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小野寺氏

索引 小野寺氏

小野寺氏(おのでらし)は、出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされるが守部氏ともいう。家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。かなり早い時期から多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名であり、本項では主にそれについて述べる。.

110 関係: 千葉氏南北朝時代 (日本)及川氏吉川弘文館坂崎氏多川九左衛門大高忠雄大高忠晴大身天正奥州合戦奥州仕置室町幕府宮城県家系小野寺又八小野寺秀富小野寺秀和小野寺稙道小野寺義道小野寺景道山内氏岡野包住岡野包秀岩手県上杉景勝三春町三春藩下野小野寺氏下野国一関市平安時代平鹿郡幕末京都扶持衆庶家亀井氏代官仙北郡伊達氏征夷大将軍地頭北畠家出羽国六郷氏国人石田三成石見国福島県秋田氏...由利郡熊谷氏盛岡藩鎌倉鎌倉府鎌倉公方貞立尼足利将軍家都賀郡赤穂事件の人物一覧関ヶ原の戦い藤原秀郷藤原氏葛西氏葛西清重葛西晴胤雄勝郡陸奥国東北地方村上源氏栃木市横手城横手盆地橘氏永禄気仙沼市江戸時代河辺郡津和野津和野藩深澤多市清和源氏源頼朝木村吉清本堂氏最上郡惣領戦国大名戦国時代 (日本)戸沢氏浜田広綱新庄藩文治慶長1189年1560年1588年1590年1591年1600年1601年1924年1928年1934年1959年1988年1991年1998年2002年 インデックスを展開 (60 もっと) »

千葉氏

千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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及川氏

及川氏(おいかわし)は、日本の氏族。清和源氏(摂津源氏)頼綱流。源三位頼政より出、馬場氏の分流。及川の「及」は「およぶ」ではなく「笈」の異体字(または略字)。古くは及川だけでなく笈川・及河・笈河などいろいろに書かれ、現在でも笈川氏と書く家もあるが、どの書き方が正しいということはない。読みも現在はオイカワが一般的であるが、清音のオイカワと濁音のオイガワ、どちらが本来の読みだったのかは不明である。全国人口順位282位、現在の日本では約2万軒、人口78,400人。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坂崎氏

坂崎氏(さかざきし/さかざきうじ)は、戦国大名・宇喜多秀家の従兄弟・宇喜多詮家が、坂崎直盛と姓名を変えたことに始まる氏族。津和野藩主だったが、元和2年(1616年)に千姫事件が原因で改易された。 。.

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多川九左衛門

多川九左衛門(たがわ くざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。赤穂藩では持筒頭400石。 多川家は藩内でも有数の重臣家。赤穂浪士のうち小野寺秀和・間瀬正明・岡野包秀・中村正辰・大高忠雄などと親族の関係にある。元禄15年(1702年)11月16日に小野寺が寺井玄渓にあてた書状の中で「多川は浅野家第一の武功がある者の養子なのに卑怯極まりない者である」と罵っていることから、多川は養子であったと考えられる。 元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩(内匠頭)が吉良義央(上野介)に殿中刃傷に及んだ際には赤穂におり、同年3月29日、大石良雄が「浅野家の家臣は無骨なものばかりなので、ただ主君のことを思い、赤穂城を離れようとしません。吉良上野介様へ処分を求めるわけではありませんが、家臣が納得のいくような筋道をお立てください」というような内容の嘆願書を赤穂城収城目付と決まった荒木政羽と榊原政殊に宛ててしたためると、多川と月岡治右衛門にこれを持たせて江戸へ派遣した。 しかし、多川たちは江戸で収城目付たちと行き違いとなり、大石の「収城目付に直接手渡せ」という命令に背いて浅野家江戸家老安井彦右衛門に相談する。驚きあわてた安井は浅野長矩の親族の大名戸田氏定にその書状を見せた。戸田はすぐさま「内匠頭殿は日ごろから幕府を重んじていたのだから、穏便に開城をすることこそが内匠頭殿の存念にもかなうはずである」という内容の書状を良雄に宛てて書き、多川達に持たせて赤穂へ帰した。多川と月岡のせいで書状は荒木の目には入らなかった(なお、荒木らが赤穂に到着した後、大石の三度にわたる嘆願もあって荒木は老中への取り成しを約束している)。 その後、大石良雄の浅野家お家再興と吉良家への仇討ちの盟約に名を連ねたが、元禄15年(1702年)7月に浅野長広がお預かりとなり、お家再興の望みが消えると、大石良雄の神文返しを好機として閏8月15日付けの書状で脱盟を表明して一党から去った。その後の消息は不明である。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:17世紀生 Category:18世紀没.

