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岡崎藩

索引 岡崎藩

岡崎城 岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(現在の愛知県東部)を領有した藩。藩庁は岡崎城に置かれた。.

79 関係: 古河藩天保奏者番宝暦家老寺社奉行寛永小田原征伐岡崎城上野国中根忠容主君押込三河吉田藩三河国下総国幡豆郡享保の改革京都所司代廃藩置県徳川家康徳川氏唐津藩公武合体矢作川知藩事石見国碧海郡筑後国田中吉政版籍奉還白井藩遠江国額田県額田郡譜第豊臣氏関ヶ原の戦い関東地方肥前国老中柳河藩松平康福横須賀藩正保水野忠之水野忠任水野忠善水野忠盈水野忠輝...水野忠辰水野忠春江戸本多康紀本多康重本多忠利 (岡崎藩主)本多忠典本多忠勝本多忠粛本多忠直 (三河国岡崎藩主)本多忠顕本多忠考本多忠民本多利長明和浜田藩愛知県慶安慶長1600年1602年1604年1634年1645年1649年1762年1769年1869年1871年 インデックスを展開 (29 もっと) »

古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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奏者番

奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。城中における武家の礼式を管理する。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある日本の城。徳川家康の生地である。別名、龍城。岡崎公園の中にある。 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。 岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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中根忠容

中根 忠容(なかね ただかた、宝暦2年6月25日(1752年8月4日) - 文政12年(1829年)は、岡崎藩家老。中根家8代当主。中根忠有の子。通称は隼人。 天明元年(1781年)、岡崎藩2代藩主本多忠典から養嗣子の3代藩主本多忠顕の代に家老を務める。忠顕がまだ若年のため、服部平兵衛、江戸の両替商の三谷喜三郎らと藩政を主導した。32万両にまで膨れ上がった藩の借金を何とかするため、財政改革に着手する。その結果、寛政9年(1797年)までに改革の効果が現れて24万両にまで借金を減らすことができた。ところが成長した忠顕が反対派と結託して改革派の排斥に乗り出し、寛政8年(1796年)に片腕の服部平兵衛は失脚し、寛政11年(1799年)に忠容自身も失脚させられた。家督は忠素、忠祐、忠易と継ぎ明治維新に至る。 たたかた Category:江戸時代の武士 Category:岡崎藩の人物 Category:1752年生 Category:1829年没.

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主君押込

主君押込(しゅくんおしこめ)は、鎌倉時代から武家社会に見られた慣行で、特に江戸時代の幕藩体制において、行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的に監禁(押込)する行為を指す。日本におけるクーデターの類型である。歴史家の笠谷和比古によってその成立と構造が明らかにされた。単に押込とも呼ばれる。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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幡豆郡

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享保の改革

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては複数説がある。 主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。.

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京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において、京都に設置された行政機関である。 1568年(永禄11年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.

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公武合体

公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。対義語は尊皇攘夷である。.

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矢作川

作川(やはぎがわ)は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。.

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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碧海郡

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筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

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田中吉政

中 吉政(たなか よしまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価されている。筑後国主。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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白井藩

白井藩(しろいはん)は、上野国に存在した藩。藩庁は白井城(現在の群馬県渋川市白井)にあった。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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額田県

額田県(ぬかたけん)は、明治4年(1871年)に三河国および尾張国南部を管轄するために設置された県。現在の愛知県東部にあたる。.

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額田郡

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譜第

譜第(ふだい・譜代)は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。なお、中世以後には譜代という表記も用いられた。なお、『令集解』職員令治部省条には『古記』を引用して、“譜第”を「天下人民の本姓の札名(ふだな)也」と定義している。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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柳河藩

柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。.

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松平康福

松平 康福(まつだいら やすよし)は、江戸時代中期の大名。老中、老中首座。はじめ5万400石だったが加増され6万余石となる。石見浜田藩の第5代藩主、下総古河藩主、三河岡崎藩主を経て再び浜田藩主。松井松平家6代。奏者番、寺社奉行、大坂城代を経て、老中に抜擢された。.

