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彭真

索引 彭真

彭 真(ほう しん、ポン・ヂェン、1902年10月12日 - 1997年4月26日)は中華人民共和国の政治家。第4代全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)などを務めた。第7期、第8期、第11期、第12期中央政治局委員。文化大革命(文革)では初期の段階で批判を受けて失脚したが、のちに名誉を回復され、1979年に政界に復帰した。.

87 関係: 劉少奇天津市姚文元山西省中国人民政治協商会議中国共産主義青年団中国共産党中国共産党中央組織部中国共産党中央政治局中国共産党中央政法委員会中国共産党中央書記処中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議中華人民共和国中華人民共和国主席中華人民共和国国務院中曽根康弘万里三菱総合研究所康生廬山会議張潔清張春橋北京市マルクス主義トウ小平嘉靖帝周恩来呉カン全国人民代表大会全国人民代表大会常務委員会八大元老国共内戦四人組紅衛兵羅瑞卿聶栄臻靖国神社胡耀邦葉剣英自由民主党 (日本)陳丕顕陸定一林彪李先念東北民主連軍楊尚昆江青木曜クラブ戚本禹海瑞...海瑞罷官新編歴史劇『海瑞罷官』を評す文化大革命改革開放政治家曲沃県10月12日1902年1922年1923年1926年1929年1935年1936年1941年1945年1948年1949年1951年1953年1954年1956年1964年1965年1966年1979年1980年1983年1985年1988年1997年1月31日3月27日4月26日5月1日6月18日6月27日 インデックスを展開 (37 もっと) »

劉少奇

劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898年11月24日 - 1969年11月12日)は、中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。 第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。.

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天津市

天津市(てんしんし/ティエンジンし、、、)は、中華人民共和国に位置する直轄市。国家中心都市の一つ。略称は津。 天津は華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5〜2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口の塘沽に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。経済成長率の高さはここ数年に渡り、全国トップである。2017年の第13期の全国体育大会の開催が決まっており、夏季ダボスフォーラム常駐開催都市でもある。 市区人口は506万人、都市圏人口は720万人。.

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姚文元

姚文元(よう ぶんげん、ヤン ウェンユェン、1931年1月12日 - 2005年12月23日)は中華人民共和国の政治家、四人組の一人。父は中国の作家・翻訳家の姚蓬子。.

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山西省

山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.

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中国人民政治協商会議

中国人民政治協商会議(ちゅうごくじんみんせいじきょうしょうかいぎ、簡体字:中国人民政治协商会议、)は、中国共産党、各民主党派、各団体、各界の代表で構成される全国統一戦線組織。全国委員会のほかに、地方の省、直轄市など各行政レベルにも設置されている。常務委員会は全国委員会主席、副主席、秘書長と常務委員によって構成される。「全国政治協商会議」「全国政協」は全国委員会の通称・略称。政治協商会議全体を指す略称は「政協」。 全国委員会が置かれているは北京市西城区太平橋大街23号にある。全国政協の会議は毎年全国人民代表大会と同時に開かれ、「両会」と呼ばれ、全国レベルの重要な政治的決定を行う。.

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中国共産主義青年団

中国共産主義青年団団旗 中国共産主義青年団徽章 中国共産主義青年団(ちゅうごくきょうさんしゅぎせいねんだん)は、中国共産党による指導のもと14歳から28歳の若手エリート団員を擁する青年組織。略称は共青団(きょうせいだん)。.

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中国共産党

n1996年までの党旗 中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、簡体字: 、拼音: Zhōngguó gòngchǎndǎng、)は、中華人民共和国の政党。共産主義の実現を最終目標としている。略称は中共(ちゅうきょう)。中国大陸の唯一の指導政党であり、国内の略称は党もなる。 2016年末時点で8944.7万の党員を数える。党員数では、2015年にインド人民党(1億1千万党員)に追い抜かれ、世界で2番目に大きい政党である。.

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中国共産党中央組織部

中国共産党中央組織部(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうそしきぶ)は、中国共産党中央委員会に直属し、中国共産党の人事を担当する機構。1924年5月に、中央宣伝部などと共に設立された、党内では最も古い機構の一つ。 地方の優秀な若手党員を中央に抜擢し、党の方針に沿った幹部育成などを行うため、全国の幹部や党員の統計・檔案(身上調査書)などを掌握している。また、引退した党員の世話なども担当している。 中央宣伝部、中央統一戦線部とともに、部長は中央政治局委員から選出される。各級政府の人事部長は現地の同級党組織部副部長が兼任する。例えば、国務院人事部長は中央組織部の尹蔚民副部長である。 省級党委員会書記の交代には中央組織部常務副部長が立会い、発表されるのが慣例である。2010年4月に新疆ウイグル自治区党委書記が交代した際には、部長である李源潮が副部長に代わってその任を務めた。.

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中国共産党中央政治局

中国共産党中央政治局(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうせいじきょく)は、中国共産党を指導し、政策を討議・決定する機関。.

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中国共産党中央政法委員会

中国共産党中央政法委員会(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうせいほういいんかい)は、情報、治安、司法、検察、公安などの部門を主管する機構。略称は中央政法委。.

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中国共産党中央書記処

中国共産党中央書記処(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうしょきしょ、簡体字:中国共产党中央书记处、繁体字:中國共產黨中央書記處、)は、中国共産党中央政治局と中央政治局常務委員会の事務処理機構。略称は中共中央書記処や中央書記処など。構成員である書記は中央政治局常務委員会が指名し、中央委員会全体会議によって選出される。.

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中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議

中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(ちゅうごくきょうさんとうだい8きちゅうおういいんかいだい11かいぜんたいかいぎ)は、1966年8月1日から12日まで北京で行われた中国共産党中央委員会の会議。略称は第8期11中全会。この会議は文化大革命(文革)が全国規模で始まる合図となり、中央委員ですらない江青らも出席するなど文革色が色濃く出るものとなった。 8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した評論を『人民日報』に掲載させ、7日にはその文章を配布した。「修正主義の司令部がブルジョア専制をやり、文化大革命運動を弾圧した」と、劉少奇や鄧小平を批判した。8月8日には『プロレタリア文化大革命に関する決定』が通過し、運動の目的を「資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし、ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する」と方向付けた。 中央政治局常務委員が従来の7人から11人に増員され、毛沢東、林彪、周恩来、陶鋳、陳伯達、鄧小平、康生、劉少奇、朱徳、李富春、陳雲が中央政治局常務委員に選出された。また、徐向前、聶榮臻、葉剣英が中央政治局委員、李雪峰、謝富治、宋任窮が政治局候補委員に選出された。 この人事で林彪が中央政治局常務委員会における序列第2位に、それまで序列第2位だった劉少奇が第8位となった。これにより、林彪が毛沢東の後継者となり、それまで後継者と目されていた劉少奇が失脚したことが明確になった。また、複数いた党副主席を林彪のみとし、それまで党副主席であった劉少奇、朱徳、陳雲は解任された。彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆が中央書記処書記、書記候補から解任されるなど、文革推進派が躍進する結果となり党内序列は一変した。 会議終了6日後には、この会議の成果を祝する形で天安門広場に集まった百万人ともいわれる紅衛兵を毛沢東ら共産党首脳が接見し、文革の全面的な展開を内外に強く印象づけることになった。 この会議でかろうじて政治局常務委員と国家主席の地位に留まった劉少奇は、1968年10月の第8期12中全会で「叛徒、内奸、工賊」のレッテルを貼られて党から永久に除名、党内外の全ての職務を解任された。この決定は1980年の第11期5中全会でようやく取り消され、名誉回復がなされた。.

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中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中华人民共和国、中華人民共和國、People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、China)は、東アジアに位置する主権国家である。 中華人民共和国は、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国である。中華人民共和国は、首都北京市を政庁所在地とする中国共産党により統治されるヘゲモニー政党制である。.

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中華人民共和国主席

中華人民共和国主席(ちゅうかじんみんきょうわこくしゅせき、、)は、中華人民共和国の国家元首。他の主席職と区別するために国家主席と呼ばれることが多い。英語での表記は「President of the People's Republic of China」であり、大統領に相当する。.

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中華人民共和国国務院

中華人民共和国国務院(ちゅうかじんみんきょうわこくこくむいん、簡:)は、中華人民共和国の最高国家行政機関。他国における内閣に相当する。国務院とも略称する。中華人民共和国の建国初期には政務院と称していた。.

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中曽根康弘

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年(大正7年)5月27日 - )は、日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。 衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。。対米関係上の愛称は「ヤス」。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。現職は公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。 群馬県出身。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省する。海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計士官に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて内閣総理大臣を務める。国鉄、電電公社、専売公社、日本航空の民営化を達成した事績が特に知られる。またアメリカのロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。 2004年(平成16年)7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では東久邇宮稔彦王(死去時102歳48日)に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。2018年(平成30年)5月27日には満100歳を迎えた。これも首相経験者としては東久邇宮稔彦王に続く2人目、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては初となる。 公称の身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣では大隈重信の公称180cmに次ぐ第2位の長身といわれている。.

