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教派神道

索引 教派神道

教派神道(きょうはしんとう)とは神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)に代表される神道系新宗教教団のことである。幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された14の神道系教団を指す(のちに1団体が離脱し13団体となる)。.

104 関係: 十三宗五十六派千家尊福吉田家大本大教宣布大教院天理教太政官布告・太政官達学問学生寮実行教宍野半宣教使宮司宗教法人法富士信仰富士講小谷三志小滝透山岳信仰三条西季知平山省斎幕末久我建通井上順孝仏教廃仏毀釈伊勢神宮御嶽教復古神道信仰信教の自由國學院國學院大學ワールドメイト内務卿内務省 (日本)出雲大社出雲大社教創元社国体皇學館大学皇典講究所神宮大麻神宮教神仏分離神理教神社本庁神祇官神習教...神道神道大教神道事務局神道修成派神道指令祭主祭政一致禊教稲葉正邦第一書房田中義能白川伯王家食行身禄飯田町角行 (富士講)麹町区黒住教近衛忠房金光教連合国軍最高司令官総司令部折口信夫柳田國男東京大学東京大神宮東京府深見東州有栖川宮幟仁親王明治浄土真宗浅間神社新宗教政教分離原則教導職教派神道扶桑教1867年1868年1875年1876年1882年1884年1886年1894年1895年1899年1900年1908年1912年1934年1956年1959年1970年1976年1994年 インデックスを展開 (54 もっと) »

十三宗五十六派

十三宗五十六派(じゅうさんしゅうごじゅうろっぱ)とは、宗教団体法が施行される、1940年(昭和15年)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。 「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。 ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。 本項では、宗旨と宗派を区別するため、宗旨を見出し表示・強調表示とする。また、当時の名称に現名称を補足する形で記述する。.

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千家尊福

千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日(1845年9月7日) - 大正7年(1918年)1月3日)は、日本の宗教家、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。 出雲大社宮司、神道大社教管長(初代)、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。.

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吉田家

吉田家(よしだけ)は、卜部氏の流れを汲む公家。家格は半家。.

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大本

大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団である。俗に「大本教」と呼称されることもあるが、正確には“教”を付けない。1980年からの内部分裂により、2グループが分かれ、それぞれ宗教法人・愛善苑、大本信徒連合会として各々のスタンスで正統性を主張している。愛善苑は出口王仁三郎のみを教主としている出口三平ほか『新宗教時代〈1〉』大蔵出版 55-59p島田裕巳『現代にっぽん新宗教百科』 柏書房 90-95p。.

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大教宣布

宣布大教詔(せんぷたいきょうのみことのり)は、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書。天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。 明治維新後、復古神道を奉じる平田派の国学者を中心に祭政一致論が高まり、明治2年7月8日に神祇官内に宣教使が設置され、宣教長官に中山忠能・同次官に福羽美静が任命された。福羽は神祇官が神祇省と改められた後には事実上の最高責任者である神祇大輔を務めている。 続いて、この詔書が出され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出された。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出している。だが、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって神道国教化の動きは不振が続き、明治5年3月14日(1872年4月21日)の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって大教宣布は見直しを迫られることとなり、大教宣布の路線の再建・強化を目指した大教院が翌年に設置されることとなる。.

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大教院

大教院(だいきょういん)は、大教宣布運動の高揚を図るため教部省が1872年に神仏合併を行う教導職の道場として設置した半官半民の中央機関である。.

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天理教

天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。本稿では、狭義の天理教を中心に述べる。.

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太政官布告・太政官達

太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。.

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学問

学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。英語ではscience(s)であり、science(s)は普通、科学と訳す。なお、学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。.

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学生寮

学生寮(がくせいりょう、)とは、学校に学ぶ生徒・学生・児童を受け入れるための寮。.

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実行教

實行教(じっこうきょう)は、富士信仰の富士講のひとつである不二道に起源をもつ教派神道の一派である。.

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宍野半

宍野 半(ししの なかば、1844年10月20日(弘化元年9月9日) - 1884年(明治17年)5月13日)は、富士講諸派を結集した教派神道の一派である扶桑教の初代管長で、扶桑教の設立に尽くした日本の宗教家、国学者。 薩摩国隈之城(現鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の郷士の家に生まれた。25歳で平田鐵胤に国学を学ぶ。 教部省に勤める。後に大教院の大講義も務めた。駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社の宮司、山梨県北口の浅間神社の社司を兼務。富士講諸派を結集し扶桑教を設立。1879年(明治12年)には神道事務局会計課長。 皇典講究所創立にも尽力し、「皇典講究所創設告文」を連名で著した。.

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宣教使

宣教使(せんきょうし)は、日本の明治時代の官庁の一つである。 明治2年7月8日、大教の宣布・宣教を目的として設置され、長官、次官、講義生、史生、判官、主典、宣教使その他の職員が定められた。 同年10月9日、神祇官の所管となった。 明治3年4月5日、正・権の大・中・少宣教使が、正・権の大・中・少博士と改称された。 明治5年3月14日、廃止された。 宣教使の官員には国学者や儒学者が採用された。しかしながら、下記の事情で全くと言っていいほど成果が上がらなかった。.

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宮司

宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.

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宗教法人法

宗教法人法(しゅうきょうほうじんほう、昭和26年4月3日法律第126号)は、信教の自由を尊重する目的で、宗教団体に法人格を与えること(第4条)に関する法律。最終改正は2011年(平成23年)6月24日法律第74号。法人に関する一般法である民法に対する特別法である。.

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富士信仰

浅間大菩薩の御在所とされた人穴の上部にある石碑(人穴富士講遺跡) 富士信仰(ふじしんこう)は、富士山の神に対する神祇信仰。山岳信仰の1つ。.

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富士講

富士講(ふじこう)、浅間講(せんげんこう).

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小谷三志

小谷 三志(こだに(こたに) さんし、明和2年12月25日(1766年2月4日) - 天保12年9月17日(1841年10月31日))は、日本の宗教家、社会教育家。幕末期に富士講の一派「不二孝(不二道)」を庶民に広めた。本名は小谷庄兵衛。道号(行名)は祿行三志。鳩ヶ谷出身であることから鳩谷三志などとも呼ばれた。.

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小滝透

小滝 透(こたき とおる、1948年 - )は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。第2回・第9回毎日21世紀賞受賞。 国際情勢に加え、文化・宗教・歴史などを扱う。.

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山岳信仰

星ヶ森の石鎚山の逢拝所(国の名勝) 山岳信仰(さんがくしんこう)とは、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。.

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三条西季知

三条西 季知(さんじょうにし すえとも)は、江戸時代後期から明治期の公卿。 安政5年(1858年)、権中納言となり重んじられるが、文久3年(1863年)公武合体派の策略により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。その後さらに大宰府まで走り、やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年(1868年)には皇太后宮権大夫となった。 明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。 三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業とともに明治天皇の歌道師範となった。季知自身は三条西家分家当主の高松公祐に師事した。 また、三条西家は香道の宗匠家としても知られ、季知自身も公家文化を担うこの時代の文化人の一人であった。 すえとも Category:幕末の公家 Category:明治時代の人物 Category:江戸時代の歌人 Category:祭主 Category:日本の華族 Category:山城国の人物 Category:1811年生 Category:1880年没.

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平山省斎

平山 省斎(ひらやま せいさい、文化12年2月19日(1815年3月19日) - 明治23年(1890年)5月22日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣(旗本)、明治時代の神道家。本姓は黒岡。名は敬忠(よしただ)、字は安民、通称は謙二郎。号は省斎、素山道人。官途は従五位下図書頭。子に城之助、養嗣子に平山成信。 陸奥国三春藩士黒岡活円斎の子。20歳の時江戸に出て叔父で奥祐筆組頭の竹村七佐衛門宅に寄宿し安積艮斎に師事し、漢学や国学を学んだ。嘉永3年(1850年)小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぐ。翌年徒目付となる。安政元年(1854年)ペリーが再来航した時応接掛となった。この時、米艦から出て川崎近辺を徘徊していた乗員ビッティンガーを追跡しこれを送還した。また同年松前蝦夷地用掛堀利煕に従って陸奥国三厩に滞在の折りに、急遽箱館へ出張して、遊歩区域協定を迫るペリーの主張に対して不当してこれを退けた。翌安政2年(1855年)下田表御用を賞されて、金2枚および時服2襲を受く。安政4年(1857年)蕃書調所設置の勤労を賞された。同年、貿易事項取調のため長崎奉行水野忠徳らに従い長崎へと赴いて日露追加条約を審議した。だが、将軍継嗣問題では一橋派とされた為、安政5年(1858年)安政の大獄で免職となり、差控を命ぜられた。しかし、慶応元年(1865年)二ノ丸留守居より目付となり、翌慶応2年(1866年)第二次長州征討において老中小笠原長行の小倉口陣営にあって、小倉藩からの援兵の要求を時期はすでに逸したとして却下したため、小倉城落城を招いてしまう。のちに将軍徳川慶喜の側近としてこれを補佐した。将軍名代として熱海に避寒中のフランス仏公使ロッシュを訪ね大坂城中における援幕単独会見の要求および徳川昭武のパリ万博派遣を告げた。慶応3年(1867年)若年寄並兼帯外国惣奉行となるが、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで幕軍が惨敗した後、薩長勢力に対し強硬論を主張したために免職となり逼塞の処分を受けてしまう。 明治維新後は慶喜に従って静岡に移ったが、その後は神道家として活動を開始、明治5年(1872年)に教導職となり、明治8年(1875年)、日枝神社祠官、翌年には氷川神社大宮司となった。明治12年(1879年)に大成教会を結集して教長となった。明治15年(1882年)敬神愛国を唱える神道大成派として独立し、初代管長となった。また御岳教の別派独立に際してその管長を兼ねた。著書に「平山省斎遺稿抄」がある。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久我建通

久我 建通(こが たけみち、文化12年2月1日〈1815年3月11日〉- 明治36年〈1903年〉9月26日)とは、江戸時代の公家。 翠君、素堂と号す。実父は関白・一条忠良、実母は熊本藩第8代藩主細川斉茲の娘・富子。養父は内大臣・久我通明、養母は熊本藩第7代藩主細川治年の娘・就。正室は関白鷹司政通の娘・麗子。子に権大納言・久我通久、愛宕通旭、北畠通城(妻は石山基正の娘・正子、正子の外祖父は澤為量)、加賀藩第14代藩主前田慶寧継室・通子、福井藩第17代藩主・松平茂昭継室・幸子。.

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井上順孝

井上 順孝(いのうえ のぶたか、1948年『図解雑学 神道』 232頁。 - )は日本の歴史学者・宗教学者。国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター長。宗教文化教育センター長。國學院大學客員教授。専門は宗教社会学。新宗教や教派神道を研究。日本宗教学会元会長。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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廃仏毀釈

廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。.

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伊勢神宮

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.

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御嶽教

御嶽教(おんたけきょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。創始者は下山応助とされている。 『宗教年鑑 平成29年版』における信者数は、56,300人。長野県木曽郡木曽町に御嶽登拝の安全を祈願するための神殿である木曽大教殿がある。 御嶽山を信仰根本道場としている。 江戸時代に覚明行者が黒沢口登山道、普寛行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝する信仰者が集団結合して1882年に立教独立。 経典は「御嶽教経典」と、準経典として「御嶽教神拝詞集」と「御嶽教信仰規範」がある。 祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神としている。 修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。.

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復古神道

平田篤胤 復古神道(ふっこしんとう)は、江戸時代、国学者たちによって提唱された神道『古神道は甦る』 102-104頁。。「古神道」、「古道」、「皇学」、「本教」などともいう。.

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信仰

信仰(しんこう、英語 faith)とは、.

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信教の自由

信教の自由(しんきょうのじゆう)とは、信仰の自由などから構成される宗教に関する人権。信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。 西欧では、教会権力からの自由を求める帰結として確立された。世界人権宣言や市民的及び政治的権利に関する国際規約の共に第18条で規定される。日本国憲法においては20条である。.

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國學院

國學院(こくがくいん).

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國學院大學

本ヲ立ツ 日本人の拠って立つ基礎を研究し確立する。.

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ワールドメイト

ワールドメイトは、深見東州が教祖をつとめる神道系の宗教法人。1984年にコスモコアという名称で創設された後、コスモメイトやパワフルコスモメイトを経て1994年ワールドメイトという名称になった。2012年に宗教法人として認証された。御親元素大御神(みおやもとすおおみかみ(別名⦿の神、スの神)などを祀る。本部を静岡県伊豆の国市に置く。橘カオルが開祖だが後に深見が教祖的な位置付けとなった山口廣「コスモメイト」『消費者法ニュース』19号1994年4月発行 p10~11。.

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内務卿

内務卿(ないむきょう、Lords of Home Affairs)は、明治時代の太政官制における事実上の首相。旧内務省を指揮監督した。後身は内務大臣(ないむだいじん、Ministers of Home Affairs)。.

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内務省 (日本)

内務省(ないむしょう、Home Ministry)は、1873年(明治6年)11月10日に設置され、1947年(昭和22年)12月31日に廃止された日本の中央官庁。地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政の大半を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。.

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出雲大社

出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。.

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出雲大社教

出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1873年(明治6年)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一。.

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創元社

創元社(そうげんしゃ)は、日本の出版社。大阪市に本社を置き、主に心理学、歴史学の書籍を出版している。 海外推理小説、SF小説の出版などで知られる東京創元社は、1954年にのれん分けで独立し別会社となったもの。.

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国体

国体(こくたい、旧字体: 國體)とは、八木秀次によれば“ある国の基礎的な政治の原則”。事実上、日本の事象に特化した政治思想用語であり、特に「天皇を中心とした秩序(政体)」を意味する語とされている。そのため、外国語においても固有名詞扱いで "Kokutai" と表記される。.

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皇學館大学

明治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿革の項を参照)、大教宣布や近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇學館の源流である『三重県教育史 第1巻』第3章 近代教育の創始 第3節 創設期の中学校、p.

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皇典講究所

皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)は、1882年に明治政府が東京に設立した神職の中央機関であり、神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担った。1946年に宗教法人神社本庁の設立ともに解散し、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社本庁へ統合した。.

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神宮大麻

宮大麻 神宮大麻(じんぐうたいま、正確には「おおぬさ」)とは、祓い具である祓い串の御真(ぎょしん)を清浄な和紙で包んだ伊勢神宮の神札(おふだ)である。 伊勢神宮の御師(おんし)が、頒布した御祓(おはらい)大麻が起源である。これはお祓いをつとめた祓串を箱に入れ配ったものである。やがて伊勢講などの講を組織し頒布された。御師時代には、箱に祓い串を入れたもの、あるいは祓い串を剣型のお札で包んだものを頒布した。明治時代の変革を経て、御璽(ぎょじ)が押され神宮大麻となった。その後も、神体である御真(ぎょしん)として包まれている。明治時代になると、国家神道の形成により御師の制度は停止され、伊勢講から伊勢神宮が組織した神宮教から全国に頒布された。神宮大麻は明治時代から現在まですべて一貫して伊勢神宮内で奉製されており、頒布は神宮教ののちに財団法人神宮奉賛会から、そののちに神社本庁から頒布される。 1873年(明治6年)の伊勢神宮少宮司浦田長民の説明によれば、罪を払い除けする神具である大麻(おおぬさ)の頒布である。1916年(大正5年)の神宮神部署の説明では、起源は修祓(しゅはつ)にあり、今では国家国民に対し祈願した行事によるものであるかあら、神体(しんたい)や分霊(わけみたま)ではなく、崇敬するための標章であるといった議論が行われた。こうした議論は、当時の様々な信仰を包摂しようと試みたものだが、神に供物として献じられ、御霊が付着し神体となり、祓い清めの祈りでもあるから祓い具でもある。どれかを択一すべきではないとされる。.

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神宮教

宮教(じんぐうきょう)とは、伊勢信仰である伊勢講を母体とした教派神道の一派である。正式には1882年に教派神道の一派となり1899年に神宮奉斎会(じんぐうほうさいかい)へと発展改組した。.

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神仏分離

仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。 その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。.

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神理教

教(しんりきょう)とは、教祖である佐野経彦(巫部経彦)が、家伝の巫部神道(かんなぎべしんとう)を元に結成した神道十三派のうちの一派である。教祖の佐野経彦の出身地である九州、福岡県の小倉を中心に古神道神理教の教えを展開した。.

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神社本庁

本庁(じんじゃほんちょう)は、神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人である。 庁が付くが、役所ではなく、民間の宗教法人である。.

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神祇官

祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ).

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神習教

習教(しんしゅうきょう)は、美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の神道家芳村正秉が1857年(安政4年)に立教し明治初期の神官教導職分離の時期に組織した神道教派で教派神道十三派の一つ。東京都世田谷区に法人の教庁を置く。 当時の神社や神道のあり方に対して問題意識を持っていた正秉が本来の神道の姿に復することを目的として形成され、神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としている。天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを所依の教典とする。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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神道大教

道大教(しんとうたいきょう)は、教派神道の一つ。 明治政府が明治5年に神道の総本山とすべく設けた大教院が元であり、神道十三派と呼ばれる各教派神道の母体となった。初代管長は、稲葉正邦である。 祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命、天照大神、天神八百萬神、地祇八百萬神。.

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神道事務局

道事務局(しんとうじむきょく)は、明治時代の宗教行政で、全国の神道諸派を結集させた団体であり、神官教導職と神道系宗教の両教職者を集めた神道の半公的機関、半ば、神道の公的中央機関である。明治政府は神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成を行った。1884年に神道本局と改編した。 1875年3月に創設。4月、教部省の神仏合同布教廃止とともに、5月に大教院の解散が近づくと、引き継ぎの管轄機関として、大教院が解散させられる前に神道界側の自立を目的として設けられたのが神道事務局である。 信者数など一定の条件を満たした団体は、教派神道の一派として独立することができた。 総裁に有栖川宮幟仁親王、副総裁には岩下方平が就任した。1882年11月、神道事務局生徒寮を独立させて、皇典講究所を開設した。 神道系の諸教派を統轄的にまとめていた一派独立しえない旧教導職の当事務局が、教派神道十三派の一として教派化し神道本局が組織された。1886年以降、神道金光教会など、後の教派神道教団が公認の為に傘下に入り、1886年1月に神道本局は「神道」の名称で独立教派となった。1940年、現在名の神道大教に改称している。.

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神道修成派

道修成派(しんとうしゅうせいは)は、東京都杉並区松庵に法人本部(教庁)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。 天之御中主神・高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐大神、天照大御神、天神地祇八百万神を総称した修成大神を祭神としている。 教義は儒教の影響を受けている。信者数は約1万1千人。.

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神道指令

道指令(しんとうしれい)とは、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448) 国立国会図書館デジタルコレクション の通称である。 覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。 「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。.

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祭主

祭主(さいしゅ)は、伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職である。「まつりのつかさ」とも読む。.

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祭政一致

祭政一致(さいせいいっち)とは、祭祀と政治とが一元化、一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。 祭政一致の体制の下では、政治的指導者が同時に宗教的指導者を兼ねている。その思想並びに政治形態はアニミズム宗教で統治される古代社会に多い、日本でも古代の神権政治、琉球王国の統治体制に遡ることができる。.

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禊教

教(みそぎきょう)は、禅、観相、医学、伯家神道を学んだ井上正鐵の教えを継承する教派神道の一派である。文部科学大臣所轄包括宗教法人。.

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稲葉正邦

葉 正邦(いなば まさくに)は、幕末の大名・老中・京都所司代で、山城淀藩12代目(最後)の藩主。正成系稲葉家宗家16代。.

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第一書房

一書房(だいいちしょぼう)は、東京都文京区にある出版社。主に宗教(仏教、神道)、歴史、考古学、人類学、民俗学などを中心とした学術図書を刊行しているが、琉球など南島の文化に関するものも多い。またこれらの分野での古書の買取と販売も行っている。.

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田中義能

中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。.

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白川伯王家

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。.

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食行身禄

富士講の記念碑 食行 身禄(じきぎょう みろく 寛文11年1月17日(1671年2月26日) - 享保18年7月13日(1733年8月22日))は、日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤伊兵衛(いとう いへい)。伊勢国一志郡美杉村 川上(現三重県津市)出身。伊藤食行とも。 川上の生家には身禄の産湯があり子孫により石碑が建てられている。.

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飯田町

飯田町(いいだまち、いいだちょう)。.

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角行 (富士講)

人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)。角行はここで修行したとされる。 角行(かくぎょう、天文10年1月15日(1541年2月10日) - 正保3年6月3日(1646年7月15日))は、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。.

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麹町区

麹町区(こうじまちく)は、かつて東京都にあった区。現在の千代田区。.

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黒住教

黒住教(くろずみきょう)は、岡山県岡山市にある今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。 現在の教主は七代目の黒住宗道が務める。.

