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島津貞久

索引 島津貞久

島津 貞久(しまづ さだひさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名。島津忠宗の嫡男。領国の在地化を進め、島津氏の守護大名としての基礎を作った。.

74 関係: 執権南北朝時代 (日本)多々良浜の戦い大友親時大友貞宗大隅国奥州家 (島津氏)室町幕府守護守護大名少弐貞経島津宗久島津師久島津忠宗島津忠久島津氏島津氏久川上頼久上総国九州探題康永今川貞世建武 (日本)伊予国征西大将軍後醍醐天皇北郷資忠北条貞時北条英時元弘元弘の乱元服総州家 (島津氏)熊野水軍畠山直顕瀬野精一郎鎮西探題鎌倉幕府鎌倉時代菊池氏観応の擾乱貞治足利尊氏足利直義興国薩摩平氏薩摩国肝付氏東福寺城...正平 (日本)武将比企能員の変渋谷氏新納時久文保文永日向国懐良親王1269年1318年1333年1335年1342年1347年1350年1362年1363年1985年2005年4月8日 (旧暦)5月10日7月3日 (旧暦)8月12日 インデックスを展開 (24 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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多々良浜の戦い

多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。.

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大友親時

大友 親時(おおとも ちかとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。大友氏の4代当主。 元寇の際は一族と共に出陣し、活躍したと思われる。隠居した父から家督を譲られたが、父に先立って永仁3年(1295年)に死去し、後を弟(または子)の貞親が継いだ。 他の子、秀直や師親はそれぞれ入田氏や野津氏を興し、娘は島津貞久に嫁ぎ、師久、氏久を生んでいる。 Category:鎌倉幕府御家人 ちかとき Category:1236年生 Category:1295年没.

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大友貞宗

大友 貞宗(おおとも さだむね)は、鎌倉時代末期の武将。大友氏の6代当主。「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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奥州家 (島津氏)

奥州家(おうしゅうけ)は薩摩守護島津家の別名。初代当主である島津氏久が陸奥守を称していたことからこの名がついた。実際に奥州家と呼ばれるのは初代氏久・2代元久までで、3代以降は奥州家の流れであるが薩摩・大隅守護としての島津家当主であり、この名で呼ばれることは少ない。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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少弐貞経

少弐 貞経(しょうに さだつね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。少弐氏5代当主。.

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島津宗久

島津 宗久(しまづ むねひさ)は、南北朝時代の武将。島津氏5代当主・島津貞久の嫡男(次男)。 建武5年(1338年)、父・貞久と共に高師直の軍に属して、北畠顕家と戦い功を上げる。家督相続の有力候補だったが、僅か19歳で没した。興国元年/暦応3年(1340年)、山門院から薩摩郡平佐へ向かう途中に落馬したのが原因だとされる。 その早すぎる死に伴い、弟の師久・氏久が守護国の分与を巡って争い、島津氏は総州家と奥州家の2家に分裂した。.

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島津師久

島津 師久(しまづ もろひさ)は、南北朝時代の武将。島津氏6代当主(総州家初代当主)。.

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島津忠宗

島津 忠宗(しまづ ただむね)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将。島津氏の第4代当主。鎌倉幕府御家人。第3代当主・島津久経の嫡男。母は相馬胤綱の娘。.

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島津忠久

島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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島津氏久

島津 氏久(しまづ うじひさ)は、南北朝時代の武将、守護大名である。島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅・日向・筑後守護。5代当主島津貞久の4男。母は大友親時の娘。川上頼久、宗久、師久の弟。元久、久豊の父。.

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川上頼久

川上 頼久(かわかみ よりひさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・川上氏初代当主。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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康永

康永(こうえい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。暦応の後、貞和の前。1342年から1344年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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征西大将軍

征西大将軍(せいせいたいしょうぐん/ 征西将軍(せいせいしょうぐん))は、奈良・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍。征戎将軍ともいう。 六国史では、続日本紀養老4年(720年)7月3日条に「征西将軍以下抄士(かじとり)に至るまでそれぞれ物を賜う」とあり、これが「征西将軍」の初見である。 また、日本紀略天慶4年(941年)5月19日条には、瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を征伐するために藤原忠文を征西大将軍に任じるとある。後に南北朝時代に南朝方が、離反した足利尊氏を征伐するために延元元年(1336年)後醍醐天皇の皇子の懐良親王を任命し、さらに正平(1366年)頃には後村上天皇の皇子の良成親王を任命した。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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北郷資忠

北郷 資忠(ほんごう すけただ)は、南北朝時代の薩摩及び日向の武将。薩摩守護島津氏の有力支族である北郷氏初代当主。島津宗家4代当主である島津忠宗の六男。.

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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

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北条英時

北条 英時(ほうじょう ひでとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府最後の鎮西探題(在任:元亨元年12月25日(1322年1月13日) - 正慶2年/元弘3年5月25日(1333年7月7日))。父は赤橋流の北条久時。幕府最後の執権・北条守時の弟。赤橋 英時(あかはし ひでとき)とも称される。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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総州家 (島津氏)

総州家(そうしゅうけ)は薩摩守護島津氏の分家。初代当主の島津師久が上総介を称していたことからこの名がついた。川内碇山城を居城としていた。 島津家5代当主貞久は、晩年に三子の師久に薩摩守護職を、四子の氏久に大隅守護職を譲り島津家を分割統治させた。薩摩守護職を継いだ総州家であったが、2代伊久と子の守久の間で争いが起きる。伊久は両者の争いを調停した奥州家2代の元久に薩摩守護職と先祖伝来の家宝を譲り渡した。しかし伊久と元久も次第に対立し衝突するに至る。足利義満の調停によっていったんは和解するが、4代久世の代に元久の弟で島津宗家8代当主の久豊と対立、和議の席で久豊によって殺害される。3代守久も後に島津宗家9代の忠国に攻められ、肥前国に亡命した、守久とともに抵抗をしていた忠朝(伊久の次男)も総州家が持っていた島津宗家の文書を引き渡して降伏した。5代久林は祖父の守久とともに肥前に逃れたが、しばらくすると帰国して真幸院に潜伏していたところを忠国に急襲され自害し、総州家は断絶する。 ただし、忠朝の子孫が肥後国に逃れて相馬氏と号し、島津忠国に対する反発から渋谷氏一族が国一揆を起こした際に大将に迎え入れられたとする記録が残されている。.

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熊野水軍

野水軍(くまのすいぐん)は、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍。熊野海賊とも。瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られる。 豊富な船材と良港に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に活躍する水軍が早くから発達した。紀淡海峡など四国と紀伊半島の間に出没した南海海賊の多くは熊野の浦々を拠点とする海の領主で、彼らを熊野別当が統括していた。熊野別当には源氏とつながりを持つ新宮別当家と、平氏とつながりをもつ田辺別当家という二つの有力な家があり、源平双方と関わっていた。乱の最終決戦である壇ノ浦の戦いでは平氏方であった湛増が源氏方に付き、源氏を勝利に導いた。将のひとりに熊野の藤白鈴木氏があり、鈴木重家・重善は源平合戦で当水軍を率い源氏に貢献した。重家はその後も源義経に従って衣川で義経とともに討死した。 戦国時代には堀内氏が統治していた。.

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畠山直顕

山 直顕(はたけやま ただあき、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から室町時代初期の武将。本姓は源氏。家系は足利氏の一門畠山氏。父は畠山宗義『尊卑分脉』第3篇 P.271。、兄に宗生、宗国(初名宗継)、頼継、子に宗泰がいる。 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物である。観応の擾乱では足利直義やその養子・足利直冬に属している。 通称は畠山七郎、官途は修理亮、治部大輔。初名は義顕(よしあき)。別名、直滋(ただしげ?)。.

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瀬野精一郎

野 精一郎(せの せいいちろう、1931年7月20日 - )は、日本史学者、早稲田大学名誉教授。中世武士を研究対象とする。.

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鎮西探題

鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が西国(九州)の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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薩摩平氏

薩摩平氏(さつまへいし)は、中世前期まで主に薩摩半島を支配した桓武平氏の一族。平貞時を祖とする。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肝付氏

肝付氏(きもつきし、)は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた。.

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東福寺城

東福寺城(とうふくじじょう)は、鹿児島市清水町にあった山城。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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比企能員の変

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。.

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渋谷氏

渋谷氏(しぶやし、)は、日本の氏族のひとつ。桓武平氏秩父氏の一族から分派し、日本全国へと広まった。代表的な一族に下記が挙げられる。.

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新納時久

新納 時久(にいろ ときひさ)は、南北朝時代の武将。新納氏初代当主。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文永

文永(ぶんえい)は、日本の元号の一つ。弘長の後、建治の前。1264年から1274年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇、後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、惟康親王、執権は北条長時、北条政村、北条時宗。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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1269年

記載なし。

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1318年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1342年

記載なし。

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1347年

記載なし。

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1350年

記載なし。

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1362年

記載なし。

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1363年

記載なし。

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1985年

この項目では、国際的な視点に基づいた1985年について記載する。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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4月8日 (旧暦)

旧暦4月8日(きゅうれきしがつようか)は、旧暦4月の8日目である。六曜は大安である。.

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5月10日

5月10日(ごがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から130日目(閏年では131日目)にあたり、年末まではあと235日ある。誕生花はカーネーション。.

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7月3日 (旧暦)

旧暦7月3日(きゅうれきしちがつみっか)は旧暦7月の3日目である。六曜は先負である。.

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8月12日

8月12日(はちがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から224日目(閏年では225日目)にあたり、年末まであと141日ある。.

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