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帝乙

索引 帝乙

帝乙(ていいつ)は、殷朝の第29代王。 太丁の子、比干の兄、微子啓・微子衍・帝辛(紂王)の父。.

7 関係: 帝辛微子啓微仲衍甲骨文字比干文武丁

帝辛

帝辛これら諡号・名とも殷滅亡後に呼ばれたものである。出土した甲骨文占卜の中の殷王の諡号には、この帝辛のように「帝」を含む殷王の例はないが、武丁を帝丁と呼ぶ事例もあることから、殷王の諡号として必ずしも矛盾と断ずることはできない。(ていしん、、紀元前1100年ごろ)は、殷朝最後の第30代王。周の武王に滅ぼされた。紂王(ちゅうおう、)の名でも知られる。 帝乙の末子。異母兄に微子啓と微仲衍らがいる。子に武庚禄父ら。 史書の上では、暴虐な悪政を行なった王とされ、『史記集解』は「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と記されている。.

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微子啓

微子啓(びしけい)は、中国の殷の王族。帝乙の長子。微は封じられた国名、子は子爵、啓が諱である。『史記』では諱が開になっているが、これは前漢の景帝(劉啓)を避諱したものである。.

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微仲衍

微仲衍(びちゅうえん、生没年不詳)は、中国の殷の王族。帝乙の次子、微子啓の弟、帝辛の兄。微仲とも微子衍とも呼ばれるが、これは後世の人々が微子を王族(王子など)の称号と混同したため(このことは『封神演義』における比干の息子、微子徳(架空)の存在などからうかがえる)。 『史記』によると宋公である兄の微子啓に子がなかったため、跡を継いで宋公になったとある。歴史書による記述に欠け、功績なども不明の人物である。 えん Category:夏殷周の人物.

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甲骨文字

文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。 漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。 殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。 2017年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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比干

比干(ひかん、生没年不詳)は、中国殷代の王族。文武丁の子で帝乙の弟。帝辛(紂王)の叔父に当たる。名は比で、干の国に封じられたので比干と呼ばれる。 『史記』殷本紀によると、甥の紂王が暴政を行い、西の周の西伯昌(後の文王)の勢力が増大していた頃、紂王を諌めたが聞き入れられなかった。周で文王が死んで発(後の武王)が立つと周の勢力はますます増大し、殷の他の者達は逃げ出してしまったが、比干は「臣下たる者は命をかけて諫言しなければならない」と紂王に対して諫言をした。しかし紂王はこれを聞かず、「聖人の心臓には7つの穴が開いているそうだ」といって比干を殺害した。 その後、紂王は周の武王に討たれ、殷は滅亡した。武王は比干の墓に厚く土盛をして比干に対する哀悼の念を捧げた。武王が比干の忠烈を称え、比干の子の堅がその後を継ぎ子孫が林氏と称したと伝わる。 河南省衛輝市に比干廟(北魏時代の494年建立)がある。 『封神演義』では、「微子徳」という子がいる設定にされている。.

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文武丁

太丁(たいてい)は、殷朝の第28代王。帝乙・比干・箕子の父でもある。ただし発掘された甲骨文占卜の諡号は文武丁である。.

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