ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

市川團蔵 (7代目)

索引 市川團蔵 (7代目)

七代目 市川 團藏(しちだいめ いちかわ だんぞう、新字体:団蔵、1836年5月5日(天保7年3月20日) - 1911年(明治44年)9月11日)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は三河屋。定紋は縦長三升、替紋は結び柏。俳名に三猿・市紅、雅号に市紅庵がある。現在の團蔵の型を作った。 江戸生まれ、父は料理人の丸屋伊三郎。天保10年(1839年)二代目市川九蔵の養子となり市川銀蔵を名乗る。のち二代目市川茂々太郎を襲名。弘化4年(1847年)2月二代目市川白蔵を襲名。安政元年(1854年)三代目市川九蔵を襲名。この間養父と友に江戸上方の舞台に立つ。九蔵襲名後は江戸に拠点を構え、名人と呼ばれた四代目市川小團次に師事、後々にまで大きな影響を受ける。明治以降は九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎と並ぶ技量を持ちながらも両優と衝突し、小芝居や旅回りの舞台に勤め不遇な時期を送る。だが、才能を惜しんだ興行師田村成義の斡旋で團十郎と和解。明治30年 (1897年)6月明治座『弓張月源家鏑矢』で七代目市川團蔵を襲名。ようやく真価が認められ團十郎・菊五郎とならぶ名優と評された。晩年に歌舞伎座でつとめた『伽羅先代萩』(先代萩)の仁木弾正は名演と評された。 しわがれ声と鋭い目つきが特色で、当り役は、仁木弾正のほか、小團次直伝の『東山桜荘子』(佐倉義民伝)の宗吾・光然、『時今也桔梗旗揚』(馬盥の光秀)の武智光秀、『仮名手本忠臣蔵』(忠臣蔵)の師直・勘平、『東海道四谷怪談』(四谷怪談)の直助権兵衛、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸、『楼門五三桐』(山門)の石川五右衛門など。娟介な性格で周囲との衝突は絶えなかったが、芸熱心で、敵対していた團十郎もその点は高く評価していた。團蔵の仁木に團十郎が男之助で舞台を共にした時、團十郎の政岡と勝元は素晴らしかったとの賛辞に対して、「否々、今度のは全く仁木の客で厶ります。私も久し振りに本当の仁木を見ました」と團十郎は答えている。 『義経千本桜』の知盛では、目に紅をつけて血走った様を表し、目を悪くしても止めなかった。『先代萩』仁木では通常は仁木の役の型を完成した五代目松本幸四郎に敬意を表して眉尻にホクロをつけるのを、「幸四郎を見せるのではなく仁木を見せるんだ」と決してホクロをつけなかった。その仁木が花道のスッポンからせり上がるとき、額に紅を一滴たらし反身になって出、前を向くと額から紅がたらりと流れて、凄みをみせたという。『馬盥』の光秀では、主君から辱めを受け鉄扇で打たれたとき、額から血を流しながら大きな眼で無念の形相を見せ、反逆児の内面を見事にあらわした。 明治を代表する劇評家の三木竹二は「…頬骨張りし面いかにも一癖あるべく見え、口を結びて折々じろりじろりと上眼に見廻す眼中物凄く、(中略)ねちりねちりと咳枯聲にて言伏する呼吸、また一種の妙味あり。大岡を尻目に見て冷笑ひ、後へ引き下がり少し反身になりての引つ込みいへぬいへぬ」と評した。 七代目は團蔵型とよばれる独自の型を作り上げ、観客の支持を受けた。新聞の訃報には「劇界稀に見る娟介の優、技藝以外、何ものにも屈する所」がなかったと賛辞を送っている。墓は東京都台東区谷中天王寺墓地にある。 実子は八代目市川團蔵。八代目は『七世市川團蔵』(求龍堂、1943)を著して仔細に七代目の芸を分析している。.

