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宣王 (周)

索引 宣王 (周)

宣王(せんおう)は周朝の第11代王。 父・厲王は前842年に逃亡し、以後は王が不在のまま共和制が敷かれていた。紀元前828年に厲王が崩御した後、厲王の子である静が王として立てられた。治世前期は、を輔政とし国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる。 他方、軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出したが、こちらは徐々に劣勢となり、紀元前789年の千畝(せんぽ)の役で姜戎に大敗するなど、あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも厲王にみられる君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。その末路は定かではないが、『墨子』明鬼篇によれば杜伯を処刑した3年後に、鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。 賛否両論の分かれる王ではあるが、結果から言えば父の厲王や子の幽王と同じく、周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない。 文化面ではこの時代、籀(ちゅう)により『史籀篇』(しちゅうへん)が著され、書体のひとつの大篆にあたる籀文(籀書)ができあがった。 Category:周の王 Category:紀元前782年没.

14 関係: 史籀篇墨子幽王 (周)レイ王 (周)共和 (周)秦仲篆書体紀元前8世紀紀元前9世紀桓公 (鄭)書体

史籀篇

『史籀篇』(しちゅうへん)は、中国古代の漢字学習書。漢字を暗記に便利なように羅列した書物と考えられるが、現存しない。 『史籀篇』に使われていた文字を大篆または籀文と呼ぶ。これらがどういう文字であるかについては議論がある。.

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墨子

墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前470年~紀元前390年頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(てき、羽の下に隹)という。.

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幽王 (周)

幽王(ゆうおう)は、周朝の第12代の王。宣王の子。平王、携王、太子伯服らの父。西周最後の王である。褒姒という女性を愛し、彼女の笑顔を見たさに王国を滅亡させ、自らも反乱に遇い命を失った。.

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レイ王 (周)

厲王(れいおう)は周朝の第10代王。 厲王の在位期間は佞臣・栄夷公を重用し、賢臣であった周公、召公等の諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、周公と召公が代わって朝政を見る共和制が施行された。 紀元前828年(共和14年)に厲王が薨去し、周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。 また、宣王の世に厲王の末子である姫友は鄭に封じられ、鄭の桓公となる。 以上は『史記』に基づくものであるが、『竹書紀年』によれば、諸侯に推戴された共伯の和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされ、これが共和制の由来と説明されている。 Category:周の王 Category:紀元前828年没.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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共和 (周)

共和(きょうわ)は、周の厲王が逃亡してから宣王が即位するまでの期間を指す。この共和元年から『史記』の十二諸侯年表が始まっている(すなわち、史記の中では最古の年代の記述となる)。西暦では紀元前841年から紀元前828年までとされている。.

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秦仲

仲(しんちゅう、? - 紀元前822年)は、秦の襄公の祖父。公伯の子。.

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篆書体

書体(てんしょたい)は漢字の書体の一種。「篆書」「篆文」ともいう。 広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には周末の金文を起源として、戦国時代に発達して整理され、公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。 公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。.

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紀元前8世紀

ピトリヌスの雌狼」(カピトリーノ美術館蔵)。狼の乳を飲むロームルスとレムスの銅像。ロームルスは伝承上の都市国家ローマの建国者。 「ディピュロンのアンフォラ」。ギリシア陶器の幾何学様式後期を代表する名品で現在はアテネ国立考古学博物館が所蔵している。 Milwaukee Art Museum蔵)。 ウラルトゥ王国の繁栄と凋落。ウラルトゥの王サルドゥリ2世の時に勢力が最大となったが、隣国アッシリアに攻め込まれて衰退した。画像はウラルトゥの主神ハルディの像(アルメニア・エレバン・エレブニ要塞博物館蔵)。 ドゥル・シャルキン。アッシリア王サルゴン2世の時代に造営された都で10年余ほど用いられた後、ニネヴェに改めて遷都され放棄された。保存状態は悪くなく多くの浮彫で飾られた宮殿の城壁が発掘されている。画像はサルゴン2世と家臣の浮彫(ルーヴル美術館蔵)。 紀元前8世紀(きげんぜんはちせいき、きげんぜんはっせいき)は、西暦による紀元前800年から紀元前701年までの100年間を指す世紀。.