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万里

万 里(ばん り、ワン・リー、Wan Li、1916年12月1日 - 2015年7月15日)は中華人民共和国の政治家。 鉄道部長(鉄道大臣)、中国共産党中央政治局委員、中華人民共和国国務院、副総理、常務副総理(第一副首相)、第5代全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長)などを務めた。中共八大元老の一人。.

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三菱総合研究所

株式会社三菱総合研究所(みつびしそうごうけんきゅうしょ)は、東京都千代田区永田町二丁目10番3号に本社を置く、日本のシンクタンク、システム開発会社でシステムインテグレーター(ユーザー系)。略称は、MRIまたは三菱総研。.

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康生

康 生(こう せい、カン・ション、1898年 - 1975年12月16日)は中華人民共和国の政治家。元の名は張宗可、字は少卿。このほか複数の変名・筆名がある。山東省膠県大台荘(現・青島市黄島区)出身。文化大革命の重要人物の一人。 裕福な地主の家庭に生まれ、中国共産党中央委員会副主席にまで出世した。ソ連滞在中に内務人民委員部 (NKVD) から「反革命分子」に対する拷問・処刑を学び帰国後、中国共産党情報機関の責任者となり毛沢東の片腕として強大な警察権力を行使し、大量粛清にかかわった。「中国のジェルジンスキー」あるいは「中国のベリヤ」と呼ばれる。妻は曹軼欧。子供はいない。.

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廬山会議

廬山の「廬山会議旧跡」 廬山会議(ろざんかいぎ)は、毛沢東共産党主席が発動した大躍進政策の失敗が明らかとなったあと、1959年7月から8月に開催され、問題点を批判した彭徳懐らが失脚した、中国共産党中央政治局拡大会議(7月2日 - 8月1日)と第8期8中全会(8月2日 - 8月16日)を指す。廬山は江西省にある中国共産党幹部の避暑地。 1958年11月の第8期6中全会で毛沢東は大躍進が失敗した責任をとる形で国家主席の辞任を表明し、翌59年の第2期全人代で劉少奇党副主席が新国家主席に選出、毛沢東の権威は失墜していった。 6月29日、廬山に向かう船中で毛は会議の課題を提議した。それは19の項目からなり、特に第2項目の「形勢」と昨年度の大躍進関係の反省からなる数項目が眼目であった。そして三面紅旗(総路線、大躍進、人民公社)政策の失敗を討論する場となるのは明白であった。 その雰囲気を察していた毛は、とくに彭徳懐が批判の先頭に立っていることについて気分を害し「人我を侵さざれば、我人を侵さず。人もし我を侵せば、我人を殺す」との警句を吐き、来るべき会議に備えていた。毛は「神仙会議」と称して自由な意見交換の場を表向きは作っていたが、実は「蛇を穴からおびき寄せる」やりかたで、彭ら反対者をあぶりだすことを策していたのである。 7月14日、国防部長だった彭徳懐が毛沢東に私信を送り、その中で総路線は正しかったとしつつ、「1958年の基本建設は一部でいささか急ぎすぎ、目標達成が遅れた」と進言した。この批判はまっとうなものであったが、失墜しつつある自身の権威をさらに落としかねないと考えた毛沢東は、16日に私信のコピーを配布し『彭徳懐同志の意見書』として会議で討論することに決定した。彭は手紙が無断で公開されたことに憤り、毛を批判する一方、急きょ書かれたものであり十分に意見を述べていないなどの理由で回収を求めたが既に遅く、康生は「あえて建議します。甘やかしてはならない。」との私信を毛に送りつけていた。 File:1950 Pang Dehuai going to Korea.jpg|彭徳懐 File:Huang Kecheng.jpg|黄克誠 File:Zhang Wentian3.jpg|張聞天 File:Zhou Siaozhou.jpg|周小舟 会議で彭徳懐の意見に黄克誠(国防部副部長)、周小舟(湖南省党委書記)、張聞天(外交部副部長)やほかの出席者が支持を表明し、劉少奇、朱徳らも緩やかな表現で批判を加え、一部が部分的な言葉遣いに意見した。これを自身の権力に対する脅威と捉えた毛沢東は、23日の大会演説で手紙を「ブルジョワジーの動揺性」であり、党に対する攻撃、右傾機会主義の綱領であると激しく批判した。 党に対する攻撃と毛沢東に言われてしまった出席者は、彭徳懐支持から一転して「主席に辞任を迫った」「資産階級民主主義者」「党内の投機分子」などと批判を加えた。毛沢東は大躍進に誤りなど全くないと発言し、三面紅旗が倒れれば党と人民に対する重大な損失であると誇張した。 8月2日から始まった8中全会では、彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」と定性(政治的なレッテル張り)し、『彭徳懐同志を中心とする反党集団の誤りに関する決議』、『党の総路線を守り、右傾機会主義に反対し闘争する』議案を採択し、4人は大躍進を批判し、経済発展に反対したと定性し、4人はそれぞれ職務を解かれ、彭徳懐の国防部長と中央軍事委員会副主席のポストには林彪が就任した。 16日、閉会の際に毛沢東は「過去10年続いてきたブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争が廬山に現れているが、中国と我が党はこの闘争を少なくとも20年、50年でも闘争し続けなければならない」と結論付けた。会議後、60年ごろまで党内で反右派闘争が展開され、365万人が右傾機会主義と位置づけられ、一部は職務を解任された。 廬山会議で経済政策上の誤りを正す方法が絶たれてしまったため、中国の経済は悪化していった。会議中三面紅旗に肯定的だった劉少奇は郷里である湖南省を視察して政策に誤りがあったと悟り、「天災三分、人災七分」と結論付けるに至ったが、三面紅旗に問題は無く失敗の原因は天災にあるとする毛沢東とは徐々に考えが離れていった。生産請負制や報奨金を取り入れた経済政策や右派認定された幹部の再審査請求は、毛沢東に「絶対に階級闘争を忘れてはいけない」と批判され、文化大革命前夜までに決定的な破局を迎えることになる。 Category:中国社会主義 Category:1959年の中華人民共和国 Category:江西省の歴史 Category:1959年7月 Category:1959年8月.

