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孔子改制考

索引 孔子改制考

『孔子改制考』(こうしかいせいこう)は、中国の清朝の康有為の著書である。1897年(光緒23年)に刊行された。 先に康有為は、儒教の経典中で古文で書かれたものを前漢の劉歆の偽作であるとし、今文で書かれたものが孔子の著作であるとする論を展開した「新学偽経考」(しんがくぎけいこう)という論著を著していた。 本書では、その前著の後を受けて、孔子を新しき王朝の体制を確立するために、旧制度を改革する役割を担った素王であって、そこに孔子の著述や活動の真意があったのだということを論じている。つまり、聖人である周公旦の制度の祖述を意図していたという、孔子に対する従来の見方を改めようとしたものである。 康有為は、孔子が改制の立役者であり素王であったと位置づけ、更には儒教の創業者の位置に孔子を位置づけようという意図を持っていた。その上で、自身の戊戌変法運動の理論上の根拠を求めようとしたものである。ただその論は、孔子をはじめ春秋戦国時代の諸子百家の思想家たちが、いにしえの時代に託すことで現体制の改革を説いたという事実と相容れないこととなり、その論は破綻を来たしてしまった。つまり、孔子同様に諸子に対しても教主的な意義を認めざるを得ない立場に至ったのである。 これらの主張は、清代に盛行した公羊学派をベースに発展させたものであるが、論そのものは同時代の学者廖平のものそのままであるとの指摘は早くからなされ、現在ではほぼ定説となっている。 Category:儒学書 Category:清朝 Category:中国の書籍 Category:1890年代の書籍 Category:孔子を題材とした作品.

18 関係: 劉キン (学者)古文孔子中国常州学派康有為今文廖平周公旦儒教光緒前漢経典諸子百家戊戌の変法春秋戦国時代1897年

劉キン (学者)

劉 歆(りゅう きん、? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者、目録学者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯、新では嘉新公。陽城侯・劉向の第3子。兄に劉伋と劉賜がいる。子に劉畳(新の伊休侯)、劉棻(新の隆威侯)、劉泳(新の伐虜侯)がいる。前漢の宗室の身分である。後に、名を秀に、字を穎叔と改める。.

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古文

古文(こぶん)は、漢字の書体の一種。広い意味での篆書系統の文字である。 広義には秦の小篆以前に使われていた文字を指すが、狭義には後漢の許慎による字書『説文解字』や魏の「三体石経」に「古文」として使われている文字、さらに出土文物である六国の青銅器・陶器・貨幣・璽印や長沙仰天湖楚墓竹簡・信陽楚墓竹簡・楚帛書といった文書に使われている文字を指す。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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常州学派

常州学派(じょうしゅうがくは)は、中国、清代の儒学において漢代今文経学を重視する学派。創始した荘存与・劉逢禄らが常州の人であったためこの名がある。また、今文経重視を掲げているので今文学派の呼称もある。さらに、漢代今文学のなかでも『春秋公羊伝』に基づく董仲舒や何休の公羊学を重視したので、公羊学派(くようがくは)とも言われる。 常州学派の創始者である荘存与は今文経学の重視を提唱し、家学として甥の荘述祖や外孫の劉逢禄に伝えた。劉逢禄は『春秋公羊伝』に精通し、後漢の何休の『公羊解詁』に基いて六経に込められた孔子の微言大義を明らかにすることを目指し、常州学派の基礎を築いた。 劉逢禄の業を受けた魏源や龔自珍は、嘉慶・道光年間、公羊学に基づき経世致用の学を提唱し、政治改革の主張を行っている。魏源は劉逢禄が何休を重視したのに対して、前漢に遡って董仲舒こそ孔子の微言を明らかにしているとした。 光緒に至ると、廖平(りょうへい)が、古文経を劉歆の偽作として斥け、孔子を改制者として位置づける主張を行い、康有為はその影響を受けて『新学偽経考』(1891年)や『孔子改制考』(1897年)といった著作を発表した。『新学偽経考』で古文経学を劉歆が、王莽が漢朝を簒奪し新朝を建国するのを助けるために偽作した新学にすぎないと主張した。『孔子改制考』では六経をすべて孔子の創作とし、孔子が乱世救済のために古代の堯・舜に仮託して制度改革の思想を込めたのだとした。考証学など古文学派がイメージする学者・教育家としての孔子像を思想家・改革者へと変えた。 公羊学は康有為たちの変法運動の理論的根拠となり、清末の社会思潮に大きな影響を及ぼした。また学問上、古文経伝に対する懐疑を打ち出したことが、経書自体の懐疑へと向かい、顧頡剛を始めとする疑古派の歴史観を生むことになった。 Category:儒教の学派.

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康有為

康 有為(こう ゆうい)は、清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。.

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今文

今文(きんぶん)は、中国漢代において経書を書き写すのに用いられた文字で、当時通行していた隷書を指す。古文と呼ばれた秦以前の古い字体で書かれた経書に対して、今の文字という意味で今文と呼ばれた。経書は先秦時代から伝えられたものであり、それを伝承した今文と古文との間には文字の異同や増減はあっても、書き写した書体の相違に過ぎない。しかし、両者のどちらが経書の正当性を保持しているかという点をめぐって、漢代と清代とに論争が起こった。漢代の論争は王朝権力との関係を生み、清代の論争は「西洋の衝撃」と関係し、各々複雑な展開を辿った。.

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廖平

廖 平(りょう へい)は、清末民初に活躍した経学者。清代の今文学派の掉尾を飾る人物の一人。思想が六変したことで有名。。六度思想が変化したことに因んで六訳と号した。張之洞・王闓運を師とし、劉師培と交遊を持った。弟子に蒙文通がいる。初名は登廷、字は季平、号は旭陔、または勗斎。.

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周公旦

周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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光緒

光緒(こうしょ、こうちょ、満州語:、転写:badarangga doro、)は清の徳宗の治世中に使われた元号。1875年 - 1908年。一世一元の制を採用していたため徳宗は光緒帝と称される。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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経典

経典(きょうてん、きょうでん、sūtra, スートラ、sutta, スッタ、経)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。.

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諸子百家

諸子百家(しょしひゃっか)とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指す。「百家」は儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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戊戌の変法

戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。.

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春秋戦国時代

春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)は、中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。.

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1897年

記載なし。

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