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幕府海軍

索引 幕府海軍

幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。.

215 関係: 健順丸偵察千代田形千歳丸 (江戸幕府)吹流し君沢形大坂城大坂の陣大尉大船建造の禁大阪大阪湾大日本帝国海軍大政奉還天保山天地丸天狗党の乱奥羽越列藩同盟宮古湾海戦官軍安政寺泊沖海戦富士山 (スループ)寛政小野友五郎小早上海市中央公論新社世界の艦船万延元年遣米使節下関市下関戦争幕府陸軍幕臣幕末と明治の博物館久保田藩座礁五稜郭伴鉄太郎弘化佐賀藩征夷大将軍御座船徳川家定徳川家茂徳川家慶徳川氏徳川慶喜北海道...ペナントポーハタン (蒸気フリゲート)ヤン・ドンケル・クルティウストレーシー顧問団ヘルハルト・ペルス・ライケンプロイセン嘉永咸臨丸アメリカ合衆国アメリカ海軍アダム・ラクスマンイギリスウィレム3世 (オランダ王)オランダオランダ領東インドオランダ軍オランダ海軍カピタンコルベットジョン・ブルックスループタ・キアン (商船改装砲艦)品川湊函館市函館港八丈島元治回天丸国書刊行会矢田堀鴻王政復古 (日本)神速丸神戸港神戸海軍操練所福井藩稲葉正巳第二回天箱館丸箱館湾海戦箱館戦争美賀保丸翔凰丸翔鶴丸甲鉄艦階級蟠竜丸韮山形遊撃隊 (幕府軍)荒井郁之助鍋島直正蝦夷地蝦夷共和国順動丸行速丸飛島 (山形県)飛龍丸西洋観光丸講武所豊島形貿易鳥羽・伏見の戦い鳳凰丸軍人軍艦軍艦奉行軍艦操練所軍服 (幕末)黒船来航近世蜂須賀斉裕部隊船の科学館船手頭阿波沖海戦鵬翔丸関船薩摩藩開陽丸開拓使蒸気船蒼隼丸肥田浜五郎脱走兵長崎奉行長崎形長崎海軍伝習所長州征討長州藩長鯨丸艦砲射撃老中格東アジア東艦松平定敬松平春嶽榎本武揚横須賀造船所武家諸法度水上警察水軍水野忠徳水戸藩永井尚志江差町江戸江戸幕府江戸開城源氏朝陽丸戊辰戦争戦国大名明治昇平丸海岸防禦御用掛海軍海軍奉行海軍総裁新田氏新選組文久文久の改革日米修好通商条約日本の国旗日本船舶海洋工学会旭日丸旗艦政府政事総裁職慶応慶応の改革慶應義塾大学出版会10月14日10月27日 (旧暦)11月 (旧暦)1635年1792年1845年1849年1853年1854年1855年1857年1859年1860年1861年1862年1863年1864年1865年1866年1867年1868年1869年3月 (旧暦)4月 (旧暦)4月11日5月 (旧暦)6月 (旧暦)7月 (旧暦)8月 (旧暦)9月 インデックスを展開 (165 もっと) »

健順丸

健順丸(けんじゅんまる)は、幕末に江戸幕府が保有した洋式帆船。 前身は1856年建造のアメリカ船「アルテヤ」(Althea)で、1861年(文久元年9月)に箱館奉行が奉行所配備用として22000ドルで購入した。木造バークに分類され、トン数は378トン。.

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偵察

様々な事柄についての情報を、目視観測などの手段を通じて能動的にかつひそかに収集する活動。.

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千代田形

千代田形(ちよだがた)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦。幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦で、江戸湾・大坂湾防御のため量産化が計画されていたため千代田「形」と名付けられたが、結局2番艦以降が建造されることはなかった。江戸脱走以降の艦長は森本弘策。.

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千歳丸 (江戸幕府)

千歳丸(せんざいまる伊藤(2004年)、22-23頁。)は、幕末に江戸幕府が保有した洋式船。同名船2隻があり、初代は上海へ貿易船として派遣されたことで知られる。2代目は明治政府に引き渡された。.

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吹流し

吹流し(ふきながし、吹き流しとも表記)とは、布などでできた筒を高所からぶら下げ、風向や風速を目視で確認するための設備である。一般的には道路や空港などに設置されているのが見られる。特殊な吹流しとしてはこいのぼりが挙げられる。.

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君沢形

君沢形一番船「ヘダ号」の絵図。ロシア人によって運用中の状態が描かれており、ロシア海軍の軍艦旗を掲揚している。 君沢形(きみさわがた、くんたくがた石井(2002年)、107頁。(安達裕之執筆))とは、幕末に日本の戸田村などで建造された西洋式帆船の型式である。原型は、下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産した。帆装形式はスクーナーに分類される。ヘダ号の名は戸田村に由来し、君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来する。ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となった。なお、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられることがある。.

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大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大尉

大尉(たいじょう)は、古代日本の律令制の職名の一。左右衛門府および左右兵衛府に置かれた。長官・次官・判官・主典の四等官中の判官に相当する。 ---- 大尉(たいい、だいい)は軍隊の階級の一。 尉官の最上級であり、中尉の上、少佐の下に位置する。.

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大船建造の禁

大船建造の禁(おおぶねけんぞうのきん)とは、江戸時代初期に出された大名統制法令の一つである。1635年(寛永12年)6月制定の武家諸法度第17条「五百石以上之船停止之事」は俗に「大船建造禁止令」と称される安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』平凡社〈平凡社選書〉、1995年。 .

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大阪湾

記載なし。

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大日本帝国海軍

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本(大日本帝国)に存在していた軍隊(海軍)組織である。通常は、単に日本海軍や帝国海軍と呼ばれた。戦後からは、別組織であるもののその伝統を重んじる傾向にある海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍とも呼ばれる。.

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大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.

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天保山

天保山(てんぽうざん)は、大阪府大阪市港区の天保山公園にある、人工的に土を積み上げて作って造られた山(築山) - 国土地理院地図閲覧サービス。.

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天地丸

天地丸(てんちまる)とは、江戸幕府が将軍の御座船として保有した関船である。江戸時代初期に竣工後、幕末まで200年以上に亘って使用された。.

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天狗党の乱

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱ともいう。.

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奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟でTBS系列「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。仙台藩主・伊達慶邦の命を受け、『仙台藩の坂本龍馬』とも称された仙台藩士・玉虫左太夫が、薩長を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回った。、陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、薩長中心の新政府の圧力に対抗するために結成された。 新政府軍に対抗すべく、現在の東北地方と新潟県に位置する諸藩が『東日本』として独立することが同盟の目的であるが、最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であった。よって両藩は同盟の盟約書には署名していなが会庄同盟を結成した。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、同盟は新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。 同盟のイデオローグ・理論的指導者として仙台藩の大槻磐渓の存在が挙げられる。そして、同じく仙台藩の玉虫左太夫は、仙台藩主の伊達慶邦の命を受けて東北諸藩を回り同盟を成立させた立役者の一人として知られる。なお、加盟各藩はいずれも当初は、薩長など新政府が仙台に設置した奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)に従っていた。 .

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宮古湾海戦

宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。これはアボルダージュ(フランス語・Abordage、英語・Boarding)と呼ばれるいわゆる接舷攻撃で、敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例である。.

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官軍

官軍(かんぐん)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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寺泊沖海戦

寺泊沖海戦(てらどまりおきかいせん)は、戊辰戦争中の1868年7月13日(慶応4年/明治元年5月24日)に、越後国寺泊(現在の新潟県長岡市の一部)海岸付近で起きた海戦。新政府軍艦隊が、旧幕府軍の輸送船を自沈に追い込んだ。戊辰戦争中に越後方面で起きた唯一の海戦である。.

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富士山 (スループ)

富士山(ふじやま)は、元幕府海軍所属「富士山丸」、大日本帝国海軍の軍艦。二檣(機関撤去後は三檣)バーク型木造スループである。1887年(明治20年)までの日本海軍の正式艦名は富士山艦。艦名は日本最高峰の富士山の名から採られた。.

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寛政

寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.

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小野友五郎

小野 友五郎(おの ともごろう、文化14年10月23日(1817年12月1日) - 明治31年(1898年)10月29日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚。諱は広胖(ひろとき、しばしばこうはんとも音読される)。官位は内膳正。元常陸笠間藩士、後に幕臣。和算家としては広胖、洋算家としては友五郎と呼ばれることが多い。.

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小早

小早(こはや)は、中世(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた日本の軍用船の種類のひとつで、大型の安宅船と中型の関船とで三分される内で最も小型の軍船を指す。名称の“小早”は、“小型の早船(関船)”という意味である。小早船(こばやぶね)の略ともされる。.

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上海市

上海市(シャンハイし、、 ()、呉語発音: 、)は、中華人民共和国の直轄市である。 有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。 2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超え、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)であり、いずれも首都の北京市を凌ぎ中国最大である。中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されている。 略称は滬(/こ:フー)だが、古称の申(しん:シェン)も用いられる。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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世界の艦船

『世界の艦船』(せかいのかんせん、SHIPS OF THE WORLD)は、海人社の刊行する艦船総合情報誌。1957年8月10日、創刊。月刊のほかに、別冊、増刊、CD-ROM版が存在する。また、同誌を元にした食玩の名称でもある。.

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帆(ほ)とは、風により船の推進力を得るための器具である。ヨットなどの洋装帆船において英語「sail」からきたセイル(セール)またはこれが訛ったスルなどと呼称される。 ほとんどの帆は、帆の張る方向で区別され、横帆と縦帆のいずれかに属する。ヨットなど小型帆船では縦帆のみで構成されるが、遠洋航海を目的とした大型の帆船では横帆を主として縦帆と組み合わされた帆装が施されている。.

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万延元年遣米使節

万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。.

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下関市

火の山から下関市中心部を望む 下関市(しものせきし)は、山口県西部に位置する中核市。本州の最西端に位置し、関門海峡北岸に面する。山口県最大の人口を擁する都市である。.

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下関戦争

下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。 歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。今日では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを「下関事件」、1864年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある。.

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幕府陸軍

幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。簡略化して単に幕府軍と呼称される場合もある。.

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幕臣

幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。 一般的には、江戸時代において徳川家の臣下のうち、1万石未満の禄を与えられた旗本および御家人と呼ばれる身分の者のことを指す。 彼ら旗本・御家人は、所領を与えられた者でも領地への下向を行わずに江戸に常時居住し(交代寄合として大名同様参勤交代を行うものもいた)、自身の知行高に定められた軍役を果たす準備を満たして将軍家の常備直轄軍事力としての役割を果たす一方で、江戸幕府の各種の役職(軍職の番方や吏務職の役方)を果たし、幕府の軍人・官僚として仕えた。 幕臣は幕藩体制のもとで特権を認められる世襲の武士身分であったが、江戸時代中頃から経済的に窮乏するようになり、下層の御家人の間では御家人株の売買による身分の流動が見られた。.

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幕末と明治の博物館

大洗町幕末と明治の博物館(おおあらいまちばくまつとめいじのはくぶつかん)は、茨城県東茨城郡大洗町に設置されている、主に幕末から明治時代にかけての資料を集めた博物館である。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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座礁

座礁(ざしょう)とは、船舶が暗礁や浅瀬に乗り上げ、動けなくなることを指す。元々の用字は坐礁である。ともいう。 座礁した船舶は、海底の地形などによっては座礁後に横転・転覆してしまうこともあり、岩など固い障害物の上に座礁した場合、座礁したと同時に船体に穴があいたり、あるいは波によって繰り返しゆさぶられる間に穴が開き、海水が流入し沈没してしまう場合もある。船の操縦者が通常行っている操船が一切できなくなり、自力で打てる対応策がほとんど残されていない危機的な状態であり、一般的に船乗りからは非常に恐れられている。 基本的には海難事故として発生している。ただし例外的に、沈没を免れるために意図的に座礁させる場合や、軍事的な港湾封鎖(閉塞作戦)のために意図的に船舶を座礁させる場合もある。 また、クジラやイルカなどの海洋生物が潮流で乗り上げてしまうことも座礁と呼ばれる。生きたまま座礁する場合はライブストランディングとも呼ぶ。(座礁鯨も参照の事).

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五稜郭

テレオ空中写真(1976年) 国土航空写真 五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。 五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。 国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。なお五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。.

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伴鉄太郎

伴 鉄太郎(ばん てつたろう、文政8年(1825年)- 明治35年(1902年)8月7日)は、幕末から明治期の武士・幕臣、海軍軍人。階級は海軍大佐。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御座船

御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。西洋でいう遊行用のヨットに相当する性格の船である。河川用のものは川御座船、海用のものは海御座船とも呼ぶ。.

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徳川家定

徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代征夷大将軍。.

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徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男流産した兄がいたため次男とみなされることもある。だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.

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ペナント

ペナント(pennant)は、細長い旗の一種。 細長い二等辺三角形をした「長三角旗」が多いが、長方形、台形、燕尾型(先が二又に分かれた形)などもある。いずれの場合も細長い形をしており、非常に細長いものではアスペクト比は10:1以上にもなる。普通の旗のように掲げるほか、垂らしたり、非常に細長いものは普通の旗と組み合わせて使うこともある。 ペナントはペノン(Pennon)とペンダント(pendant)の合成語である。ペノンは下級ナイト(knight bachelor)が槍につけた長三角旗、ペンダントは軍艦が掲げる長三角旗の一種である(いずれも、三角形以外のものもある)。現在ではこれらの用語ははっきりと区別されないこともある。歴史的には、ペノンやペンダントはかなり長い旗であり、それほど長くない旗はペノンセル(pennoncel)と呼ばれたが、現在のペナントにはペノンセルくらいの長さのものもある。.

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ポーハタン (蒸気フリゲート)

ポーハタン (USS Pawhatan) は、南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦である。名前はアメリカ・インディアンのポウハタン族に由来する。米国海軍では最大かつ最後の外輪フリゲート艦であった。嘉永7年(1854年)のペリーの日本再訪の際の黒船の一隻。.

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ヤン・ドンケル・クルティウス

ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius、1813年4月21日 - 1879年11月27日)は、江戸時代末期の最後のカピタン(オランダ商館長)、オランダの外交官。.

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トレーシー顧問団

トレシー顧問団(The Tracey Mission)は、幕末に幕府海軍の訓練のために招聘された、イギリス海軍の軍事顧問団。.

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ヘルハルト・ペルス・ライケン

ヘルハルト・ペルス・ライケン(1860年) 長崎海軍伝習所 ヘルハルト・クリスティアン・クンラート・ペルス・ライケン(Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken, 1810年1月10日 - 1889年5月2日)は、オランダの海軍軍人である。 安政2年(1855年)にスームビング号艦長として来日。同号は日本に贈呈され、観光丸と改名、日本で最初の蒸気船となった。それから約2年間、長崎海軍伝習所教授として日本に雇用された。主に航海術と運用術を担当し、勝海舟らの第一期生を教えた。スパルタ教官だったと言う。1857年にはヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケがライケンの職を継いだ。帰国したのち、海軍少将で外交顧問兼海軍大臣となる『』新異国叢書第10巻、雄松堂書店、1968年、緒言、p.

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プロイセン

プロイセン(、、、プロシア語: Prūsa)の歴史的地域はグダニスク湾(現、ポーランド、ロシア)からバルト海南東岸のクルシュー砂州(現リトアニア、ロシア)の端、そして内陸のマズールィ(Masuria、現ポーランド北部)までに及ぶ。プロシア(普魯西)は、英語名Prussiaに基づくの名称。 西暦98年、タキトゥスの「ゲルマニア」記述によると、スエビ族、ゴート族とその他のゲルマニア民族がヴィスワ川両岸から北東は (en:Aesti) まで居住していた。約800-900年後、Aestiは古プルーセン (Old Prussians) と名づけられ、997年以降ポラン族の新公国からの侵略には幾度も抵抗に成功した。1230年代、プルーセン人と近隣の:en:Curonians、リーヴ人達の領土は、教皇の秩序の基、ドイツ騎士団国家とし成立した。1466-1772年、プロイセンは政治的に西と東に分裂された。西はポーランド・リトアニア公国の王の守護下、東は1660年までポーランド領地となった。プロイセンの統一は、東西がプロイセン王国により政治的にも再統一されたるまで、国境、市民権、自治権により俟たれていた。 プロイセン公国とブランデンブルク辺境伯を起源とするドイツ帝国のプロイセン (1701–1947年)(ドイツ語:Preußen、英:Prussia、ポーランド語:Prusy)は、この地域の名が由来する。 古プルセーン族の地図(13世紀)、市・城はドイツ騎士団が建設.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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咸臨丸

咸臨丸(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。旧名(オランダ語名)、Japan(ヤパン号。ヤッパン号、ヤーパン号とも)。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アメリカ海軍

アメリカ海軍(アメリカかいぐん、United States Navy、略称:USN)は、アメリカ合衆国が保有する海軍である。.

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アダム・ラクスマン

アダム・ラクスマン アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露:Адам Кириллович Лаксман、瑞:Adam Laxman、1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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ウィレム3世 (オランダ王)

ウィレム3世(Willem III, 全名:Willem Alexander Paul Frederik Lodewijk van Oranje-Nassau, 1817年2月17日 - 1890年11月23日)は、オランダ国王、ルクセンブルク大公(フランス語名でギヨーム3世:Guillaume III)。ウィレム2世とその妃でロシア皇帝パーヴェル1世の娘であるアンナ・パヴロヴナの長男(第1子)。.

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オランダ

ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.

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オランダ領東インド

ランダ領東インド諸島(Nederlands-Indië、オランダりょうひがしインドしょとう)、通称オランダ領東インドは、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家、あるいはその領域をさす名称である。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシア(2005年現在)の版図にあたる。総督府所在地はバウテンゾルグ(現在のボゴール)にあった。 オランダによる、現在のジャカルタ占領から始まった東インド支配については「300年(または350年)におよぶ植民地支配」という呼び方があるが、今日のインドネシアの版図をあらわす「サバン(スマトラ島最西北部にある町)からムラウケ(ニューギニア島最東端の町)まで」の領域をオランダがほぼ完全に掌握したのは20世紀初頭のことである。 英語では「Dutch East Indies」と表記する。戦前の日本では漢語表記の「蘭領東印度(らんりょうとういんど)」から「蘭印」の略字がよく用いられた。.

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オランダ軍

ランダ軍(オランダぐん)は、オランダにおける国軍。.

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オランダ海軍

ランダ海軍(オランダかいぐん)は、オランダの海軍である。起源はハプスブルク領時代に遡り、連邦共和国の海軍を経て、王立海軍(オランダ語:Koninklijke Marine)となった。.

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カピタン

復元された出島商館内部 カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことを Opperhoofd(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。.

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コルベット

ルベット(Corvette)は軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、大きさはフリゲートよりも小さかった。 近世から近代にかけて用いられた帆柱が3本の軍艦として、18世紀末から19世紀にかけてフリゲート同様商船の護衛や沿岸警備等に使われたが、海防艦などにその任を譲り、20世紀前半に消滅した。 今日使用されているコルベットは単にフリゲートより小さい軍艦をさしている。 なお、フリゲートの項でも述べられているが、コルベットのことをコルベット艦と称することがある。.

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ジョン・ブルック

ョン・マーサー・ブルック (John Mercer Brooke、1826年12月18日 – 1906年12月14日)は、米国の海軍軍人、技術者 、科学者、教育者。大西洋横断海底ケーブルの敷設に多大な功績があり、また著名な海軍兵器発明者でもあった。咸臨丸が太平洋を横断した際には技術アドバイザーとして搭乗したが、実質的にはブルックが艦の指揮をとった。.

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スループ

ループ(、)とは、.

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タ・キアン (商船改装砲艦)

タ・キアン(USS Ta-Kiang)は、510トンの蒸気スクリュー商船で、四国艦隊下関砲撃事件の際に約1ヶ月間アメリカ海軍にチャーターされ、攻撃に加わった。その後、江戸幕府に売却され、太江丸と命名された。.

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品川湊

品川湊(しながわみなと、品河湊とも)は、武蔵国荏原郡品川(現在の東京都品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。.

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函館市

函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.

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函館港

函館港(はこだてこう)は、北海道函館市に位置している港湾。港湾管理者は函館市。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。.

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八丈島

八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。.

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元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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回天丸

回天丸(かいてんまる)は、幕末期の江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本のコルベットである。 排水量710トン、400馬力。全長69m、全幅10.6m。大砲は左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門の合計11門。プロイセンで製造され、イギリスで改装。機関と汽罐、武装はイギリス製だった。ダンツィヒ(Danzig)号、イーグル(Eagle)号、回天丸と名前が変わった。 宮古湾海戦における活躍で知られている。.

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国書刊行会

株式会社国書刊行会(こくしょかんこうかい、Kokushokankokai Inc.)は、東京都板橋区に本社を置く日本の出版社。1971年設立。.

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矢田堀鴻

堀鴻(1829-1887) 矢田堀 鴻(やたぼり こう、文政12年(1829年) - 明治20年(1887年)12月18日)は、日本の武士(幕臣)で、江戸幕府最後の海軍総裁。名は景蔵。官位は、讃岐守。函陵と号した。.

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王政復古 (日本)

王政復古(おうせいふっこ)とは、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立を宣言した政変である。.

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神速丸

速丸(しんそくまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していた運送船。アメリカ船時代の船名は「メテオ」(Meteor、隕石という意味)。 1861年にアメリカ・シャムロで建造、幕府が47,500ドルで購入し、元治元年2月6日(1864年3月13日)に箱館で受領した。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争、同年4月11日の江戸城無血開城によって幕府が瓦解し、明治政府への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚はこれを拒否して8月19日に品川沖を脱走、仙台を経て蝦夷地へ渡航した。神速丸は蝦夷地到着後、旧幕府軍が箱館を占拠したのを見届けて箱館港へ入港、そのまま待機していた。11月15日開陽丸が江差沖で座礁したと言う知らせを受けて、回天丸と共に急ぎ救助に向かったものの、開陽丸と同じく江差の風浪(タバ風)に煽られて座礁、沈没してしまった。 排水量250トン、長さ41.6m、幅5.1m、機関出力45から90馬力。.

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神戸港

戸港(こうべこう)は、兵庫県神戸市にある港湾。港湾法上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、スーパー中枢港湾の指定を大阪港と共に受けている。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港。現在の日本三大旅客港の一つ。 神戸港夕景(新港第一突堤から西を望む).

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神戸海軍操練所

海軍操練所跡碑 神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の元治元年(1864年)5月に、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。.

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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稲葉正巳

葉 正巳(いなば まさみ)は、江戸時代後期から末期の大名。安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。.

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第二回天

二回天(だいにかいてん)は、幕末に箱館政権が所有していた軍艦。元は秋田藩所有の新政府軍艦高雄丸(たかおまる)。.

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箱館丸

箱館丸復元船(1988年建造、函館港西埠頭) 箱館丸(はこだてまる)は、幕末に箱館奉行所によって建造された西洋式帆船。日本で建造された初期の洋式船の一例である。姉妹船の「亀田丸」とともに箱館形と称され、大野藩所有の「大野丸」も同型船である。実用性に優れており、箱館奉行の交代や日本各地の測量などに用いられ、「亀田丸」はニコラエフスクへ渡航しての海外交易も行った。.

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箱館湾海戦

箱館湾海戦(はこだてわんかいせん)は、戊辰戦争の一連の戦闘のうち、箱館戦争における1戦闘であり、1869年5月20日(明治2年4月9日)の新政府軍(明治政府)の蝦夷上陸から6月20日(旧暦5月11日)の箱館総攻撃までの間に函館湾で行われた海戦である。.

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箱館戦争

永嶌孟斎画 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。.

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美賀保丸

品川沖を出港する榎本艦隊。左端が「美賀保丸」。 美賀保丸(みかほまる)は、幕末に江戸幕府が保有した西洋式帆船。表記は美加保丸・美嘉保丸・三嘉保丸・三賀保丸・三加保丸とも。.

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翔凰丸

翔凰丸(しょうおうまる)は幕末・明治初期に薩摩藩が保有した軍艦(武装汽船長谷川 p.267、輸送艦)である。.

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翔鶴丸

翔鶴丸(しょうかくまる)は、幕府海軍、後に大日本帝国海軍の運送船である。日本海軍艦籍の第2号。.

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甲鉄艦

鉄艦(こうてつかん).

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階級

階級(かいきゅう).

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蟠竜丸

蟠竜丸(ばんりゅうまる)は、幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦のひとつ。また、日本海軍初期の軍艦。もとはイギリスの王室ヨットでビクトリア女王から江戸幕府に贈呈された。木造スクーナー型蒸気船。長さ23間(約41.8m)、幅3間(約5.45m)、深さ1丈7尺(約3.23m)、排水量370トン。蟠龍。蟠竜艦。後、雷電。.

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韮山形

韮山形(にらやまがた)とは、幕末に、江戸幕府の命により韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)の下で建造された、西洋式軍艦の型式である。 ロシアの技術を基に国産化された君沢形帆船を小型化したもので、帆装形式は君沢形と同じスクーナー(スクーネル)に分類される。要目は全長6間(10.9m)・内法幅8尺5寸(2.6m)・深さ4尺8寸(1.5m)で、全長は君沢形の約半分である。船体は主に松材の木造。補助推進設備として和式の艪16丁または洋式の櫂20丁を備えた。軍用が意識された設計で、武装としては船首に24ポンド短カノン砲やダライバス砲、ボート・ホイッスル(艦載用の小型榴弾砲)などを搭載でき、火薬庫も設けられていた。小型化したおかげで、工期は大幅に短縮されて1隻あたり12日間で建造可能、費用も君沢形の約1割の295両に収まった。浅川道夫によると、小型化の理由は、水深の浅い品川台場周辺への配備が予定されたためではないかという。 韮山形は1856年1月頃(安政2年11月末)から1857年頃(安政4年)までに6隻が建造された。うち4番船と5番船は下田で建造された。建造には君沢形で経験を積んだ船大工たちが従事した。就役後は、韮山代官所配下の練習船や警備船として使われたほか、東京湾を防備する品川台場の戦力を補うための砲艦として警備担当の諸藩に引き渡された。.

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遊撃隊 (幕府軍)

遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍徳川家茂死後に結成された幕府軍の部隊。 慶応2年(1866年)10月22日、講武所師範や奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」が結成され、槍術家の高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉・三橋虎蔵などが頭取を務める。 戊辰戦争では抗戦派と恭順派で意見が分かれ、抗戦派がさらに二派に別れた。一隊は村越三郎が率いて彰義隊と行動を共にする。もう一隊は伊庭八郎・人見勝太郎・岡田斧吉・本山小太郎ら36名から成り、榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出。閏4月3日には請西藩主・林忠崇と同盟を結んで決起した。各地に転戦を続けるうちに脱走兵による隊士も増え続け、およそ300名となった5月、上野戦争に参戦を図ったが敗退。その後も奥羽越列藩同盟軍に加わり抗戦を続けたが請西藩が恭順となり両同盟崩壊とともに隊士達の戦死・降伏が相次ぐ。伊庭・人見ら90余名のみが榎本艦隊と共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に身を投じた。箱館では主に松前守備を担当した。.

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荒井郁之助

荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日(1836年6月12日) - 明治42年(1909年)7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長。幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。従五位。.

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鍋島直正

鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。.

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蝦夷地

蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.

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蝦夷共和国

蝦夷共和国(えぞきょうわこく)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。.

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順動丸

順動丸(じゅんどうまる)は、幕末に江戸幕府が保有した蒸気船。元イギリス商船「ジンギー」(仁記)。 前身の「ジンギー」は1861年にイギリスで建造された蒸気船である。要目は全長約77m・幅約8.6m・深さ約5.1mで、排水量405トン。船体は鉄製。推進方式は外輪式で、360馬力の蒸気機関・煙突2本を有した「」 長岡市 2010年4月23日(2010年8月11日閲覧)。武装は大砲1-2門とわずかだった朴(2003年)、11頁。。乗員数は不明であるが、後に幕府海軍で運用時の水夫・火焚夫は65人で、これに士官が加わる。 翌1862年(文久2年)、西洋式海軍の整備を進める江戸幕府によって代金15万ドルで購入され、横浜で引き渡された。船名も、旧船名に似せた音の「順動丸」へと改名された。当初は軍艦に分類されたものの、武装が貧弱なので運送船に類別変更されて使用された。新鋭船として物資輸送のほか幕府高官を乗せることもあり、1863年1月23日に勝海舟の指揮で品川を発した船は政事総裁職松平春嶽や幕府目付の杉浦正一郎らを乗せ、兵庫を経て、29日に大坂に着いた。同年6月9日(文久3年4月23日)には攘夷実行に備えた将軍の徳川家茂による摂海(大阪湾)の防御状況視察に使用された。その2日後には、勝海舟の案内で姉小路公知一行120人余も乗船した。姉小路は乗船体験などから従来の急進的な破約攘夷論を変えたとも言われ、それが姉小路の暗殺(朔平門外の変)につながったとの見方もある。 戊辰戦争では旧幕府方の1隻として行動し、多量の軍需物資や兵員を輸送した。新潟方面の奥羽越列藩同盟への支援用として派遣され、箱館から新潟港へ軍需物資を運搬したが、その後1868年7月13日(慶応4年5月24日)に寺泊に碇泊中に新政府軍艦隊の攻撃を受けて損傷・自爆した(寺泊沖海戦)。残骸のうち外輪のシャフトが引き上げられて現存、長岡市で展示されている。.

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行速丸

行速丸(こうそくまる)は、日本海軍(兵部省所管)の運輸船。.

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飛島 (山形県)

飛島(とびしま)は、日本海に浮かぶ島。山形県酒田市に属する。離島振興対策実施地域(1955年指定)。.

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飛龍丸

飛龍丸(ひりょうまる)は、小倉藩・江戸幕府及び日本海軍(軍務官所管)の運輸船である。.

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西洋

西洋(せいよう、)は、キリスト教文明に根ざしたヨーロッパ諸国、及び北アメリカを指すが、その指し示す範囲は多様である。歴史的にはオクシデント(Occident)とも呼ばれ、その対立概念は東洋(the East, Orient、オリエント)である。.

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観光丸

観光丸(かんこうまる)は、1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦。江戸幕府初の木造外車式蒸気船。旧名スームビング号(Soembing)。スンビン号とも。長さ29間(約52.7m)、幅5間(約9m)、150馬力、大砲6門、排水量400トン。.

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講武所

講武所(こうぶしょ)は、幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。はじめ江戸の築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、のちに神田小川町に移転する。.

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豊島形

豊島形(としまがた)は、幕末に江戸幕府が建造した西洋式帆船の型式。2本マストの木造船で、要目は全長12丈2寸(36.4m)・甲板幅2丈5尺(7.6m)・深さ2丈1尺(6.4m)・1400石積み、乗員18人「諸藩船艦記」 明治2年、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C09090019500(画像15-16枚目)。型名は横須賀製鉄所沖に浮かぶ猿島の古称の豊島に由来する。「豊島形一番」から「豊島形四番」まで同型船4隻が量産された。詳細は不明な点が多く、元綱数道によれば建造地は石川島造船所であるが、船の科学館の資料によると石川島造船所では建造されていない。「豊島形四番」については建造年を「午四年」とする史料がある。 勝海舟は1866年(慶応2年)に「鳳凰丸」が石川島造船所で大改装を受けて豊島形になったとするが、戊辰戦争中に新政府方が作成した調査資料では、「鳳凰丸」は豊島形4隻とは別の船として扱われている「兵部省書類鈔録 竒捷丸外艦船取調書」 明治1年7月2日、JACAR Ref.C09090005500。杉山謙二郎によると、『遊撃隊起終録』に含まれるスケッチでも外観上の類似性は乏しいという。 竣工した豊島形各船は、幕府海軍や貸し出しを受けた諸藩の手で、運送船として使用された。1868年8月19日(明治元年7月2日)時点での新政府方の調査では、「豊島形一番」は激しく損傷しているため石川島造船所にあり、「豊島形二番」は出羽国に寄港後に消息不明、「豊島形三番」は加賀藩の物資を積んで出航中、「豊島形四番」はマストを破損して品川沖に停泊中であった。うち、「豊島形四番」は「君沢形四番」とともに水戸藩へ貸与予定となっており、「豊島形三番」に関しては加賀藩に対し、敦賀港へ回航して現地の新政府軍軍務官の指揮下に入れるよう命令が出されている。その後、1869年(明治2年)作成の史料では、「豊島形四番」は徳川宗家の所有とされている。.

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貿易

貿易(ぼうえき、international trade、trade)とは、ある国(またはそれに準ずる地域)と別の国(同)との間で行なわれる商品の売買のことをいう。商品を外国に対して送り出す取引を輸出、外国から導入する取引を輸入という。通常は、形のある商品(財貨)の取引を指すが、サービス貿易や技術貿易のように無形物の取引を含める場合もある。 多くの国で貿易額は国内総生産のかなりの比率を占める。貿易は有史以来長い間存在するものの(シルクロードやアンバーロードを参照)、経済・社会・政治の各局面で貿易の重要性が高まったのはここ数世紀のことである。工業化、交通機関の発達、グローバル化、多国籍企業、アウトソーシングはみな貿易に大きな衝撃を与える。貿易の拡大はグローバル化の基礎である。貿易は経済学の一分野として扱われ、国際金融とともに国際経済の一部門を形成する。.

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.

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鳳凰丸

鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。.

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軍人

大日本帝国陸軍の軍人と軍旗1931年(昭和6年) 軍人(ぐんじん)は、当該国家の正規の軍事組織に所属し、正規の軍事訓練を受け、国家により認められた階級を与えられた者を指す。軍人は国際法上交戦権として、敵対勢力を破壊する権利を持つ。また敵対勢力に投降した場合には、捕虜として基本的人権が保障されている。 文民や民間人の対義語として用いられ、軍人としての籍のことを兵籍・軍籍などといい、軍人としての履歴を軍歴という。軍属は原則として、文官(雇員・傭人等を含む。)であり軍人とは異なる。また、武官は軍人のうち、官吏でもある職業軍人を指し、徴兵された者は含まない。英語ではsoldierは通常陸軍軍人のみを指し、海軍、空軍、海兵隊の軍人はそれぞれseaman(またはsailor)、airman、marineという。全軍の軍人の総称としてはMilitary personnel、ラテン語ではmiles(ミーレス)という。 なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた日本国憲法第九条に従い、自衛のための必要最低限の実力組織と定義されているが、中山太郎外務大臣が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、自衛官は軍隊の構成員に該当いたします」と述べているように、諸外国における軍人にあたる自衛官は国際法上は軍隊の構成員(軍人)と扱われるとされる。.

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軍艦

軍艦(ぐんかん、warship)とは、戦闘力を持つ艦艇(非武装であっても補給艦や輸送艦などを含む)の総称。特に、海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)29条に定める船舶を指すことが多いDefinition of warships: For the purposes of this Convention, "warship" means a ship belonging to the armed forces of a State bearing the external marks distinguishing such ships of its nationality, under the command of an officer duly commissioned by the government of the State and whose name appears in the appropriate service list or its equivalent, and manned by a crew which is under regular armed forces discipline.:条文で軍艦などの「艦」とつく船の定義(乗員についても)が行われている。政府用船(巡視船等)などについては“government ships”としている。。対義語は商船。 なお「戦艦」は、「軍艦」の艦種の一つだが、軍事分野以外では、両者を同義とする用例が見られるので注意が必要である。.

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軍艦奉行

軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府により設置された役職名の事である。 安政6年(1859年)に設置される。幕府海軍を統括し、軍艦の製造・購入や操錬技術者の育成などを管轄する。万延元年(1860年)には咸臨丸を出航させる。.

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軍艦操練所

軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)とは、江戸幕府が幕末に海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関である。築地軍艦操練所とも呼ぶ。.

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軍服 (幕末)

幕府軍歩兵(1867年 ジュール・ブリュネ筆) 幕末の軍服(ばくまつのぐんぷく)は、ペリー来航後、徳川幕府および各藩において、洋式兵制の導入と並行して制定された軍服の特徴と変遷について述べる。 なお、王政復古・大政奉還を経て、戊辰戦争時における明治新政府軍と各藩の軍服についても言及するので、一部記事が軍服_(大日本帝国陸軍)、軍服_(大日本帝国海軍)と重複することを断っておく。.

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黒船来航

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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蜂須賀斉裕

蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第13代藩主。 11代将軍・徳川家斉の二十二男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。13代将軍・徳川家定(家慶の子)は甥にあたるが、僅か3歳年下である。父の家斉より偏諱を賜って斉裕と名乗る。.

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部隊

部隊(ぶたい)は、元々は軍隊などの作戦行動の基本的な単位をあらわすが、自衛隊では機関と区別して部隊を編制している。現代では警察、消防などの組織においても小規模な数名の班などにも名称として使われる。また、営業部隊、炊き出し部隊など組織の有無や規模の大小に関係なく共通する目的で、集団で行動する人々を部隊と称することがある。.

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船の科学館

船の科学館(ふねのかがくかん Museum of Maritime Science)は、公益財団法人日本海事科学振興財団が運営する海事博物館。東京都品川区東八潮の現東京臨海副都心地区に、1974年(昭和49年)7月に竣工・開館した。2011年10月に本館展示を休止したが、南極観測船「宗谷」の展示公開と屋外展示場での収蔵物展示を中心に博物館として営業しており、体験教室など各種イベントを継続して実施している。.

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船手頭

船手頭(ふなてがしら)は、江戸幕府の役職のひとつで、職制上は若年寄に属し、幕府の船舶の管理と海上運輸を掌った。役料は足高の制によれば七百石高である。.

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阿波沖海戦

阿波沖海戦(あわおきかいせん、慶応4年1月4日(1868年1月28日))は、戊辰戦争の戦闘の一つで、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦であった。兵庫沖海戦とも呼ばれる。同時期に起こった鳥羽・伏見の戦いなどと異なり、旧幕府軍側が勝利した戦いであるが、旧幕府軍は以後江戸に撤退したため、近畿の制海権は薩長新政府側に帰した。.

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鵬翔丸

翔丸(ほうしょうまる)は、幕末に江戸幕府が保有した洋式帆船である。主に航海練習船として使用された。 前身は1857年建造のイギリス商船「カタリナ・テレジア」。1858年(安政5年)、佐賀藩がオランダに発注した工作機械を輸送して長崎港に寄港したところを、幕府が長崎海軍伝習所などで使用する練習船として購入した。勝海舟によれば、長崎海軍伝習所の練習艦「観光丸」が築地の軍艦教授所(後の軍艦操練所)に移籍してしまったため、新たな練習艦「咸臨丸」の到着までの補充が必要だったというが、「咸臨丸」は前年8月には日本に到着している。横帆航行の練習用に適した船が求められたとも言われる藤井(1991年)、92-95頁。。 本船は蒸気機関は持たない木造帆船で、長さ約36m・幅約7.5m・340トンという要目である。帆装形式は、勝海舟のまとめた『船譜』によれば、3本のマストのうち前2本に横帆、最後尾マストに縦帆を張った三檣バーク勝(1967年)、443頁。。ホイセン・ファン・カッテンディーケは、スクーナーだったと述べているがカッテンディーケ(1961年)、66-67頁。、これは帆装形式ではなく軍艦の等級の区分の意味である可能性がある。武装として大砲4門を備えた勝(1967年)、120頁。。 1858年2月頃、幕府は「鵬翔丸」の江戸回航を決めた。そこで、ホイセン・ファン・カッテンディーケら長崎海軍伝習所のオランダ人教官も同乗して慣熟航海が繰り返された。その後、同年6月21日(5月11日)に、船長の伊沢謹吾以下、中島三郎助・榎本武揚・春山弁蔵ら60人の伝習生が乗り組み、江戸へ出帆した。当初は勝海舟を船長とする予定だったが、交代となった。中継地の山川湾までは「咸臨丸」が曳航してオランダ人教官も同乗したが、そこからは日本人乗員だけで航海を続けた。蒸気船「観光丸」で日本人だけの長崎・江戸間の航海を実行したことはあったが、洋式帆船では初めての試みであった。ホイセン・ファン・カッテンディーケは、日本近海の気象条件の厳しさや乗員の未熟さから遭難を危惧し、幕府が日本人だけでの江戸回航を要望した際には反対していた。結果として「鵬翔丸」は悪天候にもかかわらず6日間の単独航海で無事に浦賀へ入港した。乗員たちは自信を深めたが、その運用術は問題点が多いものであった。 以後は主に江戸方面で軍艦操練所の練習船や運送船として使用された。万延元年遣米使節の派遣に際しても候補の一隻に挙げられたが、蒸気船でないためすぐに外され、最終的に「咸臨丸」が選択された。「鵬翔丸」は、1860年9月8日(万延元年7月23日)に下田沖で台風に巻きこまれて沈没した。.

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閏(うるう、じゅん)とは、暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。.

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関船

関船(せきぶね)は、日本の水軍で中世後半(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた中型の軍用船。大型の安宅船と、小型の小早との間に位置する規模の軍船である。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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開陽丸

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦である。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型帆船。排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。.

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開拓使

開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。 樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県・函館県・根室県が設立された。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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蒸気船

蒸気船(じょうきせん)とは、蒸気機関を用いスクリュー・プロペラや外輪を廻すことより推進する船のことである。蒸汽船や汽船ともいう。 ミシシッピー川の河船をモデルにした蒸気外車船フロンティア号 一般に蒸気船といえば石炭を燃料とする古典的な船のことを指し、蒸気タービンや原子力による蒸気機関を持つ船は蒸気船と呼ばれない。.

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蒼隼丸

蒼隼丸(そうしゅんまる)は、江戸時代後期の1849年に幕府が、浦賀奉行所の警備船として建造した帆船である。比較的小型ではあるものの、西洋式帆船であるスループの構造を取り入れた設計であった。東京湾の警備用として同型船が量産された。.

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肥田浜五郎

根津欽次郎。 肥田 浜五郎(ひだ はまごろう、文政13年(1830年)1月 - 明治22年(1889年)4月28日『官報』第1747号、「彙報 - 故肥田宮内省御料局長官履歴」1889年4月30日。)は、豆州肥田氏の末裔で幕末期の幕臣、技術者、明治期の官僚。長崎海軍伝習所第二期生。諱は為良(ためよし)。.

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脱走兵

脱走兵(だっそうへい、英語:Deserter)とは軍事用語としての定義では「その軍人が負うべき義務を放棄した者」とされる。.

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長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。.

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長崎形

長崎形(ながさきがた)は、幕末に、長崎海軍伝習所で建造された西洋式帆船。長崎の古名「瓊ノ浦」「玉ノ浦」に由来して、瓊浦形あるいは玉浦形とも言う。船名の「-形」は「-型」の意味で、同型船量産予定の幕府船に用いられた命名方式である。佐賀藩も同型船「晨風丸」を建造した。.

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長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された 併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。.

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長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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長鯨丸

長鯨丸(ちょうげいまる/ちゃうげいまる)は、日本海軍(軍務官所管)の運輸船。.

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艦砲射撃

艦砲射撃(かんぽうしゃげき)は、軍艦が搭載する大砲(すなわち艦砲)で射撃を実施することである。本来の意味としては、標的が艦船であるか地上目標であるかは問わない。 ただし、昨今では艦砲射撃と言えば軍艦を浮き砲台として使用し、陸上の目標を海上から攻撃するニュアンスを含んでいることが多い。 対地射撃を実施する場合は、上陸前支援や、沿岸部での戦闘における支援射撃に活用される。.

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艪(ろ)は、人力によって舟艇の推進力を得るための装置。櫓とも書く。.

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老中格

老中格(ろうじゅうかく)または老中並(ろうじゅうなみ)は、江戸幕府において、老中に準じる者に与えられた役職。時代によって役務や処遇の位置づけに変化があった。 初めて老中格の職務と待遇が明文化されたのは松平輝貞の事例であった。老中と比較した職務では、月番交代と老中奉書への加判を行わない、老中と同じく寛永寺・増上寺・紅葉山参拝の名代や御三家・国持大名の参勤交代の挨拶に将軍の上使を勤める、御礼事・御祝儀事・諸献上・諸音物等は老中同様であった。処遇については、基本的に老中と変わりがなかったが、諸大名・諸太夫からの願書は老中と違って、宛先記載のないものを提出することになっていた。なお、幕末の老中格はそれ以前と異なり、正規の老中同様に幕政中枢の責任者として重用された。老中就任に必要な最低家禄の2万5,000石に満たない者の場合に老中格へ任用される。この場合、無城大名は城主格大名へ昇格する。.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東艦

東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(甲鉄艦)(CSS Stonewall))は、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。種類ではマスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。 本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。.

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松平定敬

四兄弟(1878年9月撮影)左から定敬、容保、茂栄、慶勝 松平 定敬(まつだいら さだあき)は、幕末の伊勢桑名藩の藩主(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。.

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松平春嶽

松平春嶽 松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。 田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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横須賀造船所

ヴェルニーの指導の下、横須賀製鉄所で製造された煉瓦の刻印部分。1866年頃から製造され、観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台等の建造に使用された。 横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。 構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われる。.

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武家諸法度

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。ここでいう武家とは天和令までは旗本御家人や藩士(幕府からみた陪臣)など広い意味での武家は含まず、大名のことを指す(幕臣については武家諸法度を照応した諸士法度で規定され、天和令において統合された)。 最初は元和元年(1615年)に発布されたもの(元和令)だが、徳川吉宗による享保2年(1717年)の享保令まで改訂が重ねられた。.

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水上警察

水上警察(すいじょうけいさつ)とは、海・内水面等の水上や港湾・沿海域で展開される警察活動又はそれを任務とする警察組織を指す。.

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水軍

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.

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水野忠徳

水野 忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年) - 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。諏訪庄右衛門頼篤の子。文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。忠敬の父。初名は忠篤。号は癡雲(ちうん)。筑後守・下総守。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。.

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江差町

江差町(えさしちょう)は、北海道檜山振興局中部にある日本海に面した町。檜山振興局の所在地。宗谷総合振興局の枝幸町と区別するため、放送局の天気予報などでは当町を「檜山江差」ないし「道南の江差」、枝幸町を「北見枝幸」と呼ぶことが多い。江差追分発祥地。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸開城

江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)とも江戸無血開城(えどむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。 ※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。.

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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朝陽丸

朝陽丸(ちょうようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本の小型コルベット艦。 排水量300トン。全長49m、全幅7.27m。大砲12門。江戸幕府が咸臨丸ともに初めてオランダに発注した軍艦である。オランダで名付けられた旧名はエド(Yedo、江戸)号。 維新後、明治新政府の手に渡り、明治政府海軍に所属。箱館戦争に参加し沈没する。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昇平丸

昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦である。後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称した。.

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海岸防禦御用掛

海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)は、江戸幕府の職名の一つ。通称して海防掛ともいう。寛政4年(1792年)に設置され、当初は常設ではなかったが、弘化2年(1845年)からは常設となった。嘉永6年(1853年)のペリー来航に際して強化され、安政5年(1858年)に外国奉行の設置に伴い廃止された。.

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海軍

ョージ・ワシントン アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 海軍(かいぐん、navy)は軍事作戦のために主に艦艇を使用する軍事組織を言う。.

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海軍奉行

海軍奉行(かいぐんぶぎょう)は、幕末に江戸幕府により設置された役職である。役料は5000石。 慶応元年(1865年)に設置される。初代は下野黒羽藩大関増裕。翌年には海軍奉行を補佐する海軍奉行並が設けられる。軍艦奉行の上役として幕府海軍を統括した。慶応2年(1866年)に海軍総裁が常設されると、その下役となった。.

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海軍総裁

海軍総裁(かいぐんそうさい)は幕府海軍の最高職である。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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新選組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長の近藤勇を始め、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年頃から高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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文久の改革

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。.

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日米修好通商条約

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。 江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。欧語ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。.

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日本の国旗

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日でも一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。 1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色とされている。上下・左右対称である。 日章と旭光を意匠化した旗については旭日旗を参照。.

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日本船舶海洋工学会

公益社団法人 日本船舶海洋工学会(にほんせんぱくかいようこうがくかい)は、船舶及び海洋工学に関する学術技芸を考究し、その発達を図ることを目的としている。.

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旭日丸

旭日丸(あさひまる)は、江戸時代末期に幕府の命で水戸藩が建造した西洋式帆船である。日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつであった。幕府海軍で使用され、明治維新後も輸送船として実用された。本船のために開設された石川島造船所は、「千代田形」の建造などを経て発展し、IHIの起源となっている。.

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旗艦

旗艦(きかん, flagship; フラグシップ)とは、司令官(司令・司令長官などを含む)やその幕僚が座乗し、指令・命令を発する艦を指す海軍用語「歴代旗艦物語」勝山拓 世界の艦船2011年11月号 P92-97 株式会社海人社。海上自衛隊では「はたぶね」とも読む。.

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政府

政府(せいふ、government, rectio)とは、近代国家において国家もしくは国家の一部分となる地方における統治機構(国家の意思決定及び統治のための組織)の総体。 広義には、統治に関わる立法・司法・行政すべての機関および機構の総称を指し、狭義には、行政を司る内閣とそれに付属する行政機関(執行機関)から成る行政府を意味する。それぞれ、アメリカやイギリスなどの英米法系の国家では広義の意味で、ドイツや日本などの大陸法系の国家ただし、戦後の日本国憲法は、大陸法の源流ともいうべきドイツが英米法への移行を企図したように、英米法を指向したもので、警察制度や司法制度に特徴づけられる。このように地方の自治権を尊重する英米法を採用している。では狭義の意味で、用いられる語である。なお、マルクス主義の立場からは「支配階級の政治委員会」に位置付けられる。 明治時代以降の日本政府の関係者(行政関係者)が「日本国政府」を指す場合に、省略して「政府」と言う場合がある特に(江戸幕府と対比する文脈などで)明治期の日本の政府を指す場合は「明治政府」と呼ばれることがある。。.

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政事総裁職

政事総裁職(せいじそうさいしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶応の改革

慶応の改革(けいおうのかいかく)は、慶応2年(1866年)以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた改革。結果的には江戸幕府最後の幕政改革となった。.

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慶應義塾大学出版会

慶應義塾大学出版会株式会社(けいおうぎじゅくだいがくしゅっぱんかい、英称:Keio University Press Inc.)は東京都港区三田に本社を構える日本の出版社である。ほとんどの大学出版社は大学の傘下に置かれているが、慶應義塾大学出版会は学校法人である慶應義塾とは独立した株式会社である。.

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10月14日

10月14日(じゅうがつじゅうよっか、じゅうがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から287日目(閏年では288日目)にあたり、年末まであと78日ある。.

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10月27日 (旧暦)

旧暦10月27日は、旧暦10月の27日目である。六曜は赤口である。.

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11月 (旧暦)

旧暦11月(きゅうれきじゅういちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から11番目の月である。 冬至を含む月が11月となる。新暦では11月下旬から1月上旬ごろに当たる。 11月の別名は霜月(しもつき)である。名前の由来は11月を参照のこと。異名は「ちゅうとう(仲冬)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、11月29日までで11月30日は存在しない年もある。.

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1635年

記載なし。

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1792年

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1845年

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1849年

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1853年

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1854年

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1855年

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1857年

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1859年

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1860年

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1861年

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1862年

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1863年

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1864年

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1865年

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1866年

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1867年

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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3月 (旧暦)

旧暦3月(きゅうれきさんがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から3番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、穀雨を含む月を3月とする。新暦では3月下旬から5月上旬ごろに当たる。 3月の別名は弥生(やよい)である。名前の由来は3月を参照のこと。異名は「きしゅん(季春)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、3月29日までで3月30日は存在しない年もある。.

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4月 (旧暦)

4月の別名は卯月(うづき)である。名前の由来は4月を参照のこと。異名は「もうか(孟夏)」。新暦では4月下旬から6月上旬ごろに当たる。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、4月29日までで4月30日は存在しない年もある。.

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4月11日

4月11日(しがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から101日目(閏年では102日目)にあたり、年末まではあと264日ある。誕生花はヤグルマギク、クンシラン。.

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5月 (旧暦)

旧暦5月(きゅうれきごがつ)は、和暦(太陰太陽暦の旧暦)の年初から5番目の月である。 夏至を含む月が5月となる。グレゴリオ暦(新暦)では5月下旬から7月上旬ごろに当たる。 5月の別名は皐月(さつき)である。名前の由来は5月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、5月29日までで5月30日は存在しない年もある。.

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6月 (旧暦)

旧暦6月(きゅうれきろくがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から6番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、大暑を含む月を6月とする。新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。 6月の別名は水無月(みなづき)である。名前の由来は6月を参照のこと。異称は「きか(季夏)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、6月29日までで6月30日は存在しない年もある。.

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7月 (旧暦)

旧暦7月(きゅうれきしちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から7番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、処暑を含む月を7月とする。新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。 7月の別名は文月(ふみづき/ふづき)である。名前の由来は7月を参照のこと。異名は「もうしゅう(孟秋)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、7月29日までで7月30日は存在しない年もある。.

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8月 (旧暦)

旧暦8月(きゅうれきはちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から8番目の月である。 秋分を含む月が8月となる。新暦では8月下旬から10月上旬ごろに当たる。 8月の別名は葉月(はづき)である。名前の由来は8月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、8月29日までで8月30日は存在しない年もある。.

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9月

9月(くがつ)はグレゴリオ暦で年の第9の月にあたり、30日ある。 日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 9月はその年の12月と同じ曜日で始まるのと同じである。 英語での月名 September は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus」の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。 日本の学校年度や会計年度は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い。(アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国など).

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