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征韓論

索引 征韓論

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)。 西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。.

81 関係: 古事記台湾出兵吉岡弘毅吉田松陰吉野誠士族反乱大久保利通外務省宮古島島民遭難事件宗義達安政五カ国条約対馬府中藩尊王攘夷岩倉使節団岩倉具視島田昌和三韓三条実美丙寅洋擾幕末広州市佐田白茅佐賀の乱佐藤誠朗征夷大将軍後藤象二郎リチャード・アンダーソンアジア歴史資料センタージェネラル・シャーマン号事件八戸事件副島種臣勝海舟国学国立公文書館留守政府花房義質鎖国遠山茂樹 (日本史家)西南戦争西郷隆盛鈴木年基興宣大院君間部詮勝開国藤村道生自由民権運動釜山広域市李氏朝鮮板垣退助森山茂...橋本左内武力水戸学江華島事件江藤新平江戸時代渋沢栄一朝鮮朝鮮半島朝鮮通信使木戸孝允明治明治3年明治5年明治天皇明治六年政変明治維新日清戦争日朝修好条規日本日本国大君日本国王日本書紀攘夷論1870年1872年1873年1874年1875年1877年 インデックスを展開 (31 もっと) »

古事記

真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本 古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。.

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台湾出兵

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への出兵である。.

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吉岡弘毅

吉岡 弘毅(よしおか こうき、1847年7月8日(弘化4年5月26日) - 1932年(昭和7年)9月12日)は日本の外交官・キリスト者(長老派教会牧師)。外務権少丞として明治初期の日朝交渉に当たり、征韓論に反対した。美作国(後の岡山県)の出身。.

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吉田松陰

吉田松陰山河襟帯詩碑、京都府立図書館前、京都市左京区 吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。.

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吉野誠

吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 現役時代は阪神タイガース・オリックス・バファローズ・福岡ソフトバンクホークスでプレー。2014年からは阪神のスカウトを務めている。.

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士族反乱

士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。.

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大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。.

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外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称:MOFA)は、日本の行政機関の一つである。 外務省設置法第3条により、「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」を任務とする。.

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宮古島島民遭難事件

宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する。 日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。.

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宗義達

宗 義達(そう よしあきら、1847年12月13日〈旧暦:弘化4年11月6日〉 - 1902年5月25日)は、対馬府中藩の第16代(最後)の藩主。明治維新後は、初代当主・宗重尚より1字を取って宗 重正(しげまさ)と改名した。.

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安政五カ国条約

安政五カ国条約 安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ条約の総称。安政の仮条約(あんせいのかりじょうやく)ともいう。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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岩倉使節団

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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島田昌和

島田 昌和(しまだ まさかず、1961年 - )は、日本の経営学者、博士(経営学)。 経営史において渋沢栄一の研究に業績を発表している。学校法人文京学園理事長でもある。.

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三韓

2世紀頃の三韓諸国周辺。 4世紀頃の三韓諸国周辺。 三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。衛氏朝鮮の「辰国」である。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属した。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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丙寅洋擾

丙寅洋擾(へいいんようじょう、병인양요、ピョンイニャンヨ、)とは、1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦い。丙寅については、干支による紀年法を参照。 他のアジア諸国と同じく李氏朝鮮においても近代化は遅れており、近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。こうした孤立路線は10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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広州市

広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.

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佐田白茅

佐田 白茅(さだ はくぼう、天保3年12月10日(1833年1月30日) - 明治40年(1907年)10月4日)は、江戸時代後期の久留米藩士、明治時代初期の外交官である。初期の朝鮮との国交交渉に関与し、のち征韓論を唱えた人物として知られる。.

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佐賀の乱

佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。.

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佐藤誠朗

佐藤 誠朗(さとう しげろう、昭和6年(1931年)10月3日 - 平成6年(1994年)4月4日)は、日本の歴史学者。山形県出身。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。.