41 関係: 吉良義央天保家紋安政尾上菊五郎 (5代目)屋号市川小團次 (4代目)市川九蔵市川團十郎 (9代目)市川團蔵市川團蔵 (6代目)市川團蔵 (8代目)市川白蔵市川茂々太郎三河屋 (歌舞伎)三木竹二幕末仮名手本忠臣蔵伽羅先代萩弘化佐倉惣五郎スッポン四谷怪談義経千本桜田村成義花道菅原伝授手習鑑松本幸四郎 (5代目)楼門五三桐歌舞伎歌舞伎座江戸明治明治座明智光秀時今也桔梗旗揚1836年1911年3月20日 (旧暦)5月5日9月11日

吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と吉良義央 · 続きを見る »

天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と天保 · 続きを見る »

家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と家紋 · 続きを見る »

安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と安政 · 続きを見る »

尾上菊五郎 (5代目)

五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらしま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と尾上菊五郎 (5代目) · 続きを見る »

屋号

屋号、家号(やごう)とは、一門・一家の特徴を基に家に付けられる称号のことである。日本、ヨーロッパにおいて使用されている例がある。日本の場合、家紋のように屋号を記号化・紋章化した屋号紋を指すこともある。また、前述の本来の屋号から派生して企業や店の名称などを屋号と呼ぶ場合もある。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と屋号 · 続きを見る »

市川小團次 (4代目)

四代目 市川小團次(よだいめ いちかわ こだんじ、文化9年(1812年)1月 - 慶応2年5月8日(1866年6月20日))は幕末の歌舞伎役者。幼名は榮太(えいた)、また榮次郎(えいじろう)とも。俳名は米升。屋号は高島屋。定紋は三升。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川小團次 (4代目) · 続きを見る »

市川九蔵

市川 九藏(いちかわ くぞう、新字体:九蔵)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は初代が成田屋、二代目以降が三芳屋。定紋は八重桔梗。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川九蔵 · 続きを見る »

市川團十郎 (9代目)

九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎 1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。 五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。 その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川團十郎 (9代目) · 続きを見る »

市川團蔵

市川 團藏(いちかわ だんぞう、新字体:団蔵)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は三河屋、六代目は三芳屋とも。定紋は縦長三升、替紋は結び柏。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川團蔵 · 続きを見る »

市川團蔵 (6代目)

六代目 市川團蔵(ろくだいめ いちかわ だんぞう、寛政12年〈1800年〉 - 明治4年10月22日〈1871年12月4日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は三河屋、定紋は縦長三升、替紋は結び柏。俳名は三猿、團猿、雅号に市紅庵、松秀舎。 父は四代目市川團蔵の門弟初代市川荒五郎。江戸に生まれ、文化2年(1805年)市川昭世と名乗って初舞台を踏む。文化10年 、七代目市川團十郎の門下に加わり市川三蔵と改名。文化13年には初代市川茂々太郎と改名、この間に子供芝居に出る。上方や九州の舞台にも立ち、天保2年(1831年)、大坂で初代市川白蔵と改名。天保5年、江戸に帰って二代目市川九蔵を襲名する。その後は江戸と上方を往復しながら舞台を務める。嘉永5年8月(1852年)、五代目市川團蔵の未亡人の養子となり、同年10月大坂角の芝居『金烏玉兎倭入船』で六代目市川團蔵を襲名した。 体格は小柄ではあったがいろいろな役をこなした。しかし芸風は地味で人気は上がらなかったという。一方、初代團蔵と二代目團蔵が得意とした演目を「古劇八種」というお家芸にまとめている。養子に七代目市川團蔵がいる。墓所は谷中墓地にある。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川團蔵 (6代目) · 続きを見る »

市川團蔵 (8代目)

八代目市川團蔵(はちだいめ いちかわ だんぞう、明治15年(1882年)5月15日 - 昭和41年(1966年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川團蔵 (8代目) · 続きを見る »

市川白蔵

市川 白藏(いちかわ はくぞう、新字体:白蔵)は、歌舞伎役者の名跡。定紋は縦長三升、替紋は結び柏。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川白蔵 · 続きを見る »

市川茂々太郎

市川 茂々太郎(いちかわ ももたろう)は歌舞伎の名跡の一。屋号は三河屋。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と市川茂々太郎 · 続きを見る »

三河屋 (歌舞伎)

三河屋(みかわや)は、歌舞伎役者の屋号。 由来は未詳。 三河屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と三河屋 (歌舞伎) · 続きを見る »

