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大谷家

索引 大谷家

大谷家(おおたにけ)は、浄土真宗の一派である本願寺の法主(門主/門首)を世襲によって継承した覚如(親鸞の曾孫)の子孫の家号。明治時代に名字必称となり大谷を姓として用いることで成立する。親鸞を家祖とする。大谷光尊(明如)以降の浄土真宗本願寺派の門主と、大谷光勝(嚴如)以降の真宗大谷派の門首、及びその一族が姓としている。本願寺は慶長7年(1602年)に分立したため、「西本願寺」と「東本願寺」と通称される。そのため、西本願寺系の大谷家と東本願寺系の大谷家がある。.

224 関係: 加賀一向一揆加賀国お東騒動吉川弘文館塔頭大名大谷尊由大谷和子 (東本願寺)大谷光尊大谷光勝大谷光紹大谷光真大谷光瑞大谷光瑩大谷光照大谷光見大谷光輪大谷光暢大谷光淳大谷光演大谷瑩潤大谷裕大谷暢順大谷暢顯大谷暢裕大谷演慧大谷智子大阪大阪市女王 (皇族)妻 (配偶者)如信嫡流存如存覚実如実悟宣如室町時代宮司家司家紋守護寺院富樫氏寂如尋有山科区巧如...上町台地中宮常如世襲三条実美一向一揆一如 (僧)九条家九条任子九条兼晴九条道孝九条道実九条恵子九条武子乗如幕府久邇宮邦彦王京都京都市庶家広如亀山本徳寺伊勢国伏見宮邦家親王伯爵住如佐々木月樵徳大寺家徳川家康後鳥羽天皇従如従覚土豪地侍北陸地方善如善鸞唯善円如准如公家元弘元徳国造皇室知恩院石山合戦石山本願寺琢如神道第二次世界大戦綽如織田信長織田氏真如 (東本願寺)真宗大谷派真宗誠照寺派真宗木辺派男爵畿内達如華族青蓮院順如願証寺顕如顕尊顕証寺顕証寺 (八尾市)西本願寺西成郡覚如覚信尼覚恵 (浄土真宗)親鸞香淳皇后証如貞明皇后越前国載仁親王妃智恵子龍谷大学近衛文隆近衛文麿近江国錦織寺能登国興正寺門跡藤原実光藤原実綱藤原家宗藤原家経藤原不比等藤原広業藤原弘蔭藤原俊信藤原北家藤原冬嗣藤原内麻呂藤原兼光藤原繁時藤原真夏藤原真楯藤原鎌足藤原資長藤原資業藤原正家藤原濱雄藤原有信藤原有国藤原有綱藤原房前蓮如蓮乗蓮綱蓮誓蓮淳蓮悟長島町 (三重県)長男良如雑賀衆恵信尼東山区東本願寺正親町天皇武士比叡山毛利氏水軍法名 (浄土真宗)法如法華一揆淀川湛如朝廷木辺孝慈本如戦国大名戦国時代 (日本)明治浄土真宗浄土真宗本願寺派文如文禄日野家日野家光日野俊光日野資名日野資実日野資宣摂津国教如慧遠 (隋)慶寿院鎮永尼1262年1272年1312年1331年1465年1488年1532年1570年1574年1575年1578年1580年1593年15世紀1602年16世紀 インデックスを展開 (174 もっと) »

加賀一向一揆

加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。.

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加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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お東騒動

お東騒動(おひがしそうどう)は、1969年に真宗大谷派が、「同朋会運動」を推進する改革派と、法主を継承する大谷家とそれを擁護する保守派との宗門内の対立から、同宗派が4派に分裂するまでに至った事件のこと。 内局の権力闘争や財産争いの問題も絡んでいるため、やや揶揄した響きを持つ場合もある。「お東紛争」「お東さん騒動」「大谷派騒動」とも呼称されている。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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塔頭

塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大谷尊由

大谷尊由 大谷 尊由(おおたに そんゆ、1886年〈明治19年〉8月19日 - 1939年〈昭和14年〉8月1日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶、政治家。.

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大谷和子 (東本願寺)

大谷 和子(おおたに ともこ、1830年1月19日(文政12年12月25日) - 1884年(明治17年)6月4日)は、日本の元皇族で、旧名は和子女王。幼称は嘉恵宮(のちに嘉枝宮)。東本願寺第21世法主・大谷光勝の妻。東本願寺裏方。.

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大谷光尊

大谷 光尊(おおたにこうそん、嘉永3年2月4日(1850年3月7日)- 明治36年(1903年)1月18日)は、幕末から明治時代前期までの浄土真宗の僧侶。西本願寺21世門主。父は西本願寺20世広如。伯爵。諱は光尊。法名は明如上人。院号は信知院。 裏方は徳如(光威)長女、枝子(しげこ:大谷光勝養女)。 実子に大谷光瑞(鏡如)、大谷光明(浄如)、大谷尊由、九条武子、真宗木辺派錦織寺を継いだ木辺孝慈などがいる。.

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大谷光勝

大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主 。真宗大谷派管長。.

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大谷光紹

大谷 光紹(おおたに こうしょう、1925年(大正14年)3月9日 - 1999年(平成11年)12月24日)は、浄土真宗の僧で、浄土真宗東本願寺派第25世法主。東京都台東区の東京本願寺(現・浄土真宗東本願寺派本山東本願寺)住職。幼名は光養麿。雅号は愚苑。院号は無稱光院。法名は興如。今上天皇の従兄弟にあたる。弟は大谷暢順、大谷暢顯、大谷光道。長男は大谷光見。.

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大谷光真

大谷 光真(おおたに こうしん、1945年8月12日 - )は、浄土真宗本願寺派第24世(先代)門主。諱は光真。法名は釋即如(しゃくそくにょ)。.

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大谷光瑞

大谷光瑞(27歳) 高雄逍遥園(現状) 大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 - 1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家(僧)、探検家。浄土真宗本願寺派第22世法主、伯爵、国営競馬馬主。 諱は光瑞。法名は鏡如上人。院号は信英院。 弟に真宗木辺派の本山錦織寺第20代法主となる木辺孝慈、大谷尊由、妹に九条武子がいる。妻は大正天皇の皇后・九条節子の姉・籌子(かずこ)。.

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大谷光瑩

大谷 光瑩(おおたに こうえい)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「現如」(げんにょ)。東本願寺第二十二代法主 。真宗大谷派管長。伯爵。.

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大谷光照

大谷 光照(おおたに こうしょう、1911年(明治44年)11月1日 - 2002年(平成14年)6月14日)は、日本の宗教家で浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。諱は光照。法名は勝如上人。院号は信誓院。 昭和天皇の従兄弟にあたる。.

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大谷光見

大谷 光見(おおたに こうけん 1965年(昭和40年)9月4日 - )は、浄土真宗の僧で、浄土真宗東本願寺派第26世法主。同派の本山である浄土真宗東本願寺派本山東本願寺住職。東本願寺ニューヨーク代表兼住職。幼名は光養麿。法名は聞如。雅号は愚洋。神奈川県立湘南高等学校を経て、早稲田大学理工学部物理学科卒業。ニューヨーク大学大学院哲学科宗教学専攻修了。.