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横須賀藩

横須賀藩(よこすかはん)は、遠江国に存在した藩。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市西大渕)。.

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正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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水野忠之

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。.

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水野忠任

水野 忠任(みずの ただとう)は、江戸時代中期の大名。三河岡崎藩第7代藩主。肥前唐津藩初代藩主。忠元系水野家8代。.

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水野忠善

水野 忠善(みずの ただよし、慶長17年(1612年) - 延宝4年8月29日(1676年10月6日))は、江戸時代前期の大名。下総山川藩の2代藩主。駿河田中藩、三河吉田藩藩主。三河岡崎藩の初代藩主。忠元系水野家2代。水野忠元の長男。正室は井上正就の娘。子は忠春(長男)、娘(京極高直正室)、娘(大給松平乗久正室)、娘(丹羽氏純正室)、娘(水野元知正室)、娘(片桐貞房正室)、娘(牧野康道正室)。従五位下、大監物。 元和6年(1620年)、父・忠元の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)、従五位下大監物に任官。寛永12年(1635年)、1万石加増され駿河田中藩4万5000石に転封となる。寛永19年(1642年)に三河吉田藩に、正保2年(1645年)に5000石加増され三河岡崎藩5万石に移される。寛文4年(1664年)、弟の水野忠久に5000石を分与する。隣接する尾張徳川家を仮想敵国とし、軍備増強に注力した。延宝4年(1676年)に死去した。跡を長男の忠春が継いだ。 たたよし Category:下総山川藩主 Category:田中藩主 Category:三河吉田藩主 Category:岡崎藩主 Category:1612年生 Category:1676年没.

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水野忠盈

水野 忠盈(みずの ただみつ)は、三河岡崎藩の第3代藩主。忠元系水野家4代。 寛文2年(1662年)12月6日、第2代藩主水野忠春の次男として江戸藩邸で生まれる。兄忠直の死により嫡子となり、延宝6年(1678年)、従五位下、豊前守に叙位・任官する。元禄5年(1692年)、父が死去したため家督を継ぐ。元禄7年(1694年)、西の丸大手門番に任じられ、以後も京都上使役、奥詰など諸役を歴任した。 元禄12年(1699年)8月4日に死去した。享年38。男子がなく、跡を弟で養子の忠之が継いだ。 たたみつ Category:岡崎藩主 Category:1663年生 Category:1699年没.

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水野忠輝

水野 忠輝(みずの ただてる、元禄4年5月22日(1691年6月18日) - 元文2年7月2日(1737年7月29日))は、江戸時代中期の大名。三河国岡崎藩の5代藩主。忠元系水野家6代。水野忠之の次男。正室は井上可安(井上正任の子)の娘(井上正岑の養女)。子は水野忠辰(長男)、水野忠則(次男)、水野忠勧(三男)、娘(阿部正敏正室)。右衛門大夫、右衛門佐、大監物。 宝永元年(1704年)、将軍徳川綱吉に初御目見し、従五位下右衛門大夫に任官した。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せられた。元文2年(1737年)岡崎にて死去した。跡を長男の忠辰が継いだ。 たたてる Category:岡崎藩主 Category:1691年生 Category:1737年没.

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水野忠辰

水野 忠辰(みずの ただとき、享保9年閏4月22日(1724年6月13日) - 宝暦2年8月18日(1752年9月25日))は、江戸時代の大名。三河国岡崎藩第6代藩主。忠元系水野家7代。水野忠輝の長男。正室は本多忠良の娘。子は水野忠雄(長男)、娘(水野忠任正室)、娘(水野忠鼎正室)。三河国岡崎(愛知県岡崎市)出身。官位は従五位下、大監物。.

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水野忠春

水野 忠春(みずの ただはる)は、江戸時代前期の大名。三河岡崎藩の2代藩主。忠元系水野家3代。水野忠善の長男。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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本多康紀

本多 康紀(ほんだ やすのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。三河岡崎藩第2代藩主。広孝系本多家2代。.

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本多康重

本多 康重(ほんだ やすしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河岡崎藩初代藩主。大名としての本多豊後守家初代。 本多広孝の長男。母は東条松平義春の娘。正室は大垣藩主・石川家成の娘。子に康紀(長男)、紀貞(三男)、重世(四男)、娘(諏訪頼水正室)、娘(飛鳥井雅庸室)、娘(堀利重正室)、娘(遠藤慶勝正室)ら。通称は彦次郎。官位は従五位下、豊後守。.

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本多忠利 (岡崎藩主)

本多 忠利(ほんだ ただとし、慶長5年(1600年) - 正保2年2月10日(1645年3月7日))は、三河国岡崎藩主。広孝系本多家3代。 本多康紀の長男。母は松平家清の娘。正室は井上正就の娘。子に本多助久(長男)、本多利長(六男)、本多利朗(七男)、本多利政(九男)、本多利義(十男)、娘(太田資次正室)、娘(本多重時室)。官位は従五位下、伊勢守。 大坂夏の陣に父と共に参戦し、戦功を挙げる。元和9年(1623年)に父が没したため家督を継ぐ。寛永11年(1634年)には6500石を加増されている。 正保2年(1645年)1月、遠江国横須賀藩への移封を命じられたが、翌月に46歳で病死した。六男の利長が跡を継いだ。.

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本多忠典

本多 忠典(ほんだ ただつね)は、三河岡崎藩第2代藩主。忠勝系本多家宗家12代。.

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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

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本多忠粛

本多 忠粛(ほんだ ただとし、宝暦9年(1759年) - 安永6年5月8日(1777年6月13日))は、江戸時代中期の大名。石見浜田藩第3代藩主、三河岡崎藩初代藩主。忠勝系本多家宗家11代。 先々代で浜田藩初代藩主・本多忠敞の長男。前藩主本多忠盈の養子となる。正室は牧野貞長女。官位は、従五位下。中務大輔。この家系は徳川四天王の一人である本多忠勝の直系の家。 明和4年(1767年)に前藩主・本多忠盈の死去により家督を相続する。明和6年(1769年)11月18日に三河岡崎藩に移封となる。安永6年に死去すると、前藩主・忠盈の実子である忠典が跡を継いだ。 たたとし Category:浜田藩主 Category:岡崎藩主 Category:1759年生 Category:1777年没.

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本多忠直 (三河国岡崎藩主)

本多 忠直(ほんだ ただなお)は、三河岡崎藩の第6代(最後)の藩主。忠勝系本多家宗家16代。.

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本多忠顕

本多 忠顕(ほんだ ただあき)は、三河国岡崎藩の第3代藩主。忠勝系本多家宗家13代。.

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本多忠考

本多 忠考(ほんだ ただなか)は、三河岡崎藩の第4代藩主。忠勝系本多家宗家14代。.

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本多忠民

本多 忠民(ほんだ ただもと)は、幕末の大名、老中。三河岡崎藩主。忠勝系本多家宗家15代。讃岐高松藩主松平頼儀の四男。 岡崎藩主本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日将軍徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、養忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。 弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下ったときは一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。 明治2年(1869年)2月20日、隠居して婿養子の忠直に家督を譲った。明治16年(1883年)に死去した。.

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本多利長

本多 利長(ほんだ としなが)は、三河岡崎藩第4代藩主、遠江横須賀藩主、出羽村山藩初代藩主。広孝系本多家4代。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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浜田藩

浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1602年

記載なし。

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1604年

記載なし。

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1634年

記載なし。

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1645年

記載なし。

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1649年

記載なし。

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1762年

記載なし。

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1769年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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