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安藤信友

索引 安藤信友

安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代中期の大名で、備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。安藤家4代。徳川吉宗の代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。.

67 関係: 加納町加納藩千利休大名大坂城代大久保忠胤天和 (日本)奏者番宝井其角宝永安藤信尹安藤信周安藤信易安藤重博安藤重長寺社奉行対馬国寛文寛政重修諸家譜小出英益丁稚三河安藤氏三斎流一尾伊織享保享保の改革京職京極高或仲谷昇侍従御家流 (茶道)御目見徳川吉宗徳川綱吉従五位従四位俳諧備中国備中松山藩八代将軍吉宗米津田盛米津田賢細川忠興織部流美濃国牧野忠成 (越後長岡藩二代)駕籠貞享麹町近江国...茶道藤堂高朗長門国酒井忠寛 (伊勢崎藩主)老中東京都松平光重 (戸田松平家)杉並区正徳 (日本)水間沾徳永福江戸幕府江戸時代1671年1732年7月25日 (旧暦)9月13日 インデックスを展開 (17 もっと) »

加納町

加納町(かのうちょう)は、かつて岐阜県稲葉郡に存在した町で、現在の岐阜市南部に当たる旧城下町である。 江戸時代に中山道の加納宿の宿場町、加納藩の城下町であった土地であり、関ヶ原の戦い以前と明治維新以後の「岐阜」に当たる。.

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加納藩

加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.

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千利休

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂城代

大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大坂城主である将軍に代わり大坂城を預かった。.

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大久保忠胤

大久保 忠胤(おおくぼ ただたね、宝永7年7月3日(1710年7月28日) - 安永8年8月2日(1779年9月11日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩2代藩主。烏山藩大久保家3代。 初代藩主大久保常春の長男。母は小林氏。正室は京極高或の娘(安藤信友の養女)。子に大久保忠卿(次男)、大久保忠喜(三男)、大久保忠定(四男)、娘(阿部正興継室)、娘(大久保忠寛室)。官位は従五位下、山城守。 享保13年(1728年)、父・常春が死去したため家督を相続し、弟の伝三郎忠篤に新墾田2000石を分知した。宝暦9年(1759年)に次男の忠卿に家督を譲って隠居した。安永8年(1779年)に70歳で死去した。墓所は東京都世田谷区太子堂の最勝寺教学院。 たたたね Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1710年生 Category:1779年没.

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天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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奏者番

奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。城中における武家の礼式を管理する。.

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宝井其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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安藤信尹

安藤 信尹(あんどう のぶただ)は、美濃加納藩の第2代藩主。安藤家5代。.

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安藤信周

安藤信周(あんどう のぶちか、貞享4年(1687年) - 享保12年(1727年))は、安藤重常(上野高崎藩第2代藩主・安藤重長の三男)の次男。高崎藩主から美濃加納藩初代藩主に転じた安藤信友の養子となる。正室は長島瑞得(信友養女)の娘。子は安藤信尹(長男)、娘(安藤広猛正室)、娘(藤堂高豊正室、信友養女)、娘(戸沢正勝正室、大久保忠胤養女)。従五位下、大和守。 初め、父・重常の家督である4,600石(旗本)を宝永7年(1710年)に相続する。享保4年(1719年)、小普請組支配。翌享保5年(1720年)、布衣を許された。享保9年(1724年)、小姓組番頭に転じる。享保11年(1726年)、信友の次男・安藤信易が夭折したため、養子となって安藤家嫡子の座に就いたが、翌年死去した。5年後に、長男・信尹が嫡孫承祖により家督を相続する。 のふちか Category:江戸幕府旗本 Category:1687年生 Category:1727年没.

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安藤信易

安藤信易(あんどう のぶやす、正徳3年(1713年) - 享保11年(1726年))は、上野国高崎藩第4代藩主、美濃国加納藩初代藩主・安藤信友の次男。通称は政蔵。安藤家の嫡子だったが、家督を継ぐことなく、父に先立って享保11年(1726年)に夭折した。 のふやす Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1713年生 Category:1726年没.

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安藤重博

安藤 重博(あんどう しげひろ、寛永17年(1640年) - 元禄11年8月9日(1698年9月12日))は、上野高崎藩の第3代藩主。備中松山藩の初代藩主。安藤重之の長男。母は藤堂高次の娘。正室は戸田光重の娘。子に信友(長男)、娘(小出英益正室)、娘(酒井忠寛正室)。官位は従五位下、対馬守。 明暦3年(1657年)、祖父で先代藩主である安藤重長の死去により跡を継いだ。寛文4年(1664年)2月に奏者番となる。後に老中に栄進したため、元禄8年(1695年)5月に5,000石加増の6万5,000石で備中松山藩に移封されたが、過酷な検地をここで行なって領民を苦しめたと言われている。元禄11年(1698年)8月9日、59歳で死去し、跡を長男の信友が継いだ。 しけひろ Category:江戸幕府老中 Category:高崎藩主 Category:備中松山藩主 Category:1640年生 Category:1698年没.

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安藤重長

安藤 重長(あんどう しげなが、慶長5年(1600年) - 明暦3年9月29日(1657年11月5日))は、江戸時代前期の大名。上野高崎藩第2代藩主で安藤家2代。本多正盛の長男。母は安藤重信の娘。正室は志水忠宗の娘。子は安藤重之(長男)、安藤重広(次男)、安藤重常(三男)、娘(丹羽光重正室)、娘(秋田盛季正室)、養女(志水忠宗の娘、朽木稙綱継室)。外祖父・安藤重信の養子。同母弟・安藤重元、安藤重矩も重信の養子となっている。従五位下、伊勢守・右京亮。.

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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小出英益

小出 英益(こいで ふさえき、寛文7年2月26日(1667年3月20日) - 元禄5年10月10日(1692年11月17日))は、但馬出石藩の第7代藩主。出石藩小出家6代。 第6代藩主小出英安の長男。母は内藤頼長の娘。正室は安藤重博の娘。継室は立花鑑虎の娘。官位は従五位下、大和守。 幼名は鶴松。元禄4年(1691年)12月26日に父が死去したため、翌年3月11日に家督を継いだ。しかし元禄5年(1692年)10月10日に26歳で死去した。死後、家督は養嗣子の英長が継いだ。法号は浮岳紹貞集雲院。墓所は東京都港区南麻布の天真寺。 ふさえき Category:出石藩主 Category:外様大名 Category:1667年生 Category:1692年没.

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丁稚

丁稚(でっち)とは、商家に年季奉公する幼少の者を指す言葉。職人のもとでは弟子、子弟とも呼ばれる。江戸時代に特に多かった『世界大百科事典』(平凡社)「でっち」の項目。 現代でも一般社員(ヒラ社員)が自嘲的に「まだ丁稚です」と比喩的に使う事もある。上方ことばの丁稚に対して江戸言葉では「小僧」である。.

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三河安藤氏

三河安藤氏(あんどうし)は、日本の氏族。 元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死。 家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した。.

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三斎流

三斎流(さんさいりゅう)は、豊前小倉藩主細川忠興(三斎)を祖と仰ぐ茶道の一派。三斎の門人である一尾伊織が許しを得て興したので一尾流(いちおりゅう)、三斎流一尾派などとも言われる。現在家元は島根県出雲市にあり庵号を観翠庵、同門組織として九曜会がある。安藤家御家流も一尾流の流れを汲む他、細川三斎流と称する流派がある。.

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一尾伊織

一尾 伊織(いちお いおり、慶長4年(1599年) - 元禄2年3月13日(1689年5月2日))は、江戸時代初期の旗本、茶人。一尾通春の子。母は大友吉統の娘。名は通尚。号は徹斎、宗碩、一庵、照庵。 一尾氏は、久我通堅の次男三休が一尾庄に住したことに初まり、その孫が伊織である。寛永10年(1633年)に父が没し、翌年父の遺領のうち1,000石を相続し書院番となった。その後職を辞し小普請となった。貞享元年(1684年)7月19日に致仕し、徹斎と号す。細川忠興(三斎)家臣の津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始した。竹の花筒、茶杓の製作に秀いで、琵琶を製作という。元禄2年、91歳で没した。著作に「一尾流之書」などがある。弟通利の子通命を娘の婿として迎えるが早死にし、その子で孫の通門を養子にするがこれも夭折した。土井甲斐守家臣の大野市左衛門定秀の子の通定が伊織の養子となり家督を継いだ。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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享保の改革

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては複数説がある。 主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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京極高或

京極 高或(きょうごく たかもち)は、江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩3代藩主。丸亀藩京極家5代。.

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仲谷昇

仲谷 昇(なかや のぼる、1929年5月4日 - 2006年11月16日)は、日本の俳優である。東京府(現東京都)出身。本名は。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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御家流 (茶道)

御家流(おいえりゅう)は、江戸時代初期に美濃加納藩主・安藤信友が興した茶道の流派。譜代大名の安藤対馬守家(幕末期は磐城平藩主家)で伝承され、安藤家御家流とも言う。細川三斎の門人一尾伊織が興した一尾流の流れを汲み、織部流を合わせたものである。留流として安藤家中以外へは秘されてきたが、1970年より一般へ教授されるようになった。 米川流の香道、伊勢流の礼法と合わせ伝えられている。.

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御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。 江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。 幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。 江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。 近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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俳諧

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備中松山藩

松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。.

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八代将軍吉宗

『八代将軍吉宗』(はちだいしょうぐんよしむね)は、1995年1月8日から12月10日にNHKで放送された第34作目のNHK大河ドラマである。.

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米津田盛

米津 田盛(よねきつ ただもり/たもり/みちもり))は、江戸時代前期の旗本・大名。.

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米津田賢

米津 田賢(よねきつ ただかた/たかた/みちかた)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本寄合・茶人。.

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細川忠興

九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.

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織部流

織部流(おりべりゅう)は、茶道流派の一つ。古田織部の創始による流儀である。江戸前期に大流行した。織部流は徳川幕府のほか、諸藩で用いられ、石州流・宗旦流・不白流(江戸千家)が台頭するまで続いた。福岡藩や長府藩では江戸後期まで続いている。古田織部と血縁のある豊後岡藩家老の中川(古田)広計(淵黙)が、福岡藩に伝わった織部流を継承し、その流儀が現代にまで伝えられている。また、明治期に広計の子孫に重名(宗関)がおり、東京で織部流を教授した。その後、弟子の原鉄石が正式織部本流という式正(しきしょう)の茶道を興し、その弟子の秋元瑞阿弥が体系化し、現在、式正織部流(しきせい おりべりゅう)と称する千葉県指定無形文化財に指定されている茶道が行われている。したがって、式正織部流では本来の織部の茶道である侘茶法と、式正織部流の式正茶法の両伝があるとしている。現在では、式正織部流、扶桑織部流、古田織部流茶湯研究会が行われている。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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牧野忠成 (越後長岡藩二代)

牧野 忠成(まきの ただなり、寛永12年(1635年) - 延宝2年5月27日(1674年6月30日)は、越後長岡藩の第2代藩主。長岡藩系牧野氏宗家3代。牧野光成の長男。母は本多俊次の娘。官位は従五位下、飛騨守。幼名老之助。初名は忠盛。父・光成が祖父・忠成の家督を相続前に死去したので、祖父の後嗣となった。祖父と同名を名乗ったので、長岡ではのちにこの第2代藩主を後忠成公とも呼び慣わしている。.

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駕籠

駕籠 駕籠(かご)は、人を乗せて人力で運ぶ乗り物のこと。人が座る部分を一本の棒に吊し、複数人で棒を前後から担いで運ぶ。.

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貞享

貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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麹町

麹町(こうじまち)は、東京都千代田区の地名。現在の麹町は旧麹町区にあたる麹町地域内で、新宿通りに沿って半蔵門から四谷見附までの細長い街区を形成している。住居表示未実施地域。郵便番号は102-0083。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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藤堂高朗

藤堂 高朗(とうどう たかほら)は、伊勢津藩の第7代藩主、元は支藩久居藩の第5代藩主。幼名は万治郎、元服後の初名は高豊。久居陣屋の主。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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酒井忠寛 (伊勢崎藩主)

酒井 忠寛(さかい ただひろ)は、上野伊勢崎藩の初代藩主。雅楽頭系酒井家支流初代。 寛文6年(1666年)10月27日、「下馬将軍」として権勢を誇った大老・酒井忠清の三男として生まれる。延宝6年(1678年)に叙任し、天和元年(1681年)、兄の忠挙より2万石を分与されて、支藩である伊勢崎藩を立藩した。見附門番や大坂加番、日光祭礼奉行などを歴任する一方で、藩の家老などの職制や波志江沼や書上原治水工事に尽力するなどして、藩政の基礎を固めた。 元禄16年(1703年)11月8日に死去。享年38。女児しかなかったため、養子の忠告が跡を継いだ。 たたひろ 酒21 Category:1666年生 Category:1703年没.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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松平光重 (戸田松平家)

松平 光重(まつだいら みつしげ)は、江戸時代前期の大名。播磨明石藩第2代藩主、美濃加納藩初代藩主。戸田氏の嫡流にあたる戸田宗家(仁連木戸田家)18代当主。戸田松平家3代。松平忠光の長男。.

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杉並区

杉並区(すぎなみく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。郵便番号(上3桁)166・167・168。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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水間沾徳

水間 沾徳(みずま せんとく、寛文2年(1662年) - 享保11年5月30日(1726年6月29日))は、江戸時代初期、松尾芭蕉、宝井其角と同時代の俳人である。芭蕉および宝井其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。 江戸に生まれる。姓は門田、のち水間、名は友兼。通称治朗左衛門。16歳で福田露言(保守派の岸本調和の門の門人で調也とも)に入門、露言に伴われて、奥州磐城平藩主・内藤義概(俳号風虎)の江戸藩邸の句会に参加し、内藤風虎の嗣子・義英(俳号露沾)の知遇を得て、沾葉と名乗った。風虎の句会は芭蕉を世にだす契機となったとされている。沾徳は磐城平藩の扶持を受け、諏訪闡幽、大村蘭台など大名俳人と交わった。貞享2年(1685年)、23歳の時、風虎が没し、露沾が廃嫡となると内藤家を致仕し、貞享4年(1687年)、名を沾徳と改め、立机した(俳句宗匠となった)。芭蕉と親交を持ち、元禄7年(1694年)、沾徳が33歳の時、芭蕉が没すると、宝井其角とともに江戸俳諧の中心となった。宝永4年(1707年)、沾徳が46歳の時、其角が没す。其角没後は江戸俳壇の諸派を集めて大宗匠と仰がれるに至った。.

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永福

永福(えいふく)は、東京都杉並区の地名。住居表示実施済みであり、現行行政地名は永福一丁目から永福四丁目。郵便番号は168-0064。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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1671年

記載なし。

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1732年

記載なし。

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7月25日 (旧暦)

旧暦7月25日は旧暦7月の25日目である。六曜は先勝である。.

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9月13日

9月13日(くがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から256日目(閏年では257日目)にあたり、年末まであと109日ある。.

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