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扶余豊璋

索引 扶余豊璋

扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが、『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある鈴木靖民「七世紀中葉の百済の政変」『日本の古代国家の形成と東アジア』吉川弘文館 2011年 ISBN 9784642024846。 倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。.

49 関係: 劉仁軌天智天皇太安万侶孝徳天皇宝蔵王安曇比羅夫嶺南 (中国)万葉集三国史記周留城カバネ唐の高句麗出兵唐・新羅の同盟倭国続日本紀義慈王狭井檳榔白雉白村江の戦い百済百済史年表百済王善光百済王氏青木和夫高句麗鬼室福信資治通鑑黒歯常之鈴木靖民舒明天皇難波宮渡来人持統天皇朝倉橘広庭宮朴市秦田来津流罪新唐書新羅斉明天皇日本書紀旧唐書631年642年650年653年660年662年668年

劉仁軌

劉 仁軌(りゅう じんき、ピンイン:Liú Rénguĭ、602年 - 685年3月2日)は、中国唐代の武将である。字は正則。楽城文献公。汴州尉氏出身。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太安万侶

太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(ユリウス暦723年8月11日(12日)))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。.

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孝徳天皇

孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.

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宝蔵王

宝蔵王(ほうぞうおう、生年不詳 - 682年)は、高句麗の第28代・最後の王(在位:642年 - 668年)。姓は高、諱は臧、または寶臧。先代の栄留王の弟の大陽王の子で、642年に栄留王を弑逆した淵蓋蘇文によって王位に即けられた。彼を最後に高句麗は滅亡したため諡されず、諱のまま宝蔵王と呼ばれる。子には、男福・徳男・任武・徳武・連などの名が文献にみられる。.

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安曇比羅夫

安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ、生年不詳- 663年?(天智2年))は、7世紀中頃の外交官・武将。氏は安曇氏だが安曇山背と表記されるものもある。姓は連。名は比良夫とも書く。 舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。 663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。.

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嶺南 (中国)

華南/嶺南の諸都市。なお福建省(かつての閩)は、多くの場合嶺南には含まれない 嶺南(れいなん、リンナン、Lingnan)は中国の南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省、広西チワン族自治区、海南省の全域と、湖南省、江西省の一部にあたる。部分的に華南と重なっている。 かつて中国がベトナムの北部一帯を支配し、紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期には、ベトナム北部も嶺南に含まれていたが、今日使われる「嶺南」の概念からはベトナムは除かれる。また、「嶺南」という語が単に広東・広西・海南の三省区のみを指して使われ、江西省と湖南省の五嶺山脈以南の部分が除外される場合もある。 嶺南は「嶺外」、「嶺表」とも称される。「表」とは「外」を意味し、嶺表は中国中心部から見て五嶺よりも外側という意味になる。嶺南も、中原を中心とした地域名称である。 嶺南は中国の他の地域とは五嶺で隔絶され、気候や環境も異なっており、現在でも他の地域とは若干異なった文化や習慣を有している。.

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万葉集

元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.

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三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。.

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周留城

周留城(スルじょう、주류성)、支羅城(シラじょう、지라성)または州柔城(スヌじょう)は朝鮮半島の現在の忠清南道にあった百済の城。百済が新羅と唐により滅ぼされた後、百済の将軍の鬼室福信と僧の道琛(どうちん)が百済復興運動の拠点とした。白村江の戦いでの陸戦の主戦場となった。 その位置については多くの説があるが、白村江との関係で、錦江下流北側の山岳地帯にあったと推定されている。 Category:大韓民国の城 Category:白村江の戦い Category:唐朝 Category:新羅 Category:百済.

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カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唐の高句麗出兵

唐の高句麗出兵(とうのこうくりしゅっぺい)は、644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。攻められた高句麗軍は最初の十数年は善戦し、淵蓋蘇文などの活躍により太宗によるを阻んだ。663年に百済が滅亡すると、唐は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。内紛と離反で弱体化していた高句麗は、王都平壌が攻略されて滅亡した。 唐の高句麗出兵は三国時代の終わりを位置づけ、朝鮮半島は統一新羅の時代となった。また、この戦いで手に入れた領土を巡る唐・新羅戦争を引き起こした。.

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唐・新羅の同盟

唐・新羅の同盟(とう・しらぎのどうめい)は、660年に成立した唐と新羅との軍事協力としての同盟関係である。 また、韓国ブリタニカ百科事典では648年に成立した唐の新羅に対する援助約定と、その後の軍事協力を「羅唐同盟」と表記する 。 642年、高句麗と百済の連合軍が新羅を攻撃し、新羅の西部と北部の領土を奪った。643年、新羅の善徳女王は唐に援軍を求めたが、唐から女王を廃し唐の帝室から新王を立てることを求められた。647年、親唐派の毗曇が善徳女王に対し反乱を起こしたが、鎮圧された。 648年、善徳女王を継いだ真徳女王は、金春秋(後の武烈王)を唐の太宗に遣わし、援助の取付に成功した。新羅は、649年に唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、650年に独自の年号を廃して唐の年号を用いて、唐の完全な属国となり、651年に官制も唐制に倣ったものに切り替えた。 655年、高句麗、靺鞨、百済の連合軍が新羅北部の33城を奪ったため、真徳女王を継いだ武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃した。659年にも百済が新羅を攻めたため、唐に救助を求めた。660年、唐と新羅の同盟は成立し、平壌以南を新羅、以北を唐が領有する約束がかわされた。唐・新羅両軍は連合して、百済へ侵攻して滅ぼした。この時、唐は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問(:ko:김인문)を神丘道行軍副大摠管とし、武烈王を嵎夷道行軍摠管としている。新羅部隊を含む唐軍は、続けて高句麗も攻撃した(唐の高句麗出兵)が、このときは失敗に終わった。 武烈王の後は文武王が継ぎ、663年、唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と倭国の連合軍を破った。さらに668年には、唐・新羅連合軍は、ついに高句麗を滅ぼすことに成功した。しかし、唐は新羅を廃して唐の一部と成し朝鮮半島全体を支配下に置こうとした為、新羅は反乱を起こした。.

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倭国

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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義慈王

義慈王(ぎじおう、599年 - 660年)は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)で、諱は義慈。第30代の武王の嫡男である。母は不詳。(新羅の真平王の娘 善花公主という説、百済貴族出身の沙宅王后という説がある。)『旧唐書』などには扶余義慈として現れる。 高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝、泰、隆、演、豊璋、勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。.

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狭井檳榔

狭井 檳榔(さい の あじまさ、生没年不詳)は飛鳥時代の豪族。姓は連。.

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白雉

白雉(はくち)は、日本の元号のひとつで大化の後。西暦で650年から654年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。.

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白村江の戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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百済史年表

済史年表(くだらしねんぴょう)は、朝鮮半島地域の三国時代における百済王国の主要年表である。百済の起源は謎に包まれており、ここでは近肖古王以後を取り扱う。.

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百済王善光

済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう、生年不詳 - 持統天皇7年(693年)正月)は、日本の飛鳥時代の百済王族。名は禅広王・余禅広とも記される。百済の第31代国王・義慈王の子。冠位は正広肆、贈正広参。.

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百済王氏

済王氏(くだらのこにきしし)は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。.

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青木和夫

青木 和夫(あおき かずお、1926年5月31日 - 2009年8月15日)は、日本古代史学者、お茶の水女子大学名誉教授。 東京生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。石母田正の弟子。お茶の水女子大学教授、1989年定年退官、名誉教授、放送大学教授。1993年『日本律令国家論考』で角川源義賞受賞。息子は、青山学院大学教授で中国史を担当する青木敦。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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鬼室福信

室 福信(きしつ ふくしん、生年不詳 - 663年)は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の甥。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。鬼室氏の祖となる。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。扶余福信。 義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗沘城(現・忠清南道扶余郡)の奪還を試みた。この頃、義慈王の王子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。.

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資治通鑑

『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.

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黒歯常之

黒歯 常之(こくし じょうし、? - 689年(永昌元年)11月26日)は、百済の将軍。百済滅亡後には百済復興を掲げて反唐運動を率いた将軍の一人である。だが、復興の果たせないことを悟り、唐に投降し、唐の将軍として主に対突厥戦線で活躍した。.

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鈴木靖民

鈴木 靖民(すずき やすたみ、1941年7月30日 - )は、日本の歴史学者(日本古代史、東北アジア古代史)、國學院大學名誉教授。横浜市歴史博物館館長。.

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舒明天皇

舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.

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難波宮

難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。.

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渡来人

渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域 - 山東半島、揚子江流域、満洲 - 朝鮮半島など様々である。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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朝倉橘広庭宮

朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)は、飛鳥時代に斉明天皇が営んだ宮殿。.

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朴市秦田来津

朴市秦 田来津(えち の はた の たくつ、生年不詳 - 天智天皇2年8月28日(663年10月5日))は、飛鳥時代の人物。氏は秦、朴市とも記される。姓は造。大花上・秦河勝の子とする系図がある「湯次誓願寺系譜伝」(鈴木真年『百家系図』巻第63所収)。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

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631年

記載なし。

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642年

記載なし。

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650年

記載なし。

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653年

記載なし。

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660年

記載なし。

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662年

記載なし。

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668年

記載なし。

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