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大谷光輪

大谷 光輪(おおたに こうりん、1974年(昭和49年) - )は、浄土真宗の僧。法名は樂如。本名は大谷業成(おおたに なりしげ)。.

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大谷光暢

大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - 1993年4月13日、満92歳没)は、明治時代から昭和時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「闡如」(せんにょ)。東本願寺第二十四代法主。(のちに門首。)真宗大谷派管長。伯爵。昭和天皇の義弟にあたる。.

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大谷光淳

大谷 光淳(おおたに こうじゅん、1977年6月13日 - ) は、浄土真宗本願寺派第25世(現)門主・西本願寺および築地本願寺の住職である。諱は光淳。法名は釋専如(しゃくせんにょ)。.

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大谷光演

大谷 光演(おおたに こうえん、1875年(明治8年)2月27日 - 1943年(昭和18年)2月6日)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧、俳人、画家。法名は「彰如」(しょうにょ)。俳号は「句仏」。東本願寺第二十三代法主。真宗大谷派管長。伯爵。妻は、三条実美の三女・章子。 1900年まで南条文雄・村上専精・井上円了らについて修学。また幸野楳嶺や竹内栖鳳に日本画を学び、さらに正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いだ。後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれる。 1901年、札幌には宗教系の学校が北星女学校しか無い事を知り、同地での仏教系女学校を思い立つが資金調達に難航し、開設するには至らなかった。1902年(明治35年)に北海道庁立札幌高等女学校が開設されたため、札幌初の非キリスト教系女学校の開設には至らなかったが、4年後の1906年(明治39年)4月に、札幌初の仏教系女学校である北海女学校の開校に漕ぎつけた。.

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大谷瑩潤

大谷 瑩潤(おおたに えいじゅん、1890年(明治23年)1月13日 - 1973年(昭和48年)5月23日)は、浄土真宗の僧で、真宗大谷派連枝。同派函館別院住職。同派宗務総長。院号は信正院。法名は現澤。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、元国家公安政務次官。従四位勲二等瑞宝章。.

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大谷裕

大谷 裕(おおたに ゆう〈Otani Yul〉1985年 - )は、真宗大谷派の僧侶。真宗大谷派の門首後継者に選定されている大谷暢裕の長男。2017年3月28日に同派の鍵役に就任。ブラジル出身。2008年、サンパウロ大学分子学科を卒業。2011年、東京大学大学院数理科学研究科修士課程に入学。2013年に同博士課程に進学し、2017年3月24日に同博士課程を修了する。博士論文「代数的場の量子論におけるエンタングルメント・エントロピー」(Entanglement Entropy in Algebraic Quantum Field Theory)で数理科学の博士学位を取得する。.

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大谷暢順

大谷 暢順(おおたに ちょうじゅん、法名は経如、1929年3月19日 - )は、京都生まれの日本のフランス文学者、浄土真宗僧侶、浄土真宗大谷本願寺派本山本願寺第二十五世法主。本願寺維持財団理事長。今上天皇の従兄弟にあたる。 蓮如研究のほか、ジャンヌ・ダルクの研究でも知られる。.

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大谷暢顯

大谷 暢顯(おおたに ちょうけん、1930年3月27日 - )は、浄土真宗の僧である。法名は「淨如」。真宗大谷派第二十五代門首(現門)。元全日本仏教会会長。明仁(現天皇)の従兄弟にあたる。兄は大谷光紹、大谷暢順、弟は大谷光道。.

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大谷暢裕

大谷暢裕(おおたに ちょうゆう、1951年8月17日 - )は、浄土真宗の僧、物理学者である。院号は「能慈院」、法名は「釋修明」。 真宗大谷派第二十五代門首大谷暢顯(淨如)の従弟であり、真宗大谷派の鍵役門首が管守する真宗本廟の宗祖親鸞聖人の真影を安置する御厨子の御鑰(かぎ)の管理にあたる。内事僧籍簿に登載されている者から宗務総長が任命し、真宗本廟の両堂に奉仕し、儀式について門首を補佐する。ならびに開教司教開教区の別院住職(門首)を補佐する役職。鍵役の中から宗務総長が任命し、開教区の僧侶及び門徒の代表として同朋とともに真宗の教法を聞信する。を務める。 1歳の時からブラジルに居住しており、ブラジル国籍を有する。 日本語、英語、ポルトガル語を話すが、日常における会話や読み書きはポルトガル語を用いる。.

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大谷演慧

大谷 演慧(おおたに えんねい 1914年(大正3年)11月14日 - 2008年(平成20年)1月28日)は、浄土真宗の僧である。真宗大谷派鍵役。同派函館別院住職。1993年~1996年の間は、同派門首代行を務める。院号は信行院。法名は闡教。同派第二十四代法主(門首)・大谷光暢の従兄弟にあたる。.

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大谷智子

大谷 智子(おおたに さとこ 1906年(明治39年) 9月1日 - 1989年(平成元年)11月15日)は、日本の元皇族。旧名は智子女王。お印は萩。東本願寺第24世法主・大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。院号は歌徳院。法名は如智禅尼。 香淳皇后の妹。第125代今上天皇の叔母にあたる。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大阪市

大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.

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女王 (皇族)

女王(じょおう / にょおう)は、皇族女子の身位または称号の一つ。 現行の皇室典範では天皇からみて嫡男系嫡出で三親等以遠の者に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下。 2015年現在、寬仁親王の娘である彬子女王・瑶子女王、高円宮憲仁親王の娘である承子女王・絢子女王の合計4人がその地位にある。これら4女王は直系尊属である大正天皇からみて三親等、即ち曾孫にあたる。.

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妻 (配偶者)

ボリス・クストーディエフ作、「商人の妻」(1918年) 妻(つま)は、結婚している女性の配偶者を示す言葉である。一般的に「妻」は、配偶者の中でも女性の方を示す。妻という表現は、自分の相手から分かれた女性には適用され続けているが、合法的に認められた離婚やパートナーの死亡によって、その女性の結婚が終わった時にのみ、その表現は適用されなくなる。配偶者と死別した女性は、未亡人とも呼ばれるが、配偶者と離婚した女性にはこの呼び名は適用されない。彼女のパートナーとの関係における妻の権利と義務と、地域社会と法律における地位は文化によっても異なり、時代とともに変化していっている。.

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如信

如信(にょしん)は、鎌倉時代中期から後期にかけての浄土真宗の僧。親鸞の孫、善鸞の子。浄如の父。歿後、従子の覚如により本願寺第二世に位置づけられる。本願寺宗主・御歴代のうち、唯一、諱が伝わっていない。.

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姓(せい)とは、東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。近代以降、ヨーロッパなどの他の文化圏の血縁集団名、家系名の訳語としても用いられている。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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存如

存如(ぞんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第7世宗主・真宗大谷派第7代門首。大谷本願寺住職。諱は圓兼。法印権大僧都。父は第6世巧如。広橋兼宣の猶子。妻は如円尼。本願寺中興の祖・第8世蓮如は長男。空覚(光崇)や越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)は弟、大和興福寺大乗院門跡・経覚は従兄弟とされる。 現在の本願寺に見られるような、御影堂・阿弥陀堂の両堂形式をはじめて整備した。また、『正信念仏偈』(正信偈)・『三帖和讃』を重視し教化に用いるなど、蓮如に与えた影響は少なくない。.

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存覚

存覚(ぞんかく)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧である。父は覚如、弟は従覚。錦織寺四代。 存覚は、初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し、2度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった。 存覚は終生にわたり教化活動に力を注ぎ、佛光寺の了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行った。.

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実如

実如(じつにょ、實如)は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第9世宗主・真宗大谷派第9代門首。山科本願寺住職。諱は光兼。院号は教恩院。法印権大僧都。父は第8世蓮如。日野勝光の猶子。母は蓮祐尼。子は円如。第10世証如は孫。.

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実悟

実悟(じつご、明応元年(1492年)- 天正11年11月25日(1584年1月17日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての浄土真宗の僧である。河内願得寺住持。本願寺第8世法主蓮如の10男。母は畠山政栄の娘蓮能。子に顕悟、玄員室。幼名は光童丸、諱は兼了。.

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宣如

宣如(せんにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十三代法主 。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮司

宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。.

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家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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寺院

日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.

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富樫氏

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる氏族である。室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支配した守護大名である。。.

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寂如

寂如(じゃくにょ、慶安4年(1651年)- 享保10年7月8日(1725年8月15日))は、江戸時代前期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第14世宗主。西本願寺住職。諱は光常。院号は信解院。法印大僧正。父は第13世良如。九条兼晴の猶子。母は近江国三井の人(揚徳院寂照)。内室は鷹司信房の娘(貞淑院如瑞)。弟は播磨国本徳寺住職寂円。子は第15世住如の妻。第16世湛如は10男。.

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尋有

尋有(じんう、生没年不詳)は、鎌倉時代の天台宗の僧。日野有範の次男であり、親鸞の弟。 幼くして比叡山に登って出家した。1262年(弘長2年)に親鸞が死去した場所は、尋有の住坊「善法坊」と伝えられる。.

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山科区

山科区(やましなく)は、京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。 本項ではかつて同一地域に所在した宇治郡山科町(やましなちょう)、同町の町制前の名称である山科村(やましなむら)についても述べる。.

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巧如

巧如(ぎょうにょ)は、南北朝時代から室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第6世宗主・真宗大谷派第6代門首。大谷本願寺住職。諱は玄康。法印権大僧都。父は第5世綽如。日野資康の猶子。第7世存如は長男。子に空覚(光崇)、見秀尼、如乗(宣祐)。弟に藤島超勝寺開基頓円(鸞芸)と荒川興行寺開基周覚(玄真)。.

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上町台地

上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。 北部は大阪市中央区の大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区上本町の大阪上本町駅付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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常如

常如(じょうにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十五代法主 。.

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世襲

世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。家に伝わる爵位を継承することを襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合についていうこともある。近代の政治家の世襲については、世襲政治家も参照のこと。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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一向一揆

三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.

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一如 (僧)

一如(いちにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十六代法主 。.

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九条家

九条家(くじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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九条任子

九条 任子(くじょう たえこにんし、承安3年9月23日(1173年10月31日) - 暦仁元年12月28日(1239年2月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての后妃、女院。後鳥羽天皇の中宮。父は摂政関白九条兼実。母は中宮職藤原季行の女・兼子。院号は宜秋門院(ぎしゅうもんいん)。法名は清浄智。所生に昇子内親王(春華門院)がいる。.

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九条兼晴

九条 兼晴(くじょう かねはる、寛永18年2月6日(1641年3月17日) - 延宝5年11月12日(1677年12月6日))は江戸時代前期の公卿。九条家第20代当主。父は左大臣鷹司教平。母は権大納言冷泉為満の娘。兄弟に鷹司房輔・鷹司信子(徳川綱吉正室)・鷹司房子(霊元天皇中宮)らがいる。正室は九条道房の娘九条待姫。号は後往生院。 子に九条輔実・二条綱平(二条光平養子)・本願寺光澄(本願寺光常養子)らがいる。.

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九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.

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九条道実

九条 道実(九條 道實、くじょう みちざね、1870年1月16日(明治2年12月15日)- 1933年(昭和8年)1月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、537-538頁。)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院公爵議員。.

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九条恵子

九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月 - 1972年(昭和47年)3月)は、公爵・九条道実(九条道孝の長男)の妻。大谷光瑩の次女。母は木下俊愿の三女・恒子。.

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九条武子

200px 九条 武子(くじょう たけこ、1887年(明治20年)10月20日 - 1928年(昭和3年)2月7日)は、教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した。.

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乗如

乗如(じょうにょ、乘如)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。 東本願寺第十九代法主 。.

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幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

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久邇宮邦彦王

久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の父。第125代今上天皇の外祖父。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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広如

広如(こうにょ、寛政10年6月1日(1798年7月14日) - 明治4年8月19日(1871年10月3日))は、幕末の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第20世宗主。西本願寺住職。諱は光澤。院号は信法院。法印大僧正。父は第18世文如の三男文淳。母は顕証寺法真(文如の弟)の娘。妻は九条尚忠の養女祥子(鷹司政煕息女、光輝院如順)。第21世明如(大谷光尊)は五男。 幕末には勤皇の旗幟を鮮明にし、明治以後の教団を方向付けた『御遺訓御書』をのこしている。.

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亀山本徳寺

亀山本徳寺(かめやまほんとくじ)は、兵庫県姫路市亀山にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は「霊亀山」(れいきざん)。本尊は阿弥陀如来。「亀山御坊」・「亀山御堂」とも。.

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廟(びょう)とは.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伏見宮邦家親王

伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう、享和2年10月24日(1802年11月19日) - 明治5年8月5日(1872年9月7日))は、江戸時代から明治初期の日本の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王子。崇光天皇の男系14世子孫。幼称は睦宮(まさのみや)。父の貞敬親王は皇位継承候補として名が挙がったことがある。 1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族11宮家全ての源流。第125代天皇・明仁の高祖父である。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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住如

住如(じゅうにょ、延宝元年10月10日(1673年11月18日) - 元文4年8月6日(1739年9月8日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第15世宗主。西本願寺住職。諱は光澄。院号は信順院。法印大僧正。父は九条兼晴。養父は第14世寂如。妻は寂如の娘、瑞光院如浄。第16世湛如は養子。.

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佐々木月樵

佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治8年)4月13日 - 1926年(大正15年)3月6日)は、日本の仏教学者、教育者。.