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張潔清

張 潔清(ちょう けっせい、1912年10月 - 2015年5月27日)は中華人民共和国の女性政治家、作家。河北省覇県出身。中共中央政法委員会元副秘書長。彭真の妻。.

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張春橋

張 春橋(ちょう しゅんきょう、ヂャン チュンチャオ、1917年2月1日 - 2005年4月21日)は中華人民共和国の政治家。四人組の一人であり、中国共産党中央政治局常務委員会委員、国務院副総理(副首相)を務めた。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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マルクス主義

マルクス主義(マルクスしゅぎ、Marxismus)とは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つである。しばしば科学的社会主義(かがくてきしゃかいしゅぎ)とも言われる。 マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。 エンゲルスは1883年に『空想から科学へ』を出版し、彼やマルクスの思想を社会主義思想、弁証法的唯物論、資本主義分析の三つの分野に分けて解説したうえで、唯物史観と剰余価値の発見によって社会主義は科学になったと説明した。また、レーニンは1913年に『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』を書き、マルクス主義の三つの源泉をドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義とし、マルクス主義の三つの構成部分を弁証法的唯物論、経済学、社会主義思想とした。.

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トウ小平

鄧 小平(とう しょうへい、中国語読み:ドン シャオピン 、IPA:、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。.

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嘉靖帝

嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.

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周恩来

周 恩来(しゅう おんらい、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。 妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに国務院総理)。.

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呉カン

呉晗(ご かん)は中華人民共和国の政治家、歴史家。 浙江省義烏県に生まれる。中学を卒業したあとは、地元の小学校の教師を務めていた。その後、黄埔軍官学校の入学を志していたが旅費の工面がつかず断念した。之江大学を経て、中国公学大学部に入学。在学中に胡適の中国文化研究会に所属。「前漢の経済状況」という論文を執筆し、胡適に認められた。清華大学を卒業、卒業後清華大学にとどまり歴史学(明史)を講じた。 抗日戦争中は精華大学などが昆明に移転して創立された西南連合大学教授になり、引き続き歴史学を講義するとともに、国民党の腐敗に反発し中国民主同盟(民盟)に加入し、昆明での有力な活動家となる。同時に、中国共産党には好意的で共産党文献の学習会にも参加した。 中華人民共和国成立後は清華大学人文科学部長、北京市副市長を務める。当時中国では『清史』編纂が計画され清史研究の立ち遅れと研究者の不足が問題となっていた。このため呉が中心となって、清代の歴史研究の重点化と専門的な研究者の育成の体制づくりが行われた。1957年3月に民盟同盟員のまま中国共産党に入党する。共産党入党は当初は非公開で、後に公開された。1957年反右派闘争では、共産党側に立って民盟幹部の立場で羅隆基ら共産党に批判的意見を公表した民主党派幹部を強く批判した。 1961年、京劇戯曲『海瑞罷官』を発表する。1960年から61年にかけて中国演劇界で行なわれた歴史劇論争では、歴史学者として、歴史劇における歴史事実の尊重を強く訴えた。 1965年に『海瑞罷官』が姚文元によって悪徳官僚が農民から没収した土地の農民への返却(退田)と冤罪を被った民衆の救済(平冤獄)は、集団化された土地の農民への再配分・人民公社解体と反革命分子らの名誉回復を主張する作品だと批判される。さらに毛沢東は『海瑞罷官』と彭徳懐解任を強引に結びつける談話を発表した。これをきっかけに北京市副市長を解任され文化大革命の端緒となった。その後の文化大革命の本格化により迫害を受け投獄、獄中で死去する(死因不明とされるが自殺説が有力)。妻も同様に獄死し、養女も精神を病み精神病院で自ら命を絶った。.