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紀元前9世紀

ンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 ラマッス(人頭有翼牡牛)像。アッシリア帝国の都ニムルドでは宮殿などの入り口を守護するものとしてラマッスの巨大な像が建てられた。画像はメトロポリタン美術館のラマッス。 西周の宣王。父の厲王が流謫の果てに死んだのちに王となり中興の英主と呼ばれた。画像は異民族の玁狁を討った虢季子白を称えて宣王が作らせた銘文が残る「虢季子白盤(中国国家博物館蔵)」。 紀元前9世紀(きげんぜんきゅうせいき)は、西暦による紀元前900年から紀元前801年までの100年間を指す世紀。.

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鄭(てい、紀元前806年 - 紀元前375年)は、中国の西周時代から春秋戦国時代まで存在した国。姓は姫、爵位は伯爵。現在の中華人民共和国河南省に位置した。 周の宣王の同母弟、姫友(桓公)が鄭(現在の陝西省渭南市華州区)に封じられたことに始まる。幽王の時、桓公は西周滅亡の混乱を避け、国民とともに東虢(とうかく)と鄶(かい)の間に遷った。 次の武公は即位すると、まず東虢と鄶を攻め滅ぼし、都を新鄭に定めた。武公・荘公は東周の平王の卿士となり周の再建をたすけた。しかし荘公はやがて周朝と反目するようになり、親征してきた周王直卒の連合軍を大破した。荘公には即位時からの謀臣として祭仲という賢臣がいたが、荘公の子である厲公は祭仲と対立し、暗殺しようとしたが事前に露見し、君主の座から逃げ出して副首都に逃げた。厲公は祭仲がいなくなった後、復位した。 その頃、斉の桓公が東方の覇者となり、その会盟に参加したもののむやみやたらと強い自尊心の為に会盟から脱退していた。その後、周の恵王が即位した際に再度卿士として政権の中枢へ返り咲いた。その後も鄭は王族である自尊心が強くみられ、それにより晋の文公(この時は重耳と名乗っていた)が諸国放浪中に鄭国内に立ち寄った際にも、厲公の子である文公は「流浪中の老人」と重耳を揶揄して粗略な扱いをしたために重耳から睨まれ、重耳が晋君に即位した後に誅されることとなった。 以降、晋と楚の二大勢力の狭間で、晋に属しながらも楚に表向きには従う、という、いわゆる「面従腹背」を繰り返し、それを嫌った楚の荘王による討伐軍を受けることになり、いわゆる邲の戦いへと発展することになった。このように春秋時代初期は強国であったが、小国であるが故に晋と楚との二大勢力による争いに巻き込まれ、徐々に衰退・没落した。それでも、名宰相として有名な子産が、土地制度・軍制・税制・法制を改革して国力を整理・増強し、外交にも手腕を振るったことで一時は荘公以来の全盛期となった。しかしそれも子産の死後は再び振るわなくなった。 紀元前375年、韓に滅ぼされた。.

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桓公 (鄭)

桓公(かんこう、紀元前?年 - 紀元前771年)は、鄭の初代君主。周の厲王の末子で宣王の弟。.

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戎(呉音:にゅう、漢音:じゅう、拼音:Róng)は、中国の五帝時代から戦国時代にかけて、中国の西および北に住んでいた遊牧民族。たびたび中国の歴代王朝に侵入しては略奪をおこなった。大別して西の戎を西戎といい、北の戎を北戎という。また、戎が滅んだ後世になっても、中国では蔑称として西戎や戎狄の語を用いた。.

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書体

書体(しょたい)とは、一定の文字体系のもとにある文字について、それぞれの字体が一貫した特徴と独自の様式を備えた字形として、表現されているものをいう。基礎となる字体の特徴、およびその字形の様式から導かれる、形態の差異によって分類される。例えば、漢字という文字体系のもとにある書体として、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体に加え、印刷用の書体(明朝体やゴシック体など)がある。これらはいずれも共通の文字集合から生まれながら、時代・地域・目的などにより、その形態を変化させていったものである。 英語の typeface の訳語としても用いられる。この場合は、広義における活字とその意匠についての概念として扱われる。 近年ではフォントと同義に用いられることがあり、フォントの使用ライセンスの単位として、1書体、2書体と数えることもある。しかし本来、書体は文字に通底する概念であって、金属活字の字面や写真植字の文字盤、またデジタルフォントのアウトラインデータそれ自体を指すものではない。 以下は字形から見た書体の類別(組版の視点から見た分類)に従って叙述する。.

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