ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

斯波高経

索引 斯波高経

斯波 高経(しば たかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏(尾張足利氏)4代当主。 元弘3年(1333年)の足利尊氏の挙兵に従って鎌倉幕府に反旗を翻し、建武政権において越前守護職を得たが、後に尊氏が建武政権に反するとこれにも従って北朝軍の有力武将となる。北朝では北陸方面の司令官として活躍し、南朝軍の有力な司令官であった新田義貞を討つ功績を上げた。やがて観応の擾乱が起こると足利直義陣営に属して尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時室町幕府の最高権力を得たものの、まもなく佐々木道誉らの策謀により失脚。洛中を落ちて越前杣山城にて失意の中病死した。.

141 関係: 加賀国南北朝時代 (日本)南越前町南朝 (日本)吉川弘文館吉良貞義大塩八幡宮大崎氏大内弘世太平記奥州管領奥州総大将奥州探題室町幕府室町時代守護守護大名尊良親王小川信小侍所尾張国山名時氏屈原上杉氏七宮ケイ三一門九州探題享年京職京都康安康暦の政変今谷明延元建武 (日本)建武の新政引付衆佐々木道誉侍所後醍醐天皇従五位従四位信濃国修理職北畠顕家北陸地方北条高時北条貞時北朝 (日本)嘉元...六波羅探題元亨元弘福井県秋田書店管領紫波郡細川頼之細川清氏紀伊国羽州探題鎌倉幕府鎌倉時代衛門府馬寮観応の擾乱高師泰高氏鬼丸鬼切安綱貞治貞治の変越中国越前国足利家氏足利尊氏足利義詮足利義満足利直冬足利直義足利貞氏足利氏足利泰氏興国関東管領藤島の戦い脇屋義助金ヶ崎城長井時秀長沢西城若狭国陸奥国陸奥国司暦応恒良親王杣山城松原信之森茂暁楚 (春秋)楠木正成正平 (日本)武将湊川の戦い末野氏最上氏斯波家兼斯波家長斯波宗氏斯波義将斯波義種斯波義高斯波氏斯波氏経斯波氏頼新人物往来社新田義顕新田義貞文和敦賀市12月25日 (旧暦)1305年1323年1333年1334年1336年1337年1338年1339年1340年1341年1342年1354年1355年1356年1358年1361年1362年1366年1367年7月13日 (旧暦)8月9日 インデックスを展開 (91 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 斯波高経と加賀国 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 斯波高経と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

南越前町

夜叉ヶ池 南越前町(みなみえちぜんちょう)は、福井県の中央部に位置する町である。.

新しい!!: 斯波高経と南越前町 · 続きを見る »

南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

新しい!!: 斯波高経と南朝 (日本) · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 斯波高経と吉川弘文館 · 続きを見る »

吉良貞義

吉良 貞義(きら さだよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。三河国西条城主。.

新しい!!: 斯波高経と吉良貞義 · 続きを見る »

大塩八幡宮

大塩八幡宮(おおしおはちまんぐう)は福井県越前市にある神社(八幡宮)である。旧社格は県社。 境内社に式内社の高岡神社、天八百萬比咩神社、天国津彦神社、天国津比咩神社の各論社がある。.

新しい!!: 斯波高経と大塩八幡宮 · 続きを見る »

大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。.

新しい!!: 斯波高経と大崎氏 · 続きを見る »

大内弘世

大内 弘世(おおうち ひろよ)は、南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護。多々良姓大内氏の第9代当主。大内弘幸の子。義弘、満弘、盛見、弘茂らの父。.

