ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

天祚帝

索引 天祚帝

天祚帝(てんそてい)は、遼の第9代(最後)の皇帝。.

65 関係: 南宋大宋宣和遺事天会 (金)天慶 (遼)太康 (遼)外戚女真宗室乾統 (遼)保大 (遼)北宋北遼ポロユリウス暦冊封皇太子皇帝皇族白頭山遼史道宗 (遼)西遼説話 (中国)賜死蜀国公主 (遼)阿骨打金 (王朝)蕭奉先蕭徳妃蕭皇后 (遼天祚帝)蕭文妃長春市雲州 (山西省)耶律大石耶律定耶律余睹耶律雅里耶律淳耶律濬耶律敖盧斡陰山山脈李処温欽宗正隆海陵王1075年1097年1101年...1104年1110年1111年1115年1120年1121年1122年1125年1128年1156年1161年2月12日3月26日4月19日 (旧暦)6月5日 インデックスを展開 (15 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

新しい!!: 天祚帝と南宋 · 続きを見る »

大宋宣和遺事

『大宋宣和遺事』(だいそうせんないじ)は、中国北宋王朝末期の皇帝徽宗の一代記の形式をとった説話集である。単に『宣和遺事』ともいう。宣和は徽宗皇帝治世終盤の年号(1119年 - 1125年)。 講談形式で歴史を語る「講史」に近く部分的に白話(口語)の文体で語られている。小説的な要素もあるが、基本的にはそれまでの説話・講談本・史書から逸話を抜き出してまとめた書である。ただし整理が十分でないため、前半と後半では文体や構成法がかなり異なるなど一貫性はない。南宋以来、都市部で流行した講談のためのネタ本として作られ、本書に載る逸話を講釈師がそれぞれ話を膨らませて語るための元になったのではないかと思われる。そのため史書には載らないような逸話も収載されており、講談や戯曲を元に形成されたと思われる『水滸伝』などの伝奇小説の成立過程において、この書は重要な役割を担ったと考えられており、とりわけ水滸伝成立史の研究にとって避けては通れぬ資料となっている。.

新しい!!: 天祚帝と大宋宣和遺事 · 続きを見る »

天会 (金)

天会(てんかい)は中国・金の太宗及び熙宗の治世で用いられた元号。1123年 - 1137年。.

新しい!!: 天祚帝と天会 (金) · 続きを見る »

天慶 (遼)

天慶(てんけい)は、遼の天祚帝耶律延禧の治世で使用された元号。1111年 - 1120年。.

新しい!!: 天祚帝と天慶 (遼) · 続きを見る »

太康 (遼)

太康(たいこう)は、遼の道宗耶律洪基の治世に使用された元号。1075年 - 1084年。.

新しい!!: 天祚帝と太康 (遼) · 続きを見る »

外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

新しい!!: 天祚帝と外戚 · 続きを見る »

女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.

新しい!!: 天祚帝と女真 · 続きを見る »

宗室

宗室(そうしつ)とは、中国・朝鮮・ベトナムにおける、広義的な皇族に対する呼び方である。.

新しい!!: 天祚帝と宗室 · 続きを見る »

乾統 (遼)

乾統(けんとう)は、遼の道宗耶律洪基の治世に使用された元号。1101年 - 1110年。.

新しい!!: 天祚帝と乾統 (遼) · 続きを見る »

保大 (遼)

保大(ほだい)は、遼の天祚帝耶律延禧の治世に使用された元号。1121年 - 1125年。.

新しい!!: 天祚帝と保大 (遼) · 続きを見る »

北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

新しい!!: 天祚帝と北宋 · 続きを見る »

北遼

北遼(ほくりょう、1122年 - 1123年)とは、中国史料で存在した遼の亡命政権の呼称。都は南京(燕京:現在の北京)。.

新しい!!: 天祚帝と北遼 · 続きを見る »

ポロ

ポロ アルゼンチンポロ選手権 唐明皇撃鞠圖 ポロをする女性 唐朝・8世紀初期 ポロ(、 ポウロウ)は、世界で最も古い歴史をもつ競技の一つである。紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、騎馬隊の軍事訓練としてインド、中国、日本へ伝播した。特に中国の唐の時代以降は、皇室で楽しまれ、当時の様子が壁画や唐三彩の美術品からうかがい知ることができる。日本にも神事としての打毬の伝統が一部で残っている。 近代ポロのルールは、19世紀になって英国人によって制定された。植民地インドでポロを「発見」した英国兵士たちが、ロンドンにこの競技を持ち帰ったことをきっかけに、ヨーロッパ各国に広まった。 その後、英国から南米に伝わり、現在ではアルゼンチンがレベル的にも規模的にも世界No.1のポロ大国である。 2015年現在、アルゼンチンにはポロのプレーヤー数6,000人存在し、ポロクラブが270つあるとされる。 それに続き、アメリカはプレーヤー数2,800人、クラブ数は250。イングランドはプレーヤー数2,760人、クラブ数は70。 日本にはプレーヤーは2、3人しかおらず、クラブはひとつもない。ただし、2016年4月にポロ競技の公式団体として一般社団法人「日本ポロ協会」が設立され、東京近郊と北海道でポロ競技を定着される試みが始まっている。 1936年のベルリン大会まで、ポロはオリンピック競技であった。.

新しい!!: 天祚帝とポロ · 続きを見る »

ユリウス暦

ユリウス暦(ユリウスれき、、、)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。.

新しい!!: 天祚帝とユリウス暦 · 続きを見る »

冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

新しい!!: 天祚帝と冊封 · 続きを見る »

皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

新しい!!: 天祚帝と皇太子 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: 天祚帝と皇帝 · 続きを見る »

皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

新しい!!: 天祚帝と皇族 · 続きを見る »

白頭山

白頭山(はくとうさん、백두산 ペクトゥサン、)は、中華人民共和国(中国)吉林省と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)両江道の国境地帯にある標高2,744mの火山。別名、長白山(ちょうはくさん、 チャンパイシャン)。.

新しい!!: 天祚帝と白頭山 · 続きを見る »

遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.

新しい!!: 天祚帝と遼 · 続きを見る »

遼史

『遼史』(りょうし)は、中国の正史・二十四史(清の乾隆帝が定めた24種の紀伝体の史書)の一つで、遼の歴史書である。116巻。元の宰相であった脱脱が総裁となって、史料を集めて1344年に完成した。清代の歴史学者趙翼の『二十二史剳記』では「遼・金二史又缺略多し」と書かれているが、遼の歴史を知る上では根本史料である。.

新しい!!: 天祚帝と遼史 · 続きを見る »

道宗 (遼)

道宗(どうそう)は、遼(契丹)の第8代皇帝。諱は査剌。.

新しい!!: 天祚帝と道宗 (遼) · 続きを見る »

西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

新しい!!: 天祚帝と西遼 · 続きを見る »

説話 (中国)

説話(せつわ)とは、中国の宋代、市井において一連の物語を語って聞かせた話芸のことをいう。「説」は「語る」、「話」は「物語」の意味である。北宋の首都開封や南宋の首都杭州のような大都会の芝居小屋では演劇や講談、雑伎などがさまざまな出し物があったが、そのなかで話芸に属するものを説話と呼び、「説話」をする芸人を説話人、その記録を話本と呼んだとされている。しかし現代においても話本の定義は定まっておらず、明代の「―話本」と呼ばれる短編小説を話本と言えるかどうかという疑義が増田渉や勝山稔から出されている。 演芸場所は、建物内(勾欄、茶楼、酒館など)のほか、広場、街頭でも行われた。.

新しい!!: 天祚帝と説話 (中国) · 続きを見る »

賜死

賜死(しし)とは、死刑の一種。君主が臣下、特に貴人に対して自殺を命じること(単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある)。通常は、「死を賜う」という漢語は君主側の視点で「死を与える」という意だが、近世以後の日本語においては臣下の視点で「死をもらう」という正反対の意にも用いられる。本項の解説において混乱を避けるため、便宜的に臣下側は「賜死を受ける」というような表現を用いる。.

新しい!!: 天祚帝と賜死 · 続きを見る »

蜀国公主 (遼)

蜀国公主(しょくこくこうしゅ、1101年以降 - ?)は、遼の公主。姓諱は耶律 余里衍(やりつ よりえん)。.

新しい!!: 天祚帝と蜀国公主 (遼) · 続きを見る »

阿骨打

阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)は、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月1日) - 1123年9月19日(8月28日))。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では女真名である阿骨打(アクダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。.

新しい!!: 天祚帝と阿骨打 · 続きを見る »

金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

新しい!!: 天祚帝と金 (王朝) · 続きを見る »

蕭奉先

蕭 奉先(しょう ほうせん、? - 1123年)は、遼の外戚。契丹の名家出身。契丹名(小字)は得里底(デリティ)。 宰相・蕭継先の玄孫にあたり、蕭昻、蕭昱らの父。蕭嗣先(蕭保先?)の兄。妹の蕭皇后が天祚帝の后となり、もうひとりの妹の蕭元妃も妃となり、梁王・耶律雅里(次男)、秦王・耶律定(五男)、許王・耶律寧(末子)を生んだことで、帝に篤く信任された。そのために北院枢密使に任命され、蘭陵郡王に冊封された。また次男の蕭昱が天祚帝の駙馬(娘婿)であった。.

新しい!!: 天祚帝と蕭奉先 · 続きを見る »

蕭徳妃

蕭徳妃(しょうとくひ)は、遼の妃。.

新しい!!: 天祚帝と蕭徳妃 · 続きを見る »

蕭皇后 (遼天祚帝)

蕭 皇后(しょう こうごう、生没年不詳)は、遼の天祚帝(耶律延禧)の皇后。小字は奪里懶。.

新しい!!: 天祚帝と蕭皇后 (遼天祚帝) · 続きを見る »

蕭文妃

蕭文妃(しょうぶんひ、? - 1121年)は、遼の天祚帝(耶律延禧)の妃。小字は瑟瑟。.

新しい!!: 天祚帝と蕭文妃 · 続きを見る »

長春市

長春市(ちょうしゅんし、、)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。.

新しい!!: 天祚帝と長春市 · 続きを見る »

雲州 (山西省)

雲州(うんしゅう)は、中国にかつて存在した州。.

新しい!!: 天祚帝と雲州 (山西省) · 続きを見る »

耶律大石

耶律 大石(やりつ たいせき、契丹音:ヤルート・タイシ)は、西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)。 太祖耶律阿保機の末子(第4子)であるの7世の子孫に当たる。『集史』においては、 تاشي طايفو Tāshī Ṭāīfū と記される。遼が滅亡する際に、契丹人を引き連れて西へ逃れてその地で勢力を広げ、モンゴル高原西部・新疆ウイグル自治区からカザフスタン東部・マー・ワラー・アンナフルまでの広大な地域を領有すると、故地回復を望んで東征軍を出すが途中で挫折した。ある説では、隠れマニ教徒だったという。.

新しい!!: 天祚帝と耶律大石 · 続きを見る »

耶律定

耶律 定(やりつ てい、生没年不明)は、遼の天祚帝の五男。秦王に封じられた。 1122年、天祚帝が金に大敗したため、皇太子の耶律定とともに西方へ逃亡し、その一方、天祚帝の従父であった耶律淳はで天錫帝として皇帝に即位、北遼を建国した。しかし、天錫帝は同年6月に病死、耶律定が代わりに擁立された。この時、耶律定は南京におらず、蕭徳妃が摂政を務めたが、南京が金に落とされ、耶律定も青冢濼で金に捕らえられた。.

新しい!!: 天祚帝と耶律定 · 続きを見る »

耶律余睹

耶律余睹(やりつ よと、契丹音 エリュート ユドゥク? - 1132年9月)は、遼の宗室、遼と金に仕えた武将。耶律余覩、耶律余都姑とも表記される。妻は天祚帝の側室の蕭文妃の妹。.

新しい!!: 天祚帝と耶律余睹 · 続きを見る »

耶律雅里

耶律 雅里(やりつ がり、契丹音:ヤリュート・ヤーリ)は、北遼の第3代皇帝。.

新しい!!: 天祚帝と耶律雅里 · 続きを見る »

耶律淳

耶律 淳(やりつ じゅん)は、北遼の初代皇帝。興宗の四男の宋魏王・和魯斡の子。文学に長じて巧みだった。俗称は九王、覃湘王。.

新しい!!: 天祚帝と耶律淳 · 続きを見る »

耶律濬

耶律 濬(やりつ しゅん、1058年 - 1077年)は、遼(契丹)の皇太子。天祚帝の父。小字は耶魯斡。廟号は順宗。.

新しい!!: 天祚帝と耶律濬 · 続きを見る »

耶律敖盧斡

耶律 敖盧斡(やりつ ごうろあつ、生年不詳 - 1122年)は、遼(契丹)の皇族。晋王。「傲魯斡」とも表記される。.

新しい!!: 天祚帝と耶律敖盧斡 · 続きを見る »

陰山山脈

山山脈(In Mongolia: Mony Uul、いんざんさんみゃく)とは、中国北部の内モンゴル自治区(一部は河北省)にある山脈である。.

新しい!!: 天祚帝と陰山山脈 · 続きを見る »

李処温

李 処温(り しょおん、? - 1122年)は、遼の宰相、政治家。別名は「耶律処温」、「李純」。 遼の南院枢密使・李仲禧の孫、知枢密院事・李儼の甥。子は少府少監、提挙翰林医官の李奭(耶律奭)。 南京析津府(現・北京西南)の人。若いころはおじの李儼の推挙で門下侍中となった。後におじが亡くなると、北院枢密使・蕭奉先の推挙で宰相となった。 1122年(保大2年)2月に、金の阿骨打率いる金軍が中京を陥落し、時の皇帝の天祚帝が山西大同にある雲中の陰山に逃亡した。 翌3月、李処温は皇族の耶律大石と蕭乾と張琳とともに秦晋王・耶律淳(天錫帝)を「北遼」の皇帝として擁立し、彼は太尉に任命された。 さらに、同年6月に天錫帝が61歳で病没すると、その未亡人の蕭徳妃・蕭普賢女を摂政とする条件で、天祚帝の太子だった秦王・耶律定(五男)を即位させた。 しかし、李処温は政策面で大石らと対立した。そのため、彼は秦王と蕭后(蕭徳妃・蕭普賢女)の身柄を確保し、北宋軍総帥の宦官の童貫と内通して、謀反を企んでしまった。さらに金とも密通した。そのことが蕭幹らに露見され、子の李奭とともに処刑された。 間もなく、蕭幹らが刑死した李処温の財産を調査すると、銭7万緡、金器、玉器など豪華な物品が蓄えてあったという。.

新しい!!: 天祚帝と李処温 · 続きを見る »

欽宗

欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝。徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。.

新しい!!: 天祚帝と欽宗 · 続きを見る »

正隆

正隆(せいりゅう)は中国・金の海陵王の治世で用いられた元号。1156年 - 1161年。.

新しい!!: 天祚帝と正隆 · 続きを見る »

死(し、death)とは、.

新しい!!: 天祚帝と死 · 続きを見る »

海陵王

海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・斡本(宗幹)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。.

新しい!!: 天祚帝と海陵王 · 続きを見る »

1075年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1075年 · 続きを見る »

1097年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1097年 · 続きを見る »

1101年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1101年 · 続きを見る »

1104年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1104年 · 続きを見る »

1110年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1110年 · 続きを見る »

1111年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1111年 · 続きを見る »

1115年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1115年 · 続きを見る »

1120年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1120年 · 続きを見る »

1121年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1121年 · 続きを見る »

1122年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1122年 · 続きを見る »

1125年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1125年 · 続きを見る »

1128年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1128年 · 続きを見る »

1156年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1156年 · 続きを見る »

1161年

記載なし。

新しい!!: 天祚帝と1161年 · 続きを見る »

2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。.

新しい!!: 天祚帝と2月12日 · 続きを見る »

3月26日

3月26日(さんがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から85日目(閏年では86日目)にあたり、年末まであと280日ある。.

新しい!!: 天祚帝と3月26日 · 続きを見る »

4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 天祚帝と4月19日 (旧暦) · 続きを見る »

6月5日

6月5日(ろくがついつか)はグレゴリオ暦で年始から156日目(閏年では157日目)にあたり、年末まであと209日ある。誕生花はハマナス、シラン。.

新しい!!: 天祚帝と6月5日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »