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日本の儒教

索引 日本の儒教

日本の儒教(にほんのじゅきょう)では、日本における儒教について概説する。.

538 関係: 加地伸行垂加神道ちくま学芸文庫南学南宋南北朝時代 (日本)南村梅軒南浦文之古学古賀侗庵古賀精里古文辞学吉川幸次郎吉田篁墩吉田松陰吉村秋陽坐禅堀杏庵塩谷宕陰多久市多久聖廟多神教多武峰大名大塚先儒墓所大塩平八郎大学寮大修館書店大内氏大田錦城大韓民国大槻磐渓大橋訥庵天台宗天武天皇太宰春台夫子廟姜コウ学問所孔子孔子廟孔廟室町時代室鳩巣宮崎市定宮内庁治定陵墓の一覧宗教...宇都宮遯庵宇野精一宇野明霞安岡正篤安井息軒安積艮斎安積澹泊安藤東野安東省菴寺門静軒寺院富永仲基寛政寛政異学の禁尊王攘夷小瀬甫庵尾藤二洲山崎闇斎山下龍二山県周南山田方谷山片蟠桃山鹿素行山本北山岡山藩岡島冠山岡田寒泉岩波書店島津氏上杉憲実帝王学中原師員中原師連中原氏中巌円月中井履軒中井竹山中井甃庵中公新書中公文庫中国中村てき斎中江藤樹三宅尚斎三宅石庵三宅観瀾三善清行三輪執斎三教指帰下野国一山一寧平安時代久米三十六姓乙巳の変享保京都京都五山広瀬淡窓広瀬旭荘五井蘭洲五経博士井上蘭台井上金峨亀井南冥亀井昭陽亀田鵬斎今北洪川仏教伊藤仁斎伊藤東涯会沢正志斎式部省伝習録佐久間象山佐藤一斎佐藤直方御茶ノ水徳川吉宗徳川家康徳川光圀徳川綱吉後醍醐天皇律令制俊じょう忍岡聖堂応仁の乱土田健次郎ナツメ社周防国呉智英備前市唐人屋敷儒教冢田大峯円爾八角墳公家元 (王朝)元禄元田永孚図解雑学シリーズ皆川淇園皇室石田梅岩石門心学玄恵王仁礪波護神仏習合神道祇園南海科学科挙秋山玉山空海立原翠軒筑摩書房篠崎小竹細井平洲細井広沢紀伝道継体天皇猪飼敬所経世済民熊沢蕃山片山北海狩野直禎白川静百済芳野金陵鎌倉五山道教荻生徂徠草場佩川菊池氏菅原道真菅茶山青山延于青土社静坐頼山陽頼杏坪頼春水飛鳥京飛鳥水落遺跡飛鳥時代西山拙斎西郷隆盛諸橋轍次高井鴻山高玄岱高杉晋作論語魔術谷時中豊田天功貝原益軒貫名菘翁足利学校足利市黒沢雉岡近藤篤山近江商人鈴木博舒明天皇蘆野東山蘇我氏赤松滄洲薩南学派薩摩国閑谷学校藤原惺窩藤田幽谷藤田東湖藤森弘庵蒲生君平那覇市那波活所肥後国脇蘭室野中兼山臨済宗至聖廟金谷治長崎市酒船石遺跡雨森芳洲考証学陰陽五行思想陰陽道陶山鈍翁陽明学折衷学派柴野栗山林家 (儒学者)林テイ宇林羅山林鳳岡林鳳谷林述斎林鵞峰林榴岡李卓吾松宮観山松崎慊堂松平定信松平乗薀松永尺五村瀬栲亭栗山潜鋒桂庵玄樹梁田蛻巖森有礼楠本端山榊原篁洲横井小楠正安正治武士武内義雄水戸学江村北海江戸幕府江戸時代池田草庵沢村琴所河井継之助沖縄県沖縄戦津田左右吉清原宣賢清原頼業清原氏渋沢栄一湯島湯島聖堂湯浅常山服部南郭朝川善庵木下順庵朱子学朱熹朱舜水明経道明治明治維新明治書院春日潜庵昌平坂学問所海保青陵海保漁村浅見絅斎斎藤拙堂新井白石文部大臣 (日本)文治政治斉明天皇日本懐徳堂教育ニ関スル勅語1122年1184年1189年1199年1220年1251年1283年1299年1427年1432年1475年14世紀1508年1550年1555年1561年1564年1567年1575年1583年1585年1592年1595年1599年15世紀1600年1608年1614年1615年1618年1619年1620年1621年1622年1627年1628年1629年1630年1633年1640年1643年1645年1647年1648年1650年1652年1656年1657年1658年1662年1663年1665年1666年1668年1669年1670年1671年1672年1674年1676年1679年1680年1682年1683年1685年1686年1687年1690年1691年1692年1693年1694年1696年1697年1698年1699年1700年1701年1702年1705年1706年1707年1708年1712年1713年1714年1718年1719年1721年1722年1723年1724年1725年1727年1728年1730年1732年1734年1735年1736年1738年1739年1740年1741年1743年1744年1745年1746年1747年1748年1750年1752年1755年1756年1757年1758年1759年1761年1762年1764年1765年1766年1767年1768年1771年1772年1773年1774年1776年1778年1780年1781年1782年1784年1787年1788年1789年1790年1791年1793年1796年1797年1798年1799年1801年1803年1804年1805年1806年1807年1809年1811年1812年1813年1814年1816年1817年1818年1823年1825年1826年1827年1828年1829年1832年1834年1836年1837年1840年1841年1843年1844年1845年1846年1847年1849年1851年1855年1856年1857年1859年1861年1862年1863年1864年1865年1866年1867年1868年1869年1876年1877年1878年1883年1885年1890年1891年1892年1893年1898年1904年1910年1931年1936年1946年1949年1968年1975年1980年1983年1984年1990年1991年1993年1994年2008年5世紀6世紀845年847年903年919年 インデックスを展開 (488 もっと) »

加地伸行

加地 伸行(かじ のぶゆき氏名の表記および読み、肩書、専門分野は、「日本人の在るべき心 表現」(『産経新聞』朝刊、産経新聞大阪本社 2009年11月11日 17面)による。、1936年4月10日 - )は、日本の東洋学者、評論家。同志社大学フェロー、大阪大学名誉教授。専門は中国哲学史。.

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垂加神道

山崎闇斎 垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)は、江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した神道説。吉川神道や伊勢神道と並ぶ儒家神道のひとつとされる。.

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ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門・文庫判レーベル。.

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南学

南学(みなみまなぶ).

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南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南村梅軒

南村 梅軒(みなみむら ばいけん、? - 天正7年(1579年)?)は戦国時代の儒学者。周防国(現・山口県)出身。江戸時代に発達した土佐儒学(南学)の祖といわれる。 天文年間に土佐国に渡って程朱学を弘岡城主・吉良宣経に講じたという。谷時中らの南学は、彼の学の系統と言われている。主な著書に、「三十六策問」がある。 近年の歴史学の進展に伴い、その存在が疑問視され、2003年度版からは山川出版社の高等学校検定教科書でも記述が削除されている()。 Category:日本の儒学者 Category:16世紀の学者 Category:戦国時代の人物 (日本) Category:周防国の人物 Category:16世紀没.

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南浦文之

南浦文之(なんぽぶんし、弘治元年(1555年) - 元和6年9月30日(1620年10月25日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。 俗姓は湯浅氏。別名文之玄昌(ぶんしげんしょう)。別号雲興軒・時習斎。.

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古学

古学.

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古賀侗庵

古賀 侗庵(こが どうあん、天明8年1月23日(1788年2月29日) - 弘化4年1月30日(1847年3月16日))は、江戸時代後期の漢学者。本姓は劉氏。名は煜(いく)、通称は小太郎、字は季曄(きよう)、侗庵・蠖屈居・古心堂と号す。古賀精里の三男。兄に古賀穀堂・古賀西湟、子に古賀謹一郎がいる。.

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古賀精里

古賀 精里(こが せいり、寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日))は、江戸時代中期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂、侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。.

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古文辞学

古文辞学(こぶんじがく)とは、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派。蘐園学派(けんえんがくは)または徂徠学とも。江戸時代中後期に盛んとなった。学問的には朱子学を批判し、伊藤仁斎の古義学に対抗した。 古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動。模範とする古典を文は秦漢期、詩は唐に求めた。.

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吉川幸次郎

吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。.

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吉田篁墩

吉田 篁墩(よしだ こうとん、延享2年4月5日(1745年5月6日) - 寛政10年9月1日(1798年10月10日))は江戸時代後期の儒学者。幼名は虎之助。名は漢官。字は資坦、学生、学儒。通称は担蔵。別号に竹門、林庵、艾峰。水戸藩医吉田家6代目。 日本における考証学の提唱者、及び漢籍書誌学の開拓者として位置付けられている。.

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吉田松陰

吉田松陰山河襟帯詩碑、京都府立図書館前、京都市左京区 吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。.

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吉村秋陽

吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日(1797年3月2日) - 慶応2年11月15日(1866年12月21日))は、江戸時代後期の安芸広島藩出身の儒学者。広島藩筆頭家老の三原浅野家の儒者。朱子学からのち陽明学を重んじた。諱は晋、字は麗明。通称は重介、秋陽と号した。.

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坐禅

半跏趺坐。タイの僧侶 坐禅(ざぜん、座禅とも)とは、仏教で姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修行法。 坐禅はMeditation(瞑想)と翻訳される場合があるが、眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念である。 なお、『ヨーガ・スートラ』に説かれる古典的な意味でのヨーガ(瑜伽)も、坐禅と同じようなものである。対になる概念として、立禅や動禅・歩行禅・経行(きんひん)などがある。.

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堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。.

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堀杏庵

堀 杏庵(ほり きょうあん、天正13年5月28日(1585年6月25日) - 寛永19年11月20日(1643年1月10日))は、江戸時代初期の儒医・儒学者。近江国の生れ。祖父は近江国野村城主堀定澄で、父は医師堀徳印。名は正意。字は隆夫。通称は与十郎。号は杏庵のほか、杏隠・敬庵・蘇巷・茅山山人。 医術を曲直瀬正純に、句読を南禅寺塔頭帰雲院の梅心正悟に、儒学を藤原惺窩に学び、惺門四天王(林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵)の一人に数えられた。博学で、文章能力が高いと評価された。安芸国広島藩主浅野幸長・長晟、尾張国名古屋藩主徳川義直に仕え、江戸幕府の『寛永諸家系図伝』の編纂にも関与した。 長男の立庵は広島藩に、次男忘斎と三男道隣は名古屋藩にそれぞれ仕えている。 著書には『堀杏庵文集』『杏陰集』『東行日録』『有馬温湯記』『朝鮮征伐記』がある。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:江戸時代の医師 Category:近江国の人物 Category:1585年生 Category:1643年没.