三木竹二

三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医者。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。歌舞伎の型などを研究し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した。近年、初めてその劇評をまとめた『観劇偶評』(渡辺保編、岩波文庫、2004年)が刊行された。兄は小説家の森鴎外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と三木竹二 · 続きを見る »

幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と幕末 · 続きを見る »

仮名手本忠臣蔵

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。 大石内蔵助こと大石良雄の家紋「二つ巴」。この家紋のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と仮名手本忠臣蔵 · 続きを見る »

伽羅先代萩

六代目尾上梅幸の政岡をモデルにしたといわれている。 『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)は、伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。通称「先代萩」。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と伽羅先代萩 · 続きを見る »

弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と弘化 · 続きを見る »

佐倉惣五郎

1889) より 佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と佐倉惣五郎 · 続きを見る »

スッポン

ッポン(鼈、)は、爬虫綱カメ目スッポン科キョクトウスッポン属に分類されるカメ。「キョクトウスッポン」「シナスッポン」の名で呼ばれることもある。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)とスッポン · 続きを見る »

四谷怪談

『四ツ谷怪談』(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と四谷怪談 · 続きを見る »

義経千本桜

『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。通称『千本桜』。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と義経千本桜 · 続きを見る »

田村成義

村 成義(たむら なりよし、嘉永4年2月9日(1851年3月11日) - 大正9年(1920年)11月8日)は、歌舞伎劇場の経営者で、「田村将軍」と異名を取った人物。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と田村成義 · 続きを見る »

花道

花道(はなみち)は、舞台から客席を縦断するように同じ高さで張り出したもので、舞台の延長としてここでも演技が行われる。舞台から一続きの廊下のように見える。 歌舞伎等が行われる劇場では役者が舞台上に出入りするために使い、下手(しもて=客席から向かって左側)よりにあるものを本花道、上手(かみて)よりを仮花道という。仮花道は臨時に設置されることが多く、常設の劇場はまれであるが、近年では必要に応じて花道自体を昇降させて客席と切り替える機構(花道迫り)を備えた劇場もある。 花道の名前の由来は、役者に祝儀(花)を通路で渡したことからその名がついたとも言われる。 舞台設備としての起源は能楽の橋懸(はしがかり)に由来するとされる。歌舞伎では花道から登場する人物は、七三の位置(花道を十等分して舞台から三分目と四分目の間)で一旦動きを止め、短い演技(長いこともある)を見せるのが定石である。本格的な花道には七三に「すっぽん」と呼ばれる小型のせりがあり、脚本・演出にあわせて使用される。 観客から見て二次元的な存在の舞台上から、役者が客席側に出ることで三次元的な演出を可能にしている点で、演劇史上特筆すべきものといえる。現代劇でも使用されるが、客席によって役者との距離が大きく変わり、内容があらかじめわかっていることの多い歌舞伎と違い、観客に不公平感を持たせてしまいやすいこと、また客席が少なくなってしまうため使用されることは少ない。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と花道 · 続きを見る »

菅原伝授手習鑑

四代目中村芝翫の舎人松王丸。「寺子屋」での松王丸の姿を描く。豊原国周画。 『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と菅原伝授手習鑑 · 続きを見る »

松本幸四郎 (5代目)

五代目 松本 幸四郎(ごだいめ まつもと こうしろう、明和元年(1764年) - 天保9年5月10日(1838年7月1日)は江戸の歌舞伎役者。屋号は高麗屋。定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。俳名に錦升・金升・錦江、雅号に秋夜亭がある。江戸後期の名優で、その面立ちから俗に鼻高幸四郎(はなたか こうしろう)と呼ばれた。 父は四代目松本幸四郎。明和7年 (1770) 市川純蔵と名乗り江戸中村座で初舞台。三代目市川高麗蔵を経て享和元年11月 (1801)、父の男女川京十郎改名とともに五代目松本幸四郎を襲名。天保9年5月 (1838)、中村座出演中に倒れて死去。 はじめ立役を演じていたが実悪に転じた。鋭い目つきと高い鼻が凄みを与え、東洲斎写楽・初代歌川豊国・三代目歌川豊国の芝居絵にもその芸風が窺われる。実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受けた。彼が舞台で見得をするとあまりの怖さに子供が泣出したと言われている。文化2年11月 (1805) 市村座『けいせい吉野鐘』では評判記『役者大極丸』に「年若なれどもお江戸の大立者、実事実悪とも兼備たるお上手故めったにのぼす事ではないわいの」と書かれている。 当り役は『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王、『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『義経千本桜』の権太。とくに『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の仁木弾正(にっき だんじょう)は生涯の当り役となり、今日に至るまで彼に敬意を評して、仁木の左の眉尻にはホクロを描いたり(このホクロは五代目の顔の特徴のひとつだった)、四つ花菱や三つ銀杏の紋様が衣装の至る所にちりばめられていたりする(四つ花菱は松本幸四郎の定紋、三つ銀杏は市川染五郎の定紋)。顔のもう一つの特徴だった高い鼻は、『菅原伝授手習鑑・車引』の松王が客席ではなく舞台下手に向かって横向きに見得を切るいう独特の型になって今日に伝わっている(元は幸四郎の鼻の高さを強調した演出だったのが定着した)。 四代目鶴屋南北と組み、時代物では『時今也桔梗旗揚』(馬盥)の武智光秀のような謀反人、世話物では『東海道四谷怪談』の直助権兵衛、『謎帯一寸徳兵衛』の大島團七などの悪役を演じた。いずれも冷酷な役どころで、とくに世話物では庶民の生々しい姿を写実的に演じ新しい芸風を確立。その後の歌舞伎に大きな影響を与えた。 子に六代目松本幸四郎、養子に三代目市川壽美蔵がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺。 Category:江戸時代の歌舞伎役者 Category:武蔵国の人物 Category:1764年生 Category:1838年没.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と松本幸四郎 (5代目) · 続きを見る »

楼門五三桐

『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)は、安永7年4月 (1778年4月) 大坂角の芝居で初演された歌舞伎の演目。初代並木五瓶作、全五幕。二段目の返し「南禅寺山門の場」を単独で上演するときは特に『山門』(さんもん)と通称される。初演時の外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんの きり)、のちに改称されて現在の外題となった。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と楼門五三桐 · 続きを見る »

歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と歌舞伎 · 続きを見る »

歌舞伎座

歌舞伎座(かぶきざ)は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。 歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座、中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、p173。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある。 歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」が劇場を所有している。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と歌舞伎座 · 続きを見る »

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と江戸 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と明治 · 続きを見る »

明治座

明治座(めいじざ、英語:Meijiza)は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:Meijiza Co., Ltd.)である。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と明治座 · 続きを見る »

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と明智光秀 · 続きを見る »

時今也桔梗旗揚

『時今也桔梗旗揚』(ときは いま ききょうの はたあげ)は歌舞伎の演目。通称『馬盥の光秀』(ばだらいの みつひで)。全五幕。時代物。勝諺蔵(四代目鶴屋南北)作、文化五年七月(1808年8月)江戸市村座初演。初演時の本外題は『時桔梗出世請状』(とき ききょう しゅっせの うけじょう)。 外題の「時」は明智光秀が土岐家の末裔であった説と、謀反の直前愛宕山の宿坊で詠んだ連歌「天正十年愛宕百韻」における、光秀作の冒頭の第一句「時は今天が下知る皐月かな」に、「桔梗」は光秀の家紋にそれぞれ由来する。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と時今也桔梗旗揚 · 続きを見る »

1836年

記載なし。

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と1836年 · 続きを見る »

1911年

記載なし。

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と1911年 · 続きを見る »

3月20日 (旧暦)

旧暦3月20日は旧暦3月の20日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と3月20日 (旧暦) · 続きを見る »

5月5日

5月5日(ごがついつか)はグレゴリオ暦で年始から125日目(閏年では126日目)にあたり、年末まではあと240日ある。誕生花はハナショウブ。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と5月5日 · 続きを見る »

9月11日

9月11日(くがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から254日目(閏年では255日目)にあたり、年末まであと111日ある。.

新しい!!: 市川團蔵 (7代目)と9月11日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »