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御側御用取次

索引 御側御用取次

御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は、将軍側近職である。.

96 関係: 加納久周加納久通側用人側衆取次大岡忠光大久保一翁天明宝暦安永 (元号)寛延寛政小笠原信喜小笠原胤次小笠原政登中奥平岡道弘幕臣久貝正典享保延享御庭番徳川吉宗土岐朝旨元文石河政平稲葉正明紀州藩用人田沼意致田沼意次申次目安箱跡部良弼薬師寺元真若年寄老中林忠英松平康郷 (久松松平家)正徳 (日本)水野忠友江戸城江戸幕府本郷泰固有馬氏倫明和文化 (元号)1716年1717年...1719年1735年1736年1745年1746年1751年1760年1761年1766年1767年1768年1769年1771年1773年1781年1782年1786年1787年1791年1795年1797年1804年1817年1821年1825年1837年1838年1841年1843年1845年1847年1849年1853年1855年1857年1858年1859年1860年1862年1863年1864年1865年1866年1868年18年1年 インデックスを展開 (46 もっと) »

加納久周

加納 久周(かのう ひさのり)は、江戸時代後期の大名。伊勢八田藩第3代藩主。上総一宮藩加納家3代。伏見奉行などを務めた。.

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加納久通

加納 久通(かのう ひさみち)は、江戸時代中期の大名。初代八田藩主。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の紀州時代からの側近。通称は孫市、角兵衛。官途名は近江守、遠江守。一宮藩加納家初代。紀州藩士から幕臣となり、御側御用取次から西ノ丸若年寄まで出世した。.

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側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

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側衆

側衆(そばしゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。御側衆(おそばしゅう)とも呼ばれた。.

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取次

取次(とりつぎ).

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大岡忠光

大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。.

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大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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安永 (元号)

安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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寛延

寛延(かんえん)は日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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小笠原信喜

小笠原 信喜(おがさわら のぶよし、1718年(享保3年) - 1791年5月15日(寛政3年4月13日))は、江戸時代中期の旗本。 紀州藩士・大井政周の子で、紀州藩士から幕臣に転じた信盛の養子となる。通称は三次郎。妻は島田政之の娘、後妻は旗本大岡忠利の娘(大岡忠光の姉妹)。子に信賢、信成、娘(山口直良の妻)、娘(中坊広看の妻)、娘(花房正応の妻、後に有馬則明の妻)、娘(戸田忠皎婚約者、後に駒井信貫の妻)、養女(大岡忠喜の娘、小笠原政恒の妻)がいる。 1734年(享保19年)、養父の遺領である安房国安房郡・平郡800石を相続し、小普請に列する。1735年4月11日(享保20年3月19日)、将軍・徳川吉宗に拝謁する。1737年(元文2年)、江戸城西の丸の小納戸に任じられ、1738年(元文3年)には西の丸の小姓に移り、のち吉宗の鷹狩に供奉し、1740年(元文5年)に従五位下、若狭守に叙任される。1745年(延享2年)本丸に勤仕し、1747年3月25日(延享4年2月15日)には小姓の組頭番頭格となり、安房国長狭郡・上総国天羽郡に1200石を加増される。1751年9月7日(宝暦元年(7月18日)より御側御用取次に任じられ、1760年(宝暦10年)徳川家重の将軍辞職に伴い二の丸に移る。 1761年(宝暦11年)、家重の逝去により本丸に復帰し、1775年3月15日(安永4年2月14日)に任務を辞し菊間の広縁に移り、のち西の丸の御側となり、諸事を執啓する。1777年(安永6年)、安房郡・平郡に1000石を加増される。1779年(安永8年)、将軍継承予定者であった徳川家基が夭逝し、本丸に移る。1781年(天明元年)に西の丸に移り、諸事を執啓する。1786年(天明5年)、安房郡・平郡と上野国甘楽郡に2000石を加増される。1787年(天明6年)、将軍・徳川家治の50歳の祝賀において伽羅1箱を恩賜され、同年本丸に復帰し、御側御用取次に再任され諸事を執啓した。また同年に急逝した家治遺品の美濃兼宣の日本刀を賜る。1788年(天明7年)、安房郡・平郡・上野国新田郡・勢多郡に2000石を加増される。1789年(天明8年)、老体ながら将軍鷹狩に供奉し、杖の使用を許される。1789年(寛政元年)、徳川家斉の女子生誕の蟇目役を務め、時服6領・白銀50枚を賜る。1791年(寛政3年)、享年74にて没する。 法名は日省。家督は次男の信成が相続した。.

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小笠原胤次

小笠原 胤次(おがさわら たねつぐ、1657年(明暦3年) - 1718年3月15日(享保3年2月14日))は、江戸時代中期の紀州藩士、江戸幕府旗本。義頼系高天神小笠原氏当主。 紀州藩士・小笠原胤治の婿養子で旗本・松平定之(久松松平氏)の五男。母は松平氏家臣奥平貞由の娘。通称は長六、長左衛門、主膳。子に長澄、茂武、長寛、娘(松平定相の妻)、娘(駒井親行の養女、小菅正親の妻)らがいる。 1716年(享保元年)、藩主・徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸に移り、幕臣として仕え、同年5月25日より御側御用取次に任ぜられ、伊勢国安芸郡・河曲郡の内に2500石を拝領し、従五位下、肥後守に叙任される。1717年(享保2年)、常陸国筑波郡・河内郡に2000石を加増される。同年4月に致仕し、備前恒弘の日本刀を献上する。1718年(享保3年)、享年62で没する。法名は道浄。品川の東海寺に葬られた。家督は次男の茂武が相続した。.

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小笠原政登

小笠原 政登(おがさわら まさなり、1685年(貞享2年) - 1769年10月5日(明和6年9月6日))は、江戸時代中期の紀州藩士、江戸幕府旗本。清広系高天神小笠原氏当主。 紀州藩士・小笠原政尚の子。初名は政庸(まさつね)。通称は壱岐助、玄蕃、弥之助、善五右衛門、平右衛門。妻は紀州藩士成田氏義の娘。子に政方、政尹(政尚養子)、長儀(小笠原長賢養子)、政孝、娘(戸田定候の妻)、養女(小笠原政方の娘、松平常唯の妻)らがいる。 藩主・徳川吉宗の小姓を務め、1716年(享保元年)に吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任するに伴い、江戸に移り幕臣として仕える。同年安房国朝夷郡・安房郡の内に1000石を拝領し、従五位下、石見守(致仕後は安房守)に叙任される。1725年(享保10年)、上総国望陀郡・市原郡に500石を加増される。1728年(享保13年)、吉宗の日光社参に供奉し、1729年(享保14年)、新番の頭役となる。1732年(享保17年)小姓組の番頭となり、奥の務めを兼ねる。1735年12月6日(享保20年10月22日)より御側御用取次に任ぜられ、下野国都賀郡に1000石を加増される。1736年(元文元年)より取次の諸事を執啓する。 1745年(延享2年)、吉宗の将軍辞職に伴い、江戸城西の丸に移り、1749年(寛延2年)下総国香取郡に3000石を加増され、都賀郡の知行分は香取郡に差し替えられる。1751年(寛延4年)吉宗の逝去により、菊間の広縁に移るとともに、長年の勤仕を労され、時服5領を賜る。1755年3月31日(宝暦5年2月19日)に致仕し、隠棲料として、廩米300俵を賜る。1769年(明和6年)、享年85にて没する。法名は高然。駒込の蓮光寺に葬られた。家督は長男の政方が相続した。 1746年(延享3年)に中風を患い後遺症が残った吉宗の症状や介護の様子を『吉宗公御一代記』全64冊に1747年(延享4年)より1750年(寛延3年)にわたって書き記した。.

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中奥

中奥(なかおく)は、日本の室町時代に陸奥国の一部を指した地理区分である。おおよそ現在の岩手県の中部から南部にあたる。 中奥は南北朝、室町時代の文書に見えるが、範囲をはっきり確定できるような史料はない。諸文書からの推測では、平安時代の奥六郡にあたる胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の6郡に磐井郡を加えた地方であるらしい。場合によっては閉伊郡まで含めて中奥とした。.

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平岡道弘

平岡 道弘(ひらおか みちひろ)は、江戸時代後期から末期の旗本、大名。安房船形藩主。.

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幕臣

幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。 一般的には、江戸時代において徳川家の臣下のうち、1万石未満の禄を与えられた旗本および御家人と呼ばれる身分の者のことを指す。 彼ら旗本・御家人は、所領を与えられた者でも領地への下向を行わずに江戸に常時居住し(交代寄合として大名同様参勤交代を行うものもいた)、自身の知行高に定められた軍役を果たす準備を満たして将軍家の常備直轄軍事力としての役割を果たす一方で、江戸幕府の各種の役職(軍職の番方や吏務職の役方)を果たし、幕府の軍人・官僚として仕えた。 幕臣は幕藩体制のもとで特権を認められる世襲の武士身分であったが、江戸時代中頃から経済的に窮乏するようになり、下層の御家人の間では御家人株の売買による身分の流動が見られた。.

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久貝正典

久貝 正典(くがい まさのり、文化3年(1806年) - 慶応元年6月14日(1865年7月15日))は、幕末の江戸幕府旗本。旗本久貝正満の子。通称・甚三郎、官位は因幡守、河内守、遠江守。養翠と号した。正室、継室とも有馬誉純の娘。子に久貝正章、林忠交正室。弟に安政の大獄の時京都町奉行だった小笠原長常がいる。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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延享

延享(えんきょう)は日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。.

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御庭番

御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。 諜報活動といっても、実際には時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察したりしていた程度だといわれている。その実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえるが、一般にはいわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇や時代小説などではそのような描写が数多くなされている。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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土岐朝旨

土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎『新訂寛政重修諸家譜』巻5(1964年)。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐氏の一族。 土岐朝貞の3男で、深津定種の養子である深津盛徳の3男。母は水野守鑑の娘。正室は小長谷時懋の娘。子に朝昌、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)に土岐朝堯の末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1400石を加増された。以後も加増が続き、最終的に家禄は7000石となった。天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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石河政平

石河 政平(いしこ まさひら)は、江戸時代の旗本。.

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(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。.

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稲葉正明

葉 正明(いなば まさあき/まさあきら)は、江戸時代中期から後期の旗本。のちに安房館山藩の初代藩主。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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用人

人(ようにん)は、江戸時代の武家の職制のひとつで、主君の用向きを家中に伝達して、庶務を司ることを主たる役目とし、有能な者から選ばれることが多かった。御用人(ごようにん)とも。.

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田沼意致

沼 意致(たぬま おきむね、寛保元年(1741年) - 寛政8年6月25日(1796年7月29日))は、江戸時代中期の幕臣(旗本)。田沼意誠の子。妻は能勢頼忠の養女、後妻は伊丹直宥の娘。子に田沼意定、娘(稲葉正武室、のち土方義苗室)がいる。田沼意次は父方の伯父にあたる。官位は従五位下能登守。 1774年(安永3年)父の家督を継ぎ、将軍徳川家治の子の徳川家基について、西丸目付となる。1779年(安永7年)に一橋家家老に就任する。徳川家斉の将軍就任に力を尽くし、1781年(天明元年)に夭逝した家基に代わり家斉が家治の世子となると、ほぼ同時の閏5月19日に意致は一橋家家老から小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなった。 しかし1787年(天明7年)、家斉の将軍就任後に田沼意次が失脚し、江戸における天明の打ち壊しを契機に田沼派が離縁や義絶より離脱したり、排除された。この政局の中で意致も1787年(天明7年)5月28日に御用御取次を罷免されて菊の間縁詰となった。意致は一度は側衆の任を解かれたが再登用され、その後の辞意も慰留されている。.

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田沼意次

沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。.

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申次

申次(もうしつぎ)とは、奏者(そうじゃ/そうしゃ)とも呼ばれ、主君に奏事伝達を行う役目を担った役職、あるいは奏事伝達行為そのものを「申次」と呼ぶ。.

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目安箱

安箱(めやすばこ)は施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言の投書を集めるために設置した箱、及びその制度の事である。.