新しい!!: 斯波高経と大内弘世 · 続きを見る »

太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

新しい!!: 斯波高経と太平記 · 続きを見る »

奥州管領

奥州管領(おうしゅうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代における幕府の地方官制である。守護に代わって設置された。 建武政権が創設した陸奥将軍府に対抗するために設置された奥州総大将が前身である。 貞和6年(1345年)畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命され、奥州総大将は廃止された。当時幕府内は観応の擾乱前夜で、畠山国氏は尊氏・師直派で、吉良貞家は直義派であった。二人の共同統治で軍事と民政などの分掌は行われなかった。 軍事指揮権を主に職掌とした奥州総大将より職権が拡大し、寺社興行権の保障と棟別銭の賦課、庶務・検断・雑務沙汰の審理も行えるようになった。また、軍事指揮権も奥羽の武士へ管領府への勤番を発動するなど強化されている。それに伴い、それまで有力武士に認めていた各郡での使節遵行権を管領府が徐々に行うようになった。 観応2年(1351年)、前年尊氏派と直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国・弟直泰は自害したが、国氏の子二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務をしている。その子孫はそのまま二本松に土着した(二本松氏)。 畠山国氏の敗死により、尊氏派の諸氏は失脚した。また、その混乱に付け込み、南朝の北畠顕信が国府を攻撃して奪取した。吉良貞家は反撃して国府を奪回するも、文和2年(1353年)に死亡する。子の吉良満家が奥州管領職を世襲した。そこに先の奥州総大将石塔義房の子義憲(義元)が奥州管領を自称し、活動を開始した。また、斯波家兼も奥州管領に任命されて下向する。これにより、同時に奥州管領を称する吉良満家・二本松国詮・石塔義憲・斯波家兼の4人が並立することとなった(四管領時代)。さらに吉良満家の弟、吉良治家を討つために石橋棟義も下向し、血みどろの抗争を繰り広げることになる。その抗争の中、次第に斯波家兼が優位に立ち、その他の3氏は逼塞していった。 この騒乱の結果、各管領は各地の有力武士の支持を取り付けるため、郡地頭に検断権や使節遵行権を認めた。これにより各有力武士は各郡に強力な支配権を持つことになり、「分郡」と呼ばれる支配領域を持つようになる。そして奥州では国人の力が非常に強くなり、戦国大名へと発展していく。逆に奥州管領はその権限を再吸収できないうちに明徳3年(1392年)には廃止され、奥羽は鎌倉府の管国に編入されたが、幕府と鎌倉府の溝が深まってくるに伴い奥州探題設立へとつながる。 Category:室町幕府の職制 category:戦国時代 (日本) category:中世日本の称号.

新しい!!: 斯波高経と奥州管領 · 続きを見る »

奥州総大将

奥州総大将(おうしゅうそうだいしょう)とは、南北朝時代における幕府の地方官制である。守護に代わって設置された。 元弘3年(1333年)、建武政権は陸奥国司に北畠顕家を、出羽国司兼秋田城介に葉室光顕を任命する。建武2年(1335年)には北畠顕家が鎮守府将軍も兼務し、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国府に陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。 しかし、建武2年(1335年)の中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、建武政権は瓦解した。尊氏は奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長を奥州総大将に任命し、陸奥国と出羽国の軍事指揮権を与えた。尊氏は上洛するが、子の義詮を残す。斯波家長は義詮を補佐するため執事も兼任することとなった。 北畠顕家の陸奥将軍府は、有力武士に各郡の郡奉行として守護並みの権限を与えるなどの政策を採り、奥州の武士から広範な支持を取り付けた。そのため、斯波家長の奥羽に対する支配は遅々として進まず、延元2年/建武4年(1338年)には鎌倉で顕家率いる奥州軍に敗れて戦死してしまう。 同年、石塔義房が専任の奥州総大将として奥州に派遣される。義房は、陸奥将軍府から二階堂氏などの実務官僚を引き抜いたり、郡検断職として既得権限を公認するなどして次々と有力武士を味方に引き入れ、国府を奪還する。 貞和6年(1345年)、畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命され、奥州総大将は廃止された。.

新しい!!: 斯波高経と奥州総大将 · 続きを見る »

奥州探題

奥州探題(おうしゅうたんだい)とは、室町時代から戦国時代にかけて置かれた室町幕府の役職の一つ。守護に代わって設置され、陸奥国の統括を担った。奥州とは一般的には陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指す。出羽(秋田、山形)は羽州と呼ぶのが一般的で、現東北地方である両国をまとめて指す場合は奥羽と呼ぶのが通常である。.

新しい!!: 斯波高経と奥州探題 · 続きを見る »

室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

新しい!!: 斯波高経と室町幕府 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 斯波高経と室町時代 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 斯波高経と守護 · 続きを見る »

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

新しい!!: 斯波高経と守護大名 · 続きを見る »

尊良親王

尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

新しい!!: 斯波高経と尊良親王 · 続きを見る »

小川信

小川 信(おがわ まこと、1920年12月31日 - 2004年11月15日)は、日本の日本史学者。日本学士院賞受賞者。 専門は日本中世史。室町時代政治史をテーマとし、考証に重きをおいた。晩年、歴史地理的な研究にも取り組んだ。中心となって『久我家文書』編纂・刊行に従事した。.

新しい!!: 斯波高経と小川信 · 続きを見る »

小侍所

小侍所(こさむらいどころ)は、鎌倉幕府・室町幕府に設置された機関の1つで、将軍に近侍して御家人の宿直・供奉を管理して将軍及びその御所の警備を統括した。鎌倉幕府においては別当を長としたが、室町幕府にはそうした役職は存在しなかったとみられており、便宜上において所司と呼ばれていたようである。.

新しい!!: 斯波高経と小侍所 · 続きを見る »

尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 斯波高経と尾張国 · 続きを見る »

山名時氏

山名 時氏(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。.

新しい!!: 斯波高経と山名時氏 · 続きを見る »

屈原

楚の屈原(清代) 屈原の肖像画(17世紀) 屈 原(くつ げん、紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。.

新しい!!: 斯波高経と屈原 · 続きを見る »

上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

新しい!!: 斯波高経と上杉氏 · 続きを見る »

七宮ケイ三

七宮 涬三(しちのみや けいぞう、1928年 -2011年2月16日)は、日本の歴史学者、作家。主に平安時代末期から戦国時代にかけての氏族に関する著書や、岩手県の政治家や経済人に関する著作が多い。.

新しい!!: 斯波高経と七宮ケイ三 · 続きを見る »

一門

一門(いちもん)は、氏族あるいは家系を同じくする同族あるいは同族集団のこと。.

新しい!!: 斯波高経と一門 · 続きを見る »

九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

新しい!!: 斯波高経と九州探題 · 続きを見る »

享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

新しい!!: 斯波高経と享年 · 続きを見る »

京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

新しい!!: 斯波高経と京職 · 続きを見る »

京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

新しい!!: 斯波高経と京都 · 続きを見る »

康安

康安(こうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。延文の後、貞治の前。1361年の期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮。.

新しい!!: 斯波高経と康安 · 続きを見る »

康暦の政変

康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。.

新しい!!: 斯波高経と康暦の政変 · 続きを見る »

今谷明

今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。帝京大学文学部特任教授、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中世日本史。 京都市出身。官僚を経験した後に歴史学者に転じた。戦国時代における天皇の権威が、従来の説で論じられていたよりも強かったと主張する一連の著作で知られる。近年は、ヨーロッパ・オリエントの封建制と日本中世の封建制との比較研究もおこなっている。.

新しい!!: 斯波高経と今谷明 · 続きを見る »

延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 斯波高経と延元 · 続きを見る »

建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

新しい!!: 斯波高経と建武 (日本) · 続きを見る »

建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

新しい!!: 斯波高経と建武の新政 · 続きを見る »

引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

新しい!!: 斯波高経と引付衆 · 続きを見る »

佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

新しい!!: 斯波高経と佐々木道誉 · 続きを見る »

侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

新しい!!: 斯波高経と侍所 · 続きを見る »

後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

新しい!!: 斯波高経と後醍醐天皇 · 続きを見る »

従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

新しい!!: 斯波高経と従五位 · 続きを見る »

従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

新しい!!: 斯波高経と従四位 · 続きを見る »

信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

新しい!!: 斯波高経と信濃国 · 続きを見る »

修理職

修理職(しゅりしき、すりしき)は平安時代に設置された令外官。和名は「をさめ(おさめ)つくるつかさ」。.

新しい!!: 斯波高経と修理職 · 続きを見る »

北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

新しい!!: 斯波高経と北畠顕家 · 続きを見る »

北陸地方

北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部に位置する中部地方のうち日本海に面する地域である。新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を指す。区別のため前者を「北陸4県」「新潟県を含む北陸地方」、後者を「北陸3県」などと表現することがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 名称は、畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。.

