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文室綿麻呂

索引 文室綿麻呂

文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ)は、平安時代前期の公卿。従四位下・三諸大原の長男。.

105 関係: 即位参議叙勲吉川弘文館坂上田村麻呂大同 (日本)大納言大舎人寮大蔵省大膳職天平神護天皇奈良時代宝賀寿男官位岩手県上奏上閉伊郡中務省中納言三山氏三諸大原下閉伊郡平城天皇平城宮平安京平安時代乗馬享年京職二戸郡延暦弘仁征夷大将軍侍従徴兵制度従三位従五位従四位俘囚志波城嵯峨天皇出羽国公卿兵士兵糧兵衛府兵部省前賢故実勲等...租税爾薩体村菊池容斎蝦夷征討青森県衛門府講談社講談社学術文庫近衛大将近衛府近衛兵胆沢城薬子の変閉伊郡蔵司長男陸奥国陸奥按察使東北地方桓武天皇森田悌正五位正四位朝廷朝臣文室宮田麻呂文室巻雄文室秋津文室正嗣文室氏文室海田麻呂日本後紀4月26日 (旧暦)6月8日765年792年795年796年799年801年803年806年807年808年809年810年811年812年813年814年816年817年818年823年 インデックスを展開 (55 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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叙勲

叙勲(じょくん)とは、勲位(勲等)・勲章を授けること。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坂上田村麻呂

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 坂上宝剣では坂家。.

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大同 (日本)

大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大舎人寮

大舎人寮(おおとねりりょう)は律令制において中務省に属する機関の一つである。律令制初期においては左右の大舎人寮が設定されていたが、大同3年(808年)に左大舎人寮と右大舎人寮が統合されて、大舎人寮となった。.

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大蔵省

旧大蔵省庁舎(現・財務省庁舎) 大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance, MOF)は、明治維新から2001年(平成13年)1月6日まで存在した日本の中央官庁である。後継官庁は財務省と金融庁。前近代の律令制による大蔵省も奈良時代の大宝律令から明治維新まで存続していたため、「大蔵省」という名称は1300年の長きにわたって用いられたことになる。.

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大膳職

大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ)は、日本の律令制において宮内省に属する官司。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。.

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天平神護

天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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宝賀寿男

宝賀 寿男(ほうが としお、「寶賀壽男」とも表記。1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚で、現在は弁護士。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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岩手県

岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市である。.

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上奏

上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。.

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上閉伊郡

岩手県上閉伊郡の範囲(緑:大槌町) 上閉伊郡(かみへいぐん)は、岩手県の郡。 以下の1町を含む。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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三山氏

三山氏(みやまし)は、日本の姓氏のひとつ。三山氏の名の由来については諸説あって定まらないが、各地の地名から起こったと考えられる。三山朝臣のほか下総国、美作国、武蔵国などにも存在する。.

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三諸大原

三諸 大原(みもろ の おおはら、生年不詳 - 大同元年11月9日(806年12月22日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。大納言・文室浄三の九男。.

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下閉伊郡

岩手県下閉伊郡の範囲(1.山田町 2.岩泉町 3.田野畑村 4.普代村) 下閉伊郡(しもへいぐん)は、岩手県の郡。 以下の2町2村を含む。.

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平城天皇

平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年旧8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年旧7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年旧3月17日(806年4月9日) - 大同4年旧4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。 桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。.

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平城宮

大極殿(復元) 平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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乗馬

乗馬(じょうば)は、広義には馬に乗る行為(騎乗)全般を狭義には近代馬術を指す。また乗用に用いられる馬(乗用馬)そのものを指す。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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二戸郡

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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弘仁

弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徴兵制度

徴兵制度(ちょうへいせいど)とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度である。徴兵制とも言い、国民国家や国民皆兵の思想とかかわりが深く、志願兵(募兵)制度の対義語である。 北アフリカ諸国の他、ベトナム、イスラエル、ウクライナ、キプロス、韓国、スイス、オーストリア等、CSTOに加盟しているアルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ロシアなどでは徴兵制が続いているが、冷戦終結後は、西側諸国ではフランス(2002年)、ドイツ(2011年)のように徴兵制度を廃止する国が増え、また、実施している国でも良心的兵役拒否した場合の代替服務を選択可能を導入している場合が大半である。 NATOに加盟している28か国を例にとると、90年代から00年代にかけて冷戦の終結に伴い次々と徴兵制を廃止し、2010年12月時点でNATO加盟国において徴兵制を採用している国はエストニア、トルコ、ギリシャ、デンマーク、ノルウェーの5か国にまで減少している。 徴兵制による国民皆兵武装を基盤として永世中立を掲げるスイスとオーストリアでは国民投票で徴兵制の廃止が否決され、2013年に徴兵制を廃止したウクライナでは、翌年発生したロシアのクリミア侵攻の後に徴兵制が復活するなど、国是や国家を取り巻く情勢によって左右されている状況にある。また、2010年7月に廃止していたスウェーデンでもウクライナと同様に、ロシアの脅威を理由に、2018年1月から新たに女性も対象にした徴兵制が復活することになった AFP(2017年3月3日)2017年3月3日閲覧。 有事の際にかぎり徴兵制を認めている国もあり、常備軍を持たないコスタリカでは、有事の際に徴兵制を実施できることが憲法に明記されている。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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俘囚

