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大高忠雄

索引 大高忠雄

『義士四十七図 大高源吾忠雄』(尾形月耕画) 大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。.

61 関係: 吉良義央堀部武庸大石神社大石良金大石良雄大高又次郎大高忠晴宝井其角家紋安倍貞任安倍氏 (奥州)安東氏寛文小野寺秀富小野寺秀和山田宗偏両国橋三春藩平安時代享年京都二ツの竹広島市広島藩延宝俳諧切腹元禄神崎則休秋田氏萱野重実貞立尼貝賀友信赤穂市赤穂事件の人物一覧進藤俊式陸奥国松平定直松浦の太鼓武士歌舞伎水間沾徳江戸江戸城江戸幕府江戸時代池田屋事件本姓戒名明治...浅野長広浅野長矩浅野長直新選組改易1672年1701年1702年1703年2月4日 (旧暦)3月20日 インデックスを展開 (11 もっと) »

吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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堀部武庸

堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作 堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。.

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大石神社

大石神社(おおいしじんじゃ)は、赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る神社。江戸時代には江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、1868年(明治元年)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。.

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大石良金

『義士四十七図 大石主税吉金』(尾形月耕画) 大石主税藤原良金 大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。.

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大高又次郎

大高又次郎招魂之碑、霊山護国神社、京都市左京区 大高又次郎(おおたか またじろう、文政4年(1821年)12月-元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末の尊皇攘夷派志士で、林田藩士。父は六八郎義郷。赤穂浪士四十七士の一人大高忠雄の子孫。 幼少より甲州流軍学、西洋砲術など軍事に関わる事を専ら学び、父・六八郎より皮具足の製法の直伝を受け、「大高製の皮具足」と呼ばれて好評を得る。 安政5年(1858年)に脱藩。京都へ出て、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいた。安政6年には萩へ赴き吉田松陰とも出会っている。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄った際に京の活動家貴族と対面させる計画を持ちかけた(伏見要駕策)が、藩重役の反対にあい計画は頓挫している。安政の大獄により梅田が捕らえられたのを追って江戸に潜伏。しかし梅田の処刑で、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の長州藩邸に逃げ込む。その後古高俊太郎住居別棟に居住し、武具・兵器の調達を担当するなど尊皇攘夷活動を続けた。元治元年(1864年)6月5日、義弟・忠兵衛とともに池田屋事件に遭遇。奮戦むなしく新選組によって討たれた。享年42。明治に入ってから正五位を贈られる。 池田屋事件後の6月7日、大高家は新選組の家宅捜索を受ける。夫の後を追おうと自害しようとして失敗し重体だった妻・とみ、子供6人、門弟2人らはこの時に捕らえられ、長男・幸一郎だけは捕縛を免れて鳥取へ逃げ延びる。約3ヶ月後に釈放されたが家財は既に没収されていたため林田藩に帰郷したと言う。 Category:幕末林田藩の人物 Category:1821年生 Category:1864年没.

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大高忠晴

大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士秋田忠久(大高本家45代当主)の次男。兄に秋田忠宗(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 Category:赤穂藩の人物 Category:三春藩の人物 Category:1629年生 Category:1676年没.

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宝井其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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安倍貞任

安倍 貞任 (あべ の さだとう)は、平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁で、奥六郡を支配する俘囚長・安倍頼時の第2子(次男)。厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清(奥州藤原氏初代藤原清衡の父)がおり、貞任と清衡は伯父と甥の関係にあたる。.

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安倍氏 (奥州)

安倍氏(あべ し)は、平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族。.

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安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小野寺秀富

『義士四十七図 小野寺幸右衛門秀富』(尾形月耕画) 小野寺 秀富(おのでら ひでとみ、延宝4年(1676年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は幸右衛門(こうえもん)。大高忠晴の二男。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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小野寺秀和

『誠忠義士傳 小野寺十内秀和』(歌川国芳画) 『誠忠義士傳 斧寺十内妻』(歌川国芳画) 小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜、悦貫。本姓は藤原氏。家紋は木瓜。.

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山田宗偏

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日(1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人。宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。.

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両国橋

両国橋(りょうごくばし)は隅田川にかかる橋で、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。 西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。 現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。.

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三春藩

三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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二ツの竹

『二ツの竹』(ふたつのたけ)は、俳諧の撰集。赤穂藩士大高忠雄(子葉)編著。 赤穂浪士による吉良邸討ち入り直前の元禄15年(1702年)9月に刊。この時期、大高は吉良義央を討つために江戸下向をする直前である。まさに大高にとって俳人としての集大成の遺作とするために刊行した俳諧集である。大高忠雄と親交のあった含歓堂沾徳、宝井其角、中尾我黒、上島鬼貫など著名な俳人達が句をよせている。また大高と同じ浅野家中の神崎則休(竹平)、富森正因(春帆)、岡野包秀(放水)、萱野重実(涓泉)の句も載っている。 Category:俳諧集 Category:18世紀の書籍 Category:江戸時代の書籍 Category:赤穂事件.

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広島市

広島市(ひろしまし)は日本の広島県の都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で最大の人口を有する市でもある。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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俳諧

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.

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切腹

切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。主に武士などが行った日本独特の習俗。 外国でも日本の風習としてよく知られ、hara-kiriやseppukuとして辞書に載っている。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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神崎則休

『誠忠義士肖像』(歌川国芳画) 神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。本姓は源氏。家紋は蛇の目。大高忠雄・萱野重実と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。赤穂浪士の中でも随一の酒豪として伝わっている。.

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秋田氏

秋田氏(あきたし)は、陸奥国(磐城国)三春藩主家。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から室町時代にかけて出羽北部から津軽地方にかけてを領した安東氏の後身である。通し字は「季」。.

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萱野重実

萱野 重実(かやの しげざね、延宝3年(1675年)- 元禄15年1月14日(1702年2月10日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名。俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。父は萱野重利。.

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貞立尼

貞立尼(ていりゅうに、? - 元禄16年9月25日(1703年11月4日))は、江戸時代前期の女性。赤穂浪士の大高忠雄・小野寺秀富の生母、小野寺秀和の姉、岡野包秀の伯母にあたる。 笠間藩浅野家の家臣小野寺又八(150石)の長女として笠間に生まれる。母は多川九左衛門の娘。同家中の大高忠晴(200石)に嫁いだ。その間に大高忠雄と大高小次郎(のち弟小野寺秀和の養子に入り、小野寺秀富となる)をもうけた。 赤穂事件時には一貫して赤穂にあったようで、大高忠雄の親類書にも「播州赤穂に罷在候」とある。元禄16年(1703年)、息子たちが本懐を遂げて切腹した後、死去した。 Category:小野寺氏 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:笠間藩の人物 Category:17世紀生 Category:1703年没.

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貝賀友信

『義士四十七図 貝賀弥左衛門友信』(尾形月耕画) 貝賀 友信(かいが とものぶ、慶安3年(1650年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥左衛門(やざえもん)。本姓は藤原氏。家紋は重ね扇。.

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赤穂市

赤穂市(あこうし)は、兵庫県の南西部、岡山県との県境に位置する市。瀬戸内海国立公園の一部を成す。西播磨県民局の管轄。旧赤穂郡。.

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赤穂事件の人物一覧

赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。.

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進藤俊式

進藤 俊式 (しんどう としもと、正保4年(1647年) - 享保15年(1730年)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。足軽頭400石。通称は源四郎(げんしろう)。 進藤家は、公家近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた。父は赤穂藩士の進藤与四郎俊順。母は大石良勝(良雄の曽祖父)の娘ヨウであり、俊式は大石良雄の母方の大叔父にあたる。また俊式も大石良欽(良雄の祖父)の娘お通を妻とし、お通の死後は、良雄の推挙で石束毎公(りくの父)の甥・田村瀬兵衛の娘を後妻とした。のちに良雄の次女るりを養女にしており、大石家とは大変な重縁をもっていた。 元禄14年(1701年)の赤穂藩改易時には、足軽頭の地位にあった。赤穂城での論争では一貫して大石良雄派として行動し、大野知房らと対立。その後、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後、山科へ移ったが、これは山科が関白近衛基熙領であって、親戚の進藤長之(近衛家家司)が管理していた土地だったからと思われる。藩政残務処理を終えたあとの大石良雄も山科へ入っている。 大石とともに浅野家お家再興を目指したが、元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広の広島藩お預けが決まり、お家再興が絶望的になる。俊式はこの頃からやる気を失ったとみえ、7月28日の円山会議にも出席していない。また大石は仇討ち一本の方針に切り替えたが、この際、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を行うと、俊式は閏8月8日に脱盟の書状を提出した。また大石の叔父にあたる小山良師もこの時に脱盟しており、大石は2人に再考するよう浅野家侍医の寺井玄渓を通じて一度慰留を行なっているが、これに対しても俊式は閏8月22日付けの断りの書状を送って再度脱盟の意思を伝えている。この脱盟の背景には、浅野本家に仕えた叔父の進藤俊重が仇討ち参加を自重するように説得していたためとされる。 俊式は、その後も山科で暮らし、半髪にして可言と号したが、享保15年(1730年)に死去。享年84。泉湧寺来迎院に葬られた。法名は爰疑院帰山宗休居士という。 category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1647年生 Category:1730年没.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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松平定直

松平 定直(まつだいら さだなお、万治3年1月19日(1660年2月29日) - 享保5年10月25日(1720年11月24日))は、伊予松山藩4代藩主。定勝系久松松平家宗家5代。 伊予今治藩2代藩主・松平定時の長男。実母は側室嶺頂院殿(平岡氏の娘)。正室は佐倉藩主・稲葉正往の娘。子に定仲(長男)、鍋之助(次男)、定英(三男)、定章(四男)。官位は従四位下、隠岐守、侍従。幼名は鍋之助。.

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松浦の太鼓

『松浦の太鼓』(まつうらの たいこ)は、歌舞伎の演目。 安政3年 (1856) 江戸森田座初演の、三代目瀬川如皐・三代目桜田治助合作『新臺いろは書初』(しんぶたい いろはの かきぞめ、新字体:新台〜)の十一段目(通称「松浦の太鼓」)を、明治になって大阪の三代目勝諺蔵が改作したもので、三代目中村歌六に当て書きされた。明治15年 (1882) 大阪角座で初演。全一幕三場。 主人公の松浦侯はのちに三代目歌六の長男・初代中村吉右衛門が得意とし、彼の撰んだ「秀山十種」にもこれが数えられている。 なお本作の松浦侯のモデルとなった実在の松浦侯・肥前平戸藩6万3000石の藩主・松浦鎮信は「まつら侯」だが、本作の松浦侯は「まつうら侯」であり、外題も「まつうらの〜」と読むのが正しい。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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水間沾徳

水間 沾徳(みずま せんとく、寛文2年(1662年) - 享保11年5月30日(1726年6月29日))は、江戸時代初期、松尾芭蕉、宝井其角と同時代の俳人である。芭蕉および宝井其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。 江戸に生まれる。姓は門田、のち水間、名は友兼。通称治朗左衛門。16歳で福田露言(保守派の岸本調和の門の門人で調也とも)に入門、露言に伴われて、奥州磐城平藩主・内藤義概(俳号風虎)の江戸藩邸の句会に参加し、内藤風虎の嗣子・義英(俳号露沾)の知遇を得て、沾葉と名乗った。風虎の句会は芭蕉を世にだす契機となったとされている。沾徳は磐城平藩の扶持を受け、諏訪闡幽、大村蘭台など大名俳人と交わった。貞享2年(1685年)、23歳の時、風虎が没し、露沾が廃嫡となると内藤家を致仕し、貞享4年(1687年)、名を沾徳と改め、立机した(俳句宗匠となった)。芭蕉と親交を持ち、元禄7年(1694年)、沾徳が33歳の時、芭蕉が没すると、宝井其角とともに江戸俳諧の中心となった。宝永4年(1707年)、沾徳が46歳の時、其角が没す。其角没後は江戸俳壇の諸派を集めて大宗匠と仰がれるに至った。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田屋事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。 池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。.

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本姓

本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.

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戒名

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浅野長広

浅野 長広(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟、のち養子。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長直

浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。.

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新選組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長の近藤勇を始め、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年頃から高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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1672年

記載なし。

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1702年

記載なし。

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1703年

記載なし。

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2月4日 (旧暦)

旧暦2月4日(きゅうれきにがつよっか)は旧暦2月の4日目である。六曜は大安である。.

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3月20日

3月20日(さんがつはつか、さんがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から79日目 (閏年では80日目)にあたり、年末まであと286日ある。.

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