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後三国時代

索引 後三国時代

後三国時代(ごさんごくじだい、892年 - 936年)は、朝鮮史の時代区分の一つ。892年に農民の甄萱が挙兵し、新羅王族の弓裔が泰封を建国することによって弱体化していた新羅が分裂してから、936年に高麗が朝鮮半島を再統一するまでの期間を言う。.

27 関係: 南北国時代太祖 (高麗王)三国史記三国遺事弓裔後高句麗元号甄萱高麗恵恭王朝鮮の歴史朝鮮半島朴彦昌新羅景徳王780年891年892年898年900年901年904年911年918年935年936年9世紀

南北国時代

南北国時代(なんぼくこくじだい、)は、主に韓国で用いられる新しい歴史用語で、朝鮮史における統一新羅(南)と渤海(北)の並立時代を指す。北朝鮮も同様に渤海を自国史に組み込むが、「南北国時代」なる用語は使わない。 この用語は渤海を韓国の自民族史に組み込む意図で用いられており、渤海領土を継承する中国やロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に、中国では中国社会科学院を中心に、古朝鮮・高句麗・扶余・渤海まで歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であり「渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」と見ており、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と激しく対立している。 なお、渤海を朝鮮史に組み込まない中国や日本等では、三国統一後の時代を統一新羅時代(统一新罗时代)と称している。.

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太祖 (高麗王)

太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。.

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三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。.

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三国遺事

『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。 朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった郷歌(きょうか、ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。.

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弓裔

弓裔(きゅうえい)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。姓は金、僧号は善宗。隻眼であったことから一目大王との別称もある。 専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。.

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後高句麗

後高句麗(ごこうくり/こうこくくり、899年 - 918年)は、後三国時代、新羅で叛乱を起こした弓裔が901年に高句麗の復興を唱えて、国号を高句麗と定めたことにちなむが、挙兵から滅亡までの弓裔政権全体を指すことが多い。 弓裔は、899年の挙兵当時、自分が新羅第48代景文王の庶子であることを自称し、901年には、開城に遷都して国号を高句麗と定めた。904年には正式な国号を摩震(摩訶震旦の略)に改め、年号を武泰と定めて国家体制を整備する。更に905年には鉄円(江原道鉄原郡)に遷都し、911年には国号を泰封に改め、年号を水徳万歳と定めた。 後高句麗は、独自の年号や官制を定めるなどし、新羅や後百済に対して優勢を占めており、弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとしたが、しだいに暴君化して部下の反発を買うようになり、918年に最も有力な部下であった王建の革命により王位を奪われて逃亡中に殺された。後高句麗は消滅したが、王建が名づけた国号「高麗」は高句麗の別称であり(正式名称ともいう)、高麗は高句麗の再興を目指す後高句麗の後継国家と言える。ただし、矢木毅は、王建は朝鮮を統一するためには女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために高句麗の継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけでなく渤海人や女真人にも受け継がれていた。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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甄萱

萱(けん けん、견훤、キョン・フォン)は、後三国時代の群雄の一人で、後百済の始祖。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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恵恭王

恵恭王(けいきょうおう、758年 - 780年)は新羅の第36代の王(在位: 765年 - 780年)であり、姓は金、諱は乾運。先代の景徳王の嫡男であり、母は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。王妃は2人あって、先妃は伊飡(2等官)の金維誠の娘の新宝王后、次妃は伊飡の金璋の娘。760年7月に太子に立てられており、765年6月の先王の死去に伴い王位に就いた。即位時の年齢は8歳であり、太后が摂政となった。在位中に貴族の内乱が頻発し、王自身も乱の中で殺害されるに至った。武烈王系の王統は恵恭王までで途絶え、次の宣徳王以降を新羅の下代という。.

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朝鮮の歴史

朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朴彦昌

朴彦昌(박언창、? - 929年)は新羅の54代王の景明王の5王子。君号沙伐大君(朝鮮語:사벌대군)。 景明王元年(917年),本国の滅亡后,自らは後沙伐王と称したがまもなく病没した,建都沙伐州,929年敗死。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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景徳王

景徳王(けいとくおう、? - 765年)は、新羅の第35代の王(在位:742年 – 765年)で、姓は金、諱は憲英。先代の孝成王の同母弟であり、父は第33代聖徳王、母は伊飡(2等官)の金順元の娘の炤徳王后。王妃は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。孝成王に子がなかったために739年5月に太子に立てられており、742年5月に孝成王の死去に伴い王位に就いた。.

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780年

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891年

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892年

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898年

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900年

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901年

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904年

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911年

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918年

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935年

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936年

記載なし。

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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