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リチャード・アンダーソン

リチャード・アンダーソン(Richard Andersson, 1972年3月28日 - )は、スウェーデンスコーネ県イースタッド出身のキーボディスト。主にヘヴィメタル、特にネオクラシカルメタルで活動する。鍵盤魔人と呼ばれる事がある。身長202cm。.

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アジア歴史資料センター

アジア歴史資料センター(アジアれきししりょうセンター、)は、日本の国の機関が保管するアジア近隣諸国との関係に関わる歴史資料を提供する電子資料センター。インターネットを通じ明治期から第二次世界大戦終結までの期間に関する情報提供を行っており、日本の国立公文書館によって運営されている。略称は「アジ歴」。アジア諸国との相互理解と相互信頼の構築、および他国と比べて遅れている歴史記録保存・公開を進める、といった目的を有している。これらの歴史記録は、例えば日本の近現代史に関する研究資料、近隣諸国との対話材料などに利用することが可能である。 2006年10月時点の公開画像は約1,270万画像であり、目録として85万3,000件のデータベースが公開されていた。アジア歴史資料センターによれば、毎年約15万件から20万件、画像数にして200万~300万画像ほどの資料が毎年追加公開されており、2011年4月の時点では、約2,246万画像、162万件の目録データを提供している。2016年3月末時点では、2,985万画像、206万件のデータを公開している。またデータ更新は四半期ごとを目処としている。 収録対象となっているのは、それぞれ日本の国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所戦史研究センターが保管するアジア歴史資料であり、デジタル化に応じて順次公開されている。センターでは、これらの公的機関が所蔵する資料は2,800万画像を越えると予測している。 アジア歴史資料センターの公開資料へのアクセスは、インターネットを利用して誰でも可能である。旧センター内では閲覧室で端末を用いた閲覧も可能だったが、事務所移転にともない、インターネット公開という特殊性から閲覧室は廃止された。画像はDjVu、JPEG 2000の2形式により保存・公開されていたが、PDF・JPEG方式へと移行した。.

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ジェネラル・シャーマン号事件

ェネラル・シャーマン号事件(ジェネラル・シャーマンごうじけん、)は、1866年(李氏朝鮮暦:高宗3年)にアメリカ合衆国の帆船ジェネラル・シャーマン号(1986年刊行の平凡社編『朝鮮を知る事典』では「武装商船」であるとする)が李氏朝鮮後期の朝鮮半島・羊角島に来航した際に起きた一連の事件。、アメリカ人乗組員が朝鮮の住民に対し殺害や略奪を行ったために朝鮮側が報復として焼き討ちし、撃退した事件としているが、。.

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八戸事件

八戸事件本文中でも触れている通り、事件の原因となった記事の筆者「八戸順叔」の読み方が不明なため、本項では記事名の読みを掲示していない。は、同治5年12月(1867年1月)に清国広州の新聞『中外新聞』に掲載された、「八戸順叔」なる香港在住の日本人が寄稿した征韓論の記事がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮および清国との間の外交関係を悪化させた事件である。征韓論は江戸時代末期(幕末)の吉田松陰や勝海舟らの思想にその萌芽が見られるが、現実の外交問題として日清朝三国に影響を及ぼしたのはこの八戸事件が最初である。さらにこの事件はその後も10年近く尾を引き、後の江華島事件における両国間交渉にまで影響を及ぼした。.

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。.

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勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。.

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国学

国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.

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国立公文書館

国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん)とは公文書を一般公開している国立機関。本頁では日本の国立公文書館について記述する。.

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留守政府

留守政府(るすせいふ)とは、明治初期において、明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中にその留守を守るために組織された国内の体制を指す。明治4年11月12日(1871年12月23日)-明治6年(1873年9月13日)。.

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花房義質

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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遠山茂樹 (日本史家)

遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年(大正3年) 2月23日 - 2011年(平成23年) 8月31日)は、日本の歴史学者。研究分野は日本近代史、東アジア史、東洋史、自由民権運動、明治維新、歴史教育。横浜市立大学名誉教授。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。.

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西南戦争

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2018年現在日本国内で最後の内戦である。鹿児島では丁丑戦として語られている。.

