、妹に日野栄子(足利義持御台所)、子に義資、宗子(足利義教御台所)、重子(足利義教側室)らがいる。足利義勝・義政兄弟の祖父であることから、死後左大臣を追贈された。 Category:室町・安土桃山時代の公家 しけみつ Category:1374年生 Category:1413年没.

23 関係: 室町時代左大臣応安応永公家裏松家足利義勝足利義満足利義持足利義政足利義教藤原北家日野家日野宗子日野康子日野義資日野資康日野重子日野栄子1374年1413年3月16日 (旧暦)4月16日

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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裏松家

裏松家(うらまつけ)は、藤原北家烏丸庶流の公家である。家格は名家。江戸時代前期の権中納言烏丸光賢の次男・参議資清を祖とする。江戸時代の石高は130石。.

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足利義勝

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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日野宗子

日野 宗子(ひの むねこ、生年不詳 - 文安4年4月29日(1447年6月12日))は、室町幕府第6代将軍・足利義教の正室(御台所)。父は大納言日野重光。後に離別させられて出家、観智院と名乗った。 第4代将軍であった足利義持の死後、弟の義円が還俗して将軍を継いで「義教」と称した。ところが、僧侶であった義教は妻帯しておらず、直ちに正室を立てる必要が生じた。そこで義持の正室日野栄子が甥の日野義資(重光嫡男)と図って正室として嫁がせたのが義資の妹で、栄子の姪である宗子であった。還俗から1ヶ月も経たない応永35年(1428年)閏3月6日に正式に御台所に定められ、継いで正長元年(1428年)6月21日に婚儀が執り行われた。永享元年(1429年)3月12日には女子を出産し、翌年1月28日には三位に叙せられた。ところが、この婚姻そのものが義教の後見人である日野栄子によって決められたものであり、その夫婦仲は良くなかった。義教は次第に側室の正親町三条尹子に心を移していく。 そして永享3年(1431年)6月5日、義教は突如として尹子に御台所の身分を与えることを宣言する。以後、宗子は「本台所」、尹子は「新台所」と呼ばれ、正室が2人いる状態となった。更に7月26日には2人の間の唯一の子供である娘が死去、続く翌27日には日野栄子も病死した。これを機に義教は宗子との離別を決意、同年中に宗子は離別を言い渡されて御所を去り、日野家に対してはその妹の日野重子(後の義勝・義政の生母)を側室に迎えることで代償とした。 その後の動向は不詳であるが、『康富記』に文安4年4月29日条に、出家して観智院と名乗った宗子がこの日に死去したことが記されている。 Category:室町幕府将軍の御台所 むねこ Category:生年不明 Category:1447年没.

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日野康子

日野 康子(ひの やすこ、正平24年/応安2年(1369年) - 応永26年11月11日(1419年11月28日))は、室町幕府第3代将軍・足利義満の室。女院北山院。父は日野資康。住居にちなんで南御所とも称された。妹の日野栄子は4代将軍となった足利義持の正室で第5代将軍・義量の生母。弟に裏松重光らがいる。 1394年(応永元年)ころ(1405年との説有り。日野業子を参照。)に日野業子(康子の叔母)に先立たれた足利義満の後妻となり、北山第南御所に住したことから南御所と称された。1406年(応永13年)後円融天皇の側室(事実上の正妻)で後小松天皇の生母である通陽門院三条厳子の死後、義満は、後小松は即位後に父の後円融を亡くしており、さらに母の通陽門院を亡くせば、天皇1代のうちに諒闇を2度経験することになり、過去の例(四条天皇・後醍醐天皇)が不吉であることから、准母を立てて諒闇を回避すべきだと主張した。関白・一条経嗣や重光ら側近たちが義満の意向を迎えて奔走し、康子はまず後小松の准母とされ、翌1407年(応永14年)に准三宮となり、さらに北山院の院号を宣下されて女院となった。1408年に義満が没した後、跡を継いだ義持は実妹の夫であったが康子とは疎遠であったらしく(『兼宣公記』応永24年正月10日条によれば、康子の兄弟であった僧侶の処遇を巡って康子と義持が衝突した後に不仲になったという)、義持による義満の朝廷政策の否定の影響もあって、康子の葬儀は女院としての格式では挙行されなかった。康子の死後わずか1ヶ月で御所としていた南御所は解体され、所領も後小松天皇に返還された。.

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日野義資

日野 義資(ひのよしすけ、応永4年(1397年) - 永享6年6月9日(1434年7月15日))は室町時代の公家。藤原北家日野流の一家裏松家当主。裏松重光の三男。正三位権大納言。 応永14年(1407年)11月19日、足利義満の北山第において義満自身が烏帽子親となって元服が行われ、義満は偏諱として「義」の字を与えた。これは義資が義満の正室日野康子の甥であったことによるが、武家で「義」の字を与えられていたのは斯波氏のみであり、公家に対しては摂関家の当主でさえ「満」の字しか与えられておらず、破格の厚遇であった。 足利義持の死後、弟の青蓮院義円(足利義教)が後継者に選出されると、青蓮院を退出した義円の住まいとして自宅である裏松邸を提供した。また、義持の未亡人栄子と協議して、妹の宗子を義教の正室としている。しかし、義教が本格的に政権を始動させると、義資は、青蓮院門跡であった時代に不忠のかどがあったとして所領を2ヶ所没収され、蟄居を命じられた。また宗子は義教と不仲であり、永享3年(1431年)には離縁されている。その後、もう一人の妹重子が義教の側室となった。 重子がのちに義教の跡を継ぐことになる千也茶丸を産んだ時、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者を調べあげて全員を処罰するという挙に出ている。そして永享6年(1434年)6月9日、義資は自邸で就寝中、侵入した何者かに殺害され、首を持ち去られた。犯人は捕まらず、当時から義教の指示であるという噂が流れていた。参議高倉永藤はこの噂話を口にしたことが義教に知られ、たちまち硫黄島へ流罪となった。 家督を継いでいた嫡男重政もこの際に所領を没収されて出家しており、裏松家はまだ幼い重政の子勝光を残して断絶の危機に瀕することになった。 Category:室町時代の人物 Category:1397年生 Category:1434年没 よしすけ Category:殺人被害者.

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日野資康

日野 資康(ひの すけやす、貞治4年/正平3年(1348年)-明徳元年/元中7年8月10日(1390年9月19日))は、南北朝時代の公卿。日野時光の次男。兄に日野資国(日野西家)、弟に日野資教、妹に日野業子。室は池尻殿(出自不詳)。子に日野康子、日野重光、烏丸豊光、日野栄子がいる。室町幕府5代将軍足利義量は外孫にあたる。「裏松」を家号として裏松 資康(うらまつ すけやす)と称した。従一位権大納言。 永和4年/天授4年(1378年)3月、正四位上左大弁兼蔵人頭(頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日に従三位権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。永徳元年/弘和元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌永徳2年/弘和2年(1382年)には後円融院の院執権になる。永徳3年/弘和3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督・検非違使別当を兼ねる。至徳元年/元中元年(1384年)に正二位に叙される。至徳3年/元中3年(1386年)1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、明徳元年/元中7年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。 妹の業子と娘の康子が3代将軍足利義満の御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘の栄子も資康の没後に4代将軍足利義持の御台所となり、5代将軍足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟の資教が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫の裏松勝光(8代将軍足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。.

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日野重子

日野 重子(ひの しげこ、応永18年(1411年) - 寛正4年8月8日(1463年9月20日))は、室町時代中期の女性。日野家出身。室町幕府6代将軍・足利義教の側室。日野重光の子。7代将軍・足利義勝、8代将軍・足利義政の生母。兄は日野義資で、その孫が日野勝光、日野富子。義教の正室宗子は姉で、烏丸資任は従弟にあたる。 永享6年(1434年)に義勝、永享8年(1436年)に義政を産む。嘉吉の乱で夫・義教が殺害された後、幼年の義勝や義政を補佐して幕政に関与し、義政の寵愛を受けた乳母・今参局と対立した。今参局は義政正室富子の産んだ子が早世したのが彼女の呪詛のためとされて流刑にされ、長禄3年(1459年)、自害させられるが、これは富子の指示とも重子の指示とも言われる。 寛正4年8月8日(1463年9月20日)に死去。それに伴い、斯波義敏、畠山義就が赦免された。.

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日野栄子

日野 栄子(ひの えいし、えいこ、明徳元年/元中7年(1390年) - 永享3年7月27日(1431年9月3日))は、室町時代中期の女性。日野重光の妹。室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.486 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.218。.

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1374年

記載なし。

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1413年

記載なし。

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3月16日 (旧暦)

旧暦3月16日は旧暦3月の16日目である。六曜は赤口である。.

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4月16日

4月16日(しがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から106日目(閏年では107日目)にあたり、年末まであと259日ある。誕生花はヤマブキソウ、ライラック、スノーフレークなど。.

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