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宮古湾海戦

索引 宮古湾海戦

宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。これはアボルダージュ(フランス語・Abordage、英語・Boarding)と呼ばれるいわゆる接舷攻撃で、敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例である。.

73 関係: 古川正雄士官候補生天保暦外輪船宮古市宮古湾官軍山田町山田湾岩手県中島佐衡万国公法乾舷佐賀藩彰義隊土方歳三ハリー・パークスフランス語アメリカ連合国海軍ウージェーヌ・コラッシュガトリング砲グレゴリオ暦ジュール・ブリュネスクリュー八戸市回天丸石井富之助神木隊移乗攻撃第一丁卯第二回天箱館戦争田野畑村甲賀源吾相馬主計盛岡藩蟠竜丸遊撃隊 (幕府軍)荒井郁之助萩原延壽蝦夷地蝦夷共和国装甲艦飛龍丸鮫村軍事顧問黒田清隆薩摩藩閉伊郡開陽丸...野村利三郎英語陸中国陽春丸東郷平八郎東艦松岡磐吉榎本武揚江戸江戸城江戸幕府渡島国戊辰戦争明治2年春日丸海軍奉行斥候新選組日本の国旗日本海海戦1869年3月25日 (旧暦)5月6日 インデックスを展開 (23 もっと) »

古川正雄

古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3月4日) - 1877年(明治10年)4月2日)は明治時代の日本の教育者。福澤諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の一人中国新聞連載、。慶應義塾初代塾長。また幕末には軍艦頭並として95名を引き連れ榎本軍に加わり戊辰戦争を戦った。旧名を古川節蔵、岡本節蔵、岡本周吉といい、岡本博卿の筆名でも知られる。.

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士官候補生

士官候補生(しかんこうほせい)とは、士官の候補者として教育を受けている者をいう。広義には次のようなものがある。.

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天保暦

天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦(グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入)により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。なお明治維新の際、陰陽頭・土御門晴雄が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。 以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。.

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外輪船

外輪船(がいりんせん)は、推進器として水車型の装置である外輪を使う船。外車船・パドル船とも。 英語では、総称としてはpaddlewheelerで、特に外輪式蒸気船をpaddle steamerと呼ぶ。また、左右の舷側に外輪を持つ船をsidewheeler、船尾 (stern) に1つの外輪を持つ船をsternwheelerと呼ぶ。外輪はpaddle wheel (side wheel、stern wheel) と呼ぶ。 基本的に、機関で外輪を回転させ推進器として使う。ただし現代では、推進器は別にあり外輪は推進による水流を受けて回る単なる飾りであることもある。 初期の動力船は外輪船だったが、現代ではスクリュープロペラを使うスクリュー船にほとんど取って代わられた。.

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宮古市

宮古市中心部周辺の空中写真。1977年撮影の10枚を合成作成。国土航空写真。 宮古湾(ランドサット衛星画像) 宮古市(みやこし)は、岩手県の三陸海岸に面する市。本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。.

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宮古湾

宮古湾(みやこわん)は岩手県中部の東側にある湾。.

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官軍

官軍(かんぐん)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。.

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山田町

山田町(やまだまち)は、岩手県沿岸中部の三陸地方に位置する、太平洋に面する町である。 中心的産業はリアス式海岸を利用した養殖を中心とする漁業や観光であるが、山間部を中心に中小工場が稼働している。.

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山田湾

山田湾(やまだわん)は日本・岩手県東部にある湾。三陸海岸北部にあるリアス式海岸であり、北東方向に伸び、太平洋に面している。 根滝山と船越半島・小根ヶ埼を結ぶ線が湾口であり、湾口幅約2.7km、奥行き約6kmである。途中、明神埼付近が最も狭く幅約600mであり、湾奥の幅は約2.5kmほどある。湾奥には大島(別名オランダ島)と小島がある。オランダ島の由来は江戸時代初期にオランダ船が来航したことにちなんでいる。オランダ島は無人島であるが、海水浴場があり夏季には定期船が運航される。水産資源としてカキ・ホタテ・ホヤなどの養殖が盛んである。 沿岸に平野部は少なく、関口川や織笠川などが流入している。また、湾奥には山田港があり、山田町の中心市街地が広がっている。.

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岩手県

岩手県(いわてけん)は、東北地方に属する日本の都道府県の一つ。県庁所在地は盛岡市である。.

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中島佐衡

中島 佐衡(なかじま すけひら、1837年(天保7年12月)- 1889年(明治22年)6月13日『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』312-316頁。)は、幕末の長州藩士、明治期の海軍軍人・官僚・政治家。海軍大佐。元老院議官。旧姓・石川。通称・四郎。.

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万国公法

万国公法(ばんこくこうほう)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、東アジア各国に多大な影響を与えた国際法解説書の翻訳名であり、同時に“” の現在の訳語「国際法」以前に使用されていた旧訳語でもある。以下では最初に翻訳命名されたの『万国公法』とその重訳本を中心に記述し、この本がもたらした西欧起源の国際法がアジア諸国にどのように受容されていったかについても触れる。.

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乾舷

乾舷の模式図。 熱海」。河川用に設計されたため、乾舷が小さい。 乾舷(かんげん)またはフリーボード(freeboard)は、船舶において水面より上に出ている部分のこと。 乾舷が小さいと船の上まで波が届きやすくなり、甲板上での人の行動が困難になったり、船上開口部からの浸水により沈没する危険が高まったりするため、船の航洋能力と関わりが深い要素である。外洋で活動する船は乾舷が大きい。一方で、波が無く穏やかな内水域で使用する船の場合、乾舷は小さくても問題が無い。むしろ内水域は水深が浅く喫水が浅い船体となることから、転覆の危険を生じるトップヘビーを避けるため、乾舷を小さく設計する。 乾舷が大きいということは、予備浮力が大きく多少の浸水では沈没しないということも意味する。適正な予備浮力を確保して船の安全な運行を行うため、十分な乾舷が維持できる位置に満載喫水線が規定され、それを超えて船体が沈みこむほど乗客や積荷を載せることは制限される。 船体の中央部の乾舷は小さな値としつつ、波を切る船首部分や船尾部分だけ甲板を高い位置にすることで、航洋性能を向上させる船体設計の手法がある。船首部の甲板に段差を付けて一段高くした船首楼や、甲板を反り上がらせたシアー(舷弧)を施すといった方法が見られる。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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彰義隊

彰義隊(しょうぎたい)は、1868年(慶応4年)に江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で明治新政府軍に敗れ解散した。.

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土方歳三

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳。.

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ハリー・パークス

ー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。.

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フランス語

フランス語(フランスご)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語のひとつで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語(またはウィ語、langue d'oïl)が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語とも書く。 世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語で、フランス、スイス、ベルギー、カナダの他、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29カ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2,300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合等の公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、'''フランコフォン''' (francophone) と言う。.

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アメリカ連合国海軍

アメリカ連合国海軍省の標章 アメリカ連合国海軍 (CSN; Confederate States Navy) は、アメリカ連合国の軍隊における海軍部門。南北戦争において連合国の海軍作戦行動を統括するため、1861年2月21日にアメリカ連合国議会で可決された法律に基づき設立された。連合国海軍の主要任務は、外部からの侵入に対して南部諸州の港湾および沿岸海域を保護すること、合衆国と交易する商船を攻撃し合衆国に経済的打撃を与えること、そして合衆国の海上封鎖を打破し連合国と欧州諸国との通商ルートを確保することであった。.

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ウージェーヌ・コラッシュ

ウージェーヌ・コラッシュ(Eugène Collache、1847年10月29日 - 1883年10月25日)は、フランス、ペルピニャン出身の19世紀のフランス海軍の士官。フランス東洋艦隊のミネルヴァに士官候補生として乗艦していたが、横浜停泊中に友人のアンリ・ニコールと共に脱走してジュール・ブリュネに合流し、戊辰戦争を幕府側に立って戦った。.

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ガトリング砲

トリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された最初期の機関銃。日本に輸入されていた幕末・明治期にはガツトリング砲(または奇環砲、ガツトリングゴン連発砲)と呼ばれていた。 外部動力・多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を外部動力(人力やモーターなど)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。 固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された機関銃を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された多銃身の機関銃を指す。また、より広義にはそれと同様の連射構造を持ったガトリング形式の機関砲(機関銃)(Gatling type gun)の総称として「ガトリング砲」という呼称が用いられている。英語ではrotary canon、rotary autocannonとも呼ばれる。 以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。.

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グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

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ジュール・ブリュネ

Image:BrunetAndTeam.jpg|thumb|250px|right|箱館政権のブリュネ(1869年)前列左から2人目がブリュネその右は副総裁の松平太郎 - 人物にカーソルを合わせると名前が表示され、クリックでリンク先に飛びます。 poly 0 350 18 341 48 315 47 304 36 305 22 283 22 246 36 220 65 210 69 194 62 171 66 136 94 132 109 152 104 201 140 219 150 231 156 285 145 369 118 391 68 391 54 433 49 462 10 457 砲兵隊頭取細谷安太郎 poly 224 555 152 405 172 353 186 294 184 237 216 224 219 202 211 165 229 146 250 146 267 156 271 168 284 171 272 182 273 216 304 224 323 289 323 349 333 388 339 431 326 450 339 529 306 552 ジュール・ブリュネ大尉 poly 324 560 355 524 348 388 337 375 334 343 342 299 369 265 393 230 410 224 404 202 404 185 392 185 399 175 399 163 435 150 454 159 463 169 463 205 468 224 498 241 509 257 517 308 519 330 496 394 473 558 陸軍奉行並松平太郎 poly 548 372 531 327 528 285 529 244 545 231 575 212 558 192 558 175 556 175 554 147 560 138 577 131 594 131 609 159 605 165 610 187 610 212 646 227 679 261 708 299 670 363 666 383 657 387 664 396 671 449 716 503 714 517 658 453 654 534 528 535 通訳田島応親 poly 162 365 148 235 109 184 117 144 135 106 164 92 175 78 169 49 169 31 178 24 195 24 208 35 215 41 215 47 207 55 208 72 217 82 225 91 253 104 263 141 193 365 アンドレ・カズヌーヴ伍長 poly 265 227 267 150 272 139 297 129 293 106 287 91 294 66 305 60 321 60 333 71 338 78 344 81 344 89 340 97 336 103 334 122 360 139 365 139 376 149 391 179 398 226 358 245 371 305 315 362 ジャン・マルラン軍曹 poly 380 222 386 171 404 151 405 134 399 116 403 114 396 99 410 86 444 97 451 104 451 109 442 115 444 133 441 142 460 170 福島時之助 poly 457 166 461 121 475 104 503 89 509 82 499 72 496 48 489 21 523 17 539 37 541 48 534 71 534 78 547 91 565 99 580 104 627 185 623 210 545 307 577 481 469 493 アルテュール・フォルタン軍曹 rect 0 0 713 561 Use button to enlarge or cursor to investigate desc none フランス陸軍参謀総長時代(1898年)中央で脱帽している人物がブリュネ ジュール・ブリュネ(Jules Brunet, 1838年1月2日 - 1911年8月12日)は、フランス陸軍の士官で、江戸幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として訪日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加した。.

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スクリュー

リュー(screw 、スクルー)は、流体中で回転することで回転軸方向に流体の流れを生む推進装置である。あるいは逆に、流体の流れを受けて回転するものもあり、より一般的には、流体の流れと回転とを相互変換する装置であると言える。 「スクリュー」と似たように使われる語に「プロペラ」がある。語義としては「スクリュー」は推進装置に限らず螺旋状のものをあらわす語であり、たとえばネジのこともスクリューと言い、ねじ回しの「ドライバー」を「スクリュードライバー」などと言うような例がある。一方、「プロペラ」とは推進すること一般に関する語であり、ロケットエンジンの推進剤などを指す「プロペラント」や、「プロペラシャフト」といった語がある。一般に使われる語としては、航空機用がプロペラ、船舶用がスクリュー、という使い分けがあるが、「スーパーキャビテーション・プロペラ」などのように、船舶工学の専門用語や、海事などの業界用語ではもっぱら「プロペラ」と呼ばれることもかなり多く、一般的な使い分けが必ずしもいつも通用するわけではない。「スクリュープロペラ」という語もある。 「スクリュー」の語はブタ(scrofa)の尻尾に由来し、英語では螺旋状の回転部品全般を表す言葉として螺子(ねじ)もこれに含まれる。古くからあるスクリューであるアルキメデスのスクリューは螺子と同様の螺旋型で、作動するのが流体中か固体中かという違いはあるが、力学的には螺子と似ている。現代のスクリュープロペラも、非常に短い螺旋であると言える。なお、螺旋型の流体機械としては他にスクリュー圧縮機のローターがあるが、これは螺子ともスクリューとも原理が異なるので、ここでは扱わない。.