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西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。.

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鈴木年基

鈴木 年基(すずき としもと、生没年不詳)は、明治時代の大阪の浮世絵師、洋画家。.

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興宣大院君

興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。.

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間部詮勝

間部詮勝寓居跡、京都市中京区寺町通二条下る東側 間部 詮勝(まなべ あきかつ)は江戸時代後期の大名。越前鯖江藩第7代藩主。間部家8代。幕末に老中首座を務めた。.

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開国

開国(かいこく)とは、「鎖国」という言葉の対義語として、すなわち外国との交流を行うことを表す意味でよく用いられる。大日本帝国では、開国進取が国是とされていた。 この言葉には歴史的な用例として同時に〈建国〉、〈開拓〉などの意味もあった。また、この言葉には「鎖国」と同様に文明的に〈進んでいる/遅れている〉ことに対する眼差しも内包されており、日本が歴史書の中で、中国や朝鮮の歴史を「鎖国」/「開国」と刻印していった営為の背景には、そのような眼差しが潜んでいるという説がある。(大島明秀『「鎖国」という言説―ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史―』ミネルヴァ書房、2009年。大島明秀「「開国」概念の検討―言説論の視座から―」(『國文研究』第55号、2010年).

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藤村道生

藤村 道生(ふじむら みちお、1929年3月3日 - 1999年4月7日)は、日本の歴史学者、元上智大学文学部教授。専門は日本政治外交史。.

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自由民権運動

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。 従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。.

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釜山広域市

釜山の山城(金井山) 水営区の広安里ビーチ 釜山広域市(プサンこういきし、韓国語表記:、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから朝鮮半島と日本とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.

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森山茂

森山 茂(もりやま しげる、天保13年9月25日(1842年10月28日) - 大正8年(1919年)2月26日)は、日本の外交官、政治家。外交官の時には朝鮮との外交交渉に携わり、退官後は元老院議官、富山県知事、貴族院議員などを務めた。錦鶏間祗候。.

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橋本左内

橋本 左内(はしもと さない、天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。.

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武力

武力.

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水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校でも水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられた。その「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。.

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江華島事件

海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。.

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江藤新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。「維新の十傑」「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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渋沢栄一

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。 正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。.

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朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし)/ 桂 小五郎 (かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士として討幕に努め、薩長同盟を推進。明治維新に貢献し、維新の三傑の一人に挙げられた。維新政府では総裁局顧問専任や参議を務め、版籍奉還、廃藩置県を実現。岩倉使節団にも同行した。西南戦争中に病死。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治3年

明治3年(めいじ3ねん) 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦(以下、旧暦)を採用していたため、西暦とはずれが生じる。 したがって、グレゴリオ暦の場合は.

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明治5年

明治5年(めいじ5ねん) 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで天保暦(以下、旧暦)を採用していたため、いわゆる西暦とはずれがあった。 具体的に詳細には、.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治六年政変

明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論に端を発した明治初期(1873年)の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日朝修好条規

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、時憲暦光緒2年=高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが通例として朝鮮國との修好条規、日朝修好条規、日鮮修好条規などと呼称する。江華島で調印されたため江華(島)条約(강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本国大君

日本国大君(にほんこくたいくん)または日本大君(にほんたいくん)は、日本の江戸時代に対外的に用いられた、征夷大将軍の外交称号。江戸幕府が外交文書(国書)において使用し、初めは朝鮮との間で用いられ、のちに琉球やヨーロッパ諸国との外交関係でも用いられた。略称は「大君」。.

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日本国王

日本国王(にほんこくおう)は、日本の国王を意味する称号。 通常は中世期から近世期において特に武家政権の長が対外的に使用した称号を指す。室町幕府3代将軍足利義満が、明皇帝から「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の封号を与えられ、日本国王に冊封されて以降、室町将軍の外交称号として使用された。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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攘夷論

攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている) 攘夷論(じょういろん)は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。.

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1870年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1873年

記載なし。

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1874年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1877年

記載なし。

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