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徳大寺家

徳大寺家(とくだいじけ、正字体:德大寺)は、日本の公家、藤原氏北家閑院流。公家としての家格は清華家で、三条家や西園寺家とは兄弟筋にあたる。明治以降は華族として徳大寺実則が侯爵を授けられ、のちにその功により公爵に陞爵した。家業は笛。家紋は木瓜花菱浮線綾(徳大寺家花角)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。 家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。 江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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従如

従如(じゅうにょ、從如)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。東本願寺第十八代法主 。東本願寺第十六代 一如の孫。.

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従覚

従覚(じゅうかく)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。諱は慈俊。父は浄土真宗本願寺派第3世宗主・真宗大谷派第3代門首・大谷本願寺住職・留守職の覚如。兄は存覚。日野俊光の猶子。妻は梅。子は本願寺第4世善如。.

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土豪

土豪(どごう)とは、広義には広域を支配する領主や在地の大豪族に対して、特定の「土地の小豪族」を指す。 土豪という用語は、室町・戦国期に頻出する歴史用語であるが、大和朝廷時代の歴史用語として、地方首長である国造層を指す語としても使用されている。 下記は日本、特に中世期の土豪を中心とした説明である。.

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地侍

地侍(じざむらい)は、室町中期から安土桃山期にかけて見られた侍身分の一種。もともとは、農業を営んでいたり、名主などの有力百姓だった者が、守護大名や在地の国人領主などと主従関係を結び、侍身分を獲得した。「土豪」と呼ばれることもあるが、土豪=地侍ではない。土豪とは広義には、広域を支配する領主や在地の大豪族に対して、特定の「土地の小豪族」、その地域の「在地の小豪族」という意味もあり、その場合は、地侍の主筋になる在地領主も含まれるからである。 地侍たちは、侍身分となることで、中央の守護や、在地の国人のような領国支配者の下で小領主となることを指向していたが、支配者から見れば、地侍は在地百姓の有力者に過ぎず、被支配者と見なされがちであった。土一揆の時代には一揆の中核として活躍し、中には、村落から離脱して、自らの地位を武士に特化する地侍もおり、戦国期に入ると、戦国大名やその幕下の大身の国人領主の家臣として系列化された。地侍層は、戦国大名や国人領主から加地子(地代=中間得分)の徴収権を保証される代わりに、家臣となり、戦時には軍役を果たす義務を負った。江戸期の大名・旗本には、このような地侍を出自とする家も少なくない。 しかし、大多数の地侍は、侍身分でありながら村落に在住し、村落の指導者としてあり続けた。こうした地侍たちは、安土桃山期の兵農分離(刀狩など)によって郷士や再度、百姓身分に戻り、庄屋・名主・肝煎・番頭など村の指導者としての地位に就くことが多かった。.

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北陸地方

北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部に位置する中部地方のうち日本海に面する地域である。新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは富山県、石川県、福井県の3県を指す。区別のため前者を「北陸4県」「新潟県を含む北陸地方」、後者を「北陸3県」などと表現することがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 名称は、畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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善如

善如(ぜんにょ)は、南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第4世宗主・真宗大谷派第4代門首。大谷本願寺住職。諱は俊玄。法印権大僧都。父は従覚(第3世覚如の次男)。第5世綽如は子。.

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善鸞

善鸞(ぜんらん、建保5年(1217年)? - 弘安9年3月6日(1286年4月1日)?)は、鎌倉時代中期の浄土真宗の僧。慈信房と号する。真宗出雲路派は、毫摂寺第二代と位置付けている。 父は親鸞。母は恵信尼とする説と恵信尼を継母とする説がある(後述)。続柄についても親鸞の長男とする説と次男とする説がある。子は本願寺第二世の如信。末妹に覚信尼がいる。生年は承元4年(1210年)、没年は正応5年(1292年)とする説もあり、そうであれば親鸞配流地の越後で生まれたことになる。 父親鸞が関東布教から京都に戻った後、関東における門弟たちの信仰上の動揺を鎮めるために、善鸞は実子の如信とともに関東へ派遣された。しかし関東で、善鸞は邪義とされた専修賢善(せんじゅけんぜん)を信仰するようになった。現地でひそかに善鸞に伝授された法門教義が正統であり、善鸞自身は善知識すなわち生き仏であると訴えたため、異義異端事件となった。その結果、建長8年(1256年)5月29日付けの手紙が東国に送られ、父から義絶された。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。ただし、高田派専修寺に収蔵されている顕智による写本が存在するのみで、親鸞の真蹟のものは発見されていない。 その後善鸞は如信と別れ、巫祝(ふしゅく)もしくは善知識として関東を中心に布教活動を続けた。その教えは浄土真宗の呪術的異教である隠し念仏として東北地方などで後世に伝えられている。 善鸞の子孫は、大谷ではなく、親鸞の配流時代の姓の藤井を名乗る。.

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唯善

唯善(ゆいぜん、建長5年(1253年)- 文保元年2月2日(1317年3月15日))は、鎌倉時代後期の浄土真宗の僧。父は小野宮禅念。母は親鸞の娘覚信尼。名は弘雅。大納言阿闍梨と称される。下総国関宿西光院(現在の常敬寺)の開山。 初めは少将輔時の猶子となり、ついで大納言雅忠の猶子となった。当初密教を学ぶ一方修験道をあわせて修めたが、その後唯円(河和田の唯円)により他力法門に接して浄土真宗に改宗した。異父兄の覚恵に請われて京都大谷に住した。 1303年(嘉元元年)関東における専修念仏が禁止されそうになると、関東にくだりこれを護った。その後、覚恵とその子の覚如との間で大谷廟堂の相続について争い、それに敗れて相模国鎌倉に下った。.

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円如

円如(えんにょ)は、戦国時代の浄土真宗の僧。院号は遍増院。権少僧都。父は浄土真宗本願寺派第9世宗主・真宗大谷派第9代門首実如。母は高倉永継の娘・如祐。妻は叔父の願証寺住持蓮淳の娘・慶寿院。本願寺第10世証如の父。父に先立って没したために歴代本願寺法主には加えられていない。 山科本願寺にて実如の次男として生まれ、12歳の時に兄・照如の死を受けて得度して本願寺法嗣に定められる。高齢の父に代わって教団の実務を行う。北陸門徒に対し一向一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、蓮如の文書の中から80通を選んで5帖に編集し『五帖御文』と呼称し、宗門信条の基本とするなどの教団改革を行い、戦国期の本願寺体制の基礎を築いたが、31歳の若さで没した。.

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准如

准如(じゅんにょ)は、安土桃山時代から江戸時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第12世宗主。西本願寺住職。諱は光昭。院号は信光院。法印大僧正。父は第11世顕如。母は如春尼(三条公頼の娘・細川晴元の養女)。妻は祇園宝光院の息女、寿光院准勝。兄は真宗大谷派第12代教如、真宗興正派第17世顕尊。第13世良如は次男。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元徳

元徳(元德、げんとく)は、日本の元号の一つ。嘉暦の後。大覚寺統(南朝)では元弘の前で、1329年から1330年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。 後醍醐天皇が元弘に改元した直後に倒幕の兵を挙げて失敗、隠岐に流され(元弘の乱)、持明院統(北朝)の光厳天皇が立てられた。光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、1331年まで元徳の元号を使用し、1332年に正慶に改元した。.