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。.

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志波城

志波城(しわじょう/しわのき)は、現在の岩手県盛岡市中太田・下太田にあった日本の古代城柵。名称は「斯波城」とも。国の史跡に指定されている。 現在は盛岡市によって「志波城古代公園」として整備され、外郭南門(がいかくなんもん)築地塀(ついじべい)、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されている。一時は鎮守府将軍が在する鎮守府が置かれていた可能性がある。.

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嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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兵士

兵士(へいし)は、古代から現代まで国家の軍隊の軍人や、それに準ずる戦闘組織の構成員であり、将官や将校といった指揮官からの命令に従って任務をこなす。個人や部族社会の戦士とは異なり、公然と戦闘のために組織に属している場合に使われる。 日本の古代、律令制においては、中国の唐の兵制を参考に編成され、人員を年齢別に記載した戸籍である正丁から一定の割合で徴発された。兵士は軍団に所属し、有事の際の出兵や辺境防備のための防人、衛士として各地へ派遣された。792年(延暦11年)に一部を除いて原則的に廃止され、任務は健児に継承される。 日本語の兵士は近代軍隊における、上位の下士官、士官に対する兵卒を指すことが多い。あるいは朝鮮人日本兵を指すときのように、軍人と軍属の総称として用いられることもあり、いずれにせよ制度的な用語ではない。士官と下士官兵を併せて将兵、将士と呼ぶことがある。.

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兵糧

兵糧(ひょうろう、兵粮、軍糧とも)とは、戦争時における軍隊の食糧のこと。日本においては主食である米について論じられる事が多く、兵糧米(ひょうろうまい・兵粮米)などとも呼ばれている。米の他にも塩や大豆(馬の食糧(馬糧)としても重要視された)なども含まれている。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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兵部省

兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.

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前賢故実

前賢故實(ぜんけんこじつ)は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。菊池容斎筆。上古から南北朝時代(後亀山天皇の代)までの皇族、忠臣、烈婦など585人を時代を追って肖像化し、漢文で略伝を付す。日本の歴史上の人物を視覚化したものとしては画期的であり、明治中期頃から国家意識の高まりにつれ盛んに描かれた歴史画において、バイブルとしての役割を果たした。.

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勲等

勲等(くんとう)とは勲功に対して授与されたものである。日本においては律令制度が出来た当時は勲位と称し、勲一等以下勲十二等までの12等級あった。また、位階勲等という様に叙勲は位階に応じて行われた。 以下、日本の勲等について詳述する。.

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勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.

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租税

租税(そぜい、税(ぜい)、tax)とは、国や地方公共団体(政府等)が、公共財や公共サービスの経費として、法令の定めに基づいて国民や住民に負担を求める金銭である。現代社会においてほとんどの国が物納や労働ではなく「お金(おかね、その国で使用されている通貨)」による納税方法を採用しており、日本では税金(ぜいきん)と呼ばれている。 税制(ぜいせい)とは、「租税制度」を指す用語であり、国家の運営に係る歳入歳出(財政)の根幹、また政治経済(経世済民)そのものである。商売や契約・取引等の行為及び所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税(かぜい)、課税された税を納めることを納税(のうぜい)、徴収することを徴税(ちょうぜい)、それらについての事務を税務(ぜいむ)という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税、逆に増額することを増税という。.

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爾薩体村

薩体村(にさったいむら)は、昭和30年(1955年)まで岩手県二戸郡の北東部に存在していた村。現在の二戸市仁左平・白鳥・堀野にあたる。.

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菊池容斎

菊池 容斎(きくち ようさい、天明8年11月1日(1788年11月28日) - 明治11年(1878年)6月16日)は、幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。.

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蝦夷征討

蝦夷征討(えみしせいとう)とは、日本の古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には蝦夷征伐と呼ばれた。.

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青森県

青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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近衛兵

近衛兵(このえへい)とは、君主を警衛する君主直属の軍人または軍団をいう。近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな名称がある。 君主制が廃止された国でも、歴史的経緯などから近衛兵や親衛隊などの名称が存続した例がある。ただし日本語では、「近衛」とは主に世襲の元首を警衛するものを指し、世襲ではない元首を警衛するものには通常この語を充てない。 法治国家が発展した現代では軍と警察の職務分離が進んでおり、平時の警護は警察などの法執行機関や国家憲兵が担当し、軍は儀仗や海外訪問や緊急時の警護を担当する国が多い。 本記事では、君主を警衛する近衛兵のほかにも、そこから派生した制度などについても紹介する。また過去においては兵権と警察権の区別が必ずしも明確でないことから、軍に属する兵卒以外についての記述も含まれる。.

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胆沢城

胆沢城(いさわじょう/いさわのき)は、陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。 坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。.

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薬子の変

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。 なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。.

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閉伊郡

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蔵司

蔵司(くらのつかさ)は、日本の律令官制における役所の一つ。後宮十二司の一つであり、令の制度ではその中の最上位であった。女官のみによって構成される。 蔵司の職掌は、神璽、関契(三関の割符)、天皇・皇后の衣服を管理することであった。准位は、尚蔵(定員1名)が正三位、典蔵(定員2名)が従四位、掌蔵(定員4名)が従七位である。この他女孺10名で構成されていた。皇位の象徴である神璽や、兵乱時に重要な関契を管理する職務の重要性から、令の制度では後宮十二司の中でもっとも高い地位を与えられていた。 しかし、天皇に近侍し、内外の奏請と伝宣を行う内侍司の権威が次第に上昇し、蔵司の職務も内侍司によって次第に代行されるようになった。奈良時代から平安時代初期にかけては、尚侍が尚蔵を兼ねる例も多い。また三関は平安時代に入ると機能が低下して廃絶され、平安時代中期以後、神鏡は内侍所のある温明殿に、神璽・神剣は天皇の側近く清涼殿に置かれた。そして、蔵司は村上天皇時代にいたって完全に見えなくなり、内侍司に吸収された。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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陸奥按察使

奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職である。しばしば陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち、みちのくいではのあぜち)とも言われた。720年頃に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した。他の地方の按察使が任命されなくなってからも継続したが、817年以降は中央の顕官の兼職となり、形骸化した。令外官で、属官に記事があった。官位相当は721年に正五位上、812年から従四位下と定められたが、実際の位階は従五位上から正二位までの幅があった。.

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東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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森田悌

森田 悌(もりた てい、1941年4月12日 - )は、日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。文学博士。 1965年、東京大学文学部国史学科を卒業。1967年、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

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文室宮田麻呂

文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。大納言・文室浄三の孫。備前守・三諸大原の六男。官位は従五位上、筑前守。.

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文室巻雄

文室 巻雄(ふんや の まきお)は、平安時代前期の貴族。中納言・文室綿麻呂の九男。.

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文室秋津

文室 秋津(ふんや の あきつ、延暦6年(787年) - 承和10年3月2日(843年4月5日))は、平安時代初期の公卿。大納言・文室浄三の孫。備前守・三諸大原の四男。官位は正四位下・参議。.

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文室正嗣

文室 正嗣(ふんや の まさつぐ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。備前守・三諸大原の子。官位は従五位下・周防守。.

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文室氏

文室氏(ふんやうじ、文屋氏)は、「文室(文屋)」を氏の名とする氏族。天武天皇の皇子長皇子の後裔氏族で、姓は真人。.

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文室海田麻呂

文室 海田麻呂(ふんや の うみたまろ、延暦9年(790年) - 天安2年1月24日(858年2月11日))は、平安時代前期の貴族。従四位下・三諸大原の五男。官位は従五位上・石見守。.

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日本後紀

『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(現存10巻)。.

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4月26日 (旧暦)

旧暦4月26日は旧暦4月の26日目である。六曜は大安である。.

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6月8日

6月8日(ろくがつようか)はグレゴリオ暦で年始から159日目(閏年では160日目)にあたり、年末まではあと206日ある。誕生花はクチナシ、ジャスミン、タイサンボクなどとされる。.

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765年

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792年

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795年

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796年

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799年

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801年

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803年

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806年

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807年

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808年

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809年

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810年

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811年

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812年

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813年

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814年

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816年

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817年

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818年

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823年

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