新しい!!: 斯波高経と北陸地方 · 続きを見る »

北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

新しい!!: 斯波高経と北条高時 · 続きを見る »

北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

新しい!!: 斯波高経と北条貞時 · 続きを見る »

北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

新しい!!: 斯波高経と北朝 (日本) · 続きを見る »

嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

新しい!!: 斯波高経と嘉元 · 続きを見る »

六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

新しい!!: 斯波高経と六波羅探題 · 続きを見る »

元亨

元亨(げんこう、げんきょう)は、日本の元号の一つ。元応の後、正中の前。1321年から1323年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

新しい!!: 斯波高経と元亨 · 続きを見る »

元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

新しい!!: 斯波高経と元弘 · 続きを見る »

福井県

福井県(ふくいけん)は、日本海や若狭湾に面する日本の県。県庁所在地は福井市である。.

新しい!!: 斯波高経と福井県 · 続きを見る »

秋田書店

株式会社秋田書店(あきたしょてん、)は日本の出版社。.

新しい!!: 斯波高経と秋田書店 · 続きを見る »

管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

新しい!!: 斯波高経と管領 · 続きを見る »

紫波郡

*.

新しい!!: 斯波高経と紫波郡 · 続きを見る »

細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

新しい!!: 斯波高経と細川頼之 · 続きを見る »

細川清氏

細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。.

新しい!!: 斯波高経と細川清氏 · 続きを見る »

紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 斯波高経と紀伊国 · 続きを見る »

羽州探題

羽州探題(うしゅうたんだい)は、室町時代の出羽国に置かれた幕府の役職。正しくは羽州探題職(うしゅうたんだいしき)という。 奥州探題と並んで室町幕府における奥羽を統括する要職であり、それぞれ斯波氏の一門である大崎氏が奥州探題、最上氏が羽州探題を世襲した。 羽州探題の成立は正平11年(1356年)、奥州探題斯波家兼の次男・斯波兼頼が、出羽国按察使として山形に入部し、当時、寒河江氏等の南朝勢力が割拠していた出羽国の統治に当たったのが始まりである。正平22年(1367年)、漆川の戦いにより寒河江氏を下し、出羽国における南朝勢力を、北朝に従えた後も、その地に留まり、以後、最上屋形の称号を拝名し最上氏を称した。.

新しい!!: 斯波高経と羽州探題 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 斯波高経と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 斯波高経と鎌倉時代 · 続きを見る »

衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

新しい!!: 斯波高経と衛門府 · 続きを見る »

馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

新しい!!: 斯波高経と馬寮 · 続きを見る »

観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

新しい!!: 斯波高経と観応の擾乱 · 続きを見る »

高師泰

師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代の武将。高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。.

新しい!!: 斯波高経と高師泰 · 続きを見る »

高氏

氏(こうし)は、日本の氏族。 古代から平安時代頃までは、高麗(高句麗)系渡来人が出身国の一字をとって高氏を名乗ったといわれる。その後高階氏が氏名の一字をとって高氏と称するようになる。.

新しい!!: 斯波高経と高氏 · 続きを見る »

鬼丸

丸(おにまる)は、天下五剣の一つに数えられる日本刀(太刀)。鬼丸国綱(おにまるくにつな)とも呼ばれる。.

新しい!!: 斯波高経と鬼丸 · 続きを見る »

鬼切安綱

切安綱(おにきりやすつな)は源家相伝として伝えられる日本刀。鬼切丸とも。鬼切丸を所蔵する北野天満宮では近年、別名髭切ともされる。.

新しい!!: 斯波高経と鬼切安綱 · 続きを見る »

貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

新しい!!: 斯波高経と貞治 · 続きを見る »

貞治の変

貞治の変(じょうじのへん)は、日本の南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(正平21年、1366年)、室町幕府の執事(後の管領)であった斯波義将及びその父で2代将軍足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件。「貞治の政変」とも。.

新しい!!: 斯波高経と貞治の変 · 続きを見る »

越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

新しい!!: 斯波高経と越中国 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 斯波高経と越前国 · 続きを見る »

足利家氏

足利 家氏(あしかが いえうじ、生没年不明)は、鎌倉時代中期の御家人。足利泰氏の長男で、足利尾張家の初代。子に義利、貞数、宗家。子孫は斯波氏、大崎氏、最上氏、石橋氏。弟に兼氏(義顕、渋川氏祖)、頼氏(足利5代当主)、公深(一色氏祖)、頼茂(石塔氏祖)、義弁(上野氏祖)、賢宝(小俣氏祖)、基氏(加古氏の祖)等多数。.

新しい!!: 斯波高経と足利家氏 · 続きを見る »

足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

新しい!!: 斯波高経と足利尊氏 · 続きを見る »

足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

新しい!!: 斯波高経と足利義詮 · 続きを見る »

足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 斯波高経と足利義満 · 続きを見る »

足利直冬

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤尊氏の庶長子(長男)とする説もあるが、竹若丸に次いで次男であったとされる。。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。.

新しい!!: 斯波高経と足利直冬 · 続きを見る »

足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

新しい!!: 斯波高経と足利直義 · 続きを見る »

足利貞氏

足利 貞氏(あしかが さだうじ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人。足利家時の嫡男。室町幕府初代将軍となる足利尊氏やその異母兄・足利高義、その弟・足利直義の父。.

新しい!!: 斯波高経と足利貞氏 · 続きを見る »

足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

新しい!!: 斯波高経と足利氏 · 続きを見る »

足利泰氏

足利 泰氏(あしかが やすうじ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。足利家3代目当主足利義氏の嫡男。足利宗家4代当主奥富、2008年、p.92-111。小谷、1980年。。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の高祖父。.

新しい!!: 斯波高経と足利泰氏 · 続きを見る »

興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 斯波高経と興国 · 続きを見る »

関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

新しい!!: 斯波高経と関東管領 · 続きを見る »

藤島の戦い

藤島の戦い(ふじしまのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)閏7月、越前国藤島(現・福井県福井市)付近において、越前平定と上洛を目指していた新田義貞率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、斯波高経ら北朝方(足利勢)のとの間で行われた合戦である。.

新しい!!: 斯波高経と藤島の戦い · 続きを見る »

脇屋義助

脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄  義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。.

新しい!!: 斯波高経と脇屋義助 · 続きを見る »

金ヶ崎城

金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう)は、福井県敦賀市金ヶ崎町にあった日本の城。別名敦賀城(つるがじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。本項では支城である天筒山城についても併記する。.

新しい!!: 斯波高経と金ヶ崎城 · 続きを見る »

長井時秀

長井 時秀(ながい ときひで、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人安田、1990年、p.432 「長井時秀」の項(執筆:下山忍)。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「長井時秀」(執筆:佐々木文昭)より。。長井泰秀の子。母は佐々木信綱の娘。妻は安達義景の娘。大江時秀とも呼ばれる。法名は西規。.

新しい!!: 斯波高経と長井時秀 · 続きを見る »

長沢西城

長沢西城(ながさわにしじょう)は、富山県富山市婦中町長沢にあった日本の城。長沢城ともいう。.

新しい!!: 斯波高経と長沢西城 · 続きを見る »

若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 斯波高経と若狭国 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 斯波高経と陸奥国 · 続きを見る »

陸奥国司

奥国司(むつこくし)は、陸奥国の国司のことである。701年から775年までは、陸奥守、陸奥介、陸奥大掾、陸奥少掾、陸奥大目、陸奥少目の各1人を定員とした。775年に小目が2人に増えた。.

新しい!!: 斯波高経と陸奥国司 · 続きを見る »

暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 斯波高経と暦応 · 続きを見る »

恒良親王

恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、正中元年(1324年) - 延元3年/建武5年4月13日(1338年5月3日))は、後醍醐天皇の皇子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。成良親王、義良親王の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

新しい!!: 斯波高経と恒良親王 · 続きを見る »

杣山城

杣山城(そまやまじょう)は福井県南条郡南越前町にあった日本の城である。.

