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文芸協会

索引 文芸協会

文芸協会(ぶんげいきょうかい)は、坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体で、新劇運動の母体となった。 活動内容から、前期・後期に分けられている。.

43 関係: 坪内逍遥夏目漱石大隈重信寒山拾得小山内薫島村抱月帝国劇場中村吉蔵市川左團次市川左團次 (2代目)三四郎人形の家弘一ハムレットヴェニスの商人ヘンリック・イプセンアルト・ハイデルベルクオフィーリアジュリアス・シーザー (シェイクスピア)芸術座 (劇団)青鞜話劇自由劇場柳田泉松居松葉松井須磨子桐一葉歌舞伎座河竹繁俊澤田正二郎有楽座 (旧)春柳社新劇新国劇早稲田文学1902年1905年1906年1907年1909年1910年1911年1913年

坪内逍遥

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。.

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夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。 その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。 夏目漱石誕生之地碑.

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大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

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寒山拾得

寒山拾得(かんざん じっとく)は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧、寒山と拾得の伝承。またこれを題材とした以下の芸術・文芸・芸能作品。.

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小山内薫

小山内 薫(おさない かおる、1881年(明治14年)7月26日 - 1928年(昭和3年)12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家、演出家、批評家。日本の演劇界の革新にその半生を捧げた。.

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島村抱月

島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎。.

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帝国劇場

帝国劇場(ていこくげきじょう、英語:Imperial Theatre)は、東京都千代田区丸の内三丁目にある東宝の直営劇場である。帝劇(ていげき)の通称で知られる。.

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中村吉蔵

中村 吉蔵(なかむら きちぞう、1877年5月15日 - 1941年12月24日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 島根県津和野生まれ。大阪に出て為替貯金管理所に勤めるかたわら、雑誌へ小説を投稿する。23歳で上京し、早稲田大学文学科に入学。在学中から春雨と号して「無花果」など多くの小説を発表。1903年で卒業(27歳)、同年結婚。1906年からアメリカ、ドイツ等を外遊し、雑誌記者や日本人倶楽部の文書係などをしながら、演劇を研究する。イプセンの影響を受けた。1909年12月に帰国。1910年、新社会劇「牧師の家」を発表し、新社会劇団を主宰し上演。のち、島村抱月の藝術座に参加し、戯曲「剃刀」などを書く。1920年、史劇「井伊大老の死」を歌舞伎座で上演。同年イプセン会を主宰。早稲田大学教授に就任。 晩年は頭山満に親しんだ。1942年、「日本戯曲技巧論」で文学博士号を取得。.

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市川左團次

市川左團次(いちかわ さだんじ)は、歌舞伎役者の名跡。初代と二代目は明治座の座元もつとめた。屋号は高島屋。定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松皮菱に鬼鳶(まつかわびしに おにづた)。ただし代々の左團次は通常替紋の「松皮菱に鬼蔦」を使用している。.

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市川左團次 (2代目)

二代目 市川 左團次(にだいめ いちかわ さだんじ、1880年(明治13年)10月19日 - 1940年(昭和15年)2月23日)は、明治・大正・昭和に活躍し、歌舞伎の近代化に尽くした歌舞伎役者。屋号は高島屋、定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松皮菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳名に杏花・松莚。本名は高橋 榮次郎(たかはし えいじろう)。.

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三四郎

『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。 九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。「stray sheep」という随所に出てくる言葉が印象的な作品である。.

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人形の家

『人形の家』(にんぎょうのいえ、Et Dukkehjem)は、1879年にヘンリック・イプセンによって書かれた戯曲。同年、デンマーク王立劇場で上演された。弁護士ヘルメルの妻ノラ(ノーラ)を主人公とし、新たな時代の女性の姿を世に示した物語。全3幕。 世界的にイプセンの代表作とされている。この作品(あるいは前作の『社会の柱』)をもってイプセンの社会劇の始まりと見なすのが一般的であり、彼はこの後ほぼ2年に1作のペースで作品を書き上げることになる。しばしばフェミニズム運動の勃興とともに語られる作品であり、この作品の成功がイプセンを一躍世界的な劇作家とした。.

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弘一

弘一(こういつ、1880年10月23日—1942年10月13日)は、中華民国の詩人、禅僧、音楽教育者、芸術教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晩晴老人。仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。.

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ハムレット

舞台とされたデンマークのクロンボー城内に掲げられている「ハムレット」の石版(2005.08) 『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。 デンマーク王子ハムレットが、父を殺し母を奪い王位を簒奪した叔父を討ち、復讐を果たす。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。コールリッジによる「悩める知識人」像が一般的だが、近年では「行動人ハムレット」という解釈も有力である。 ハムレットの話は、同時代にトマス・キッドが『スペインの悲劇』という似た話を書いており、少なからずその影響を受けたといわれている。また、この話は北欧伝説が下敷きになっており、12世紀末にサクソ・グラマティクスが編纂した『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)に、モデルになったアムレート(Amleth)の武勇が伝えられている。.

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ヴェニスの商人

『ヴェニスの商人』(ヴェニスのしょうにん、)は、ウィリアム・シェイクスピアの喜劇、戯曲である。1594年から1597年の間に書かれたとされている。『ベニスの商人』と記される。「人肉抵當裁判」として紹介されたこともある。 タイトルの『ヴェニスの商人』とは有名なユダヤ人の金貸しシャイロックを指すのではなく、商人のことである。英語のmerchantというのは小売商のような「商人」ではなく、むしろ「貿易商」を意味する。貿易で栄えたヴェニス が舞台になっているのはそのためである。.

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ヘンリック・イプセン

ヘンリック(ヘンリク)・イプセン(Henrik Johan Ibsen、1828年3月20日 - 1906年5月23日)は、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と称される。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家とも言われる。 代表作には、『ブラン』『ペール・ギュント』(グリーグが後に劇音楽を作曲する)『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがある。自身はノルウェーを嫌い、長くドイツやイタリアで生活したため、ノルウェーの国民作家という意識は薄かったが、現在は国の象徴、そして世界史上最も重要な劇作家の一人として尊敬され、長らくノルウェーの最高額面の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれていた。.

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アルト・ハイデルベルク

『アルト・ハイデルベルク』をモチーフにしたポストカード。劇中の台詞が引用されている。 『アルト・ハイデルベルク』(Alt-Heidelberg) はドイツの作家・による5幕の戯曲である。フェルスター自身が1898年に発表した小説『カール・ハインリッヒ』(Karl Heinrich) を基にしており、1901年にベルリンで初演された。タイトルは「古き(良き)ハイデルベルク」の意。 ザクセンのカールブルク公国の公子、カール・ハインリッヒがハイデルベルク大学へ遊学して、このネッカー川に面した美しい町の下宿でケーティ (Käthie) と仲良くなり楽しい時を過ごすが、養父の死により大公に就くことになり、彼女と別れて故郷へ呼び戻され、その後再びハイデルベルクを訪問してケーティに再会するまでを描いている 。同様のテーマを扱った森鴎外の『舞姫』の暗いイメージとは正反対の、涙を誘いながらも比較的に明るい純愛ものである。 日本での初演は1912年に有楽座で文芸協会が行ない、松井須磨子がケーティ役であった。その後滝沢修、山本安英、杉村春子などが1924年、1926年、1934年に築地座、築地小劇場で出演している。1931年10月に宝塚少女歌劇団(現宝塚歌劇団)月組によって『ユングハイデルベルヒ』という題で上演が行われて、その後何度も宝塚少女歌劇団で上演される作品になった。1977年8月には日生劇場で『音楽劇 若きハイデルベルク』と題して中村勘九郎と大竹しのぶ主演で上演された。.

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オフィーリア

フィーリア()は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物である。デンマークの若い貴婦人で、ポローニアスの娘、レアティーズの妹、ハムレット王子の妃候補でもある。王妃ガートルードとならんで、この戯曲に登場する2人の主な女性キャラクターのうちの一人である。日本語ではオフェリア、オフェリヤなどと表記することもある。.

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ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)

1623年に発刊された『ジュリアス・シーザー』 『ジュリアス・シーザー』(英語:The Tragedy of Julius Caesar)は、ウィリアム・シェイクスピアによって書かれた政治劇・悲劇である。製作年は1599年と考えられている。ローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対する陰謀・暗殺とその死の余波が描かれている。ローマ史に基づいてシェイクスピアが書いた「ローマ劇」(『コリオレイナス』『アントニーとクレオパトラ』など)の一つである。 この劇においてシーザーは中心的人物ではない。3場面に登場するに過ぎず、第3幕の始めに死んでしまう。この劇の主人公はマーカス・ブルータスであり、彼の名誉欲・愛国心・友情の間の葛藤が描かれている。 多くのシェイクスピア評論家と歴史家が、この劇が王権の継承についての当時のイングランドの一般的な心配を反映していると考えている。すなわち、この作品が創作・上演された時期、イングランド女王エリザベス1世は、高齢でありながら、後継者を指名するのを拒否していた。そのため、彼女の死後、ローマと同様の内戦が起きるかもしれないという不安が持たれていた。.

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芸術座 (劇団)

芸術座(げいじゅつざ、旧字体:藝術座)はかつて日本に存在した劇団。1913年に島村抱月、松井須磨子を中心として結成された(1919年解散)。 のちに水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こした(第二次芸術座)。.

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青鞜

『青鞜』(せいとう)は、日本で1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、女性による月刊誌。主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝が中心だった。「文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい」との論もある。.

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話劇

話劇(わげき huaju)とは会話と自然な身体動作を基礎とする演劇である。日本の新劇に相当する。中国語の話劇は地域を限定しないが、日本で話劇という時は一般に中国の話劇を指す。中国では、話劇から派生した実験演劇やミュージカル(音楽劇)など現代演劇も分類の上では話劇に含めることがある。.

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自由劇場

自由劇場(じゆうげきじょう)は、作家・小山内薫と歌舞伎俳優・二代目市川左團次が始めた新劇運動である。1909年から1919年にかけて9回の公演(試演)を行った。 劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年2回の公演を目標に、会員制の組織とした。イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、ゴーリキーの『夜の宿』、チェーホフの『犬』などの翻訳劇、森鴎外・吉井勇・秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなり、当時の知識人に好評で迎えられた。.

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柳田泉

柳田 泉(やなぎだ いずみ、男性、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、明治文学研究者、翻訳家。 青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)出身。1918年に早稲田大学英文科卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。 関東大震災以後は明治文学を中心にした文芸史研究に専念、1924年には、吉野作造などの「明治文化研究会」に参加、資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1935年から母校早稲田で文学史を講じ、のち文学部教授となった。『明治文化全集』(日本評論社)や『明治文学全集』(筑摩書房)の編集にも参画、多数の巻を校訂した。内田魯庵『紙魚繁昌記』(現在は平凡社東洋文庫)など、多くの魯庵の著書校訂もしている。 太平洋戦争末期の空襲により、約1万5千冊の蔵書・資料を焼失したが、戦後も資料収集を続け、膨大な蔵書は没後早稲田大学図書館に寄贈され「柳田泉文庫」となった。 1969年、肺炎のため死去。.

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松居松葉

松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。.

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松井須磨子

松井 須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日) - 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優。本名、小林正子(こばやしまさこ)。.

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桐一葉

『桐一葉』(きりひとは)は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目。1894年(明治27年)11月から1895年(明治28年)9月にかけ『早稲田文学』に連載。1904年(明治37年)3月東京座初演。6幕16場。.

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歌舞伎座

歌舞伎座(かぶきざ)は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。 歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座、中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、p173。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある。 歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」が劇場を所有している。.

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河竹繁俊

河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年6月9日 - 1967年11月15日)は、日本の演劇学者。文学博士。旧姓は市村(いちむら)。.

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澤田正二郎

澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年(明治25年)5月27日 - 1929年(昭和4年)3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長をつとめ、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。.

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有楽座 (旧)

有楽座(ゆうらくざ)は、1908年(明治41年)12月1日に開場し、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡した、日本初の全席椅子席の洋風劇場。数寄屋橋の東北約150mにあった。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。.

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春柳社

春柳社(しゅんりゅうしゃ)は、1906年から1915年まで存在した演劇団体。辛亥革命以前の日本での活動時期を前期、革命後の中国での活動時期を後期とする。.

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新劇

新劇(しんげき)は、ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇を指す。旧劇(歌舞伎を指す)、新派(書生芝居の流れ)に対する言葉。当初翻訳劇を中心に始まり、歌舞伎や新派の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇を目指した。.

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新国劇

新国劇(しんこくげき)は、かつて存在した日本の劇団である''新国劇''、コトバンク、2015年5月29日閲覧。。「剣劇」を創出したことで知られる。.

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早稲田文学

『早稲田文学』(わせだぶんがく)は、早稲田大学文学部を中心にした文芸雑誌。1891年(明治24年)、坪内逍遥が創刊。第2次『早稲田文学』は自然主義文学の牙城として、新現実主義の『新思潮』、耽美派の『三田文学』とともに日本文学史上知られている。 休刊と復刊を繰り返しており、現在は第10次『早稲田文学』が2007年より不定期に刊行されている。また、フリーペーパー『WB』も全国で配布中である。.

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1902年

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1905年

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1906年

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1907年

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1909年

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1910年

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1911年

記載なし。

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1913年

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