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国造

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.

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皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

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知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

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石山合戦

石山本願寺推定地の石碑 石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。.

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石山本願寺

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院である。戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており、後世「石山本願寺」というようになった。 他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居 - 中世,城郭や屋敷地の周囲に防御のためにめぐらした土塁。(『大辞林』第三版、他。)で囲まれた「寺内町」を有する点である教学研究所 編『教如上人と東本願寺創立』第一部「教如上人とその周辺」第二節「大坂本願寺」P.14。。.

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琢如

如(たくにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十四代法主 。「琢」ではなく、「」の字を用いるのが正式の表記である。 学寮(現、大谷大学)の創設、大谷御坊(現、大谷祖廟)の造営と活躍した。.

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神道

道(しんとう)は、日本の宗教。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとずく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原 樹齢約3000年の武雄神社の御神木.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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綽如

綽如(しゃくにょ)は、南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第5世宗主・真宗大谷派第5代門首。大谷本願寺住職。諱は時芸。法印権大僧都。父は第4世善如。日野時光の猶子。長男は第6世巧如、次男は藤島超勝寺開基頓円(鸞芸)、三男は荒川興行寺開基周覚(玄真)。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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真如 (東本願寺)

真如(しんにょ、眞如)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。東本願寺第十七代法主 。東本願寺第十六代 一如の甥。.

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真宗大谷派

真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.17。。 阿弥陀如来一佛を本尊とし『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.2、親鸞を宗祖とする『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』「『宗憲』前文」、p.1。。大谷派の根本道場である「真宗本廟」(通称:東本願寺)を、所属するすべての寺院および教会の本山とする『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』、p.4。。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は8,705。「大谷派」・「大派」・「谷派」と略称される。.

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真宗誠照寺派

真宗誠照寺派(しんしゅうじょうしょうじは)は、福井県鯖江市の誠照寺を本山とする浄土真宗の一派である。末寺数、約70寺。.

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真宗木辺派

真宗木辺派(しんしゅうきべは)は、滋賀県野洲市の錦織寺(きんしょくじ)を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟性信が率いる下総国横曽根(現在の茨城県常総市豊岡町)の報恩寺を中心とする横曽根門徒の流れを汲む。末寺数、約200寺。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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達如

達如(たつにょ、逹如)は、江戸時代後期の浄土真宗の僧。 東本願寺第二十代法主 。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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順如

順如(じゅんにょ、嘉吉2年(1442年)- 文明15年5月29日(1483年7月4日))は、室町時代中期から後期にかけての浄土真宗の僧。光善寺住持。本願寺8世法主蓮如の長子。母は伊勢氏庶流とされる伊勢貞房の娘如了。子に光淳室。諱は光助。幼名は光高。本願寺の法嗣とされていたが、父に先立って病死し、第9世法主は異母弟の実如が継いだ。.

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願証寺

証寺(がんしょうじ)は伊勢国桑名郡長島にあった浄土真宗の寺院。願證寺とも表記される。.

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顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

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顕尊

顕尊(けんそん、永禄7年1月22日(1564年3月5日) - 慶長4年3月3日(1599年3月29日))は、戦国時代の浄土真宗の僧。興正寺第17世門主。諱は佐超。本願寺第11世門主顕如の次男。母は三条公頼の三女の如春尼。兄に教如、弟に准如。内室は冷泉為益の三女の祐心尼(元誠仁親王女房)。子に准尊。幼名は阿古丸。号は花恩院、諡号は往還院。 4歳で興正寺16世証秀の養子となる。永禄11年(1568年)養父の死により興正寺を継承し、翌永禄12年(1569年)正親町天皇より脇門跡とされる。天正3年(1575年)に実父顕如を戒師として正式に得度すると、直ちに法眼に任じられた。但し幼年のため、下間頼亮が補佐役を務めた。 石山合戦では、外部から父の籠る石山本願寺を支えて、安芸の毛利輝元と図って兵糧を石山本願寺に運び入れる工作を行う。これが縁で顕尊の死後、息子の准尊が輝元の養女を妻に迎えている。 父が石山本願寺を退去するとこれに従い、紀伊鷺森・和泉貝塚・摂津大坂、天満と移り住む。天正17年(1589年)に権僧正となり、2年後に父が豊臣秀吉の斡旋で京都七条に本願寺を再興すると、その南隣に土地を与えられ興正寺を再建した。 父の死後の後継者争いでは、異母弟の准如を支援して自分の娘の阿古をその内室とした。.

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顕証寺

顕証寺(けんしょうじ)は、日本の仏教寺院。.

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顕証寺 (八尾市)

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。.

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西本願寺

西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:)、URLもその綴りを採用している。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。.

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西成郡

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覚如

覚如(かくにょ、覺如)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第三世。 「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった。 本願寺(浄土真宗)の実質的な開祖。(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗の意思は無く。本願寺成立後、覚如が定めた。) 親鸞の末娘である覚信尼の子、覚惠の長男。母は周防権守中原某の娘。親鸞の曾孫にあたる。長男は存覚、次男は従覚。 『報恩講私記』、『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』・『親鸞伝絵』)、『執持鈔』、『口伝鈔』、『改邪鈔』など多数撰述し、法然の正統な後継者としての親鸞と浄土真宗内における本願寺教団の優位性を主張した。.

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覚信尼

覚信尼公碑、大谷本廟、京都市東山区 覚信尼(かくしんに、元仁元年〈1224年〉 - 弘安6年11月24日〈1283年12月14日〉?)は、鎌倉時代浄土真宗の宗祖とされる親鸞の末娘。母は恵信尼。俗称は王御前(わうごぜん)。常陸国の出身。 久我通光の女房となって兵衛督局と呼ばれた。日野広綱に嫁して覚恵・光玉尼を出産したが、広綱の没後、小野宮禅念と再婚して唯善を生んだ。 父親鸞が東国より帰京する際に、母恵信尼に替わって上京し、親鸞の世話をすることになったと伝わる。その後はずっと京都における親鸞の布教を支えてきた。 親鸞没後は弟子達の布教に際してのまとめ役となり、そのことが浄土真宗教団の発展に繋がった。 直弟子顕智らの協力を得て、京都東山大谷に廟堂(大谷廟堂)を建立した。自らは留守職となって本願寺の基礎を築いた。 Category:鎌倉時代の女性 Category:鎌倉時代の僧 Category:浄土真宗の僧 Category:常陸国の人物 Category:大谷家 Category:親鸞 Category:1224年生 Category:1283年没.

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覚恵 (浄土真宗)

覚恵(かくえ、暦仁2年・延応元年〈1239年〉頃 - 徳治2年4月12日〈1307年5月14日〉)は、鎌倉時代の浄土真宗の僧。父は日野広綱、母は親鸞の末娘覚信尼。妻は周防権守中原某の娘。子は覚如。異父弟に唯善。 幼少より京都青蓮院で天台宗の教えを学び、その後如信(覚恵の従兄)の元で、外祖父の親鸞の教えを深める。 弘安6年(1283年)、母・覚信尼より大谷廟堂の留守職を譲り受ける(大谷廟堂二代目留守職)。.

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親鸞

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。、既成の仏教教団や、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。.

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香淳皇后

香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。.

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証如

証如(しょうにょ、證如)は、戦国時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第10世宗主・真宗大谷派第10代門首。山科本願寺住職。諱は光教。院号は信受院。法印権僧正。父は円如。本願寺第8世蓮如の曾孫。九条尚経の猶子。第11世顕如は長男。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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貞明皇后

貞明皇后(ていめいこうごう、1884年(明治17年)6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。九条道孝(華族・公爵)の四女。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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載仁親王妃智恵子

載仁親王妃智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、明治5年5月25日(1872年6月30日) - 昭和22年(1947年)3月19日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。公爵・三条実美の次女。母は鷹司輔煕の九女・治子。.

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龍谷大学

記載なし。

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近衛文隆

近衞 文隆(このえ ふみたか、1915年(大正4年)4月3日 - 1956年(昭和31年)10月29日)は、昭和期の陸軍軍人。首相近衞文麿・千代子(父は旧豊後佐伯藩毛利家当主・毛利高範)夫妻の長男。家系は藤原北家の嫡流にして摂家筆頭・近衞家。京都府出身。階級は陸軍中尉。位階は従五位。学歴はプリンストン大学政治学部修業(中退)。.

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近衛文麿

近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。 貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、大政翼賛会総裁(初代)などを歴任した。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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錦織寺

錦織寺(きんしょくじ)は、滋賀県野洲市木部にある仏教寺院で、真宗木辺派の本山。山号は遍照山。院号は天神護法院。本尊は阿弥陀如来。.

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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興正寺

興正寺(こうしょうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院。山号は円頓山(えんとんざん)。西本願寺の南隣に位置する。 かつて西本願寺の脇門跡であったが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるが、実際には堂々とした規模である。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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藤原実光

藤原 実光(ふじわら の さねみつ)は平安時代後期の公卿、儒学者、漢詩人、歌人。右中弁・藤原有信の長男。日野実光とも。日野家11代当主にあたる。.

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藤原実綱

藤原 実綱(ふじわら の さねつな)は平安時代中期から後期にかけての貴族、歌人、漢詩人。従三位・藤原資業の次男。官位は正四位下・式部大輔。別称、日野実綱。正字体:實綱。.

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藤原家宗

藤原 家宗(ふじわら の いえむね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、参議・藤原真夏の孫。民部少輔・藤原濱雄の長男。官位は従三位・参議。.

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藤原家経

藤原 家経(ふじわら の いえつね)は平安時代中期から後期にかけての貴族・学者・歌人・漢詩人。藤原北家真夏流、参議・藤原広業の長男。官位は正四位下・式部権大輔。字は不明。.

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藤原不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.

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藤原広業

藤原 広業(ふじわら の ひろなり)は平安時代中期の公卿、漢詩人。参議・藤原有国の次男。字は藤琳。.

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藤原弘蔭

藤原 弘蔭(ふじわら の ひろかげ)は、平安時代の貴族。藤原北家真夏流、参議・藤原家宗の子。官位は従五位上・大学頭。.

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藤原俊信

藤原 俊信(ふじわら の としのぶ、天喜3年(1055年) - 長治2年2月1日(1105年2月17日)は、平安時代後期の貴族・学者。藤原北家日野流、右大弁・藤原正家の次男。官位は正五位下・右少弁。初名は家通。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原冬嗣

藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の次男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。.

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藤原内麻呂

藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原真楯の三男。官位は従二位・右大臣。 桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。.

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藤原兼光

藤原 兼光(ふじわら の かねみつ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家真夏流日野家、権中納言・藤原資長の子。官位は従二位・権中納言。姉小路と号す。日野家13代。.

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藤原繁時

藤原 繁時(ふじわら の しげとき)は平安時代中期の貴族。藤原北家、大学頭・藤原弘蔭の長男。官位は正五位下・大学頭。.

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藤原真夏

藤原 真夏(ふじわら の まなつ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。右大臣・藤原内麻呂の長男。官位は従三位・参議。.

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藤原真楯

藤原 真楯(ふじわら の またて)は、奈良時代の公卿。初名は八束(やつか)。藤原北家の祖・藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。.

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藤原鎌足

中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.

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藤原資長

藤原 資長(ふじわら の すけなが)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿、歌人、漢詩人。権中納言・藤原実光の次男。日野家12代当主。日野民部卿と称す。.

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藤原資業

藤原 資業(ふじわら の すけなり)は平安時代中期から後期にかけての公卿。参議・藤原有国の七男。.

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藤原正家

藤原 正家(ふじわら の まさいえ、万寿3年(1026年) - 天永2年10月12日(1111年11月14日))は、平安時代後期の貴族・学者。藤原北家真夏流、式部権大輔・藤原家経の子。官位は正四位下・右大弁。.

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藤原濱雄

藤原 濱雄(ふじわら の はまお)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、参議・藤原真夏の三男。官位は従五位下・民部少輔。 淳和朝の天長3年(826年)従五位下に叙爵する。仁明朝の承和6年(839年)民部少輔に任ぜられるが、翌承和7年(840年)7月28日卒去。.

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藤原有信

藤原 有信(ふじわら の ありのぶ)は平安時代中期から後期にかけての貴族、漢詩人、歌人、儒学者。藤原北家真夏流、式部大輔・藤原実綱の三男。官位は従四位下・右中弁。日野有信とも。.

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藤原有国

藤原 有国(ふじわら の ありくに)は、平安時代中期の公卿。初名は在国。字は藤賢。藤原北家真夏流、大宰大弐・藤原輔道の四男。官位は従二位・参議。弼宰相と号す。.

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藤原有綱

藤原 有綱(ふじわら の ありつな、生年不詳 - 永保2年3月23日(1082年4月23日)または応徳3年9月9日(1086年10月19日))は、平安時代後期の貴族・学者・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家流)、式部大輔・藤原実綱の子。官位は正四位下・文章博士。.

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藤原房前

藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。.

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蓮如

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。.

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蓮乗

蓮乗(れんじょう、文安3年(1446年)- 永正元年2月21日(1504年3月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。瑞泉寺・本泉寺兼住。本願寺第8世法主蓮如の次男で、母は伊勢貞房の娘如了。幼名は光養、諱は兼鎮。妻は大叔父に当たる如乗の娘。子に蓮悟室。 幼い頃、本願寺は衰退期であったために京都南禅寺に喝食として出された。15歳となった寛正元年1月26日(1460年2月18日)、加賀二俣房(後の本泉寺)の住持であった蓮如の叔父・如乗(実名宣祐)が死亡したため、その娘を娶って後継者になる。如乗はかつては本願寺の本寺である青蓮院の僧であったが、門主の義円と張り合っていたため、義円が還俗して室町幕府第6代将軍足利義教となると、追われる身となって各地を流浪した末に越中瑞泉寺を経て加賀に落ち着いたのであった。後に如乗は兄・存如死後の家督争いで庶長子の蓮如の才能を見込んで反対派を押さえ込んで後継者に擁立した事があり、如乗の死後にその未亡人勝如尼の要請で本泉寺の寺号を与えると共に蓮乗を派遣したのである。 文明3年(1471年)、延暦寺の圧力を逃れて北陸に布教の旅に出た父・蓮如は越前吉崎御坊と本泉寺を足がかりに布教に努めた。ところが、文明6年(1474年)、後の加賀一向一揆のきっかけとなる富樫氏の内紛に巻き込まれ、翌年蓮如は吉崎を退去、蓮乗も本泉寺を追われて本願寺の末寺となっていた瑞泉寺に退いた。更に文明13年(1481年)には今度は越中で門徒の弾圧が行われた事を機に越中一向一揆が発生して砺波郡が門徒の支配下に入った。 だが、蓮乗は越中退去の頃にあった落馬からの回復が思わしくなく、異母弟の蓮悟に娘を娶わせて後継者にする。長享元年(1487年)には再興した本泉寺に復帰するが、病状は悪化して明応8年(1499年)の蓮如危篤の際にも駆けつける事が出来なかったという。その5年後に59歳で病死した。本泉寺は蓮悟が、瑞泉寺は義弟の蓮欽(勝如尼の甥、妹了如の夫)がそれぞれ継いだ。.

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蓮綱

蓮綱(れんこう、宝徳2年(1450年)- 享禄4年10月18日(1531年11月26日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。松岡寺住持。幼名は光養、諱は兼祐。初名は玄寿、後に蓮康と改める。本願寺第8世法主蓮如の3男で、母は伊勢貞房の娘如了。妻は勧修寺教秀の娘。子に蓮慶。 幼い頃、浄土宗の寺院に預けられていたが、文明年間初め頃に加賀に下る。後に同国波佐谷(現在の石川県小松市)に松岡寺を建立する。しかし、蓮如と加賀守護富樫政親が対立した文明7年(1476年)に越前吉崎御坊にいた父と合流して一旦加賀を離れた。だが、5年後に再び松岡寺に復帰すると隣国の越中一向一揆を指導していた弟蓮悟や吉崎に残っていた同じく弟の蓮誓と連携して富樫氏と対抗した。長享2年(1488年)に政親が一揆討伐軍を上げると逆にこれを攻め滅ぼした(長享の一揆)。 後継の守護に富樫泰高(政親の大叔父)を擁立しながらも実質的には蓮綱と蓮悟が事実上の国主となる「両御山」体制を敷いた。これに対して蓮如は激しく非難しているが、実際には管領細川政元の暗黙の了解を得て室町幕府による討伐令を中止させている。その後、蓮如と後を継いだ異母弟実如は蓮綱・蓮誓・蓮悟ら蓮如の子供達を加賀における真宗の代表として民衆を統率させて本願寺を擁護する体制を作る事に尽力するようになる。 永正3年(1506年)、細川政元の依頼を受けて越前の朝倉貞景討伐の一揆を起こすが、朝倉教景(宗滴)・朝倉景職・堀江景実が率いる朝倉軍に九頭竜川の戦いで敗れ、逆に吉崎御坊は破壊されて越前の真宗信者は国外に追放されてしまう。その後、松岡寺の運営を息子蓮慶に、加賀門徒の指導を弟の蓮悟に任せて引退生活に入る。 ところが、本願寺の法主が証如の代に入ると証如とその後見である蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父)は法主による一門統制を強める政策を採り、その遂行のために蓮淳の婿で朝倉氏によって越前から追放されていた末寺の1つ・超勝寺の住持であった実顕が代官に任じられて「両御山」体制を否認する命令を加賀各地に出す。これに対して蓮悟や蓮慶と顕誓(蓮誓の子)は蓮如・実如が定めた一門衆の指導への服従を定めた規則に反するとして超勝寺の討伐のための一揆を起こした。 だが、この報を受けた蓮淳は逆に法主の代理である実顕を討つ事は本願寺法主に対する反逆であるとして畿内・東海の門徒に超勝寺救援の命令を発したのである。本覚寺住持蓮恵も超勝寺に加勢、これを知った加賀門徒は動揺して分裂、享禄4年7月松岡寺は超勝寺側に占領されて蓮綱・蓮慶父子は幽閉されてしまった(大小一揆)。3ヵ月後蓮綱は幽閉先にて82歳で没し、更に11月18日には蓮慶(49歳)と孫の実慶(29歳)ら家族も逃亡を図ろうとした廉で捕らえられ自害したとも処刑されたともいう。以後、松岡寺は江戸時代初期に能登国内にて再興を許されるまで廃絶状態となる。.

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蓮誓

蓮誓(れんせい、康正元年(1455年)- 大永元年8月7日(1521年9月7日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧。光教寺住持。本願寺第8世法主・蓮如の4男。幼名は光玉、諱は康兼。妻は正親町持季の娘・如専。子に蓮能、実玄、顕誓など4男6女。.

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蓮淳

蓮淳(れんじゅん、寛正5年(1464年) - 天文19年8月18日(1550年9月28日)は、室町時代・戦国時代の浄土真宗の僧である。称徳寺(堅田御坊)、願証寺、顕証寺(久宝寺御坊)兼住、恵光寺開基。本願寺第8世法主蓮如の6男で、母は伊勢貞房の娘蓮祐。正室は滋野井教国の娘。子に実淳、実恵、実玄室、実顕室、円如室・慶寿院、実順室。幼名は光徳、諱は兼誉。三位。.

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蓮悟

蓮悟(れんご、応仁2年(1468年)- 天文12年7月16日(1543年8月16日)は、室町時代中期から戦国時代にかけての浄土真宗の僧である。本泉寺住持。本願寺第8世法主蓮如の7男。母は伊勢貞房の娘蓮祐。妻は次兄蓮乗の娘。子に実教。養子に実悟。幼名は光寿丸、諱は兼縁。.

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長島町 (三重県)

長島町(ながしまちょう)は、三重県の北勢地域、木曽三川河口部の濃尾平野の南西部にかつて存在していた町。2004年12月6日に桑名市・多度町と合併し新しい桑名市となり廃止した。 三重県南部に北牟婁郡紀伊長島町(現:紀北町)が存在していたため、伊勢長島と称されることもある。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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良如

良如(りょうにょ、慶長17年12月7日(1613年1月27日)- 寛文2年9月7日(1662年10月18日))は、江戸時代前期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第13世宗主。西本願寺住職。諱は光円。院号は教興院。法印大僧正。父は第12世准如。九条幸家の猶子。母は祇園宝光院(宝寿院 (祇園社の社家)参照)の息女、寿光院准勝。内室は九条幸家の娘。継室は八条宮智仁親王の娘殊光院、近江国三井の人(揚徳院寂照)。第14世寂如は子。播磨国本徳寺住職寂円は10男。.

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雑賀衆

雑賀衆(さいかしゅう)は、中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また海運や貿易も営んでいた。「さいが」と読むのは誤読である。.

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恵信尼

恵信尼(えしんに、寿永元年(1182年) - 文永5年(1268年)?)は、鎌倉時代の人物で、浄土真宗の宗祖とされる僧・親鸞の妻である。生れは越後国。父は、越後国の豪族・三善為教。.

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東山区

東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。 区内には祇園や三条京阪周辺などの繁華街がある。鴨川左岸の平野部は早くから市街化されているが、東山の西麓には大規模な寺社が林立する。景観条例等の規制が比較的厳しいこともあって、他の区で見られるような山間部の住宅開発は行われておらず、人口は11区中最も少ない。なお、当区の65歳以上の高齢者比率は11区中最も高く、全国の政令指定都市の行政区の中でも6番目に高い。.

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東本願寺

東本願寺(ひがしほんがんじ、Higashi Hongan-ji)は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称である。正式名称は、「真宗本廟正式名称…昭和62年(1987年)までは、「本願寺」が正式名称である。」である。 堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また、真宗大谷派(以降、大谷派)としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。 2016年現在の門首は、平成8年(1996年)に継承した大谷暢顯(淨如)である。.

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正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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毛利氏

毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.

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水軍

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.

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法名 (浄土真宗)

浄土真宗における「法名」(ほうみょう)とは、仏弟子釈尊の弟子のこと。となった名告りである。故人に対して贈られる名前と誤解されることも多いが、正しくは生きている間に三宝に帰依し、仏弟子として生きていくことを誓い授かる名である。 「戒名」と混同して用いられる場合があるが、浄土真宗における仏弟子としての名は「戒名」ではなく「法名」である。その理由は、「戒を守り抜くことはできない凡夫たる一切衆生は、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の誓願によってのみ救われる」という教義に基づいて受戒を行わないためである。 また浄土真宗は在家仏教であり、僧侶も在家であり出家の立場をとらない。.

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法如

法如(ほうにょ、宝永4年1月9日(1707年2月11日) - 寛政元年10月24日(1789年12月10日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第17世宗主。西本願寺住職。諱は光闡。院号は信慧院。法印大僧正。父は第13世良如の10男寂円。九条稙基の猶子。母は円成院(法寿)。妻は如教(誠心院)。第18世文如は長男。.

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法華一揆

法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説する。.

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淀川

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川(せたがわ)、宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。この場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130km、流路延長に換算すると約170kmとなる。 瀬戸内海に流れる河川の中では流域面積が最も広く、流域人口は西日本で最も多い、また琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。.

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湛如

湛如(たんにょ、享保元年6月28日(1716年8月15日) - 寛保元年6月8日(1741年7月20日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第16世宗主。西本願寺住職。諱は光啓。院号は信曉院。法印大僧正。実父は第14世寂如。養父は第15世住如。母は竹中氏。妻は閑院宮直仁親王の長女始宮(治子女王)。第17世法如は従兄弟。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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木辺孝慈

木邊 孝慈(きべ こうじ、1881年(明治14年)4月11日 - 1969年(昭和44年)1月23日)は、真宗木辺派の僧侶。男爵。 西本願寺21世法主 明如(大谷光尊)の次男、22世法主 鏡如(大谷光瑞)の弟。妹に歌人の九条武子がいる。 当時、真宗木辺派に後継者がいなかったので、17歳で本山・錦織寺に入り第20代法主を継ぐ。法隆寺の佐伯定胤に唯識の講義を受けている。学徳共に秀で人望も厚かった。1940年(昭和15年)、大日本仏教会初代会長となる。.

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本如

本如(ほんにょ、安永7年10月24日(1778年12月12日) - 文政9年12月12日(1827年1月9日))は、江戸時代中期から後期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第19世宗主。西本願寺住職。諱は光摂。院号は信明院。法印大僧正。父は第18世文如。妻は二条治孝の息女誠。河内国顕証寺住職文淳は弟。第20世広如は甥。 江戸時代中期の三業惑乱を収束させた際の宗主。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

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浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である。宗祖親鸞の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする「本願寺」(「西本願寺」)を本山とする。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は10,329被包括宗教団体数は、別院含む寺院の他、教会などを含んだ宗教団体(宗教法人を含む)の総数である。平成26年12月31日現在、寺院10,206(うち宗教法人10,185)、教会8(うち宗教法人2)、布教所2(うち宗教法人0)、その他94(うち宗教法人71)である。(を参照。)。.

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文如

文如(もんにょ、延享元年4月19日(1744年5月30日) - 寛政11年6月4日(1799年7月6日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第18世宗主。西本願寺住職。諱は光暉。院号は信入院。法印大僧正。父は第17世法如。九条尚実の猶子。妻は二条宗基の息女五千。第19世本如は次男。河内国顕証寺住職文淳は三男。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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日野家

日野家(ひのけ)は、日本の貴族の家系のひとつ。藤原北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。.

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日野家光

日野 家光(ひの いえみつ)は鎌倉時代初期の公卿。権中納言・日野資実の三男。.

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日野俊光

日野 俊光(ひの としみつ)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。日野家17代当主。正二位権中納言・日野資宣の子。官位は権大納言兼右衛門督。.

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日野資名

日野 資名(ひの すけな)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。権大納言・日野俊光の長男。日野資朝の兄。.

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日野資実

日野 資実(ひの すけざね)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿、歌人。日野家の第14代当主。.

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日野資宣

日野 資宣(ひの すけのぶ)は、鎌倉時代中期の公卿。日野家16代当主。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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教如

教如(きょうにょ、敎如)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。 東本願寺第12代法主 。.

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慧遠 (隋)

慧遠(えおん、523年 - 592年)は、中国の北周、隋代の地論宗の僧。東晋、廬山の慧遠と区別して浄影寺の慧遠と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌(甘粛省)出身の人である。.

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慶寿院鎮永尼

慶寿院鎮永尼(けいじゅいん ちんえいに、明応2年(1493年) - 元亀2年2月18日(1571年3月13日))は、戦国時代の女性。本願寺第9世実如の法嗣・円如の室で、第10世証如の母。願証寺住持蓮淳の四女。実名は不詳。法名は初め融誓。従二位。.

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1262年

記載なし。

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1272年

記載なし。

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1312年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1465年

記載なし。

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1488年

記載なし。

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1532年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1574年

記載なし。

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1575年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1580年

金曜日から始まる。.

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1593年

記載なし。

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1602年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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