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延喜格

索引 延喜格

延喜格(えんぎきゃく)は、平安時代の延喜7年(907年)11月に完成し、翌年12月の宣旨によって施行された格。.

38 関係: 大納言大蔵省太政官符実教出版宣旨宮内省左大臣中務省三代格式三善清行平安時代京職延喜延喜式式部省弾正台弘仁格刑部省兵部省神祇官類聚三代格詔勅貞観 (日本)貞観格近衛大将藤原定国藤原時平醍醐天皇格式民部省治部省惟宗允亮明法博士文章博士政事要略11月 (旧暦)869年907年

大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大蔵省

旧大蔵省庁舎(現・財務省庁舎) 大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance, MOF)は、明治維新から2001年(平成13年)1月6日まで存在した日本の中央官庁である。後継官庁は財務省と金融庁。前近代の律令制による大蔵省も奈良時代の大宝律令から明治維新まで存続していたため、「大蔵省」という名称は1300年の長きにわたって用いられたことになる。.

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太政官符

太政官符(だいじょうかんぷ.

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実教出版

実教出版株式会社(じっきょうしゅっぱん)は、高等学校用教科書、大学・短期大学・高等専門学校・専修学校・職業訓練施設向けテキスト等を発行している出版社。実務教育出版との関連はない。.

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宣旨

宣旨(せんじ)は、律令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。詔勅の変体。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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三代格式

三代格式(さんだいきゃくしき)とは、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(律令の補助法令)の総称である。.

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三善清行

三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)は平安時代中期の公卿、漢学者。淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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延喜

延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを延喜の治と呼ぶようになり、「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。.

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延喜式

延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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弾正台

弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。.

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弘仁格

弘仁格(こうにんきゃく)は、平安時代初期に編纂・施行された格。全10巻。.

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刑部省

刑部省(ぎょうぶしょう)は、古代日本の律令制下の八省の一つ、もしくは明治時代の省庁の一つ。.

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兵部省

兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)はかつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。.

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神祇官

祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ).

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類聚三代格

類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)は、平安時代(恐らく11世紀)に書かれた法令集。著者は不明。.

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詔勅

詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。.

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貞観 (日本)

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.

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貞観格

貞観格(じょうがんきゃく)は、平安時代の貞観11年4月13日(869年5月27日)に奏進され、同年9月7日(同年10月15日)の宣旨によって施行された格。全12巻であるが、最後の2巻は格に該当しない臨時の法令類を唐の『開元留司格』に倣って「臨時格」として末尾に掲げたものである。 藤原良相が勅を受けて編纂を開始し、その没後は藤原氏宗が中心となって編纂した。「弘仁格」を継いで弘仁11年(820年)より延喜10年(868年)までの49年間の詔勅・太政官符のうち編纂当時に実際に行われていた重要な取捨選択して各省毎に配列した。 編纂に当たっては「弘仁格」に既出のもの、編纂当時に廃止されていたものは掲載せず、更に一部が使われていない場合や修飾のための「繁麗之文」にあたる部分には該当部分を削除するなどの修正が施されている。 「貞観格」の原文は残されていないが、『類聚三代格』や惟宗允亮の『政事要略』にその多くが引用されており、その相当部分の内容を窺い知る事が出来る。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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藤原定国

藤原 定国(ふじわら の さだくに、貞観8年(866年) - 延喜6年7月2日(906年7月25日))は、平安時代初期から中期にかけての公卿。藤原北家良門流、内大臣・藤原高藤の長男。醍醐天皇の外叔父。官位は従三位・大納言。泉大将と号す。.

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藤原時平

藤原 時平(ふじわら の ときひら)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。本院大臣と号した。 藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去した。その死は怨霊となった道真の祟りと噂された。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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格式

格式(きゃくしき)とは、律令の補完のために出された法令あるいはそれらをまとめた法令集のことを指す。格(きゃく)は律令の修正・補足のための法令(副法)を指し、式(しき/のり)は律令の施行細則を指した。.

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民部省

民部省(みんぶしょう)は、.

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治部省

治部省(じぶしょう)は律令制における八省のうちのひとつ。和名は「おさむるつかさ」。.

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惟宗允亮

惟宗 允亮(これむね の ただすけ)は、平安時代中期の貴族・学者。氏姓は惟宗朝臣のち令宗(よしむね)朝臣。官位は従四位下・河内守。同時代を代表する明法道の権威。.

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明法博士

明法博士(みょうほうはかせ)は、古代日本の律令制下において大学寮に属した官職の一つ。令外官。定員2名で、当初は正七位下相当。 後に名門出身者で占められるようになった。 神亀5年7月21日(728年8月30日)の格において文章博士とともに設置された。当初の名称は律学博士(りつがくはかせ)であったが、天平2年3月27日(730年4月18日)に明法生が設置されてから遠くない時期に明法博士と改称されたとされている。明法博士の下には明法得業生(みょうほうとくぎょうしょう)2名と明法生(みょうほうしょう)10名(後に20名)があった。後には、陣定などの朝議に際して法律的な見解を記した明法勘文を作成・提出することも重要な職務となった。平安時代中期には讃岐氏や惟宗氏の世襲の傾向が見られたが、中世以降には両氏に代わって、名望の坂上氏及び中原氏の世襲となった。.

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文章博士

文章博士(もんじょうはかせ)は、大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士(かんりんがくし)。.

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政事要略

政事要略(せいじようりゃく)は、平安時代の政務運営に関する事例を掲げた書。編者は明法博士令宗(惟宗)允亮。惟宗氏は代々明法家の名門で、彼の曽祖父は、『律集解』『令集解』を編んだ惟宗直本、祖父は『本朝月令』を編纂した惟宗公方。本書は、惟宗氏の明法家としての活動の集大成といえる書で、平安時代の政治を理解するうえでの重要な史料である。なお、「令宗」(よしむね)の姓は、惟宗氏全員の改姓ではなく、長保元年(999年)頃、允亮と彼の弟と思われる允正のみに与えられた。「令宗」は「律令の宗師」という意味である。 本書の成立年代は詳らかではないが、本書のなかに一条天皇を「今上」と記していることから一条天皇の朝に行われ、長保4年(1002年)11月に編纂が完了したが、允亮の歿年と考えられる寛弘5年(1008年)頃まで追記がなされている。また、本書の編纂は、小野宮右大臣藤原実資の依嘱によってなされたとされる。その根拠は、『小記目録』(『小右記』の目録)に「長保四年十一月五日、世事要略部類畢んぬ事」と記されていることや、本書が代々小野宮家に相伝されていたこと等である。 巻数について、『中右記』『本朝書籍目録』等で、全130巻あったことが分かるが、現存するのはそのうちの26巻である。全130巻の部立てはおそらく、.

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11月 (旧暦)

旧暦11月(きゅうれきじゅういちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から11番目の月である。 冬至を含む月が11月となる。新暦では11月下旬から1月上旬ごろに当たる。 11月の別名は霜月(しもつき)である。名前の由来は11月を参照のこと。異名は「ちゅうとう(仲冬)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、11月29日までで11月30日は存在しない年もある。.

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869年

記載なし。

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907年

記載なし。

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