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八戸市

八戸市(はちのへし)は、青森県東部に位置し、太平洋に面する中核市。青森市・弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。 三八地域県民局が設置されており、三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏の中心となっている。.

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回天丸

回天丸(かいてんまる)は、幕末期の江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。木造外輪式の蒸気船で、マスト3本のコルベットである。 排水量710トン、400馬力。全長69m、全幅10.6m。大砲は左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門の合計11門。プロイセンで製造され、イギリスで改装。機関と汽罐、武装はイギリス製だった。ダンツィヒ(Danzig)号、イーグル(Eagle)号、回天丸と名前が変わった。 宮古湾海戦における活躍で知られている。.

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石井富之助

石井 富之助(いしい とみのすけ、1835年6月30日(天保6年7月25日) - 1897年(明治30年)10月25日)は、幕末の肥前国の武士。佐賀藩士。明治時代の軍務官僚。諱は「藹吉」(しげよし)。.

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神木隊

木隊(しんぼくたい)は戊辰戦争の際に高田藩抗戦派が組織した部隊。隊の名は主家の榊原家の「榊」の字を分けたものとされる。.

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移乗攻撃

en)。 移乗攻撃(いじょうこうげき)とは、自軍の艦船から敵の艦船に対し、戦闘員を乗り移らせて攻撃する海戦術である。切り込み(きりこみ)やアボルダージュ()とも呼び、特に敵艦に接舷して直接に乗り移る方式を指して接舷攻撃(せつげんこうげき)とも呼ぶ。.

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第一丁卯

一丁卯(だいいちていぼう)は日本海軍の軍艦。元は長州藩の発注した三檣スクーナー型木造汽船。 「丁卯」は十干十二支のひとつで、幕末では慶応3年(1867年)に当たる。この年にイギリスで建造された長州藩の軍艦が後の「第一丁卯」と「第二丁卯」となる。同一年の建造のため第一と第二を付加して区別した。.

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第二回天

二回天(だいにかいてん)は、幕末に箱館政権が所有していた軍艦。元は秋田藩所有の新政府軍艦高雄丸(たかおまる)。.

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箱館戦争

永嶌孟斎画 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。.

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田野畑村

野畑村(たのはたむら)は、日本の岩手県下閉伊郡にある、太平洋に面した村である。.

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甲賀源吾

賀 源吾(こうが げんご)は幕末の幕臣。軍艦操練方。のち箱館政権(俗に蝦夷共和国)海軍の主要メンバーとなる。「回天丸」艦長として宮古湾海戦で戦死。名は秀虎。.

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相馬主計

主殿(そうま とのも、天保14年(1843年)? - 没年不詳)は、新選組隊士。名は肇(はじめ)、新選組時代は主計(かずえ)。 箱館戦争において新選組が降伏する際、戦死した土方歳三に代わって隊長として署名したため、新選組最後の隊長とも局長ともいわれる。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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蟠竜丸

蟠竜丸(ばんりゅうまる)は、幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦のひとつ。また、日本海軍初期の軍艦。もとはイギリスの王室ヨットでビクトリア女王から江戸幕府に贈呈された。木造スクーナー型蒸気船。長さ23間(約41.8m)、幅3間(約5.45m)、深さ1丈7尺(約3.23m)、排水量370トン。蟠龍。蟠竜艦。後、雷電。.

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遊撃隊 (幕府軍)

遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍徳川家茂死後に結成された幕府軍の部隊。 慶応2年(1866年)10月22日、講武所師範や奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」が結成され、槍術家の高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉・三橋虎蔵などが頭取を務める。 戊辰戦争では抗戦派と恭順派で意見が分かれ、抗戦派がさらに二派に別れた。一隊は村越三郎が率いて彰義隊と行動を共にする。もう一隊は伊庭八郎・人見勝太郎・岡田斧吉・本山小太郎ら36名から成り、榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出。閏4月3日には請西藩主・林忠崇と同盟を結んで決起した。各地に転戦を続けるうちに脱走兵による隊士も増え続け、およそ300名となった5月、上野戦争に参戦を図ったが敗退。その後も奥羽越列藩同盟軍に加わり抗戦を続けたが請西藩が恭順となり両同盟崩壊とともに隊士達の戦死・降伏が相次ぐ。伊庭・人見ら90余名のみが榎本艦隊と共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に身を投じた。箱館では主に松前守備を担当した。.

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荒井郁之助

荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日(1836年6月12日) - 明治42年(1909年)7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長。幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。従五位。.

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萩原延壽

萩原 延壽(はぎはら のぶとし、1926年(大正15年)3月7日 - 2001年(平成13年)10月24日)は、日本の歴史家。姓の萩原は「はぎはら」と読むのが正しい萩原延壽:みすず書房が、間違って「はぎわら」と読まれることがある。名の「延壽」は「延寿」と表記されることがある。.

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蝦夷地

蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.

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蝦夷共和国

蝦夷共和国(えぞきょうわこく)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。.

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装甲艦

装甲艦(そうこうかん)は鉄ないし鋼の装甲を施した軍艦を指す用語である。日本では甲鉄艦ともいい、明治時代にはより一般的な名称であった。装甲艦という種別は装甲の存在を表すものであり、艦の用途や艦形に関するものではない。そのため動力も手漕ぎ、帆走や蒸気機関による機走などさまざまなものが用いられ、船の大きさも数百トン程度から一万トンに及ぶものまで、実に様々であった。 なお、19世紀末以降20世紀前半の戦艦、装甲巡洋艦から発展した巡洋戦艦も、19世紀以来の定義では装甲艦であるが、今日ではこれらを別分類とし、初期の装甲艦のみを指す艦種名称として用いられることが多い。.

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飛龍丸

飛龍丸(ひりょうまる)は、小倉藩・江戸幕府及び日本海軍(軍務官所管)の運輸船である。.

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鮫村

鮫村(さめむら)は、かつて青森県にあった村。ほぼ現在の八戸市鮫町にあたる。.

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軍事顧問

軍事顧問(ぐんじこもん)とは、外国に派遣されて、派遣先の軍隊の組織編成や訓練、戦闘指揮などに協力する軍事専門家のことである。現役の軍人や元軍人が一般的である。軍事顧問団を編成して派遣される場合が多い。.

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黒田清隆

黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆」ないし「黑田淸隆」である。、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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閉伊郡

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開陽丸

開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦である。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型帆船。排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。.

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野村利三郎

野村 利三郎(のむら りさぶろう、1844年(弘化元年) - 1869年5月6日(明治2年3月25日 (旧暦)))は、新選組隊士。姓は源、諱は義時。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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陸中国

中国(りくちゅうのくに)は、東北戦争終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。領域はほぼ現在の岩手県にあたるが、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部及び岩手県西北の二戸郡を欠き、秋田県北東部の鹿角市と小坂町を含む。.

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陽春丸

陽春丸(ようしゅんまる)は、日本海軍の軍艦。明治政府軍として箱館湾海戦に参加した。艦名は春の盛りの時期を意味する。.

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東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により英雄視され、「陸の大山 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の1人。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。.

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東艦

東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(甲鉄艦)(CSS Stonewall))は、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。種類ではマスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。 本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。.

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松岡磐吉

幕府軍艦蟠竜丸艦長・松岡磐吉 松岡 磐吉(まつおか ばんきち、天保12年(1841年) - 明治4年7月5日(1871年8月20日))は、幕末期の幕臣で箱館戦争時に旧幕府軍艦蟠竜丸の艦長をつとめた人物。長崎海軍伝習所2期生。盤吉と表記されることもあるが正しくは磐吉で、読みはばんきち。(松岡四郎次郎や松岡万と混同されたり、血縁のように書かれているものがあるが他人) 諱は惟孝。家紋は三割剣酢漿(かたばみ)。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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渡島国

渡島国(おしまのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。北海道 (令制)に含まれた。国名は北海道の旧称あるいは北海道の入り口を指している「渡島(わたりしま)」という言葉、読みは南部津軽の人たちがこの地を「おしま」と呼んだことに由来。道南に位置し、現在の渡島総合振興局管内と檜山振興局管内のそれぞれ南部(東は現在の八雲町のうち旧落部村以南、西は同じく旧熊石町以南)にあたる。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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明治2年

明治2年(めいじ2ねん) 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦(以下、旧暦)を採用していたため、西暦とはずれが生じる。 したがって、グレゴリオ暦の場合は.

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春日丸

春日丸(かすがまる)は、幕末・明治初期の日本の軍艦で、木製外輪船。本艦は当初、イギリス船籍のキャンスー号(Kiangsu、中国の江蘇省の「江蘇」の事)という貨物船であったが、それを1867年11月3日に薩摩藩の赤塚源六が約16万両で購入し、春日丸と改名させて就役させた。.

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海軍奉行

海軍奉行(かいぐんぶぎょう)は、幕末に江戸幕府により設置された役職である。役料は5000石。 慶応元年(1865年)に設置される。初代は下野黒羽藩大関増裕。翌年には海軍奉行を補佐する海軍奉行並が設けられる。軍艦奉行の上役として幕府海軍を統括した。慶応2年(1866年)に海軍総裁が常設されると、その下役となった。.

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斥候

斥候(せっこう patrol)または戦闘斥候(せんとうせっこう combat patrol)は、本隊の移動に先駆けてその前衛に配置され、進行方面の状況を偵察しつつ敵を警戒する任務をいう。 基本的に偵察、攻撃、追跡の三つの意味がある。偵察は地形や敵などに関する情報の収集活動であり、攻撃は敵部隊を撃滅するための作戦行動であり、追跡は後退する敵部隊に向かって移動することである。 この中でも特に偵察活動は危険ではあるものの、現在の状況を確実に把握し情報を収集するために必要であり、地域の支配権を左右する重要な活動である。なぜなら敵陣地の位置や部隊配置、敵戦力の規模などの情報が確実であれば、本格的な攻撃を加える際にも支援の空爆や火砲で効率的な攻撃が可能であり、その地域における戦闘の主導権を確保することができるからである。 あらゆる戦闘斥候は敵の勢力圏やその境界において行われるために、敵の伏撃を受ける事態や、不意の遭遇戦などが発生し、小規模で散発的な戦闘のほとんどは斥候の最中に発生するものである。また、斥候部隊は前衛部隊として接敵機動に続く遭遇戦においては直ちに接触を維持しつつ敵部隊を拘束し、本隊へ敵情を報告して部隊全体の戦闘展開を支援する役割をも持つ。.

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新選組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長の近藤勇を始め、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年頃から高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。.

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日本の国旗

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日でも一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。 1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色とされている。上下・左右対称である。 日章と旭光を意匠化した旗については旭日旗を参照。.

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日本海海戦

東郷平八郎(1907年〈明治40年〉) ロジェストヴェンスキー 日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを主力決戦の場所に因み対馬沖海戦(つしまおきかいせん、 (Tsusimskoye srazheniye)、英語:Battle of Tsushima)と呼ぶ。 この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上稀な一方的勝利となった。これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しており本稿でもこの呼び名を用いる。.

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1869年

記載なし。

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3月25日 (旧暦)

旧暦3月25日は旧暦3月の25日目である。六曜は先負である。.

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5月6日

5月6日(ごがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から126日目(閏年では127日目)にあたり、年末まではあと239日ある。誕生花はシャクナゲ。.

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