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近衛忠房

近衛 忠房(このえ ただふさ、天保9年8月6日(1838年9月24日)- 明治6年(1873年)7月16日)は、幕末期の公卿。近衛忠熙の四男。母は島津斉興の養女(実妹)・興子とされているが、庶子との説もある。正室は島津斉彬の養女・貞姫(実父は島津久長)。子に篤麿(長男)、英麿(次男、津軽承昭養子)、泰子(長女、徳川家達夫人)。号は光山。官位は従一位・左大臣。.

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金光教

金光教(こんこうきょう)は、日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。.

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連合国軍最高司令官総司令部

連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人が多数で、他にイギリス軍人やオーストラリア軍人らで構成されていた。 極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官 Supreme Commander for the Allied Powers; SCAP)。日本では、総司令部 (General Headquarters) の頭字語であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。支配ではなくポツダム宣言の執行が本来の役目である。結果として、連合国軍占領下の日本は対外関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本の移動はSCAP の許可によってのみ行われた。.

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折口信夫

折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。 歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。.

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柳田國男

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた。帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いた牧田茂『柳田國男』(中公新書、1972年)。 「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。.

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東京大学

記載なし。

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東京大神宮

東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社全国神社名鑑上、314-315頁『◇東京大神宮(飯田橋大神宮)/由緒』。.

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東京府

東京府庁(東京市役所との合同庁舎) 東京府(とうきょうふ)は、1868年から1943年までの間に存在していた日本の府県の一つである。現在の東京都の前身に当たる。府庁所在地は東京市。.

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深見東州

深見 東州(ふかみ とうしゅう、本名:半田 晴久(はんだ はるひさ)1951年3月18日 - )は、日本の宗教家、神道系の宗教法人ワールドメイトの教祖。実業家、経営コンサルタントでもある。.

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有栖川宮幟仁親王

有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう、文化9年1月5日(1812年2月17日) - 明治19年(1886年1月24日)は、幕末・明治期の日本の皇族。有栖川宮韶仁親王の第一王子。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

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浅間神社

富士山(祭祀対象) 浅間神社(せんげんじんじゃ/あさまじんじゃ)は、「浅間」を社名とする神社。主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社である。.

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新宗教

新宗教(しんしゅうきょう、New religious movement)とは、伝統宗教と比べて比較的成立時期が新しい宗教のこと。国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。新興宗教(しんこうしゅうきょう)とも呼ばれる。 日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後~平成期)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。 実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。また、伝統宗教と比べて比較的新しいというだけで、江戸時代に起源をもつところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している団体も多い。 2000年代以後の現在、日本において一定規模で持続的に宗教活動を展開している新宗教の教団は、350~400教団ほどと考えられ石井研士『プレステップ宗教学』弘文堂(2010)p130、新宗教の信者は、日本人のおよそ1割を占めると推定される。 宗教が平和運動や福祉、ボランティア活動と関わる際に、新宗教は重要な役割を果たしてきた井上順孝『人はなぜ新宗教に魅かれるのか』三笠書房(2009)p18。一方、現代日本においてはオウム真理教事件などの負の側面、新宗教と政教分離について、特に創価学会と公明党や幸福の科学と幸福実現党に関する議論が強調されることも多い。.

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政教分離原則

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す『宗教の事典』、山折哲雄、2012年、朝倉書店、p862。。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。 国家により、日本などに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年小原克博「日本人の知らないの多様性」『論座』2001年10月号 などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は不可分である。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。.

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教導職

教導職(きょうどうしょく)とは、明治初期の宗教政策で大教宣布(神道国教化)運動のために設置された宗教官吏である。明治5年(1872年)から明治17年(1884年)まで存続した。大教宣布運動は困難を極め、政府が政教分離の方針を取ったために廃止された。教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども教導職に任命された。.

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教派神道

教派神道(きょうはしんとう)とは神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)に代表される神道系新宗教教団のことである。幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された14の神道系教団を指す(のちに1団体が離脱し13団体となる)。.

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扶桑教

扶桑教(ふそうきょう)は、散在する富士講を結集し1873年(明治6年)に設立した富士一山講社に起源をもつ教派神道の一派である。.

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1867年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1882年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1886年

記載なし。

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1894年

記載なし。

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1895年

記載なし。

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1899年

記載なし。

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1900年

19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.

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1908年

記載なし。

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1912年

記載なし。

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1934年

記載なし。

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1956年

記載なし。

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1959年

記載なし。

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1970年

記載なし。

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1976年

記載なし。

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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