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大高忠雄

『義士四十七図 大高源吾忠雄』(尾形月耕画) 大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。.

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大高忠晴

大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士秋田忠久(大高本家45代当主)の次男。兄に秋田忠宗(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 Category:赤穂藩の人物 Category:三春藩の人物 Category:1629年生 Category:1676年没.

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大身

大身(たいしん).

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.

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奥州仕置

奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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宮城県

地形図 宮城県(みやぎけん)は、日本の東北地方にある県。東は太平洋に面し、西は奥羽山脈に接する。県庁所在地は仙台市。.

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家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

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小野寺又八

小野寺 又八(おのでら またはち、? - 貞享2年(1685年))は、江戸時代前期の播磨赤穂藩士。藩主浅野長直に仕えた。小野寺十太夫(浅野長重家臣)の長男。赤穂浪士の小野寺秀和の父にあたる。又八郎(またはちろう)とも記される。諱は不明。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。 浅野家重臣多川九左衛門の娘を妻に迎え、その間に長男の秀和、次男の岡野包住、長女の貞立尼(大高忠晴正室。大高忠雄の母)を儲けた。 小野寺秀和の親類書によれば貞享2年(1685年)に死去したとある。なお妻の多川家女は討ち入り直前の元禄15年(1702年)9月9日に93歳で死去している。 またはち Category:赤穂藩の人物 Category:生年不明 Category:1685年没.

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小野寺秀富

『義士四十七図 小野寺幸右衛門秀富』(尾形月耕画) 小野寺 秀富(おのでら ひでとみ、延宝4年(1676年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は幸右衛門(こうえもん)。大高忠晴の二男。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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小野寺秀和

『誠忠義士傳 小野寺十内秀和』(歌川国芳画) 『誠忠義士傳 斧寺十内妻』(歌川国芳画) 小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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小野寺稙道

小野寺 稙道(おのでら たねみち、長享元年(1487年?) - 天文15年5月27日(1546年6月25日))は、戦国時代前期の出羽の戦国大名。小野寺氏の第12代当主。1487年生まれと言われているが、異説も多い。父は小野寺泰道(やすみち)。但し、泰道の没年が1477年ごろのため、もっと前に生まれた可能性もあるし、父ではない可能性もある。幼名は竜保丸。当初は義尹を名乗った遠藤(2002)pp.94-95。史料によっては輝道(てるみち)と記すものがある。従五位下。はじめ中宮亮、稙道名乗りのころから左衛門佐を許されたという。.

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小野寺義道

小野寺 義道(おのでら よしみち)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。出羽国横手城主。小野寺輝道(景道)の次男。子に小野寺保道。.

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小野寺景道

小野寺 景道(おのでら かげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。出羽国平鹿郡横手城主。.

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山内氏

山内氏(やまうちし、やまのうちし)は、日本の氏族の一つ。山内首藤氏(やまのうち すどう)や土佐藩藩主となった山内氏が知られる。.

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岡野包住

岡野 包住(おかの かねずみ、明暦元年(1655年) - 元禄15年9月5日(1702年10月25日))は、江戸時代前期から中期の武士。播磨国赤穂藩士。通称は、金右衛門(きんえもん)。.

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岡野包秀

『義士四十七図 岡野金右衛門包秀』(尾形月耕画) 岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓は藤原氏。家紋は釘貫。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。.

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岩手県

岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市である。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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三春町

三春町(みはるまち)は、福島県田村郡にある町である。.

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三春藩

三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である。.

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下野小野寺氏

下野小野寺氏(しもつけおのでらし)は、鎌倉時代の頃御家人として下野国都賀郡小野寺村(現・栃木県栃木市岩舟町小野寺)において勢力を誇った豪族小野寺氏の嫡流である。本姓は藤原氏とされるが守部氏ともいう。家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。本項では、嫡流である下野小野寺氏について述べる。 下野国は小野寺氏の発祥地であり、当地の小野寺氏が嫡流。かなり早い時期から多くの分流を生み出し、庶流として後に実質的な小野寺氏の宗家となる出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏があり、さらに新田小野寺氏、出羽小野寺氏などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野小野寺氏と呼ばれる。 下野小野寺氏の家紋は元々は嫡流を示す「一文字に六葉木瓜」であるが、その家紋は後に実質的な宗家となった仙北小野寺氏が使用するようになり、下野小野寺氏は「六葉木瓜」を使用するようになる。 居城は小野寺城であり、保元元年(1156年)に小野寺義寛によって築かれた。 明治時代には土塁の一部も残っていたが、東北自動車道建設のために破壊された。現在は跡地に城跡碑がひっそりとあるのみである。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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一関市

一関市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を磐井川が流れる。この画像の撮影時、東北新幹線は建設中である。1976年撮影の12枚を合成作成。国土航空写真。 一関市(いちのせきし)は、岩手県の最南端に位置する県内第二の人口・面積を擁する市。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平鹿郡

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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京都扶持衆

京都扶持衆(きょうとふちしゅう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士。京都御扶持衆ともいう。 なお、この言葉の語源については、渡辺世祐が作った学術的用語であり、史料上に出てくる用語としては「京都御扶持者」「京都御扶持之輩」であるため、「京都扶持者」の方が正確なのではないか?とする渡政和の指摘もある渡政和「〈京都様〉の〈御扶持〉について -いわゆる〈京都扶持衆〉についての考察-」(初出:『武蔵大学日本文化研究』第5号(1986年)/所収:植田真平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二〇巻 足利持氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-198-1)。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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亀井氏

亀井氏、龜井氏(かめいし)は、日本の武家のひとつ。本姓は源氏、または穂積氏。家系は宇多源氏佐々木氏流を称するが、穂積氏流藤白鈴木氏の流れを汲むとも云われる。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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仙北郡

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伊達氏

伊達氏(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、桓武平氏繁盛流常陸大掾と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北畠家

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った「三国司家」『世界大百科事典』。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった (三重県HP)。 なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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六郷氏

六郷氏(ろくごうし)は、日本の氏族。武蔵江戸氏流と工藤氏流がある。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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福島県

福島県(ふくしまけん)は、日本の都道府県の一つ。県庁所在地は福島市。 東北地方の南部(南東北)に位置し、東北で宮城県に次ぐ2番目の人口と県内総生産を擁する。面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位、都道府県別の人口は全国21位、人口密度は全国40位である(いずれも2015年10月1日時点の国勢調査および全国都道府県市区町村別面積調による)。 市町村別では概ね、日本海側に面積の4割弱と人口の15%弱が、太平洋側に面積の6割強と人口の85%以上が分布する。.

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秋田氏

秋田氏(あきたし)は、陸奥国(磐城国)三春藩主家。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から室町時代にかけて出羽北部から津軽地方にかけてを領した安東氏の後身である。通し字は「季」。.

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由利郡

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熊谷氏

谷氏(くまがいし、くまがいうじ)は、日本の氏族の一つ。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉府

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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貞立尼

貞立尼(ていりゅうに、? - 元禄16年9月25日(1703年11月4日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の大高忠雄・小野寺秀富の生母、小野寺秀和の姉、岡野包秀の伯母にあたる。 笠間藩浅野家の家臣小野寺又八(150石)の長女として笠間に生まれる。母は多川九左衛門の娘。同家中の大高忠晴(200石)に嫁いだ。その間に大高忠雄と大高小次郎(のち弟小野寺秀和の養子に入り、小野寺秀富となる)をもうけた。 赤穂事件時には一貫して赤穂にあったようで、大高忠雄の親類書にも「播州赤穂に罷在候」とある。元禄16年(1703年)、息子たちが本懐を遂げて切腹した後、死去した。 Category:小野寺氏 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:笠間藩の人物 Category:17世紀生 Category:1703年没.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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都賀郡

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赤穂事件の人物一覧

赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藤原秀郷

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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葛西氏

葛西氏(かさいし)は、陸奥国中部(現在の宮城県三陸沿岸から岩手県南部にかけての地域)を統治した大身(数郡規模の国人領主)。 平泉遠征の結果として、鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族である葛西氏が、陸奥国に所領を得て土着した。戦国時代には奥羽の有力な戦国大名に数えられたが、豊臣秀吉の奥州仕置の際に大名としては滅亡した。.

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葛西清重

葛西 清重(かさい きよしげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏の庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し、鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。.

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葛西晴胤

葛西 晴胤(かさい はるたね)は、戦国時代の大名。葛西氏第15代当主。葛西晴重の子仙台藩系の系譜では、葛西牛猿丸(伊達稙宗の七男)は晴胤のことであり、葛西晴重の養子になったとされている。。子に葛西親信、葛西晴信。.

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雄勝郡

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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栃木市

栃木市(とちぎし)は、栃木県の南部にある人口約16万人の市。栃木県内人口は宇都宮市、小山市に次ぐ第3位。市街地には蔵造りの家屋が並ぶ街並みが保存されていることから小江戸、小京都、関東の倉敷などと呼ばれ、観光地としての人気も高い。また、市南部にはラムサール条約登録湿地に指定されている渡良瀬遊水地を保有している。.

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横手城

横手城(よこてじょう)は、秋田県横手市にあった日本の城である。構造は山城。朝倉城、阿櫻城とも呼ばれる。現在、城跡は横手公園として整備されており、模擬天守が建てられている。.

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横手盆地

横手盆地(よこてぼんち)とは、秋田県の南東部に位置する盆地。奥羽山脈と出羽山地に囲まれ、雄物川とその支流が流れる、秋田県内で最大の平地である。盆地とはいえ広大であるため、旧郡名にならって、横手盆地の北部の仙北郡部分を仙北平野、中南部の平鹿郡部分を平鹿平野と呼ぶことも多い。国内有数の穀倉地帯で、あきたこまちの主産地の1つである。 横手盆地と「山北(仙北)三郡(せんぼくさんぐん)」はほぼ同じ地域を指し、現在約30万人が住んでいる。横手盆地の中部に大仙都市圏と横手都市圏が形成されている。.

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橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、「橘」を氏の名とする氏族。 県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称した。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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気仙沼市

震災前の気仙沼市中心部周辺の空中写真。1977年撮影の14枚を合成作成。国土航空写真。 気仙沼市(けせんぬまし)は、宮城県北東端の太平洋沿岸に位置する市である。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河辺郡

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津和野

津和野(つわの).

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津和野藩

津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。.

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深澤多市

深澤 多市(ふかさわ たいち、1874年(明治7年)4月18日 - 1934年(昭和9年)12月20日)は、郷土史家で民俗学研究家、秋田県内の郷土資料を集成した『秋田叢書』および『秋田叢書 別集 菅原真澄集』の編者。号は紫水(しすい)。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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木村吉清

木村 吉清(きむら よしきよ、生年不詳 - 慶長3年(1598年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊勢守。光清。.

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本堂氏

本堂氏(ほんどうし)は、中世から近世初頭にかけて出羽国山本郡(現在の仙北郡)の小領主である。江戸時代には常陸国志築を領する幕府の旗本となり、代々交代寄合に属した。.

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最上郡

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惣領

惣領(そうりょう・総領)とは、跡取り、家督相続予定者のこと。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戸沢氏

戸沢氏(とざわし)は、陸奥国、後に出羽国を支配した氏族。国人、のち戦国大名、江戸時代には新庄藩主となり明治維新に至る。.

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浜田広綱

浜田 広綱(はまだ ひろつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。葛西氏の家臣。陸奥国東館城主。.

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新庄藩

新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した藩。居城は新庄城。.

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文治

文治(ぶんじ)は、日本の元号の一つ。元暦の後、建久の前。1185年から1189年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1189年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1601年

17世紀最初の年である。.

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1924年

記載なし。

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1928年

記載なし。

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1934年

記載なし。

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1959年

記載なし。

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1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1998年

この項目では、国際的な視点に基づいた1998年について記載する。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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