新しい!!: 斯波高経と杣山城 · 続きを見る »

松原信之

松原 信之(まつばら のぶゆき、1932年 - )は、日本の歴史学者、郷土史家。.

新しい!!: 斯波高経と松原信之 · 続きを見る »

森茂暁

森 茂暁(もり しげあき、1949年9月9日 - )は、日本の歴史学者。福岡大学教授 。専門は中世日本の政治と文化。文学博士(1985年、九州大学にて取得)。.

新しい!!: 斯波高経と森茂暁 · 続きを見る »

楚 (春秋)

楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.

新しい!!: 斯波高経と楚 (春秋) · 続きを見る »

楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

新しい!!: 斯波高経と楠木正成 · 続きを見る »

正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

新しい!!: 斯波高経と正平 (日本) · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 斯波高経と武将 · 続きを見る »

湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

新しい!!: 斯波高経と湊川の戦い · 続きを見る »

末野氏

末野氏(すえのし)は、日本の姓の一つ。三河国、若狭国、越後国に地名がある。 清和源氏足利氏流斯波氏の一族。斯波高経の次男・氏経が祖(「武衛系図」)。また「武衛系図」や「餘日舊記」によれば、斯波義敏の子・又三郎義延が、末野氏の跡を継いだという。.

新しい!!: 斯波高経と末野氏 · 続きを見る »

最上氏

最上氏(もがみし)は、清和源氏の足利氏の支流である。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。.

新しい!!: 斯波高経と最上氏 · 続きを見る »

斯波家兼

斯波 家兼(しば いえかね)は南北朝時代の武将。奥州管領。斯波高経の同母弟。奥羽斯波氏の祖。足利尊氏が倒幕の兵を挙げると兄・高経とともにこれに従い、後に建武政権に叛旗を翻した際も従うなど、足利氏の嫡流である尊氏を支え続けた。.

新しい!!: 斯波高経と斯波家兼 · 続きを見る »

斯波家長

斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。.

新しい!!: 斯波高経と斯波家長 · 続きを見る »

斯波宗氏

斯波 宗氏(しば むねうじ)は、鎌倉時代中期ごろから後期にかけての武将。斯波氏(尾張足利氏)第3代当主。.

新しい!!: 斯波高経と斯波宗氏 · 続きを見る »

斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

新しい!!: 斯波高経と斯波義将 · 続きを見る »

斯波義種

斯波 義種(しば よしたね)は南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所頭人、侍所頭人、加賀・越前・若狭・信濃・山城守護。斯波高経の5男。家長、氏経、氏頼、義将の弟。子に満種、満理。 観応3年/正平7年(1352年)、足利一門の有力者である斯波高経の5男として生まれる。高経には多数の子息がいたが、とりわけ4男義将と同母の5男義種は父の偏愛を受け、康安2年/正平17年(1362年)に従五位下民部少輔となり、翌年には小侍所、さらに翌年には侍所頭人兼山城守護になるなど優遇された。 しかし貞治5年/正平21年(1366年)8月の貞治の変によって父が失脚すると父や兄に従って都を去る。やがて父が没すると、兄と共に赦免され幕府に帰参した。その後官位は伊予守、修理大夫と進み、信濃や加賀の守護職に任じられるなど有力な守護大名となった。 応永2年(1395年)、3代将軍足利義満の出家に従い兄と共に薙髪する。応永15年(1408年)2月2日に卒去。享年57。法名は広徳院殿道守高節。.

新しい!!: 斯波高経と斯波義種 · 続きを見る »

斯波義高

斯波 義高(しば よしたか、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。官職は左近将監。越前守護や九州探題を歴任した斯波氏経の嫡男。祖父は足利氏一門の実力者である斯波高経で、管領として著名な斯波義将は叔父にあたる。後に諱を詮将に改名する(「詮」の字は将軍足利義詮、「将」の字は叔父・義将よりそれぞれ偏諱を賜ったものとみられる)。 正平17年/康安2年(1362年)に祖父高経が室町幕府の実権を掌握すると、叔父の義将・義種はそれぞれ幕府執事(管領)、侍所頭人となり、義高も引付衆頭人に据えられた。しかし父が九州攻略に失敗して九州探題職を退くと高経政権は動揺、やがて京極高氏らの讒言もあって、高経をはじめとする斯波一門は失脚して越前へと去った。この時に義高も越前落ちに同行したとされる。以降の義高の動向は定かではないが、後の名である『詮将』が伯父斯波家長の系統である高水寺斯波家(奥州斯波氏)の3代当主・斯波詮将と同じであるため、この両者を同一人物と見なす説もある。.

新しい!!: 斯波高経と斯波義高 · 続きを見る »

斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

新しい!!: 斯波高経と斯波氏 · 続きを見る »

斯波氏経

斯波 氏経(しば うじつね、生没年不詳)は南北朝時代の武将、守護大名。越前守護、九州探題。官位は民部少輔、左京大夫。斯波高経の次男。兄に家長、弟に氏頼、義将、義種、叔父には奥州斯波氏の祖となる斯波家兼がいる。子に義高。末野氏の祖とされる。.

新しい!!: 斯波高経と斯波氏経 · 続きを見る »

斯波氏頼

斯波 氏頼(しば うじより、生没年不詳)は南北朝時代の武将、守護大名。若狭守護。斯波高経の3男。兄に家長、氏経、弟に義将、義種。叔父には奥州斯波氏の祖となる家兼がいる。妻は佐々木道誉(京極高氏)の娘。官職は左近衛将監、左衛門佐。 足利一門の御曹司として、早くから左近将監、左衛門佐と官職に就き、若狭守護に任じられるなど重用され、幕府の実力者である佐々木道誉の婿にもなった。長兄家長は早くに戦死し、次兄氏経も九州探題に任命されたが九州攻略に失敗して失脚していたため、後に室町幕府執事(管領)が空席となった際、周囲よりその座に推されるなど斯波氏の後継者として目されていたようであるが、父高経は氏頼の弟である義将や義種を偏愛して氏頼を疎んじていたためこれを退けた。こうした父の仕打ちに世を儚んだ氏頼はまもなく出家し、近江に遁世したとされる。.

新しい!!: 斯波高経と斯波氏頼 · 続きを見る »

新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

新しい!!: 斯波高経と新人物往来社 · 続きを見る »

新田義顕

新田 義顕(にった よしあき)は、南北朝時代の武将。 新田義貞の長男。生母は諸説がある(安東入道聖秀の女、同族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤五郎重保(左衛門少尉)の女など)。幼名は小太郎(辰千代の説もある)。.

新しい!!: 斯波高経と新田義顕 · 続きを見る »

新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

新しい!!: 斯波高経と新田義貞 · 続きを見る »

文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 斯波高経と文和 · 続きを見る »

敦賀市

敦賀市(つるがし)は、福井県南西部(嶺南地方)の敦賀湾に面する市である。原子力発電所が多く立地する都市、昆布の加工地として知られている。.

新しい!!: 斯波高経と敦賀市 · 続きを見る »

12月25日 (旧暦)

旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 斯波高経と12月25日 (旧暦) · 続きを見る »

1305年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1305年 · 続きを見る »

1323年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1323年 · 続きを見る »

1333年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1333年 · 続きを見る »

1334年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1334年 · 続きを見る »

1336年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1336年 · 続きを見る »

1337年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1337年 · 続きを見る »

1338年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1338年 · 続きを見る »

1339年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1339年 · 続きを見る »

1340年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1340年 · 続きを見る »

1341年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1341年 · 続きを見る »

1342年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1342年 · 続きを見る »

1354年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1354年 · 続きを見る »

1355年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1355年 · 続きを見る »

1356年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1356年 · 続きを見る »

1358年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1358年 · 続きを見る »

1361年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1361年 · 続きを見る »

1362年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1362年 · 続きを見る »

1366年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1366年 · 続きを見る »

1367年

記載なし。

新しい!!: 斯波高経と1367年 · 続きを見る »

7月13日 (旧暦)

旧暦7月13日は旧暦7月の13日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 斯波高経と7月13日 (旧暦) · 続きを見る »

8月9日

8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。.

新しい!!: 斯波高経と8月9日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

足利高経

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »