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姥尉輔

索引 姥尉輔

姥 尉輔(うば じょうすけ)は歌舞伎作者の名跡。.

8 関係: 名跡合巻瀬川如皐瀬川如皐 (3代目)鶴屋南北鶴屋南北 (4代目)鶴屋南北 (5代目)歌舞伎

名跡

名跡(みょうせき)は、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。「めいせき」と発音するのは誤り。.

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合巻

合巻(ごうかん)は、寛文期以降江戸で出版された草双紙類の、1804年(文化元年)頃に始まった最終形態。それまで5枚(5丁)1冊に別々に綴じていたのを、纏めて厚く綴じた。明治初期まで続いた。.

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瀬川如皐

川 如皐(せがわ じょこう)は歌舞伎作者の名跡。.

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瀬川如皐 (3代目)

三代目 瀬川如皐(さんだいめ せがわ じょこう、文化3年(1806年) - 明治14年(1881年)6月28日)は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者。本名は六三郎(ろくさぶろう)。俳名に吐蚊、雅号に二五社・藪雀庵がある。 江戸の生まれ。はじめ呉服屋を営んでいたが、天保10年(1839年)絞吉平の名で河原崎座に入り、歌舞伎狂言の創作活動を始める。のち絞吉兵衛。姥尉輔の名で五代目鶴屋南北に師事する。その後四代目中村歌右衛門の後援を受け活動が活発となる。弘化2年(1845年)藤本吉兵衛、一時澤村吉兵衛とも名乗る。嘉永元年(1848年)11月中村座の立作者となり、嘉永3年(1850年)三代目瀬川如皐を襲名。以後主に八代目市川團十郎や四代目市川小團次のために台本を書く。 几帳面な性格で、台本も趣向に富み、創作性には優れていた。ただし書き直しが多く、そのうえ台本の字が小さく、指示も細か過ぎるうえ、作品自体も冗長で、役者や観客からはすこぶる不評だった。代表作は『与話情浮名横櫛』(切られ与三)、『東山桜荘子』(佐倉義民伝)、『新台いろは書始』(のちに改作されて『松浦の太鼓』)など。とくに『切られ与三』では七五調の台詞を河竹黙阿弥に先駆けて使用して幕末の生世話物狂言の発展に貢献、『佐倉義民伝』では日本最初の農民劇を創作するなどの功績をあげている。また、『乗合舟』『競獅子』などの舞踊の作詞、合巻の著作などがある。 私生活では潔癖な人柄で、自宅は常に柱から土間まで磨きあげられ塵ひとつなかった。ある日家に遊びに来た後輩がうっかりして泥のついた下駄で入り込んだ時は、「おいおい。だめじゃないか。」と激しく怒ったという 嘉永7年(1854年)小團次が河原崎座に移籍。以降小團次は黙阿弥と提携してしまう。代わりに如皐と組んだ四代目中村芝翫が丸本物を得意とすることが、生世話物に本領とする如皐には合わないなどの理由から筆力が衰退する。それでも三代目澤村田之助のために『蠎阿由曙仇討』(うわばみお由)などいくつかの佳作をものにしたが、明治以降になると新時代に対応できず、さらに黙阿弥の人気に押され二流の芝居小屋での活躍を余儀なくされた。以上のように才能がありながらも狂言作者として大成せぬまま終わったが、鶴屋南北と黙阿弥の間の時代を埋める存在として評価されている。 墓所は向島弘福寺。四代目瀬川如皐は親戚に当たる。 Category:歌舞伎作者 Category:武蔵国の人物 Category:1806年生 Category:1881年没.

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鶴屋南北

屋 南北(つるや なんぼく)は、歌舞伎の役者および作者の名跡。初代から三代目までが道化方役者、四代目以後が狂言作者。屋号は鶴屋、定紋は丸に大の字。.

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鶴屋南北 (4代目)

四代目 鶴屋 南北(よだいめ つるや なんぼく、宝暦5年(1755年) - 文政12年11月27日(1829年12月22日))は、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。 鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目のことをさす。また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おおなんぼく)ともいう。.

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鶴屋南北 (5代目)

五代目 鶴屋 南北(ごだいめ つるや なんぼく、寛政8年(1796年) - 嘉永5年1月21日(1852年2月10日))は江戸後期の歌舞伎役者・歌舞伎作者。本名、松本源三郎。俳名は可祐、屋号は鶴屋、紋は丸に大の字。 父は江戸深川八幡宮境内にある二軒茶屋の主人松本歳右衛門。その三男として生まれる。寛政12年(1800年)、二代目勝俵蔵の養子となり芝居の世界に入る(四代目鶴屋南北の娘婿・勝兵助の養子の説もあり)。 享和2年(1802年)、南北丑右衛門の名で江戸市村座の「當奥州壺碑」の舞台に上がり、道化役の鶴屋南北家の家紋「丸に大の字」を使用する。その後も舞台活動を続けるが、文政4年(1821年)頃、狂言作者に転向。靏峯千助と改名。同年5月江戸河原崎座『敵討櫓太鼓』、7月『玉藻前御園公服』など祖父の四代目鶴屋南北の脚本に参加する。のち、鶴屋孫太郎と改名。たまさかに舞台に出るときは靏峯丑左衛門の名を名乗り四代目の傑作『絵本合法衢』に出演する。 こうして舞台活動を続けながらも祖父のスケとして活動、『東海道四谷怪談』『金幣猿島郡』などの傑作脚本の執筆に加わり、文政12年(1829年)立作者となる。四代目の死後も創作活動は続き天保3年(1832年)に二代目姥尉輔(四代目南北の草双紙のペンネーム)を襲名。天保8年(1837年)3月江戸中村座『桜花大江戸舟』で五代目鶴屋南北を襲名。その後も江戸、大阪の劇壇で活躍する。四代目と区別するために『孫太郎南北』と呼ばれた。 主として、旧作や四代目の作品の補作、改訂に終始し独創性に乏しかったが、三代目瀬川如皐、二代目河竹新七(のちの河竹黙阿弥)ら幕末、明治期にかけて活躍する逸材たちを育てた功績は大きい。 Category:歌舞伎役者 Category:歌舞伎作者 Category:武蔵国の人物 Category:1796年生 Category:1852年没.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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