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平忠房

索引 平忠房

平 忠房(たいら の ただふさ)は平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の六男(五男という説もある)。母は正室の藤原経子。丹後侍従と呼ばれる。.

44 関係: 吾妻鏡吉記壇ノ浦の戦い安徳天皇安元屋島の戦い丹後国平家公達草紙平家物語平宗実平安時代平師盛平忠房平維盛平維衡平資盛平重盛平氏平清経平有盛伊勢平氏侍従後白河天皇後藤基清従五位信西紀伊国白拍子藤原経子 (藤原家成の四女)藤原脩範藤原景清正室武将治承湯浅宗重源頼朝文治1176年1179年1184年1185年1186年12月16日 (旧暦)1月8日

吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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吉記

吉記(きっき)は、平安時代末期の公家・吉田経房(1142年 - 1200年)の日記である。 経房は勧修寺流藤原氏(俗に日記の家と呼ばれる)。権右中弁藤原光房の子で、京都の東郊・吉田に別邸を建てたため、「吉田権中納言」と呼ばれ、吉田家の祖となった。『吉記』は、吉田の姓から後の人が経房の日記を呼んだ称。別に経房の官であった民部卿の唐名・戸部から『吉戸記』(きっこき)と呼ばれることもある。 仁安元年(1166年)から建久4年(1193年)まで28年分が記録されていたというが、原本は現存せず、写本(ほとんどは子孫の甘露寺親長の蒐集した書写)や他の書に引用された佚文を合わせても、断続的に13年分が残るのみとなっている。「日記の家」勧修寺流の他の公家の日記と同様、朝廷の儀式・典礼などに関する記事が詳しい。またいわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)の時代を含むため、同時期の朝廷の動きを知る上でも貴重な史料といえる。『吉記』は、内乱期の経房が蔵人頭・院別当として、朝廷の決定を詳しく知ることのできる立場にあったため、同じ内容の記事でも、まだ朝廷で中心的な立場になる前の九条兼実の『玉葉』より詳細な事実を知ることができる箇所もある。.

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壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。.

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安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、安德天皇、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))。 諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕『安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。七月十四日改元。壽永二年。五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』。.

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安元

安元(あんげん)は、日本の元号の一つ。承安の後、治承の前。1175年から1177年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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屋島の戦い

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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平家公達草紙

『平家公達草紙』(へいけきんだちぞうし)は、鎌倉時代初期に成立したと見られる平家公達の逸話を集めた小編。作者不詳だが藤原隆房という説がある。現在までに内容を異にする三種の本が伝わっている。 判明している限りでは承安4(1174年)から寿永2年(1183年)にかけての、公卿としての平家一門の華やかな日々を断片的に追想した挿話14段による回顧録。主に小松家(平重盛)一家の平維盛、平重衡に関するエピソードが多い。ただし登場人物の官職名や名前が違っているものも多い。 『平家公達草紙』から抜き出した本文に白描絵巻絵を加えて、鎌倉時代末期に作られた『平家公達草紙絵巻』がある。.

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平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

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平宗実

平 宗実(たいら の むねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。平重盛の七男。『吾妻鏡』では末子とされる。平清盛の孫。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平師盛

平 師盛(たいら の もろもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の五男、ただし『平家物語』では末子とある。母は重盛の正室の藤原経子。.

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平忠房

平 忠房(たいら の ただふさ)は平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の六男(五男という説もある)。母は正室の藤原経子。丹後侍従と呼ばれる。.

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平維盛

平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。 平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺したとされている。.

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平維衡

平 維衡(たいら の これひら、生没年不詳)は、平安時代の武将。平貞盛の四男。子に正度、正済、正輔、正能らがある。官位は、従四位上、下野守、伊勢守、上野介、常陸介。伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となった。.

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平資盛

赤間神宮の七盛塚。前列右から三番目が資盛の墓石 平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。 和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。.

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平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.

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平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

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平清経

平 清経(たいら の きよつね)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の三男。母は正室の藤原経子。横笛の名手として聞こえた。.

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平有盛

平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。 異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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後藤基清

後藤 基清(ごとう もときよ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。讃岐国・播磨国守護。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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白拍子

肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃) 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。 主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。.

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藤原経子 (藤原家成の四女)

藤原 経子(ふじわら の けいし / つねこ、生没年未詳)は、平安時代末期の女官。父は中納言・藤原家成。兄弟に藤原隆季・成親がおり、成親は同母兄と見られている。左大臣・大炊御門経宗の猶子。 平重盛の正室となり、清経・有盛・師盛・忠房を産む。仁安元年(1166年)、叙爵。同年10月、憲仁親王の立太子にあたり、乳母に選ばれた。仁安3年(1168年)、高倉天皇即位により、従五位上・典侍となる。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、勅使役を務めた。夫・重盛の官位から、大納言典侍、大納言三位と呼ばれた(ただし、従三位に叙された時期は不明)。承安元年(1171年)以降の記録は見られないが、重盛没後も存命であり、その後出家したものと推測される。.

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藤原脩範

藤原 脩範(ふじわら の ながのり、康治2年(1143年) - 没年不詳)は、平安時代後期の公家。初名は脩憲。藤原南家、少納言・藤原通憲(信西)の五男。官位は正三位・参議。.

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藤原景清

歌川国芳画『耀武八景 大寺晩鐘 悪七兵衛景清』 藤原 景清(ふじわら の かげきよ、? - 建久7年(1196年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。藤原忠清の子。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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湯浅宗重

湯浅 宗重(ゆあさ むねしげ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。藤原北家流藤原宗永の子とされる(諸説あり)。紀伊国湯浅城(現・和歌山県有田郡湯浅町青木)主。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

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1176年

記載なし。

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1179年

記載なし。

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1184年

記載なし。

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1185年

記載なし。

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1186年

記載なし。

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12月16日 (旧暦)

旧暦12月16日は旧暦12月の16日目である。六曜は先負である。.

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1月8日

1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。誕生花はアザレア。.

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