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全国人民代表大会

全国人民代表大会(ぜんこくじんみんだいひょうたいかい、中华人民共和国全国人民代表大会, )は、中華人民共和国の一院制議会。憲法上、国家の最高権力機関および立法機関として位置づけられている。日本では略称を全人代と表記する場合が多い。中国では全国人大、人大と略される。.

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全国人民代表大会常務委員会

全国人民代表大会常務委員会(ぜんこくじんみんだいひょうたいかいじょうむいいんかい)とは、中華人民共和国における最高国家権力機関および立法機関である全国人民代表大会(全人代)の常設機関。全人代とともに立法権を行使する。また、全人代閉会中に最高の国家権力を行使し、立法機能を代行する。.

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八大元老

八大元老(はちだいげんろう)は、八老(拼音:bā lǎo)とも呼ばれ、1980年代から1990年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団である。 非公式の集団であるが、党最高指導部である中国共産党中央政治局常務委員会(1987年11月時点での常務委員は、趙紫陽・李鵬・喬石・胡啓立・姚依林の5人)をしのぐ権威を持っており、重要な決定は八大元老にゆだねられることもあった。第二次天安門事件の武力行使、趙紫陽の総書記解任(解任理由の一つとして、訪中したソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフに、鄧小平に最終決定権があると明かしたことが挙げられた)とその後任に江沢民を据える決定が彼らの意思によってなされた。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。 八大元老の子以降の世代の者の中には、太子党と呼ばれる集団の一員になっている者もいる。八大元老が健在だった時期に国務院総理・全国人民代表大会常務委員長などを歴任した李鵬は周恩来・鄧穎超夫妻の養子である。また2012年に中国共産党総書記に就任した習近平は八大元老の一人である習仲勲の子である。同じく2012年に失脚した薄熙来もまた、薄一波の子であり、太子党の有力者であった。.

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国共内戦

国共内戦(こっきょうないせん、)は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍と共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦(1945年 - )とに大別される。.

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四人組

四人組(よにんぐみ)とは、中華人民共和国の文化大革命を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。文革四人組とも呼ばれる。なお、中国では四人帮(Sìrén bāng)と呼ばれる。.

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紅衛兵

紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な学生運動。学生が主体であるが、広義には工場労働者を含めた造反派と同じ意味で使われることもある。.

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羅瑞卿

羅 瑞卿(ら ずいけい、1906年5月31日 - 1978年8月3日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。元の名は其栄。大将。 毛沢東の忠実な取り巻きであったが1965年、文化大革命で失脚した。文化大革命終了後に名誉回復するが、直後の1978年に死去。.

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聶栄臻

聶 栄臻(じょう えいしん、1899年12月29日 - 1992年5月14日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。副総参謀長、国務院副総理を歴任。中華人民共和国元帥。.

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靖国神社

(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区九段北にある神社である。.

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胡耀邦

胡 耀邦(こ ようほう、1915年11月20日 - 1989年4月15日)は、中華人民共和国の政治家「who's who」(2013年)423ページ。国務院副総理、第3代中国共産党中央委員会主席・初代1982年の総書記制導入以降。陳独秀を初代総書記とした場合は第5代となる。中国共産党中央委員会総書記。彼の死が後の六四天安門事件の引き金となった朝日新聞(2015年11月21日朝刊)11面「生誕100年 習主席『偉大な革命家』胡耀邦氏を再評価 民主化問題触れず」。.

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葉剣英

葉 剣英(よう けんえい、1897年4月28日 - 1986年10月22日、元の名は宜偉、字は滄白)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍の創立者の一人で、中華人民共和国元帥。国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央軍事委員会副主席兼秘書長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を歴任。また、1975年1月から1983年6月の間は全人代常務委員会が国家元首の権能を果たしていたので、全人代常務委員長として在任中、彼が中華人民共和国の国家元首格であった。.

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自由民主党 (日本)

自由民主党(じゆうみんしゅとう、Liberal Democratic Party of Japan)は、1955年に日本民主党と自由党が合同して結成した保守主義を掲げる日本の政党である。略称は自民党(じみんとう)、自民(じみん)、LDP。1字表記の際は、自と表記される。1955年の結党以来、政権与党の座にあり続けたが、1993年(平成5年)に自民党と共産党以外の政党による連立政権に政権を奪われた。翌1994年に自社さ連立により政権を奪還。2009年に民主党を中心とする連立政権である民社国連立政権に再び政権の座を奪われたが、2012年に公明党との連立により政権を奪還し、現在(2018年)まで、自民党と公明党の連立政権が続いている『政治・経済用語集』(山川出版社),p77。.

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陳丕顕

陳 丕顕(ちん ひけん、チェン・ピーシェン、1916年3月20日 - 1995年8月23日)は中華人民共和国の政治家。1929年に中国社会主義青年団、1931年に中国共産党に入党。 中華人民共和国建国後、蘇南区党委書記兼蘇南軍区政治委員に任命される。1952年に上海市党委員会第四書記、1954年に第二書記、1956年より市党委第一書記兼上海警備区第一政治委員に就任。1960年、中国共産党中央華東局書記、上海市政治協商会議主席。文化大革命では、奪権の最前線となった上海市のトップだったため、江青や張春橋によって曹荻秋市長と共に批判の対象となり、1967年1月に失脚。 1975年10月に上海市革命委員会副主任として復活。雲南省党委書記、湖北省党委第一書記などを経て、1982年9月の第12期1中全会で党中央書記処書記となり、10月には中央政法委員会書記に任命される。1983年、第6期全国人民代表大会常務委員会副委員長に選出される。しかし、兪強声事件が発生すると責任を取って全職務を辞任。1987年、党中央顧問委員会常務委員。 1995年8月23日、北京で死去。 第7期中央委員候補、第11期、第12期中央委員。 Category:中華人民共和国の政治家 Category:中国共産党の人物 Category:竜岩出身の人物 Category:1916年生 Category:1995年没.

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陸定一

定一(りく ていいつ、1906年6月9日 - 1996年5月9日)は中華人民共和国の政治家。国務院副総理、中国共産党中央政治局候補委員、党中央書記処書記を歴任。文化大革命で失脚したが、後に名誉回復して全国政治協商会議副主席を務めた。.

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林彪

林 彪(りん ぴょう、リン・ビャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中華人民共和国元帥。国務院常務副総理(第一副首相)、国防部長(国防大臣)、中国共産党中央委員会副主席、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。文化大革命で失脚した劉少奇国家主席に代わって毛沢東党主席の後継者に指名されるが、政争に敗れてソビエト連邦に亡命する途上、モンゴル人民共和国において搭乗機が墜落し、死亡した。.

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李先念

李 先念(り せんねん、リー・シエンニエン、1909年6月23日 - 1992年6月21日)は中華人民共和国の政治家。中国共産党の八大元老の一人で、中国共産党中央委員会副主席、国務院副総理、第3代中華人民共和国主席(国家主席)。国家主席退任後は、中国人民政治協商会議全国委員会(全国政治協商会議)主席の座にあった。.

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東北民主連軍

東北民主連軍(とうほく-みんしゅ-れんぐん)は中国共産党が国共内戦再開に備えて、東北部で編成した軍隊組織。東北人民自治軍を前身とし、後に東北人民解放軍(東北野戦軍)に発展した。.

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楊尚昆

楊 尚昆(よう しょうこん、ヤン・シャンクン、1907年5月25日 - 1998年9月14日)は中華人民共和国の政治家、軍人。中華人民共和国主席、中国共産党中央政治局委員、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。長征経験者。1980年代から1990年代前半の中国政界で権勢を誇った中共八大元老の一人で、弟の楊白冰と共に「楊家将」と呼ばれ、中国人民解放軍に大きな影響力を及ぼした。.

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江青

江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東共産党主席の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命(文革)を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののち、病気治療仮釈放(保外就医)中に北京の居住地で自殺した。 「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)ともいう。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」と改名する前には「藍蘋」として広く知られた。.

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木曜クラブ

木曜クラブ(もくようクラブ)は、かつて存在した自由民主党の派閥。通称田中派。会長は名目上西村英一→二階堂進だが、事実上のオーナーは一貫して田中角栄であり、自民党を離党した後も常にこの木曜クラブを通じて自民党ひいては日本政界に君臨し続けた。旧自由党の吉田派から佐藤派(周山会)の流れを汲む保守本流派閥。.

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戚本禹

戚 本禹(せき ほんう、1931年 - 2016年4月20日)は中華人民共和国の政治家。1949年に中国共産党入党、中国共産党中央弁公庁信訪科科長、『紅旗』歴史部編集長などを務めた。 1965年12月8日、『紅旗』雑誌(第13期)において論文『革命のための歴史研究』を発表、翦伯賛の唱える階級観点の重視と歴史主義を「超階級」、「純客観」の資産階級による視点であると攻撃、毛沢東の支持を獲得した。 1966年には文化大革命(文革)を主導した中央文化革命小組のメンバーとなり、中央弁公庁秘書局副局長、『紅旗』副総編集、中国共産党中央弁公庁代主任を務め、毛沢東及びその夫人である江青の秘書を担当した。『紅旗』1966年第5期号では「愛国主義か売国主義か?-歴史映画『清宮秘史』を評す」を、1966年第7期号では「『前線』及び『北京日報』の資産階級としての立場を評す」を発表。特に『愛国主義か売国主義か?-反動映画『清宮秘史』を評す」は1967年4月1日に『人民日報』に全文が掲載され、「党内最大の『走資派』及び反革命修正主義路線に対する革命大批判」が共産党内の基調論説とされるに至った。この「党内最大の『走資派』」とは国家主席の劉少奇を指しており、論文の中では劉を「中国のフルシチョフ」と名指しで公然と批判して、すでに文革派から糾弾を受けていた劉に対する攻撃を激化させた。同年7月18日には、中南海で「劉少奇批判闘争大会」を自ら開催した。 1967年4月14日には、遇羅克が血統による「革命的階級」「反革命的階級」の区別を批判した『出身論』は大毒草であると批判し、1968年1月5日に遇羅克は逮捕された。 しかし1968年1月になると共産党中央より隔離審査の対象とされ、党内外の全ての職務を解任された。1980年7月14日、北京市公安局により逮捕、1983年11月2日には北京市中級人民法院において反革命宣伝煽動罪、誣告罪、群集騒擾罪などにより懲役18年、政治権利剥奪4年の判決を受けた。 1986年隔離審査期間も刑期に組み入れ刑期満了で保釈されると上海市図書館収蔵部の司書を務め、1990年代初頭に定年退職した。保釈後は妻子と同居し、『大人物的変態心理』、『中華易学大辞典』などを共著で出版した。2014年当時は、「歴史学者」として毛沢東に関する講演もおこなっていた。 2016年4月20日7時58分(中国標準時)、病気のために上海市で死去した。中央文化革命小組のメンバーでは最後の存命者であった。死去直前の4月19日付で回想録『戚本禹回憶録』が香港の出版社から刊行され、この中には3月1日付で記された戚自身による「本書を毛沢東のプロレタリア文化大革命発動50周年に捧げる」という文が掲載されている。.

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海瑞

海瑞像 海 瑞(かい ずい ハイルイ:Hăi Ruì、正徳九年(1514年) - 万暦十五年(1587年))は中国明中期の政治家。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された。清廉潔白な官僚として評価を得ている人物である。.

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海瑞罷官

『海瑞罷官』(かいずいひかん、、「海瑞の罷免」)は、呉晗が1961年に発表した京劇戯曲。 1959年4月、上海で湘劇(湖南省の地方劇)を見た毛沢東が、海瑞の「直言敢諫」精神を宣伝するように秘書の胡喬木に指示したことを受け、当時の北京市副市長・清華大学教授の明代史研究者である呉晗は、『海瑞を論ず』等の歴史エッセイを発表していた。これを読んだ北京京劇団団長の馬連良が呉晗に海瑞を描いた戯曲執筆を依頼、呉晗は初めは京劇の素人だからとためらったが、結局執筆を引き受けた。何回かの書き直しの後、1960年11月に完成した。題名は、当初は『海瑞』だったが、友人の勧めで『海瑞罷官』とした。『北京文芸』1961年1月号に掲載され、北京京劇団によって1961年2月11日より上演された。 「罷」とは職を辞めさせられることで、タイトルは「海瑞の免職」というほどの意味である。作品の内容は明の時代、正義派の官吏の海瑞が、巡撫に任ぜられて赴任した土地で、民衆を苦しめる悪徳地方官僚を懲罰して民衆を冤罪から救済し、地方官僚が民衆から没収した土地を民衆に返還したため、地方官僚の陰謀で官職を罷免されるが、罷免の直前に悪徳官僚処刑を断行したというもの。呉晗は、海瑞が嘉靖帝を諫める上訴をして罷免された嘉靖45年の物語は、すでに上海で上海京劇院院長周信芳らによって劇化された『海瑞上疏』があるので、地方官僚の陰謀で罷免された隆慶3年冬の物語を取りあげたのである。上演された舞台は著名な歴史学者が京劇戯曲を書いたという新鮮さと馬連良らの演技で成功したが、京劇の玄人からはあまり好評ではなく、上演は長続きしなかった。 1965年11月10日、姚文元は、上海の日刊紙『文匯報』に、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文()を発表した。この論文は、『海瑞罷官』の冤罪取り消し(平冤獄)と土地の民衆への返還(退田)は、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配・人民公社解体を主張するもので、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃するものであった。当初、なぜ突然この劇を批判したのか姚の真意を疑うものが多かったが、姚の意図は毛沢東の意向を受け、呉晗の上司である彭真を失脚に追い込むことであった。毛沢東はさらに1965年12月21日内部談話で「姚文元の文章もいい。(中略)しかし急所にあたってはいない。急所とは“罷官”だ。嘉靖皇帝は海瑞を罷免した。59年我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も“海瑞”だ」と述べ、強引に本来は無関係だった『海瑞罷官』と彭徳懐罷免を結びつけた。この毛沢東の談話で『海瑞罷官』は彭徳懐解任を批判・影射した作品だという印象が急速に形成された。 結果として、この論文が文化大革命の序幕となり、その後まず彭真を始め、陸定一、羅瑞卿、楊尚昆の四人が失脚し、続いて劉少奇国家主席も失脚した。呉晗は文革中の1968年に投獄され獄中で死亡した(死因不明)。.

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新編歴史劇『海瑞罷官』を評す

新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」(しんぺんれきしげき「かいずいひかん」をひょうす)は後の四人組の一人姚文元が1965年11月10日に上海の文匯報に発表した評論で、後にこの年の11月30日に全国紙の人民日報に転載された。 評論の対象は、1961年に発表された京劇「海瑞罷官」の作者・呉唅である。姚文元は、『海瑞罷官』は封建地主階級の海瑞を美化し、劇中の民衆冤罪取り消し(平冤獄)と地方官僚が没収した土地の民衆への返還(退田)は、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配・人民公社解体を主張するもので、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃するものであった。(ただし姚文元はこの評論の中で、海瑞解任を彭徳懐罷免と結びつけて論じてはいない。両者を結びつけたのは、毛沢東である。) この文章の発表で、呉晗およびその上司の彭真らに対する批判の雰囲気が急速に強まっていった。一般にはこの劇への評論が事実上文化大革命の序幕とされている。 この文章の発表には、1965年に上海に長期滞留した江青がかかわっていた。当時上海市委員会第一書記柯慶施の段取りで張春橋と姚文元の両人がその工作に協力した。江青、張春橋、姚文元は後に文化大革命で重要な役割をはたした四人組の3人で、この文章を書いたことは、このグループの最初の重要な政治活動であった。.

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文化大革命

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。 名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。.

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改革開放

改革開放(かいかくかいほう、)とは、中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。.

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政治家

政治家(せいじか)とは、職業として政治に携わっている者のことである。.

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曲沃県

曲沃県(きょくよく-けん)は中華人民共和国山西省南部の臨汾市に位置する県。.

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10月12日

10月12日(じゅうがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から285日目(閏年では286日目)にあたり、年末まであと80日ある。.

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1902年

記載なし。

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1922年

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1923年

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1926年

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1929年

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1935年

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1936年

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1941年

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1948年

記載なし。

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1949年

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1951年

記載なし。

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1953年

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1954年

記載なし。

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1956年

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1964年

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1965年

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1966年

記載なし。

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1979年

記載なし。

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1980年

この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。.

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1983年

この項目では、国際的な視点に基づいた1983年について記載する。.

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1985年

この項目では、国際的な視点に基づいた1985年について記載する。.

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1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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1月31日

1月31日(いちがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から31日目に当たり、年末まであと334日(閏年では335日)ある。1月の最終日である。.

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3月27日

3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。.

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4月26日

4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.

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5月1日

5月1日(ごがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から121日目(閏年では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。誕生花はプリムラ・ポリアンサ。.

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6月18日

6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。誕生花はスイセンノウ、サギソウ。.

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6月27日

6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。誕生花はホタルブクロ、サンダーソニア。.

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