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姫の前

索引 姫の前

姫の前(ひめのまえ、生年不詳 - 承元元年3月29日(1207年4月27日))は鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の御家人、比企朝宗の娘。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の正室。子に朝時(名越流祖)、重時(極楽寺流祖)、竹殿、他。.

40 関係: 執権吾妻鏡吉川弘文館大倉御所天福 (日本)平安京建久建仁御家人北条義時北条重時北条氏 (名越流)北条氏 (極楽寺流)北条朝時嘉禄元久竹殿猶子鎌倉幕府鎌倉時代起請文比企能員の変比企氏比企朝宗源具親源頼朝源輔通明月記承元1192年1193年1198年1203年1204年1207年1226年1233年3月29日 (旧暦)4月27日9月25日

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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吾妻鏡

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大倉御所

大倉御所(おおくらごしょ)は、鎌倉時代に相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所、大倉幕府とも。治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所であった。.

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天福 (日本)

天福(てんぷく)は、日本の元号の一つ。貞永の後、文暦の前。1233年の期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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建仁

建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.

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北条重時

北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家。極楽寺 重時(ごくらくじ しげとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。 六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等の家訓の作者でも知られる。.

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北条氏 (名越流)

名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承した事により名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。 創設当初の名越流の家格・勢力は得宗家に次ぐものであったが、名越流からは執権・連署・探題は一名も出しておらず、その得宗家に対抗しうる家格の高さが得宗側から警戒されていたと見られる。名越流はその本来は嫡流であるとの意識(後述)の強さから、たびたび得宗家と対立し、数度の討伐を受けている。.

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北条氏 (極楽寺流)

極楽寺流北条氏(ごくらくじりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。「極楽寺殿」と称された北条重時の子孫を極楽寺流と称する。北条氏内部で家格は高く、得宗家に継ぐ家格を持ち、その子孫は執権・連署・六波羅探題をはじめとする幕府重職に就き、また得宗家正室にも入っている『鎌倉将軍・執権・連署列伝』pp081-085。重時から伝わる『六波羅殿御家訓』と『極楽寺殿御消息』の2つの家訓があった。.

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北条朝時

北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越 朝時(なごえ ともどき)とも呼ばれる。.

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嘉禄

嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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竹殿

竹殿(たけどの、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の女性。北条氏の一門。鎌倉幕府の2代執権、北条義時の娘。母は正室の姫の前。同母兄に朝時、重時。 子に顕親、顕雲など。 はじめは大江親広の側室であったが、承久3年(1221年)承久の乱において親広が失脚。離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。『葉黄記』(宝治元年6月3日条)によれば遅くとも貞応元年(1222年)までには定通に嫁しており、甥の土御門上皇を流刑にされ政治基盤を失った定通も次第に復権する。 長兄の北条泰時は乱後に設置された六波羅探題に就任し、京方の監視にあたった。父義時の死後に鎌倉へ戻って3代執権となった泰時に代わり、同母兄の重時が六波羅探題となる。仁治3年(1242年)、幕府の意向による後嵯峨天皇擁立にあたり、竹殿は鎌倉の泰時と京の定通との間の仲介役となっている。 天福元年(1247年)5月、定通と竹殿の子で山僧となっていた顕雲が内裏の最勝講で興福寺の僧と乱闘騒ぎを起こし、顕雲方の侍で因幡守広盛(竹殿の乳母父で元は大江親広の従者)が重時によって六波羅探題に召し出されている。同年6月には「年来、道心あり」とされていた子の中納言顕親が26歳(28歳説もあり)の若さで突然出家を遂げて周囲を驚かせ、父定通を嘆かせている。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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起請文

起請文(きしょうもん)は、日本でかつて作成されていた、人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書である。単に起請ともいう。.

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比企能員の変

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。.

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比企氏

比企氏(ひきし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。 一族は族滅したため、詳細な史料が残らず、系譜も明らかではないが、一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。.

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比企朝宗

比企 朝宗(ひき ともむね、生没年不詳)平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。比企藤内朝宗とも。源頼朝の乳母である比企尼に連なる比企氏の一族。内舎人に任ず。 比企氏の系図上は比企遠宗と比企尼の実子、または兄弟とされるが、尼との関係や尼の夫の実名については疑点が多く正確な続柄は不明。妻(妾)に北条政子の官女・越後局(文治4年1月22日、男児出産記録あり)。娘に北条義時の室となった姫の前がいる。.

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源具親

源 具親(みなもと の ともちか、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の貴族・歌人。村上源氏俊房流、右京権大夫・源師光の次男。官位は従四位下・左近衛少将。小野宮少将と号す。新三十六歌仙の1人。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源輔通

源 輔通(みなもと の すけみち)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。左近衛少将・源具親の子。.

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明月記

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。別名:『照光記』、『定家卿記』。.

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承元

承元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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1192年

記載なし。

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1193年

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1198年

記載なし。

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1203年

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1204年

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1207年

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1226年

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1233年

記載なし。

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3月29日 (旧暦)

旧暦3月29日は旧暦3月の29日目である。年によっては3月の最終日となる。六曜は先勝である。.

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4月27日

4月27日(しがつにじゅうななにち、しがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から117日目(閏年では118日目)にあたり、年末まではあと248日ある。誕生花はシラネアオイ、カルミヤ。.

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9月25日

9月25日(くがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から268日目(閏年では269日目)にあたり、年末まであと97日ある。.

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