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大館城攻城戦

索引 大館城攻城戦

大館城攻城戦(おおだてじょうこうじょうせん)は、戊辰戦争の一つ秋田戦争で、慶応4年8月21日(1864年10月7日)に盛岡藩軍が久保田藩(秋田藩)領の大館城(現在の秋田県大館市)を攻撃した戦闘である。 盛岡藩は十二所の戦いで、圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み十二所・扇田地区を占領し、大館城に迫っていた。扇田村を占領された久保田藩は、戦国時代さながらの火縄銃ばかりで新式銃はわずか5挺と圧倒的に劣っていたものの、南方で起きていた庄内藩との戦闘の残存部隊をやりくりして大館城を防衛しようとした。大館城の北にあった弘前藩は、対馬鉄砲隊を大館に移動させ、さらに藩境に部隊を展開させていた。.

24 関係: きみまち阪十二所の戦い南部利剛大館城大館市太田時敏久保田藩二ツ井町荷上場庄内藩弘前藩佐竹義遵内藤十湾内藤湖南碇ヶ関御関所秋田県秋田戦争米代川綴子盛岡藩楢山佐渡比内町扇田戊辰戦争早口町慶応

きみまち阪

きみまち阪の桜 きみまち阪(きみまちざか)は、秋田県能代市二ツ井町にある県立自然公園の名称。秋田県有数の桜、ツツジ、紅葉の名所であり、時期ともなると県内はもとより県外からも観光客が訪れる。デートスポットとしても有名。 きみまち阪の下には米代川が流れ、対岸には七座山が鎮座する絶景となっている。.

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十二所の戦い

十二所の戦い(じゅうにしょ の たたかい)は、1868年(慶応4年)の戊辰戦争の一つの秋田戦争で、南部軍が久保田藩領の十二所(現、秋田県大館市)に侵攻して、南部軍(盛岡藩)と秋田軍(久保田藩)が交戦した戦闘の名称である。 秋田側は庄内藩との戦闘で兵員を欠いており、新式銃や砲の数も圧倒的に少なかった。また、戦国時代からの経緯があり、十二所と大館城の連携も欠いていた。南部側は圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み占領地区を広げたものの、一時奇襲を受け撤退し戦力の拡充を図らなければならなくなった。この地区のすぐ北にあった津軽藩は、7月8日に奥羽列藩同盟を脱退していたものの、この戦闘にはあまり積極的な動きを取らなかった。.

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南部利剛

南部 利剛(なんぶ としひさ)は、陸奥国盛岡藩の第15代藩主。第13代盛岡藩主・南部利済の三男。.

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大館城

大館城(おおだてじょう)は、かつて秋田県大館市にあった日本の城。桂城(かつらじょう)とも呼ばれる。跡地は桂城公園(けいじょうこうえん)として整備されている。.

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大館市

大館市(おおだてし)は、秋田県北部に位置する市。市の北境で青森県と接している。.

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太田時敏

太田 時敏(おおた ときとし、生没年不詳)は、江戸時代末期(幕末)の盛岡藩士。明治維新前の名前は太田練八郎。三本木新田御用掛。維新後は東京で洋品店を経営し、南部家の家令や岩手県下の郡長を務めた。 新渡戸傳の四男として生まれ、盛岡藩士の太田金五郎の養子となる。兄に新渡戸十次郎がおり、後にその子の新渡戸稲造を養子とした。 1863年には三本木新田御用掛を仰せ付けられる。 1868年の秋田戦争では、目付参謀として参加し、毛馬内館二の丸南側の御官所前で戦書を読み上げ、また大館城攻城戦では大館城東門に人やぐらを組み、大館城一番乗りを果たす。 維新後は東京で洋品店を経営。教育の重要性を認識し、親が早世していた甥の新渡戸稲造を東京に呼び寄せ自らの養子として教育を施した。稲造は叔父の時敏を自著『武士道』のモデルとしており、同書の扉には時敏への献辞が書かれている。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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二ツ井町荷上場

二ツ井町荷上場(ふたついまちにあげば)は、秋田県能代市の大字。2016年3月31日の人口は941人。郵便番号018-3103。本項では同地域にかつて存在した山本郡荷上場村(にあげばむら)についても記す。.

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庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。.

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弘前藩

弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.

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佐竹義遵

佐竹 義遵(さたけ よししげ、1838年(天保9年) - 1901年(明治34年))は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館第11代所預。男爵。 父は西家佐竹義茂。母は佐竹義術の娘武子。正室は岩城隆喜の七女仲子。子は佐竹正一。幼名隆之助。通称郎、大和。諱は義倫、義貴、義純。号は桂城。.

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内藤十湾

内藤 十湾(ないとう じゅうわん、1832年(天保3年)3月 - 1908年(明治41年)3月22日)は、盛岡藩の藩士、秋田県の教育者、学者、著述家である。内藤湖南の父である。幼名は幾太郎、初めの諱は貞善、字を子祥といった。後に諱を調一、字を千里と改めた。十湾はその号である。調一は主君の桜庭綱清から賜ったもので、荀子の王制編からとられたものである。秋田戦争直後の「出陣日記」には、待時盧主人記や有待盧主人記とされていて「有待盧ハ三餘堂ノ別号ナリ」と傍記している。これらは全て秋田戦争直後に用いた号であると考えられている。 1832年(天保3年)3月に盛岡藩毛馬内の学者である内藤天爵(仙蔵)の息子として生まれる。幼い頃は父について儒教を学ぶ。13歳まで四書五経や左伝、史記を習得している。その後、泉沢修斎の元で学習し、泉沢修斎の長女の容子を妻にする。一度江戸で学習するも、泉沢修斎にいさめられて鹿角に戻る。 鹿角には、古学、朱子学、陽明学など先行各派に偏らず、諸説を取捨折衷する折衷学派の系譜を引く「鹿角学」が継承されており、内藤家はその中心であった。父の天爵はそれを実学の方向へ導いた人物であった。さらに、十湾は勤王派の那珂通高から強い影響を受け、その影響で吉田松陰に心酔していた。十湾は吉田松陰の東北旅行の際に実際に面会している。また、息子の内藤湖南の幼名である虎次郎の名は、吉田松陰の通称の寅次郎からとったものである。 秋田戦争では親友の熊谷助右衛門と共に出陣し、「出陣日記」2巻を記す。熊谷助右衛門は板沢村での戦いで死亡し、「出陣日記」で熊谷の死を惜しんでいる。 維新後は、妻や長男文蔵が相次いで死亡した。毛馬内で塾を開いて子弟の教育に当たりながら、湖南の養育に全力を注いだものの、経済的には厳しい状態であった。その後、尾去沢鉱山所長の要望により、秘書として湖南を伴い尾去沢鉱山に赴き経済的にも安定し、湖南を秋田師範学校に入れたり、元柏崎館の中に住宅を建てたりした。 晩年は塾生の教育と郷土資料の収集に当たった。そして、70歳になってから「鹿角志」の編集にとりかかった。 父がまとめた文章を息子の湖南が校正を加える形で、十湾75歳の時「」は完成し、 1907年(明治40年)3月出版された。 十湾は、1908年(明治41年)3月22日老衰のため死亡した。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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碇ヶ関御関所

碇ヶ関御関所(いかりがせきおんせきしょ)は、陸奥国津軽藩(現在の青森県平川市碇ヶ関)にあった関所である。.

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秋田県

秋田県(あきたけん)は、日本の東北地方の県の一つで日本海に面する。県庁所在地は秋田市である。.

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秋田戦争

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)などが、鹿児島藩・佐賀藩・山口藩などと共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。.

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米代川

米代川(よねしろがわ)は、主に秋田県北部を流れ日本海に注ぐ米代川水系本流の一級河川である。東北地方第5の大河で、秋田県内でも流域面積が雄物川に次ぐ。.

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綴子

綴子(つづれこ)は、秋田県北秋田市の大字。郵便番号018-3301。本項では同地域にかつて存在した北秋田郡綴子村(つづれこむら)についても記す。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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楢山佐渡

楢山 佐渡(ならやま さど)は、幕末の盛岡藩家老。主席家老として、藩財政の建て直しをはじめ制度改革を行なう。 戊辰戦争においては藩を奥羽越列藩同盟に同盟させた主導者となり、秋田戦争において指導的な立場にあったが、戦後は敗戦の責を負って盛岡で斬首刑に処された。.

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比内町扇田

比内町扇田(ひないまちおうぎた)は、秋田県大館市の大字。2017年8月末現在の人口は4,129人。郵便番号018-5701。本項では同地域にかつて存在した北秋田郡扇田村(おうぎだむら)、扇田町(おうぎだまち)についても記す。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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早口町

早口町(はやぐちまち)は秋田県北秋田郡にあった町。現在の大館市北西端にあたる。本項では町制前の名称である早口村(はやぐちむら)についても述べる。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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