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塩谷宕陰

塩谷 宕陰(しおのや とういん、文化6年4月17日(1809年5月30日) - 慶応3年8月28日(1867年9月25日))は、江戸末期の儒学者。 江戸愛宕山下に生まれる。名は世弘、字は毅侯、別号は九里香園、悔山、晩薫廬。文政7年(1824年)昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田氏に仕え、嘉永6年(1853年)ペリー来航の際に献策し、海防論を著す。文久2年(1862年)昌平黌教授に抜擢され修史に携わる。甥に漢学者・塩谷青山がおり、その子は支那学者の塩谷温である。.

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多久市

多久市(たくし)は、佐賀県の中央部に位置する市。.

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多久聖廟

多久聖廟(たくせいびょう)は、佐賀県多久市に設けられた孔子廟。1708年(宝永5年)竣工。.

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多神教

多神教(たしんきょう、polytheism)は、神や超越者(信仰、儀礼、畏怖等の対象)が多数存在する宗教。対義語に一柱の神のみを信仰する一神教がある。.

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多武峰

多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 明治初年の神仏分離により、談山神社となった。詳細は、談山神社を参照。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。.

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夏のシンボルのひとつ「ヒマワリ」 真夏の海辺 7月30日 夏の風物詩である風鈴 夏の食べ物「冷やし中華」 夏(なつ)は、四季のひとつで、春と秋にはさまれた季節。天文学的には夏至から秋分まで。太陽暦では6月から8月を指し、陰暦では4月から6月となる。 四季の区分のある土地では最も気温の高い、3ヶ月程度の期間である。北半球ではグレゴリオ暦の6月 - 8月ごろ、南半球では12月 - 2月ごろである。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大塚先儒墓所

大塚先儒墓所 入口 大塚先儒墓所(おおつか せんじゅ ぼしょ)は東京都文京区にある墓地。江戸時代の儒学者が儒葬(儒教式の葬式と祭祀)された。.

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大塩平八郎

大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。 通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国脇町の出身で、与力大塩氏に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。.

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大学寮

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。.

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大修館書店

株式会社大修館書店(たいしゅうかんしょてん)は、辞典類・教科書・参考書などを刊行する日本の出版社。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大田錦城

太田 錦城(おおた きんじょう、明和2年(1765年) - 文政8年4月23日(1825年6月9日))は、江戸時代中期の儒学者。名は元貞、字は公幹、通称は才佐。他の号に老人・春草翁・柳橋釣叟・矢倉潜夫がある。加賀大聖寺の医師・本草学者である大田玄覚の子、母は樫田氏。姓の「大田」と号の「多稼」は『詩経』の「大田章」に典拠があるという。.

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大韓民国

大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).

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大槻磐渓

大槻 磐渓(おおつき ばんけい、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。 仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。 父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。.

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大橋訥庵

大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年(1816年) - 文久2年7月12日(1862年8月7日)は、江戸時代後期の儒学者、尊王論者。諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号『国史大辞典』678頁『明治維新人名辞典』206頁。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。.

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天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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太宰春台

太宰 春台(だざい しゅんだい、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。.

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夫子廟

大成殿と孔子の像 夫子廟(ふうしびょう)は、南京秦淮区の秦淮河北岸の貢院街に位置し、孔子を祭っている廟である。一般的には李香君故居、江南貢院、王導謝安紀念館など秦淮河周辺から建康路周辺の地域も夫子廟と呼ばれている。南京の有数な歓楽街でもあり夜遅くまで賑わっている。.

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姜コウ

姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。.

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孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念。 儒教の信奉者が、それを徳目と認識するものの一つ。身近なところから段階的に進められる儒教の徳治において、まず家庭で守られるべき徳として「悌」とともに重視された。「孝悌」と併用され、「孝悌は仁を為すの本」とされる。後述するように、他の宗教にも類するイデオロギーが存在する。.

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学問所

学問所(がくもんじょ)とは、中世・近世における教育機関の名称の1つ。 元は、個人所有の書斎・書庫の意味で用いられていたが、鎌倉時代以後に学問教授の場所としても用いられるようになった。建保元年(1213年)に鎌倉幕府将軍源実朝の学問所の警備と学友を兼ねた学問所番18名(6名ずつ3番)が設置され、北条泰時・安達景盛・島津忠久らが任じられている(『吾妻鏡』)。書院造が成立すると、書斎・書庫などの書室を特に学問所と呼称した。 江戸時代には、江戸幕府が設置した昌平坂学問所の略称として知られた他、江戸幕府が設置した学校や諸藩の藩校の中にもこの名称が採用されるものがあった。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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孔子廟

孔子廟(こうしびょう)は、中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)。.

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孔廟

孔廟(こうびょう)は、中華人民共和国山東省曲阜市中心部に位置する、孔子を祭祀する廟所。中国最大の孔子廟でもある。中国歴代の皇帝達によって増築・補修された結果、宮殿のような壮大な建築群となり、紫禁城、岱廟と並ぶ中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。1994年以降、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に孔府、孔林とともに三孔として登録された。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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室鳩巣

室 鳩巣(むろ きゅうそう、万治元年2月26日(1658年3月29日) - 享保19年8月12日(1734年9月9日))は、江戸時代中期の儒学者。室玄樸の子。諱は直清、字は師礼、通称は新助(信助とも)、号は鳩巣・滄浪。.

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宮崎市定

宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。.

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宮内庁治定陵墓の一覧

宮内庁治定陵墓の一覧(くないちょうじじょうりょうぼのいちらん)では、宮内庁が治定する陵墓の一覧を示す。.

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宗教

宗教(しゅうきょう、religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり『世界大百科事典』 231頁。、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 。.

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宇都宮遯庵

宇都宮 遯庵(うつのみや とんあん、寛永10年2月30日(1633年4月8日) - 宝永4年10月10日(1707年11月3日)、異説では1709年没)は、江戸時代の儒学者。名は由的。号は遯庵の他に頑拙。また、宇都宮三近、宇都宮熊的とも呼ばれる。父は宇都宮正記。子に宇都宮圭斎。.

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宇野精一

宇野 精一(うの せいいち、1910年〈明治43年〉12月5日 - 2008年〈平成20年〉1月7日)は、日本の儒学者、国語学者。東京大学名誉教授、尚絅大学名誉学長。國語問題協議會名誉会長、斯文会理事長。日本会議顧問。 父は儒学者の宇野哲人(東方学会初代理事長ほか)。長男宇野茂彦は中国文学者で中央大学教授。.

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宇野明霞

宇野 明霞(うの めいか、元禄11年5月20日(1698年6月27日) - 延享2年 4月14日(1745年5月15日))は江戸時代中期の日本の儒学者(折衷学派)である。名を鼎、字を士新、通称 三平。宇士新と中国風に名乗った。弟の士朗とともに平安二宇先生と称された。.

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安岡正篤

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。.

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安井息軒

安井 息軒(やすい そっけん、寛政11年1月1日(1799年2月5日) - 明治9年(1876年)9月23日)は江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。日向国宮崎郡清武郷(現・宮崎県宮崎市)出身。その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。門下からは谷干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。妻の佐代は、森鴎外の歴史小説『安井夫人』のモデル日高貢一郎、大分大学。 有名な言葉としては「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。.

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安積艮斎

安積 艮斎(あさか ごんさい、寛政3年3月2日(1791年4月4日) - 万延元年11月21日(1861年1月1日))は、幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが学んだ他、吉田松陰にも影響を与えたとされる。.

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安積澹泊

安積 澹泊(あさか たんぱく、明暦2年11月13日(1656年12月28日) - 元文2年12月10日(1738年1月29日))は、江戸時代中期の儒学者。諱は覚、字は子先、幼名は彦六、通称は覚兵衛、号は澹泊、澹泊斎、晩年は老圃、老圃常山、老牛など。物語『水戸黄門』に登場する渥美格之進のモデルとされている。.

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安藤東野

安藤 東野(あんどう とうや、天和3年1月28日(1683年2月24日) - 享保4年4月13日(1719年5月31日))は江戸時代中期の儒学者。名は煥図、字は東壁、通称は仁右衛門。晩年は商丘丈人とも号した。 荻生徂徠初期の門人で、。.

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安東省菴

安東 省菴(あんどう せいあん)は日本の儒学者。六組(大組)石高200石の蔵米知行取の柳河藩立花氏家臣にして藩儒である。なお、所属組は立花壱岐組、後に立花九郎兵衛組。子に安東侗菴。立花道雪の重臣安東家忠の曾孫にあたる。.

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寺門静軒

寺門 静軒(てらかど せいけん、寛政8年(1796年) - 慶応4年3月24日(1868年4月16日))は、幕末の儒学者。諱は良。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。.

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寺院

日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.

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富永仲基

富永 仲基(とみなが なかもと、正徳5年(1715年) - 延享3年8月28日(1746年10月12日)は、江戸時代大坂の町人学者、思想史家。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼神論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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寛政異学の禁

寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、寛政2年5月24日(1790年7月6日)、江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問の統制である。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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小瀬甫庵

小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年(永禄7年) - 1640年10月6日(寛永17年8月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医師、軍学者。『太閤記』『信長記』の著者として知られる。名は道喜(どうき / みちよし)、通称は又次郎、長太夫。甫庵は号である。甫菴、甫安とも。.

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尾藤二洲

尾藤二洲(びとう じしゅう(にしゅう)、延享2年10月8日(1745年11月1日) - 文化10年12月4日(1814年1月24日))は、江戸時代後期の儒学者。名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、別号は約山。  柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。妻は儒学者飯岡義斎の娘、梅月(直子)。妻の姉が頼山陽の母である頼梅颸であるため、山陽は甥にあたる。.

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山崎闇斎

山崎闇斎 山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。 諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。 朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。.

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山下龍二

山下 龍二(やました りゅうじ、1924年9月14日 - 2011年3月23日)は、中国哲学研究者、名古屋大学名誉教授。 東京生まれ。父は日本大学教授を務めた弁護士の山下博章(1898年 - 1943年)。1943年東京府立高等学校(七年制)文科乙類卒業。1947年東京帝国大学文学部支那哲学文学科卒業、52年同大学院中国哲学科特別研究生満期退学。1954年法政大学第二高等学校教諭、1957年名古屋大学文学部講師、61年助教授、68年教授、70年文学部長、1988年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授、89-92年同外国語学部長。.

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山県周南

山縣 周南(やまがた しゅうなん、貞享4年(1687年) - 宝暦2年8月12日(1752年9月19日))は江戸時代中期の儒学者。荻生徂徠の高弟であり、長州藩藩校・明倫館の二代目学頭。漢詩、国史に精通し、教育者としても名声を博した。 名は孝孺(こうじゅ)。周南と号する。字は次公、少介。徂徠学派は中国風に名乗る風習があり縣次公、縣孝孺などと称した。.

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山田方谷

山田方谷像 山田 方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日(1805年3月21日) - 明治10年(1877年)6月26日)は、幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。.

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山片蟠桃

山片 蟠桃(やまがた ばんとう、延享5年/寛延元年(1748年) - 文政4年2月28日(1821年3月31日))は、江戸時代後期の商人であり学者「山片蟠桃」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。.

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山鹿素行

赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。.

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山本北山

山本 北山(やまもと ほくざん、宝暦2年(1752年) - 文化9年5月18日(1812年6月26日))は、江戸時代中期の儒学者(折衷学派)である。 名は信有、字を天禧、通称 喜六、憙六、北山は号、別号に考経楼主人、学半堂逸士、奚疑翁、竹堤隠逸などがある。.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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岡島冠山

岡島 冠山(おかじま かんざん、延宝2年(1674年) - 享保13年1月2日(1728年2月11日))は、近世の儒学者。 長崎(肥前国)生まれ。初名は明敬、のち璞(はく)。字は援之、のち玉成。通称は弥太夫、長左衛門。始め萩藩の通訳。のち退いて林鳳岡に朱子学を学ぶ。江戸で下野足利藩主戸田忠囿に仕え、辞して大坂に行き、再び江戸に帰り、京に移り没した。唐話に通じ、杭州音の『唐話纂要』や南京音の「唐話便用』を著す。荻生徂徠と親交があり、『水滸伝』など白話小説の翻訳や唐話の研究を行った。.

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岡田寒泉

岡田 寒泉(おかだ かんせん)は江戸時代後期の儒学者・江戸幕府旗本。「寛政の三博士」の1人として知られるが、寛政の改革後は幕府代官として治績を挙げている。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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上杉憲実

上杉 憲実(うえすぎ のりざね)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。.

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帝王学

帝王学(ていおうがく)とは、王家や伝統ある家系・家柄などの特別な地位の跡継ぎに対する、幼少時から家督を継承するまでの特別教育を指す。学と名はついているが明確な定義のある学問ではなく、一般人における教育には該当しない。.

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中原師員

中原 師員(なかはら の もろかず)は。鎌倉時代の御家人・吏僚。.

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中原師連

中原 師連(なかはら の もろつら、承久3年(1220年) - 弘安6年5月4日(1283年5月31日))は鎌倉時代中期の幕府実務官。中原師員の子、外記を経て縫殿頭。 5代将軍となった藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王の3代に仕え、1263年(弘長3年)7月5日に二階堂行方の後を継いで宗尊親王の御所奉行、同年11月22日には御息所の奉行も引き継ぐ。1264年(文永元年)評定衆となった。 鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲する。その家系は「将軍側近の家」との性格をもっていたが、師連の子の摂津親致の代から中原姓を藤原姓に改姓した。また「将軍側近の家」のまま得宗家にも接近して、その近臣ともなっている。『太平記』巻10 「高時並一門以下於東勝寺自害事」では、北条高時の面前で腹を切った摂津刑部太夫入道々準は師連の直系の孫にあたる。 また『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。.

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中原氏

中原氏(なかはらうじ)は、「中原」を氏の名とする氏族。.

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中巌円月

中巌円月(ちゅうがんえんげつ、正安2年1月6日(1300年1月28日) - 文中4年/応安8年1月8日(1375年2月9日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。相模国鎌倉の出身で、俗姓は土屋氏。中巌は道号で、諡号は仏種慧済禅師。 年少期に鎌倉寿福寺(臨済宗建長寺派)に入った後、醍醐寺に入って密教を学び、また曹洞宗の東明慧日に師事した。1325年(正中2年)中国の元に入り、1332年(元弘2年)日本に戻った。その後、万寿寺・建仁寺・建長寺などの住持を歴任し、臨済宗における一派を形成した。 また、数学に詳しく、随筆の『文明軒雑談』には数学や度量衡の話題を多く記している他、自身でも『觽耑算法』という数学書を著しているが、後者は現存していない川本慎自「禅僧の数学知識と経済活動」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9。 神武天皇については、「呉の太伯の子孫」であるとして、「天皇中国人説」を唱えた(山本七平 『現人神の創作者たち』)。.

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中井履軒

中井 履軒(なかい りけん、享保17年5月26日(1732年6月18日) - 文化14年2月15日(1817年4月1日))は江戸時代中・後期の儒学者(折衷学派)である。中井甃庵の次男として生まれ、名は積徳、字 は処叔(しょしゅく)、通称は徳二、号は幽人。 五井蘭洲に朱子学を学び、兄中井竹山(なかい・ちくざん)とともに大坂の学問所懐徳堂の全盛期を支え、懐徳堂学派で最大の学問的業績を残したと言われる。.

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中井竹山

中井竹山(なかい ちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日) - 享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。.

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中井甃庵

中井 甃庵(なかい しゅうあん、元禄6年9月29日(1693年10月29日) - 宝暦8年6月17日(1758年7月21日))は江戸時代中期の儒学者。懐徳堂二代学主。幼名は四郎、通称は忠蔵、名は誠之(さねゆき)、字は叔貴。諡号は貽範先生。贈正四位。.

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中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中村てき斎

中村 惕斎(なかむら てきさい、寛永6年2月9日(1629年3月3日) - 元禄15年7月26日(1702年8月19日))は江戸時代前期の儒学者、本草学者。名は之欽(しきん)。字は敬甫。通称は七左衛門、仲二郎。.

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中江藤樹

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日) - 1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。別号に嘿軒(もくけん)、顧軒(こけん)。出典 「先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成」竹林貫一編.

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三宅尚斎

三宅 尚斎(みやけ しょうさい、寛文2年1月4日(1662年2月22日) - 元文6年1月29日(1741年3月16日))は、江戸時代前期の儒学者。名は重固。小字は儀左衛門、後に丹治と改める。佐藤直方・浅見絅斎と共に山崎闇斎門の三傑と称せられる。.

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三宅石庵

三宅 石庵(みやけ せきあん、寛文5年1月19日(1665年3月5日) - 享保15年7月16日(1730年8月29日))は江戸時代中期の儒学者(折衷学派)。懐徳堂初代学主。名は正名、字は実父、通称は新次郎、別号に万年、俳号に泉石。弟に三宅観瀾がいる。 朱子学を始め、陽明学、古義学、医学などを奔放に取り込む石庵の学問は鵺学問と称され、懐徳堂の学風にも大きな影響を与えた。.

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三宅観瀾

三宅 観瀾(みやけ かんらん、延宝2年(1674年) - 享保3年8月21日(1718年9月15日))は、江戸時代中期の儒学者。名は緝明(つぐあき)、字は用晦、通称は九十郎、号は観瀾。兄に大坂懐徳堂の学主・三宅石庵がいる。.

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三善清行

三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)は平安時代中期の公卿、漢学者。淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている。.

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三輪執斎

三輪執斎(みわ しっさい、寛文9年(1669年) - 寛保4年1月25日(1744年3月9日))は江戸時代中期の儒学者。諱は希賢(まれかた)、通称は善蔵、号は執斎、躬耕廬。贈正五位。 佐藤直方に朱子学を学び、中江藤樹の著作より陽明学に傾倒した。中院通茂に和歌を学んだ。.

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三教指帰

『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)は、空海による、宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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一山一寧

一山一寧(いっさん いちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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久米三十六姓

久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)は、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団、及びその後三百年間にわたり閩から渡来した者や首里・那覇士族から迎え入れた人々の総称。.

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乙巳の変

具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都五山

'''南禅寺'''(三門) '''天龍寺'''(大方丈) '''相国寺'''(法堂) 京都五山(きょうとござん)とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度である。.

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広瀬淡窓

広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号である。通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の広瀬勝貞は現大分県知事。.

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広瀬旭荘

広瀬 旭荘(ひろせ ぎょくそう、文化4年5月17日(1807年6月22日) - 文久3年8月17日(1863年9月29日))は江戸時代後期の儒学者・漢詩人。.

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五井蘭洲

五井蘭洲(ごい らんしゅう、元禄10年4月8日(1697年5月27日) - 宝暦12年3月17日(1762年4月11日))は江戸時代中期の儒学者、国学者。名は純禎、字は子祥、通称は藤九郎、号は蘭洲のほか、冽庵、梅塢。本姓は藤原氏。.

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五経博士

五経博士(ごきょうはかせ、ごきょうはくし)は、中国古代の官職の一つ。前漢時代、太常の属官に置かれた。儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった。 博士は秦からの官吏であり、古今に通じ、意見を求められた。漢初には儒家の経典のみならず他の諸子百家の経典も学官に立てられていたと考えられる。文帝・景帝期、『詩経』『易』『春秋』はすでに学官に立てられていた。 紀元前136年、武帝が董仲舒の献策(天人三策)を聞き入れて五経博士を置いた。 儒教では従来、これを他の諸子百家を退けて儒家のみを採用した(いわゆる儒教の国教化)と考えているが、最近では博士官に単に五経博士を増員しただけだと考えられている。最初は5人だけであり、宣帝期に12人に増員された。五経博士のもとには博士弟子員が置かれている。後漢では十四博士が置かれた。 category:儒教 Category:漢朝 Category:中国の官名.

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井上蘭台

井上 蘭台(いのうえ らんだい、宝永2年1月1日(1705年1月25日) - 宝暦11年11月27日(1761年12月22日))は、江戸時代中期の儒学者、戯作者である。備前岡山藩に仕える。江戸生れ。 名を通煕、字は子叔もしくは叔。子字に鍋助、縫殿、さらに嘉膳とした。通称も嘉膳。最初、璠菴、玩菴と号し、のちに蘭台とするが、本多忠統侯がこの号を用いたことに配慮して図南と号するようになる。忠統侯が歿すると蘭台の号に復した。また戯作のときは玩世教主と称した。.

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井上金峨

井上 金峨(いのうえ きんが、享保17年(1732年) - 天明4年6月16日(1784年8月1日))は、江戸時代中期の日本の儒学者である。折衷学を大成させたことで知られ、学派闘争を否定し蘐園学派(徂徠学)を痛烈に批判した。 名は立元、字は順卿(純卿)、通称は文平。号は金峨のほか、考槃翁・柳塘閑人等。.

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亀井南冥

亀井 南冥(かめい なんめい、寛保3年8月25日(1743年10月12日) - 文化11年3月2日(1814年4月21日))は、江戸時代の儒学者で、医者、教育者、漢詩人。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。.

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亀井昭陽

亀井 昭陽(かめい しょうよう、安永2年8月11日(1773年9月27日) - 天保7年5月17日(1836年6月30日))は、江戸時代後期の古文辞学系の儒学者。父・亀井南冥の学業を継ぎ、徂徠学を基本に朱子学を取り入れて家学である亀門学を大成した。諱は昱(いく)、字は元鳳(げんぽう)、通称は昱太郎、昭陽はその号である。別号に空石、月窟、天山遯者、幽人などがある。.

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亀田鵬斎

亀田鵬斎像 谷文晁画 北村探僊縮模 亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい、宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。.

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今北洪川

今北 洪川(いまきた こうぜん、文化13年7月10日(1816年8月3日) - 明治25年(1892年)1月16日)は、幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧。幼名は真三郎、法諱は宗温、道号は虚舟、室号は蒼龍窟。摂津国(現・大阪府)西成郡福島村の生まれ 『禅海一瀾』岩波文庫、1935年。 明治8年(1875年)、教部省に召致され、鎌倉円覚寺の管長に出世し、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅した。弟子としては、渡米して禅の宣揚につとめた釈宗演や鈴木大拙らが出た。 今北洪川が設立主宰した両忘会が標榜した在家主義は、釈宗演門下の釈宗活の宗教法人両忘禅協会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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伊藤仁斎

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。 諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。.

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伊藤東涯

伊藤 東涯(いとう とうがい、寛文10年4月28日(1670年6月15日) - 元文元年7月17日(1736年8月23日))は、江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。異母弟に同じく儒学者の伊藤介亭がおり、母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・元蔵、東涯と號し、又慥々齋と号す、諡は紹述先生。.

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会沢正志斎

会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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伝習録

『伝習録』(旧字:傳習録、でんしゅうろく)は、中国の明の時代に、王陽明が起こした儒学の教え・陽明学の入門書。王陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、本書は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた3巻で構成される。 日本には、1614年に紹介され、大塩平八郎、西郷隆盛が傾倒し、日本思想史においても多大な影響を与えた。注釈・訳注書が多数ある。 江戸時代を通じ、各地の儒学塾で講義された。豊後日田広瀬淡窓の咸宜園では、朱子学の『近思録』とともに、学業最後のテキストに用いられた。.

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佐久間象山

佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。.

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佐藤一斎

佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。.

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佐藤直方

佐藤 直方(さとう なおかた、慶安3年閏10月21日(1650年12月14日) - 享保4年8月15日(1719年9月28日))は、江戸時代の儒学者。幼名は彦七。通称は五郎左衛門、三郎左衛門。父は備後福山藩士土佐藤七郎兵衛。門人に稲葉迂斎、跡部良顕らがいる。 学問を志して京に昇り、山崎闇斎の門に入って研鑽を積み、知識を深めて浅見絅斎、三宅尚斎と並び崎門の三傑と称されるほど台頭したが、闇斎が唱えた垂加神道に批判的であったことから袂を分かち、江戸へ昇った。後、福山藩や厩橋藩主酒井忠挙などに招聘され、講釈に励んだが、享保3年(1718年)には致仕して神田紺屋街に居住し、翌年唐津藩主土井利実に講釈を行いに赴く道中発病して倒れ、翌日没した。 日本の神々だけを中心に考える事に反対し、「自分が生まれた国や父母を、薬売りのようにわがままに自慢するのでは、天下の公理とはいえない」と述べ、家や国を超えた普遍的な宇宙の理(天理・公理)にもとづいて考えるべきだと説いた。 赤穂事件が起こった折、大衆や多くの有識者がその仇討を義挙と礼賛する中、幕府を顧みない愚挙に踏み切った逆臣であると赤穂浪士を弾劾したことで知られる。豪放磊落な人となりで清貧な生活を好み、江戸に在住していた際の困窮していた生活を伝えるエピソードが残されている。.

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御茶ノ水

川に架かる御茶ノ水橋から聖橋、および右手の御茶ノ水駅を望む 「東都御茶の水」(歌川広重作) 明治時代の御茶ノ水 御茶ノ水(おちゃのみず)は、東京都文京区湯島から千代田区神田に至る、千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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俊じょう

俊芿(しゅんじょう、仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1227年4月25日))は、鎌倉時代前期の僧。出自については不詳である。肥後国飽田郡の出身。字は我禅。号は不可棄。勅号は大興正法国師。一般には、月輪大師 (がちりんだいし)と呼ばれることが多い。真言宗泉涌寺派の宗祖とされる。.

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忍岡聖堂

忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)とは、江戸時代前期に林道春(林羅山)によって建てられた林家の私塾に附属する孔子廟のこと。正式名称は先聖殿(せんせいでん)と称した。.

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忠(ちゅう。英語:loyalty)とは、主君に対して裏表の無い態度を意味する概念。 儒教における重要な徳目の一つであり、君臣間において重要とされる徳目である。また、主君に尽くすという真心を「忠義」「忠誠」などという。 儒教では古くから「父子天合」(孝)に対して、「君臣義合」(忠)というテーゼがあり、『礼記』曲礼篇には、父が過ちをした場合の子の対応を「三度諫めて聞かざれば、すなわち号泣してこれに随う」と記され、これに対して、君が過ちをした場合の臣の対応を「三度諫めて聞かざれば、すなわちこれを逃(さ)る」と記している。儒教的世界(天下)観は、この国家と家族(個人)の2つの中心を有する楕円であり、修身・斉家・治国・平天下といった理想も、この楕円を楕円たらしめるための理想主義とされる。したがって、どちらか一方の中心に収瞼させて円にしようとするものではない。そのため、後述の日本の「忠孝一致」のプリンシプルから安易に類推することのできないものがあるとされる。 親によく従うことを意味する「孝」とは常に食い違いを来す概念だが、中国や朝鮮では多くの場合、「忠」よりも「孝」が重要だと考えられた。一方で、近世日本においては朱子学伝来以後、逆に「孝」よりも「忠」の方が重要だと考えられ、武士道に影響を与える事になる。また、水戸学派の解釈では、「忠と孝は一つのもの(忠孝一合)」として、分離した解釈は行っていない。日本人(特に支配階級であった武家)は家(血族ではなく組織としてのイエ)の意識が中国人より高く、忠が孝につながるとした(君に忠を尽くさず、家を断絶されることは、孝につながらないとした意識)。この「忠孝一致」に関して、吉田松陰は『士規武則』において、「人君、民を養い、もって祖業を継ぐ。臣民、君に忠に、もって父の志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致はただわが国のみ然りとなす」と説いており、日本の独自性(国が亡ぶ度に替わる中国の忠とは違う点)を指摘している。これに対し、懐徳学派の武内義雄は否定し、「誠」が忠にも孝にも現れたと解釈する。 『日本外史』に記述された平重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」の言葉が武家の苦悩をよく示している。 武家以外の解釈としては、歌僧である吉田兼好の著『徒然草』第122段において、「次に医術を習うがいい。(中略)あるいは忠孝をつとめるにも医術を心得ていなければ十分に行うことはできない」と説き、「文・武・医の道は、どうしても欠けてはよくない」として、医術は忠孝と密接な関係にあるとした上で、文武と同格として扱っている。 文化大革命では、他の儒教的徳目が徹底的に排撃されたのに対し、「忠」は毛沢東への忠誠と解釈され、むしろ賛美された。「忠字舞」(忠の字踊り)が当時盛んに行われたことが有名。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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土田健次郎

土田健次郎(つちだ けんじろう、1949年8月6日 - )は、日本の儒教研究者、中国学者。早稲田大学文学部教授。同大学文学学術院長を経て常任理事(副総長)を歴任。現在は早稲田佐賀学園理事長。 父、土田國保は警視総監をつとめた。兄、土田龍太郎はインド文学研究者・東京大学教授。弟、土田英三郎は音楽学者・東京藝術大学教授。.

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ナツメ社

ナツメ社(ナツメしゃ)は日本の出版社。神保町の自社ビルに本社がある。かつてはパソコン図書や文房具の専門誌なども出版していたが、現在では実用書、看護書、資格書、語学書、保育書等を出版している。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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呉智英

呉 智英(くれ ともふさ、またはご・ちえい、1946年9月19日 - )は、日本の評論家、漫画評論家。愛知県西枇杷島町(現・清須市)出身。京都精華大学マンガ学部客員教授、日本マンガ学会二代目会長で現在は理事。「儒者」「封建主義者」を自称し、民主主義信奉者や人権思想を批判している。大学で論語の講座を持っていたこともある。 本名は新崎 智(しんざき さとし)。ペンネームは「水滸伝」の百八星の中での随一のインテリである軍師役「呉用」に由来する。.

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備前市

備前市(びぜんし)は、岡山県南東部にある市。東部は兵庫県に隣接する。備前焼と耐火煉瓦と漁業の町である。 市の中心部は片上(かたかみ)地区で、ここに行政の中心がある。また、伊部地区に備前焼の作家・陶芸店が集中している。.

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唐人屋敷

17世紀末の長崎(ケンペル『日本誌』より 18世紀後半の唐人屋敷(ティチング『日本風俗図誌』より) 唐人屋敷(とうじんやしき)は、江戸時代の「鎖国」政策により長崎に設置された中国人住居地区である。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冢田大峯

冢田 大峯(つかだ たいほう、延享2年3月30日(1745年5月1日) - 天保3年3月21日(1832年4月21日))は、江戸時代後期の儒学者。折衷学派。尾張藩儒臣。諱は虎、通称は多門、字は叔貔(しゅくひ)。 大峯と号す。 信濃国善光寺町に儒医兼漢学者である冢田旭嶺の四男として生まれた。弟の慈延は天台宗の僧侶。 宝暦10年(1760年)、16歳で江戸に出て、芝の増上寺の僧寮で独学で苦学力行し、諸家の注を折衷した独自の経典解釈で次第に名声を得た。天明元年(1781年)、細井平洲を介して尾張藩主徳川宗睦の侍講となる。天明5年(1785年)江戸で私塾「雄風館」を開く。 寛政異学の禁に対しては松平定信に三度上書して学問を朱子学に限ることの不当を論じ、古学の学問所を別に設置することを提言し、亀田鵬斎、山本北山らとともに寛政の五鬼と称された。また、『滑川談』の出版によって、定信の倹約令などを批判し、広く知られることとなった。 文化8年(1811年)、藩校明倫堂督学に就き、学制の改革を進め、幕府が正学としていた朱子学注本を用いず、自注の講典による学風を広めた。 尾張藩士渡辺三郎兵衛美綱の三男が冢田愨四郎有志として大峯の養子となり、大峯の跡を継いだ。冢田有志は慶応4年(1868年)1月21日に尾張藩のお家騒動青松葉事件にて処刑された。.

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円爾

円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。.

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八角墳

掘中の八角墳(中山荘園古墳) 八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀中葉〜)につくられた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元田永孚

元田 永孚(もとだ ながざね、文政元年10月1日(1818年10月30日) - 明治24年(1891年)1月22日)は、日本の武士・熊本藩士、儒学者。男爵。名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。号は東皐、樵翁。.

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図解雑学シリーズ

図解雑学シリーズ(ずかいざつがくしりーず)はナツメ社が発刊しているシリーズ。2009年1月現在で392冊が発刊されている。価格は1300円程度である。.

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皆川淇園

川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日(1735年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))は、江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。生まれは京都。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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石田梅岩

梅岩塾の様子(ガレリアかめおか・京都府亀岡市) 石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日(1685年10月12日) - 延享元年9月24日(1744年10月29日))は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。名は興長。通称、勘平。.

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石門心学

石門心学(せきもんしんがく)は、日本の江戸時代中期の思想家・石田梅岩(1685年 - 1744年)を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教のことである『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p105。単に、心学ともいう。さまざまな宗教・思想の真理を材料にして、身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士まで普及するようになった。江戸時代後期に大流行し、全国的に広まった。しかし、明治期に衰退した。.

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玄恵

恵(げんえ・げんね、1269ー1350 文永6年- 正平5年/観応元年3月2日(1350年4月9日))は、南北朝時代の天台宗の僧・儒学者。号は独清軒・健叟。玄慧とも。虎関師錬の弟とも言われる。玄恵法印。 天台教学を学び法印大僧都に就任したが、一方で儒学や漢詩文にも通じていた。「太平記」によれば倒幕の密議の場で書を講じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じたとある。また、建武の新政が崩壊した後には、足利氏に用いられ「建武式目」の起草に関与したともされるが、いずれも不明である。 また、寺子屋で習字や読本として使用された『庭訓往来』の作者という説が有力である。また、『源平盛衰記』の編者の一人とも言われている。玄慧は等持院で足利直義の前で、『太平記』を朗読したといわれる。『太平記』27巻には玄慧の死である「玄慧法師末期事」が記されているが、『太平記』40巻本のうち巻初の1巻から10巻までは玄慧の作であり、11巻から12巻も玄慧が拘わりをもった作ではないかと言われている。(『太平記と仏教』古田紹欽) 男鹿半島の先端の漁港である男鹿市北浦入道崎(畠崎)には、この地が玄慧法師の出身地であるとする伝承が残されていたことが菅江真澄によって記録されている。.

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王仁

大阪府枚方市の伝 王仁墓 王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされ鈴木靖民『朝日日本歴史人物事典』「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」大辞林「祖は漢の高祖」志田諄一『日本大百科全書』「王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系統の学者らしく、朝廷の文筆に従事した西文首の祖とされている。」「王の姓は楽浪出土の印章、漆器、せん、封泥、墓壁銘などに多く記されており、楽浪郡の有力豪族であったことが知られる。」加藤謙吉『大和政権とフミヒト制』吉川弘文館「かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する。」『世界大百科事典』「伝承によると、漢の高祖の子孫」石田博『漢文学槪論』雄山閣出版「王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漠の高帝の後であるという。漢の高帝の後を蠻といい、鷥の後胤の王狗は、転じて百済に至った。」八幡和郎『最終解答 日本古代史』PHP研究所「そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています。」徳川恒孝『日本人の遺伝子』PHP研究所「御存知、漢末の群雄割拠の時代から日本に漢字をもたらしたのは百済からの渡来人の王仁という方だったと伝えられています。彼は漢の高祖(先ほどの漢王朝の創設者、劉邦)の子孫と言われています。」関裕二『鬼の帝聖武天皇の謎』PHP研究所「最大の理由は、行基の祖歌位が、百済王家出身ではなく、中国の漢から百済をへて、渡来したという伝承を持っていたことであろう。」日笠護『日鮮關係の史的考察と其の硏究』四海書房「後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。」駒井和愛『楽浪』中央公論社「東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫」馬渕和夫、出雲朝子『国語学史』笠間書院「最初の師直岐・王仁は中国系もしくは準中国系の百済人であったから、漢字の発音も中国音に近かったであろう」蔡毅『日本における中国伝統文化』勉誠出版「この『和邇吉師』とは、漢名を王仁と称す。彼の姓氏とその文化教養の点から推測されることは、王仁は朝鮮で生活していた漢民族の移民であるか、あるいは移民の末裔であろうと。」佐伯有清『日本の古代国家と東アジア』雄山閣「井上光貞氏は、王仁の王は中国的な姓で王氏ではないかと指摘」竹内理三『政治と文化』吉川弘文館「漢高帝の後裔王狗という者が百済に来ったが、王仁はその孫にあたるという。楽浪郡跡の発掘の遣品に王光、王肝など王姓の名をしるしたものがあるので、王仁もその名はともかくとしても、その一族のものであろうと言われている。」「こうしたことから、わが国に文運を最初にもたらした王仁も、じつはまったくの仮空の人物ではなくて、この王氏の子孫として実在したものと考えても、案外さしつかえないのではないか。楽浪の王氏は、いずれも平、宜、雲、光などめでたい文字の一字名である。」黒板勝美『岩波講座 日本歴史8』岩波書店「弓月君は秦始皇帝の後だと云はれ、王仁は漢高祖の後裔で百濟に歸化した王豹と云ふ者の子孫だと云ひ、阿知使主はこれ等三國の歸化人の外に支那の歸化人がある。」柿村重松、山岸德平『上代日本漢文學史』日本書院「當時百濟には王仁の如く漢人の支那北部より轉住し居りしものも少からざりしなる」、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解がある。 韓国や在日韓国人社会においても、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれている。 王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する田中健夫、石井正敏『対外関係史辞典』吉川弘文館「応神朝に百済の和通吉師(王仁)が『諭箱』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、继体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、そのままでは事実とは認め難い」斎藤正二『斎藤正二著作選集4』八坂書房「王仁の実在を疑う論者は、津田左右吉以来、それこそ無数にある。『千字文』そのものが三世紀終わりにはいまだ成立していないのに日本に渡来するはずはないとの疑問は、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによつて提起されていた。」中村新太郎『日本と中国の2000年』東邦出版社「阿直岐や王仁が実在の人物であったかどうかはわからない(津田左右吉博士は、後人の造りごととしている)。」菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社「和邇吉師が実在の人物でないとすれば、やはり事実とは認められないと述べており、『論語』、『千字文』の阿直岐や王仁は到底実在の人物とは考えられないこと、また和邇吉師が論語、千字文を献上したといふのも、津田左右吉博士は、『王仁の名は阿直岐に対して作られたものであらう』と、架空の名を作り出したもの」星野五彦『万葉の諸相と国語学』おうふう「天皇名とその時代との関わりを示す何かが隠されているように思えなくもないが、それについての穿鑿は当面の問考えてみれば、応神時代に音読すればォウジンとなる王仁の来朝も実在人物なのだろうかと疑問が生じてくる。」 日韓歴史共同研究報告書(第1期)「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」。.

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礪波護

波 護(となみ まもる、砺波護 1937年9月6日 - )は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授。三国時代から隋唐代の中国史が専門。師である宮崎市定をはじめとする東洋史学者についての論考も多数ある。大阪府東大阪市出身。.

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(れい)とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与され、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになった。.

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神仏習合

仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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祇園南海

祇園 南海(ぎおん なんかい、延宝4年(1676年)- 宝暦元年9月8日(1751年10月26日)、生年について延宝5年(1677年)の説あり))は、江戸時代中期の日本の儒学者、漢詩人、文人画家。服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる。また、紀州藩に仕え、野呂介石、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。名を与一郎、正卿、瑜とし、字は白玉、号は南海のほか、蓬莢、鉄冠道人、箕踞人、湘雲、信天翁、観雷亭など。通称は余一と呼ばれた。本姓が源であることから、中国風に修して源瑜、阮瑜と称した。.

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禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

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科学

科学(かがく、scientia、 仏:英:science、Wissenschaft)という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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秋山玉山

秋山 玉山(あきやま ぎょくざん、1702年7月23日(元禄15年6月29日) - 1764年1月14日(宝暦13年12月12日))は、江戸時代中期の漢学者。名は定政、儀。字は子羽。通称は半次、儀右衛門。熊本藩士中山定勝の次男として豊後国鶴崎で生まれる。母は篠田氏。子のいなかった叔父秋山需庵の養子となり、秋山姓を名乗る。.

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空海

海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.

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立原翠軒

立原翠軒像稿 渡辺崋山筆 個人蔵 重要美術品 立原 翠軒(たちはら すいけん、延享元年6月7日(1744年7月16日) - 文政6年3月4日(1823年4月14日))は、江戸時代中期から後期の水戸藩士。学者として5代藩主徳川宗翰、6代治保の2代にわたって仕える。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。仮名は甚五郎。諱は万。字は伯時。号は東里。致仕後に翠軒と号する。父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。嫡男は水戸藩士で南画家の立原杏所、孫には幕末の志士・立原朴次郎や閨秀画家の立原春沙、子孫には昭和初期の詩人、建築家・立原道造がいる。.

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筑摩書房

株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.

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篠崎小竹

崎 小竹(しのざき しょうちく、男性、天明元年4月14日(1781年5月7日) – 嘉永4年5月8日(1851年6月7日))は、江戸時代後期の日本の儒学者・書家。 本姓は加藤氏。幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、小竹は号で別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。通称は長左衛門。.

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細井平洲

細井 平洲(ほそい へいしゅう、享保13年6月28日(1728年8月3日) - 享和元年6月29日(1801年8月8日))は、江戸時代の儒学者。本姓は紀氏。折衷学派。平洲または如来山人と号す、諱は徳民、通称は甚三郎。字は世馨。尾張国知多郡平島村(現・愛知県東海市)出身。弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎などがいる。また、米沢藩藩校興譲館の学則には『紀徳民』とある。.

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細井広沢

細井 広沢 (ほそい こうたく、万治元年10月8日(1658年11月3日) - 享保20年12月23日(1736年2月4日))は、江戸時代中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)、字は公謹。通称は次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別号に玉川、室号に思胎斎・蕉林庵・奇勝堂などがある。.

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紀伝道

紀伝道(きでんどう)とは、日本律令制の大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となり、学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と別々の正式名称を用いて、通称として「紀伝博士」「文章道」という呼び方も用いられた(ただし、統合当時には「紀伝道」「文章道」の呼称はまだ成立していなかったとする説もある)。 ただし、実際には通称に過ぎないとされている「文章道」という呼称が、明治以後には混同されて、文章道が紀伝道を吸収して「文章道」「文章博士」となったという誤った解釈がされていた時期もある。 本項目でも統合以後の記述については、本来の記述に従って学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と記述するものとする。.

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継体天皇

継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。.

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猪飼敬所

敬所(いかい(いがい) けいしょ、宝暦11年3月22日(1761年4月26日) - 弘化2年11月10日(1845年12月8日))は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国出身。 経書や史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた猪飼敬所『葛原詩話標記』。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。 初めは石田梅岩の心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年(1783年)に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年(1831年)伊勢津藩主藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年(1832年)9月8日、伊勢の津へ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、「今の朝廷は北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか」といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。 天保9年(1838年)、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた。弘化2年(1845年)11月10日死去、享年85。 現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。.

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経世済民

經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。「経国済民」(けいこくさいみん)もほぼ同義である。 略して「經濟」(けいざい / 経済)とも言うが、主として英語の「Economy」の訳語として使われている今日の「経済」とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指示する語であった。以下「經世濟民」および「經濟」の本来の用法と、その変遷について扱う。.

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熊沢蕃山

沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。.

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片山北海

片山 北海(かたやま ほっかい、享保8年1月10日(1723年2月14日) - 寛政2年9月12日(1790年10月19日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人である。京都の江村北海、江戸の入江北海とともに三都の三北海と称された。 名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に堂号でもある孤松館がある。大坂で混沌詩社などを興して、頼春水、尾藤二洲、古賀精里、木村蒹葭堂など多くの優れた門弟を輩出した。.

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狩野直禎

狩野 直禎(かの なおさだ、1929年11月8日-2017年2月7日)は、東洋史学者。.

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白川静

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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芳野金陵

芳野 金陵(よしの きんりょう、享和2年12月20日(1803年1月13日) - 明治11年(1878年)8月5日)は、江戸時代後期の儒者。名は成育。字は叔果。通称愿三郎、のち立蔵。金陵のほか匏宇と号す。.

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鎌倉五山

鎌倉五山(かまくらござん)とは、禅宗の寺格。.

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道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。.

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草場佩川

草場 佩川(くさば はいせん、天明7年1月7日(1787年2月24日)慶応3年10月29日(1867年11月24日))は、江戸時代後期の儒学者。佐賀藩多久領出身で、江戸で古賀精里に学び、佐賀藩藩校弘道館教授を務めた。佩川(珮川)は号で、通称は磋助(さすけ)高橋(2013年)、p.10あるいは瑳助、名は韡(さかえ)、字は棣芳(ていほう)。漢詩人として知られ、文人画にも優れた。.

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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菅原道真

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.

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菅茶山

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。.

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青山延于

青山 延于(あおやま のぶゆき、安永5年(1776年) - 天保14年9月6日(1843年9月29日))は、江戸時代の儒学者で水戸藩士。江戸彰考館総裁。弘道館初代教授頭取(総教)。『大日本史』の校訂・出版の作業を推進した。字は子世、通称は量介(量助)、号は拙斎、雲竜。.

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青土社

青土社(せいどしゃ)は、日本における出版社の一つ。神話・言語・哲学・文学・宗教・文明論・科学思想・芸術などの人文諸科学の専門書の出版社として名高い。清水康雄が1969年に創業し、現在まで続く雑誌『ユリイカ』を創刊した。 詩と芸術について扱った雑誌『ユリイカ』、思想と哲学を扱った雑誌『現代思想』は当該分野における一般向け雑誌として有名で、国内外を問わず著名な学者や研究者がこれらの雑誌に論文やエッセイ等を寄稿し、話題になることもしばしばある。.

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静坐

静坐(せいざ )とは、中国における座って心身を静める瞑想法のことをいう。狭義には儒教(宋学)のものだけをいうが、広義には仏教の坐禅、道教の坐忘を含める。 静坐という言葉は仏教・道教などでも使われたが、宋代になると儒教独自の静坐が模索された。 朱子学の創始者である朱熹は24歳のときに師である李侗から、感情や意識が働く以前の心(性)を養う「未発の存養」の方法として静坐を伝授されたという垣内景子『朱子学入門』 ミネルヴァ書房 2015年、ISBN 9784623073917 pp.81-85.

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頼山陽

書斎山紫水明處・京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。.

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頼杏坪

杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - 天保5年7月23日(1834年8月27日))は江戸時代の儒学者、広島藩士。名は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。.

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頼春水

春水筆 頼 春水(らい しゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日)は、江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。 幼名は青圭、諱は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で、江戸では霞崖と称した。別号に拙巣、和亭がある。通称は弥太郎。安芸の人。.

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飛鳥京

飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) は、古代の大和国高市郡飛鳥、現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される天皇(大王)の宮やその関連施設の遺跡群の総称、およびその区域の通称。藤原京以降のいわゆる条坊制にならう都市ではなく、戦前の歴史学者喜田貞吉による造語とされる。.

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飛鳥水落遺跡

飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、奈良県明日香村にある古代の漏刻跡とされる遺跡。国の史跡に指定されている。.

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飛鳥時代

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。 この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのもこの時代と考えられている。.

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西山拙斎

西山 拙斎(にしやま せっさい、享保20年8月17日(1735年10月3日) - 寛政11年11月5日(1799年12月1日))は江戸時代の儒学者。浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の文人。父は医師の恕玄。拙斎という名の小惑星が存在する。.

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西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。.

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諸橋轍次

諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学および都留文科大学の(四年制大学としての)初代学長。本人によると直江兼続の子孫である。号は止軒。 同郷の社会学者建部遯吾は従兄にあたる。(諸橋轍次の父安平の兄慶三郎の子が建部遯吾) 三男の諸橋晋六は静嘉堂文庫理事長のほか三菱商事社長・会長も務めた。.

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高井鴻山

井 鴻山(たかい こうざん、文化3年3月15日〈1806年5月3日〉- 明治16年〈1883年〉2月6日)とは、江戸時代の儒学者、浮世絵師。陽明学の教え「知行合一」の精神で“国利民福”の信条を貫いた。.

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高玄岱

岱(こう げんたい、男性、慶安2年2月15日(1649年3月27日) - 享保7年8月8日(1722年9月18日))は、江戸時代前期の儒学者、書家・篆刻家である。 字を子新・斗瞻、 号を天漪・婺山、通称を新右衛門と称した。姓が深見氏であったので深見玄岱とも呼ばれる。また玄岱は元泰とも書く。長崎の人。.

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高杉晋作

杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は初め楠樹、後に東行(とうぎょう)と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。 栄典は贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.

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論語

『論語』(ろんご、)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。 四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志に「」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。) 別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。.

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魔術

術(まじゅつ)とは、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。魔法(まほう)とも。 人類学や宗教学の用語では呪術という。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある。.

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谷時中

谷 時中(たに じちゅう、慶長3年(1598年) - 慶安2年12月29日(1650年1月31日))は、江戸時代前期の儒学者。生年については1599年(慶長4年)の説もある。名は素有。子に儒学者谷一斎がいる。土佐国の出身。高知では同じ谷姓の谷秦山(谷干城の祖先)と異なり、知られておらず、そのため顕彰されることは殆どない。.

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豊田天功

豊田 天功(とよだ てんこう、文化2年(1805年) - 文久4年1月21日(1864年2月28日))は、幕末の水戸学者である。水戸藩彰考館総裁。『大日本史』の完成に大きく貢献した。名は亮、幼名は丑松、のち彦次郎、号は松岡、晩翠。天功は字。.

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貝原益軒

貝原益軒の座像(福岡市中央区・金龍寺) 貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者、儒学者。.

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貫名菘翁

貫名菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。 姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。.

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足利学校

足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。.

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足利市

足利市中心部を流れる渡良瀬川 足利市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を北西から南東方向へ渡良瀬川が流れる。1986年撮影の19枚を合成作成。国土航空写真。 足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼んだ有名な足利学校がある。また、足利学校は2015年4月に日本遺産に認定された。.

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黒沢雉岡

黒沢 雉岡(くろさわ ちこう、正徳3年2月8日(1713年3月4日) - 寛政8年12月6日(1797年1月3日))は、江戸時代後期の儒学者。名は万新。字は新卿。通称は右仲。 武蔵国児玉郡児玉郷出身。若くして江戸に出て林鳳岡に朱子学を学ぶ。母の死後に喪に服するために帰郷する。54歳にして再び江戸に出て、田安家に仕えていた大塚孝綽と親しくなり、田安家に召される。後に用人として多忙となった大塚に代わって松平定信の侍読を務め、定信が老中となると、孝綽とともにその諮問に与った。 朱子学以外の儒学の諸派にも精通しており、柴野栗山・久保盅斎・高山彦九郎ら当代を代表する儒学者などとの親交が厚かった。著作が複数あったとされるが、未刊のままに終わった。寛政5年(1793年)に致仕してその5年後に84歳で没し、高林寺に葬られた。 Category:江戸時代の儒学者 Category:18世紀の学者 Category:江戸幕府幕臣 Category:武蔵国の人物 Category:1713年生 Category:1797年没.

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近藤篤山

近藤 篤山(こんどう とくざん、明和3年11月9日(1766年12月10日) - 弘化3年2月26日(1846年3月23日))は江戸時代の朱子学者。名は春崧(しゅんすう)。字(あざな)は駿甫。別号に竹馬など。 伊予国出身で尾藤二洲に学び、のちに伊予小松藩に招かれて藩士・領民の教育にあたった。同時代において「徳行天下第一」とも評された教育者で、「伊予聖人」とも尊称された。.

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近江商人

近江商人(おうみしょうにん、おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、江商(ごうしょう)は、中世から近代にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。現在でも俗に滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。.

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鈴木博

鈴木博(すずきひろし).

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舜。 舜(䑞、しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。 舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。 堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。 そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。 この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。 帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。 南風歌という歌を作ったと言われている。 陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。 ちなみに白川静は舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。.

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舒明天皇

舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.

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蘆野東山

蘆野 東山(あしの とうざん、元禄9年11月23日『国史大辞典』第1巻、190頁。(1696年12月17日) - 安永5年6月2日(1776年7月17日))は、江戸時代中期の儒学者、陸奥仙台藩士。本姓は岩淵氏。後に蘆と称する。諱は徳林。初諱は胤保。字は世輔または仲坰。通称は勝之助・勝之丞・善之助・幸七郎・東民。号は東山の他に、渋民・玩易斎・東嶠・梅隠・松窓・柿員・赤蟲・貴明山下幽叟などの別号がある。国内の刑法思想の根本原理を論じた『無刑録』の著者。.

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蘇我氏

蘇我氏(そがうじ/そがし)は、「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。 古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。.

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赤松滄洲

赤松 滄洲(あかまつ そうしゅう、享保6年(1721年) - 寛政13年1月8日(1801年2月20日))は、江戸時代中期の儒学者。名は鴻、字は国鸞。沿洲・静思翁と号す。通称は大川良平。父は舟曳通益。.

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薩南学派

薩南学派(さつなんがくは)とは、桂庵玄樹を始祖として室町時代後期から江戸時代前期にかけて薩摩国を中心に栄えた儒学の一派。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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閑谷学校

閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。.

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藤原惺窩

藤原惺窩像( 『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』より) 藤原 惺窩(ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称した。.

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藤田幽谷

藤田幽谷像(1886年)草川重遠模写 藤田 幽谷(ふじた ゆうこく、1774年3月29日(安永3年2月18日) - 1826年12月29日(文政9年12月1日))は、江戸時代後期の儒学者・水戸学者・民政家。水戸城下で古着商藤田屋を営む与右衛門の次男、母は根本氏の娘。祖父に与左衛門。子に藤田東湖。常陸水戸生まれ。名は一正。通称は熊之介、後に与介、また次郎左衛門。字は子定。水戸学中興の祖。.

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藤田東湖

藤田 東湖(ふじた とうこ)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。.

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藤森弘庵

藤森 弘庵(ふじもり こうあん、寛政11年3月11日(1799年4月15日) - 文久2年10月8日(1862年11月29日))は、幕末の小野藩士、土浦藩士。 小野藩士藤森義正の子、母は猶子(堀越伊兵衛の娘)。諱は大雅。字は淳風。通称・恭助。天山、如不及斎と号した。.

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蒲生君平

蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。.

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那覇市

那覇市(なはし、沖縄方言:ナーファ、ナファ)は、沖縄本島南部の中核市で、県庁所在地並びに沖縄県最大の都市である。.

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那波活所

那波 活所(なば かっしょ、文禄4年(1595年) - 正保5年1月3日(1648年1月27日))は、江戸時代初期の儒学者。名は信吉・方・觚。字は道円。通称は平八。 播磨国姫路の豪農の家に生まれ、儒学と医術とを学んだ後、京都に出て藤原惺窩に師事した。林羅山・松永尺五・堀杏庵とともに「惺窩門四天王」の一人と称される。1623年(元和9年)肥後国熊本藩主加藤忠広に仕え、1635年(寛永12年)から紀伊国和歌山藩主徳川頼宣に儒臣として仕えた。活字による『和名抄』の刊行にかかわっている。 著書に『人君明暗図』『活所遺稿』がある。『桜譜』は桜の専門書の先駆けであるばかりでなく、桜の品種を記載したものとして貴重。 『学問源流』などを著した那波師曾(魯堂)は玄孫にあたる。後世の孫には、京都大学教授で東洋史学者の那波利貞がある。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:紀州藩の人物 Category:播磨国の人物 Category:1595年生 Category:1648年没.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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脇蘭室

脇 蘭室(わき らんしつ、1764年(明和元年) - 1814年12月14日(文化11年11月3日))は、江戸時代末期に活躍した豊後国速見郡小浦村(現在の大分県速見郡日出町豊岡)出身の儒学者。名は長之、字は子善、通称は儀一郎。蘭室、菊園、愚山と号した。.

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野中兼山

野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老・儒学者。谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。 諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。 灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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至聖廟

至聖門/久米 大成殿/久米 天尊廟地 孔子像/至聖廟跡地 至聖廟(しせいびょう)は、沖縄県那覇市久米にある日本最南端の孔子廟である。孔子の他に四配(顔子、子思(孔伋)、曾子、孟子)の像が祀られている。.

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金谷治

金谷 治(かなや おさむ、1920年2月20日 - 2006年5月5日)は、日本の東洋学者。専門は中国哲学、特に中国古代思想史。三重県伊賀市出身。.

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長崎市

佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.

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酒船石遺跡

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。 以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。 この遺跡は、田身嶺(多武峰:とうのみね)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設とする見解が有力視されている。.

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雨森芳洲

森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日(1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))は、江戸時代中期の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。.

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考証学

考証学(こうしょうがく)とは、中国において、清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。.

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陰陽五行思想

陽五行思想(いんようごぎょうしそう)とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。.

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陰陽道

陽道(おんみょうどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語ではない。「おんようどう」「いんようどう」とも。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。 陰陽道に携わる者を陰陽師とよんでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために御払いをするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。.

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陶山鈍翁

陶山 鈍翁(すやま どんおう、1658年1月1日(明暦3年11月28日) - 1732年8月14日(享保17年6月24日))は、江戸時代中期の儒者で、対馬府中藩(対馬藩)の農業振興に努めた人物。多くの農書も著している。諱は存(ながろう)、字は士道、通称は庄右衛門、別号は訥庵(とつあん)。.

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陽明学

王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.

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折衷学派

折衷学派(せっちゅうがくは)とは、江戸中期の儒学の一派。古学・朱子学・陽明学など先行各派の諸説の長所のみをとるという折衷穏当な説を唱えた学者たちの総称。学派といっても朱子学派のように一定の学説に基づく流派ではなく「一人一学説」が特色。 古学派全盛の後、18世紀後半、当時高名の儒者10人のうち8、9人は折衷学といわれるほど流行した。代表的な学説は、折衷学の提唱者である井上金峨の《経義折衷》(1764年)、片山兼山の《山子垂統》(1775年)等にうかがえる。全体の傾向として、特に徂徠学派(古文辞学派)を批判し、朱子学的な倫理重視の思想への回帰が見られる。折衷学派の自由な学風は、寛政異学の禁(1790年)で禁圧対象となったが、折衷的学風はその後の儒学界に深く影響し、またその文献実証の方法は幕末の考証学に受け継がれた。.

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柴野栗山

柴野 栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代の儒学者・文人である。名は邦彦であり、字は彦輔である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。.

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林家 (儒学者)

林家(りんけ)は、林羅山を祖とする日本の儒学者・朱子学者の家系。.

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林テイ宇

林 檉宇(はやし ていう)は、江戸時代後期の儒学者。.

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林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる羅山、道春のほか、羅浮子・夕顔巷・胡蝶洞・梅花村その他の号がある。宮崎(1994)。.

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林鳳岡

林 鳳岡(はやし ほうこう、寛永21年12月14日(1645年1月11日) - 享保17年6月1日(1732年7月22日))は、江戸時代前期・中期の儒学者。特に元禄時代の将軍・徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。父は林鵞峰。名は又四郎・春常・信篤。字は直民。号は鳳岡・整宇。.

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林鳳谷

林 鳳谷 (はやし ほうこく、享保6年(1721年) - 安永2年12月11日(1774年1月22日))は、江戸時代中期の朱子学派儒学者。林榴岡(りゅうこう)の子。林家5代。林鳳池(ほうち)の兄。名は信武、のち信言。.

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林述斎

林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日(1768年8月5日) - 天保12年7月14日(1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者。林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑。諱は初め(松平)乗衡(のりひら)、後に(林)衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。.

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林鵞峰

林 鵞峰(はやし がほう、元和4年5月29日(1618年7月21日) - 延宝8年5月5日(1680年6月1日))は、江戸時代前期の儒者。林羅山の三男。名は又三郎・春勝・恕。字は子和・之道。号は春斎・鵞峰・向陽軒など。.

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林榴岡

林 榴岡(はやし りゅうこう、天和元年(1681年) - 宝暦8年11月11日(1758年12月11日))は、江戸時代中期の朱子学派儒学者。林鳳岡の子、林家の4代目。榴岡は号で、名は怤、諱は信充(のぶみつ)。字は士厚。通称七三郎。別号に復軒、快堂など。子に林鳳池、林鳳谷(林家5代)など。.

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李卓吾

李贄(李卓吾)の肖像画 李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) - 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は中国明代の思想家、評論家。陽明学左派に属する。 原名は林 載贄(りん さいし)。後に姓を李と改める。また1566年、即位した隆慶帝朱載垕の避諱により「載」字を除き、李 贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。.

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松宮観山

松宮 観山(まつみや かんざん、1686年(貞享3年) - 1780年7月25日(安永9年6月24日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・兵学者である。北条氏長(旗本。北条流兵学者。小幡景憲弟子)の子である氏如の弟子。別名、「俊仍(しゅんじょう)」、「左司馬」とも称せられる。観山は北条氏如とともに全国各地に赴き見聞を深め、晩年は著述や教授を業とした。 宝暦・明和事件に連座したため、当時の藩士らに影響を与えたと推察される主著『学論』や『三教要論』の版木などが悉く幕府によって没収棄却され、現在伝わるものは自筆本又は写本によってが殆どである。 観山の思想の根底になすものは『武学』であり、それは北条流兵学の宋師としての自負に裏打ちされているものである。三教要論によって、儒学、神道、仏教の三つの教について述べ、宋学(朱子学)を基本としつつ日本の風土に根ざした学問の大系を求め、実態社会から離れた理論を確立するために儒学の主体を漢土に求めた徂徠学に対して批判を行い、あらゆる学問としての基本条件を、国体との内面的関連を無視すべきではないという国学へと繋がる主張を展開した。.

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松崎慊堂

松崎慊堂像稿(晩年) 渡辺崋山筆 重要美術品 松崎 慊堂(まつざき こうどう、明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))は江戸時代後期の儒学者。名は密または復。字は退蔵・明復。別号は益城・松下人。諡号を五経先生という。墓所は東京都目黒区の長泉院。.

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松平定信

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。.

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松平乗薀

松平 乗薀(まつだいら のりもり)は、美濃岩村藩の第3代藩主。岩村藩大給松平家4代。.

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松永尺五

松永 尺五(まつなが しゃくご(せきご)、文禄元年(1592年) - 明暦3年6月2日(1657年7月12日))は江戸時代の儒学者。京都出身。松永貞徳の子。名は昌三、字は遐年。日本三大梟雄とも言われる戦国大名で茶人としても有名な松永久秀は尺五の曽祖父である。 藤原惺窩の門人で、儒学程朱学派に属する。林羅山・那波活所・堀杏庵とともに窩門四天王の一人。 幕府や藩に対して仕官はせず、京都所司代板倉重宗の厚遇を受けて、京都に春秋館、講習堂、尺五堂といった私塾を設営し、多くの弟子を育成した。.

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村瀬栲亭

村瀬栲亭書 村瀬 栲亭(むらせ こうてい、本名:源 之煕、延享元年5月21日(1744年7月1日) - 文政元年12月6日(1819年1月1日))は、江戸時代後期の漢学者・儒学者。姓は源、名は之煕、字は君績、通称は掃部、嘉右衛門。栲亭は号。一時期、儒者として秋田藩藩侯の侍読、のちに総奉行を務めた。.

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栗山潜鋒

栗山 潜鋒(くりやま せんぽう、寛文11年(1671年) - 宝永3年4月7日(1706年5月18日))は、江戸時代中期の朱子学者。水戸藩士。 山城国淀に生まれ、山崎闇斎の門士、桑名松雲に学んだ。1692年に水戸藩主徳川光圀に招かれ、三宅観瀾・安積澹泊らと共に、『大日本史』の編集に従事した。 著書として『保建大記』などを著している。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:山城国の人物 Category:1671年生 Category:1706年没.

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桂庵玄樹

伊敷二丁目、桂庵公園内) 桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427年(応永34年)- 1508年6月28日(永正5年6月1日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。 長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺の惟肖得巌や景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学する。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481年)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。 日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを南浦文之が改訂したのが「文之点」である。文之点は、近世、四書読解の主流となった。 その後、建仁寺や南禅寺の住持となり、1502年に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。1508年、82歳で死去。著書に『家法倭点』、『島陰文集』、『島隠漁唱』など多数ある。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:仏教哲学者 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:日本の儒学者 Category:15世紀の学者 Category:周防国の人物 Category:1427年生 Category:1508年没.

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梁田蛻巖

梁田 蛻巖(やなだ ぜいがん、寛文12年1月24日(1672年2月22日) - 宝暦7年7月17日(1757年8月31日))は、江戸時代中期の漢詩人。名は邦美、字は景鸞、通称は才右衛門、蛻巖と号す。.

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森有礼

森 有礼(もり ありのり、正字体:森有禮、弘化4年7月13日(1847年8月23日) - 明治22年(1889年)2月12日)は、日本の武士(薩摩藩士)、外交官、政治家。初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社会長(発起人)、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を務め、明治六大教育家に数えられる。正二位子爵。通称は助五郎、金之丞。.

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楠本端山

楠本端山 楠本 端山(くすもと たんざん、1828年2月29日(文政11年1月15日) - 1883年(明治16年)3月18日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者。名は確蔵、のちに後覚、字は伯暁、端山と号した。弟は儒学者の楠本碩水。妻は近藤氏。.

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榊原篁洲

榊原 篁洲(さかきばら こうしゅう、明暦2年(1656年) - 宝永3年1月3日(1706年2月15日))は、江戸時代前期の儒学者。名は玄輔、字を希翊、号は篁洲のほかに惕々子、勃窣散人。通称は小太郎、のちに元輔。和泉の生まれ。.

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横井小楠

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。 本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。 「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる(熊本市)。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。.

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正安

正安(しょうあん)は、日本の元号の一つ。永仁の後、乾元の前。1299年から1301年までの期間を指す。この時代の天皇は後伏見天皇、後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時、北条師時。.

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正治

正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武内義雄

武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9日 - 1966年(昭和41年)6月3日)は、日本の東洋学者・中国哲学研究者。東北帝国大学名誉教授。三重県生まれ。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校でも水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられた。その「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。.

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江村北海

江村 北海(えむら ほっかい、正徳3年10月8日(1713年11月25日) - 天明8年2月2日(1788年3月9日))は、江戸時代中期の儒者、漢詩人。名は綬。字は君錫、通称は伝左衛門、北海と号す。福井藩の儒者・伊藤竜洲の第二子。兄は伊藤錦里、弟は清田儋叟。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田草庵

青谿書院(兵庫県養父市八鹿町) 池田 草庵(いけだ そうあん、文化10年7月23日(1813年8月18日) - 明治11年(1878年)9月24日)は、江戸時代末期の儒学者。通称は禎蔵。幼名、歌也。但馬聖人と称えられた。.

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沢村琴所

沢村 琴所(さわむら きんしょ、貞享3年3月5日(1686年3月28日) - 元文4年1月9日(1739年2月16日))は江戸時代中期の儒学者。名は維顕、字 は伯陽、通称は九(宮)内と称す。.

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河井継之助

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぎのすけ」。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが.

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沖縄県

沖縄県(おきなわけん)は、日本で最も西に位置する県。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地は那覇市。.

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沖縄戦

沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう。.

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津田左右吉

津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の歴史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる。栄典は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章。.

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清原宣賢

清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。.

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清原頼業

清原 頼業(きよはら の よりなり)は、平安時代末期の貴族・儒学者。元の名は顕長のち頼滋。大外記兼助教・清原祐隆の子。官位は正五位上・大外記。死後、車折明神として祀られた。.

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清原氏

清原氏(きよはらうじ)は、「清原」を氏の名とする氏族。 舎人親王にはじまる皇別氏族であり、平安時代は中級貴族(地下家)であった。特に清原深養父、清少納言などが有名。中原氏・菅原氏(土師姓)などと同様、平安時代急速に台頭した氏である。.

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渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。 正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。.

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湯島

湯島(ゆしま)は、東京都文京区の町名。現行行政地名は湯島一丁目から湯島四丁目。郵便番号は113-0034。.

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湯島聖堂

湯島聖堂(ゆしませいどう)は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡。江戸時代の元禄3年(1690年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。 湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。.

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湯浅常山

湯浅 常山(ゆあさ じょうざん)は、江戸時代中期の岡山藩士・儒学者。常山は雅号で、諱は元禎。字は之祥(士祥)。通称は新兵衛。『常山紀談』で著名。.

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服部南郭

服部南郭像 伝忍海上人筆 服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られる。 姓は服部、自ら修めて服と為す、名は元喬(げんきょう)、通称は幸八(こうはち)、後に小右衛門、字は子遷、南郭は号、他に芙蕖館(ふきょかん)、又芙蓉館(ふようかん)と号す、画号は周雪、観翁など。中国風に服南郭、服元喬、服子遷と名乗ることもあった。.

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朝川善庵

朝川 善庵(あさかわ ぜんあん、天明元年4月8日(1781年5月1日) - 嘉永2年2月7日(1849年3月1日))は江戸時代後期の儒学者。名は鼎。字は五鼎。中根香亭の外祖父にあたる。養子として朝川同斎を迎える。.

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木下順庵

木下順庵邸址、京都市錦小路通烏丸西入南側 木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日(1621年7月22日) - 元禄11年12月23日(1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。名は貞幹、字は直夫、通称は平之允、号は順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞。私諡を恭靖と言う。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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朱熹

朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.

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朱舜水

朱舜水像 朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。舜水は号。諱は之瑜、字は楚嶼・魯璵。.

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明経道

明経道(みょうぎょうどう)は、日本律令制の大学寮において儒学を研究・教授した学科。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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春日潜庵

春日 潜庵(かすが せんあん、1811年9月20日(文化8年8月3日)- 1878年(明治11年)3月23日『明治維新人名辞典』269-270頁。)は、日本の幕末から明治初期の地下人・儒学者、政治家。第一次奈良県知事。初名・仲好、名・仲襄、雅号・潜庵。.

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昌平坂学問所

昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。.

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海保青陵

海保 青陵(かいほ せいりょう、宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は、江戸時代後期の儒学者・経世家。通称儀平(儀兵衛)または弘助、字は萬和。青陵は号である。別号に皐鶴。自著では「鶴」と称している。 人生の過半を遊歴に費やし、各地で『論語』などの中国古典や漢文作成の文法を教えながら、一方で経済上の様々な相談や指導を行って家計や経営の立て直しに手腕を振い、現在の経営コンサルタントの先駆けとも評される人物である。.

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海保漁村

海保 漁村(かいほ ぎょそん、寛政10年11月22日(1798年12月28日) - 慶応2年9月18日(1866年10月26日))は、徳川300年屈指の大儒と称されながら、庶民教育に徹した幕末の儒学者。考証学派。本名:海保元備、または紀之、通称は章之助、伝経廬の別号がある。.

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浅見絅斎

浅見絅斎邸址、京都市中京区錦小路通高倉西入南側 浅見 絅斎(あさみ けいさい、承応元年8月13日(1652年9月15日) - 正徳元年12月1日(1712年1月8日))は、日本の江戸時代の儒学者・思想家。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。.

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斎藤拙堂

斎藤 拙堂(さいとう せつどう、寛政9年(1797年) - 慶応元年7月15日(1865年9月4日))は、幕末の朱子学者。諱は正謙。字は有終。通称は徳蔵。.

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新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

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文部大臣 (日本)

初代文部卿、大木喬任 文部大臣(もんぶだいじん)および前身の文部卿(もんぶきょう)は、教育行政を担う日本の行政機関として設置されていた文部省(明治4年7月18日〈1871年9月2日〉から2001年〈平成13年〉1月5日まで)の長である。略称は文相(ぶんしょう)。大臣の職掌、文部省については、文部省の記事を参照のこと。 なお、2001年〈平成13年〉1月6日に文部省と科学技術庁を統合して設置された文部科学省の長である歴代の文部科学大臣については、同項目を参照のこと。 一覧表の凡例は、脚注を参照のこと。.

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文治政治

文治政治(ぶんちせいじ)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍徳川家継までの時期の政治をさす。.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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懐徳堂

懐徳堂(かいとくどう)は、江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所。明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災焼失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。財団法人懐徳堂記念会については懐徳堂記念会の項を参照。.

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教育ニ関スル勅語

教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)または教育勅語(きょういくちょくご)は、明治天皇の勅語として発布された、近代日本の教学の最高規範書「」。1890年(明治23年)10月30日発布、1948年(昭和23年)6月19日廃止。.

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1122年

記載なし。

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1184年

記載なし。

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1189年

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1199年

記載なし。

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1220年

記載なし。

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1251年

記載なし。

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1283年

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1299年

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1427年

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1432年

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1475年

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1508年

土曜日から始まる。.

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1550年

記載なし。

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1555年

記載なし。

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1561年

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1564年

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1567年

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1575年

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1583年

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1585年

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1592年

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1595年

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1599年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1608年

記載なし。

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1614年

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1615年

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1618年

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1619年

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1620年

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1621年

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1622年

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1627年

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1628年

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1629年

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1630年

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1633年

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1640年

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1643年

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1645年

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1647年

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1648年

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1650年

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1652年

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1656年

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1657年

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1658年

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1662年

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1663年

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1665年

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1666年

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1668年

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1669年

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1670年

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1671年

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1672年

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1674年

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1676年

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1679年

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1680年

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1682年

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1683年

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1685年

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1686年

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1687年

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1690年

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1691年

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1692年

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1693年

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1694年

記載なし。

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1696年

記載なし。

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1697年

記載なし。

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1698年

記載なし。

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1699年

記載なし。

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1700年

17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1702年

記載なし。

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1705年

記載なし。

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1706年

記載なし。

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1707年

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1708年

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1712年

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1713年

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1714年

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1718年

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1719年

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1721年

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1722年

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1723年

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1724年

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1725年

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1727年

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1728年

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1730年

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1732年

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1734年

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1735年

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1736年

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1738年

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1739年

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1740年

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1741年

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1743年

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1744年

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1746年

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1747年

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1748年

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1750年

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1752年

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1755年

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1756年

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1757年

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1758年

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1759年

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1761年

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1762年

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1764年

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1765年

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1766年

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1767年

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1768年

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1771年

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1772年

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1773年

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1774年

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1776年

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1780年

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1781年

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1788年

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1790年

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1791年

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1793年

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1796年

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1797年

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1798年

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1799年

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1801年

19世紀最初の年である。.

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1803年

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1804年

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1805年

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1806年

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1807年

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1809年

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1811年

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1812年

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1813年

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1814年

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1816年

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1817年

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1818年

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1823年

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1825年

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1826年

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1827年

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1828年

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1829年

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1832年

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1834年

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1836年

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1837年

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1840年

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1841年

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1843年

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1844年

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1845年

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1846年

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1847年

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1849年

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1851年

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1855年

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1856年

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1857年

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1859年

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1861年

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1862年

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1863年

記載なし。

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1864年

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1865年

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1866年

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1867年

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1868年

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1869年

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1876年

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1877年

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1878年

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1883年

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1885年

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1890年

記載なし。

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1891年

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1892年

記載なし。

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1893年

記載なし。

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1898年

記載なし。

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1904年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1931年

記載なし。

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1936年

記載なし。

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1946年

記載なし。

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1949年

記載なし。

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1968年

記載なし。

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1975年

記載なし。

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1980年

この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。.

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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2008年

この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏時代に都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 アルメニア教会。カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派」にはシリア・エジプト・アルメニアの諸教会がある。画像は483年に再建されたアルメニア教会のエチミアジン大聖堂。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。.

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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845年

記載なし。

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847年

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903年

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919年

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