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跡部良弼

跡部 良弼(あとべ よしすけ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。肥前唐津藩主水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟。通称は季十郎・大膳。官位は従五位下山城守。信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守に遷任した。.

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薬師寺元真

薬師寺 元真(やくしじ もとざね、生没年不詳)は、江戸時代末期の旗本。官途は筑前守。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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林忠英

林 忠英(はやし ただふさ)は、江戸時代後期の旗本、譜代大名。将軍徳川家斉の寵臣として若年寄にすすみ、上総貝淵藩の初代藩主となった。.

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松平康郷 (久松松平家)

松平 康郷(まつだいら やすさと、1693年(元禄6年) - 1789年7月5日(寛政元年6月13日))は江戸時代の旗本。 伊勢長島藩第2代藩主松平忠充の五男。母は側室。官位は従五位下、伊勢守、安房守、豊前守、因幡守、中務少輔。初名は尚慶(なおよし)。子に松平康眞、水野勝羨、松平郷至、最上郷倍(最上義郷養子)、戸田氏永ら。 元禄15年(1702年)8月21日、父の改易に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の康顕が信濃国佐久郡5,000石(下県知行所)を、康郷も同地に1,000石を賜り、各々寄合に列する。 元禄16年(1703年)3月28日、将軍徳川綱吉に拝謁する。正徳2年(1712年)、康顕の養子となり、自身の1,000石は収公されたが、正徳3年(1713年)2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5,000石を相続し、同4月1日、改めて将軍徳川家継に拝謁する。 享保元年(1716年)12月19日、中奥の御小姓、享保9年(1724年)閏4月7日、御小姓番頭となる。享保10年(1725年)から翌年にかけて2度、将軍徳川吉宗の下総小金原での鷹狩に随行し、享保11年(1726年)5月28日、書院番頭に移る。享保15年(1730年)1月11日、大番頭となる。 元文4年(1739年)9月6日から寛延4年(1751年)3月25日まで駿府城代を務めた後、江戸城西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。宝暦10年(1760年)、将軍徳川家治が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。宝暦12年(1762年)12月25日、家治次男の徳川貞次郎誕生の時、時服6領と白銀50枚を賜わる。 明和2年(1765年)1月28日、下総国飯笹6000石(下総国香取郡、上総国埴生郡、同長柄郡、武蔵国秩父郡)に加増転封となる。 安永元年(1772年)7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また天明6年(1786年)家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。 寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。法名は道仙。橋場の総泉寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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水野忠友

水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、老中。三河大浜藩主、駿河沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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本郷泰固

本郷 泰固(ほんごう やすかた、生没年未詳)は、江戸時代後期(幕末)の旗本。一時は大名(駿河国川成島藩主)にもなった。江戸幕府の若年寄。従五位下、丹後守。.

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有馬氏倫

有馬 氏倫(ありま うじのり)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗に紀州時代から側近として仕え、伊勢西条藩の初代藩主となった。氏倫系有馬家初代。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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1716年

記載なし。

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1717年

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1719年

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1735年

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1736年

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1745年

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1746年

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1751年

記載なし。

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1760年

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1761年

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1766年

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1767年

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1768年

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1769年

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1771年

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1773年

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1781年

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1782年

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1786年

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1787年

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1791年

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1795年

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1797年

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1804年

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1817年

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1821年

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1825年

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1837年

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1838年

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1841年

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1843年

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1845年

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1847年

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1849年

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1853年

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1855年

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1857年

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1858年

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1859年

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1860年

記載なし。

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1862年

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1863年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1865年

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1866年

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1868年

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18年

記載なし。

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1年

1年は、西暦(ユリウス暦)による、平年(※)。ディオニュシウス・エクシグウスが西暦の起点(紀元)とした年である。西暦元年という場合、西暦1年のことである。紀元1年とも呼ぶ。 (※)ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。 なお、西暦1年(紀元1年)の前年を、通常は「紀元前1年」と呼ぶ。ただし、天文学やISO 8601(日付と時刻の表記に関する国際規格)では「西暦0年」としている。詳細は、「0年」を参照のこと。.

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