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大舘宗氏

索引 大舘宗氏

大舘 宗氏(おおだち むねうじ)は、鎌倉時代末期の武将。新田氏の支族。祖父は新田政義、父は大舘家氏、兄に綿打為氏、子に大舘氏明、大舘幸氏、大舘宗兼、大舘氏兼、右馬助(時氏?)、六郎(時氏?)がいる。.

31 関係: 吉川弘文館大舘家氏大舘氏大舘氏明太平記世良田東照宮人物叢書従四位化粧坂北条貞直ミネルヴァ書房元弘稲瀬川稲村ヶ崎綿打為氏鎌倉の戦い鎌倉時代脇屋義助梅松論正応正慶永井晋新人物往来社新田義貞新田氏新田朝氏新田政義1288年1333年5月19日 (旧暦)7月1日

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大舘家氏

大舘家氏(おおだち いえうじ、生没年不詳)は、新田政義の次男。兄は家督を継いだ新田政氏、弟に堀口家貞(堀口氏祖)。子に綿打為氏と大舘宗氏と金谷重氏と有氏がいる。 家氏は水田を巡る抗争で、園田庄の当主である園田秀俊(藤姓足利氏一族)と(母系が)新田一族の岩松経兼とその子の岩松朝兼・岩松政経兄弟と争い、惣領家の新田基氏の擁護を受けた。しかし、幕府から園田・岩松の両氏に優位になるような裁定を受けた。.

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大舘氏

別紋:酢漿草 大舘氏館跡。 大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記する。”おおだて”と読む場合もある。.

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大舘氏明

大舘 氏明(おおだち うじあき、嘉元3年(1303年)? - 興国元年/暦応3年9月3日(1340年9月24日)もしくは興国3年/康元2年9月3日(1342年10月3日))は、南北朝時代の武士。大舘宗氏の子。舎弟の幸氏が新田義貞と同年代かそれより上の年代の生まれと考えられており、そのため氏明も義貞より年齢は上であると推定されている。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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世良田東照宮

世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社である。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。.

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人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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化粧坂

化粧坂 化粧坂(けわいざか)は鎌倉七口のひとつ。「仮粧坂(けはいざか)」とも表記する。現在の鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ。主に武蔵国の国府(現在の府中市・国分寺市)から上野国へ向かう道(上道)の出口と考えられているが、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう中道、下道もまたここを通った可能性もある。.

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北条貞直

北条 貞直(ほうじょう さだなお).

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ミネルヴァ書房

株式会社ミネルヴァ書房(ミネルヴァしょぼう)は、日本の学術専門書出版社。京都市山科区に本社を置いている。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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稲瀬川

川(いなせがわ)は、静岡県静岡市清水区および富士宮市を流れる富士川水系の一級河川。芝川、稲子川と並ぶ旧芝川町の代表的な河川である。.

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稲村ヶ崎

村ヶ崎を西側から望む(2004年11月9日撮影) - 中腹に広場のように見えるのが鎌倉海浜公園。なお砂が全体的に黒っぽいのは地中に含まれる砂鉄のせいである 稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている1969年(昭和44年)2月24日自治省告示第24号「住居表示が実施された件」。.

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綿打為氏

綿打 為氏(わたうち ためうじ、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。通称は太郎。大舘家氏の長男、宗氏、金谷重氏、有氏の兄、氏義『長楽寺系図』によれば、1337年に氏義・氏頼父子は越前金ケ崎城落城の際に、義顕とともに討死したという。の父、氏頼の祖父。官職は刑部。 1333年に新田惣領家の新田義貞の麾下として、弟宗氏とともに鎌倉幕府討伐に従軍した。同年に弟が鎌倉極楽寺坂で戦死を遂げたが、以降も義貞に従った。 1338年に義貞が越前藤島で戦死すると、後に同じ南朝方の北畠顕家に従って、転戦を繰り返して和泉で戦死を遂げた。.

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鎌倉の戦い

鎌倉の戦い(かまくらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年5月18日-5月22日(ユリウス暦1333年6月30日-7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。 なお、この元弘の乱の鎌倉における戦いの名称は、いわゆる歴史用語としては一定ではない。後世の史料上には「元弘三年の動乱」のように見える場合もある。通称では「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」「鎌倉防衛戦」などと呼ばれている。本項では5月18日より北条高時自害の5月22日までの鎌倉における戦いを「鎌倉の戦い」という便宜上の名称で記述する。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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脇屋義助

脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄  義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。.

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梅松論

『梅松論』(ばいしょうろん)は、南北朝時代の軍記物語・歴史書、全2巻。『太平記』と双璧をなす軍記物語である。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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永井晋

永井 晋(ながい すすむ、1959年 - )は日本の歴史学者。金沢文庫主任学芸員。日本中世前期の政治史・国制史専攻。 群馬県出身。1986年國學院大學大学院博士課程後期中退。2008年「金沢北条氏の研究」で國學院大学博士(歴史学)取得。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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新田朝氏

新田 朝氏(にった ともうじ)は、鎌倉時代中期から後期の鎌倉幕府の御家人。新田氏本宗家の7代当主。通称は太郎(六郎太郎では二郎太郎とする)。 新田基氏の長男で、新田義貞・脇屋義助の父。.

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新田政義

新田 政義(にった まさよし)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。新田義房の長男。新田氏当主。.

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1288年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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5月19日 (旧暦)

旧暦5月19日は旧暦5月の19日目である。六曜は大安である。.

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7月1日

7月1日(しちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から182日目(閏年では183日目)にあたり、年末まであと183日ある。誕生花はアジサイ、ベゴニア。.

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