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大成会

索引 大成会

大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎・西毅一・天野若円らが参加して、「不偏不党」・「中立」を掲げた。 一般には大成会を「吏党」すなわち政府与党とする見方があるが、当時の政府が掲げる超然主義においては、「与党」の存在自体を否定している事、また「吏党」という呼称も民党側の非難の過程で生まれた言葉であり、実際には「反民党」勢力ではあっても「親政府」勢力ではなかったとされている。ただ、政治志向に保守的な側面が強いために政府の政策に近く、政府との全面対決を掲げた民党よりは政府に対して宥和的な立場であった(もっとも、集会条例・新聞紙条例などの緩和のように、民党と結んで政府と対立した案件も存在する)。 あくまでも大成会は院内会派であり、政党ではなかったため、1891年の衆議院解散によってその時点で役割を果たしたものとして解散された。.

29 関係: 吏党天野若円岡田良一郎与党中央交渉会元田肇国民協会 (日本 1892-1899)立憲改進党第1回衆議院議員総選挙衆議院解散超然主義自由党 (日本 1890-1898)自由民権運動集会条例院内会派杉浦重剛民党津田真道末松謙澄明治新聞紙条例日本日本の国会議員政党12月26日1890年1891年8月22日8月23日

吏党

吏党(りとう)とは、明治時代中期の初期帝国議会における政府寄りの姿勢を示した政党のこと。ただし、本来は自由民権運動を継承する民党側からの蔑称であり、政府・マスコミおよび当事者達は温和派(おんわは)と呼称していた。.

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天野若円

天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851年6月9日)-明治42年(1909年)12月4日)は、明治前期の浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家。諡号は即生院。 父の天野若空(文政2年3月13日(1819年4月7日)-明治31年(1898年)3月9日)は浄土真宗の学僧として名高く、美濃国厚見郡岩戸村 (岐阜県)(現在の岐阜県岐阜市)にあった善龍寺の住職を務め、没後の明治34年(1901年)には勧学の地位を贈られている。 若円は若空の長男として生まれ、明治13年(1880年)浄土真宗本派大教校普通全科卒業後善龍寺を継ぎ、更に高田教務所管事や本山(西本願寺)の教学課長などを歴任した。 明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に岐阜県第1区から立候補して当選、大成会に属した。それまで政治的経験の無かった若円の名前を有名にしたのは第1議会開催中の明治24年(1891年)2月24日、若円は大日本帝国憲法第67条に関わる予算削減について衆議院において審議する場合には事前に政府の了承を得る代わりに予算審議における衆議院の優越を確保するという動議を行ったことである。この動議を巡って立憲自由党は内紛を起こし、予算案の成立をみて第1次山縣内閣は窮地を脱した。同年、若円の地元は濃尾地震の直撃を受けるが、若円は復興のために奔走し、後に犠牲者を追悼する震災紀念堂を建立、明治26年(1893年)10月27日に完成した。 その後、第6回衆議院議員総選挙の補欠選挙および第8回衆議院議員総選挙に当選し、衆議院議員を計3期務めた。.

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岡田良一郎

岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員。.

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与党

与党(よとう、)とは、政権を構成し行政を担当する政党のこと。行政府を与る(あずかる)あるいは行政府に与する(くみする)政党の意味である。一般には内閣を組織している政党を指す。内閣が一党で組織される場合には単独内閣、内閣が複数党で組織される場合には連立内閣と呼ばれ、また、内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとる場合には閣外協力と呼ぶ。対義語は野党。.

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中央交渉会

中央交渉会(ちゅうおうこうしょうかい)とは、明治時代に存在した院内会派(1892年4月23日-1893年3月1日)。一般には中央交渉部(ちゅうおうこうしょうぶ)という名称で知られているが、これは本部が置かれた建物名に由来する通称であり、当時の議会の資料には「中央交渉会」と記述されている。 大成会を中心とした政府(第1次松方内閣)支持の政党・会派に属する95名が結成した。古荘嘉門・太田實・津田真道・井上角五郎・末松謙澄・佐々友房・曾禰荒助らが所属する。ところが、中央交渉会の政党化を図る古荘・佐々・曾根らとこれに反対する井上・末松らが対立、結成2ヶ月後の6月22日に古荘らが西郷従道・品川弥二郎を盟主として国民協会が結成すると、同協会への合流を巡って分裂状態に陥り離脱者が続出する。その一方で国民協会は独自の院内会派を結成しなかったために、国民協会所属のまま会派だけは中央交渉会に籍をおく議員が存在するなど複雑な状態となった。後に国民協会が院内会派・議院倶楽部を設立するとほとんどが移籍してしまい、他の政党・会派に移籍する者も出た。このため、翌年にはわずか11名にまで減少してしまい、路線対立から第4議会終了と同時に残った全議員が離脱したために自然消滅した。.

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元田肇

元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日(安政5年1月15日) - 1938年(昭和13年)10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。.

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国民協会 (日本 1892-1899)

国民協会(日本 1892-1899)(こくみんきょうかい)は、明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇・白根専一・廣瀬貞文などが参加、自由党右派の新井毫なども参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰が幹事に選ばれた)。既存の吏党系に加えて第2回衆議院議員総選挙で当時の第1次松方内閣(内務大臣が品川)の支援を受けて当選した官吏的な議員が多い。政府の富国強兵路線を熱心に支持したが、条約改正や財政規律の確立を求めて政府に厳しい注文を付ける事もあった。第2次伊藤内閣では国権主義を掲げて政府が進める日英通商航海条約の調印に反対して硬六派の一翼を担い、事実上の野党であった。だが、政府の策動で西郷・曾根の引き抜き・離脱にあって打撃を受け、更に1893年12月30日には国民協会そのものが政事結社として認定された。 このため、翌31日に存在意義を失った国民政社・議院倶楽部を解散して国民協会に一本化し、品川が中心となって運営する事になった。1894年の第3回衆議院議員総選挙では吏党中最多の35人が当選したが議席自体は大きく減らした。その後も立憲改進党とともに反伊藤内閣・反自由党を標榜するとともに品川と山縣有朋と関係を軸として貴族院の研究会や茶話会とも連携した。立憲改進党などが進歩党を結成した際にも、品川は山縣の支援を期待して政党内閣阻止のための「三党鼎立」路線を維持して第3党の地位を保持した。だが、隈板内閣の成立、それに続く第2次山縣内閣と憲政党(旧自由党系)の連携によって孤立無援となり、1899年品川は国民協会を解散して政党活動からの撤退を表明した。そのため、所属議員は新たに帝国党を結成した。.

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立憲改進党

立憲改進党(りっけんかいしんとう)は、明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ。1882年から1896年まで存在した。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。.

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第1回衆議院議員総選挙

1回衆議院議員総選挙(だい1かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1890年(明治23年)7月1日に行われた日本の帝国議会(衆議院)議員の選挙である。.

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衆議院解散

衆議院解散(しゅうぎいんかいさん)とは、大日本帝国憲法下の帝国議会と日本国憲法下の国会において、総選挙を行うために衆議院を解散すること。解散によりすべての衆議院議員は、任期満了前に議員としての地位を失う。.

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超然主義

超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る内閣が採った立場を指し、内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる。また、この主義を採る内閣を超然内閣という。 なお、坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、民党・吏党の別なく、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。.

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自由党 (日本 1890-1898)

自由党(じゆうとう)は、明治時代の日本の政党。1890年(明治23年)の結成時の党名は立憲自由党(りっけんじゆうとう)だったが、翌年に自由党へ改名した。1898年(明治31年)に憲政党の結成に伴い解散した。.

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自由民権運動

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。 従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。.

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集会条例

集会条例(しゅうかいじょうれい、明治13年4月5日太政官布告第12号)は明治13年(1880年)4月に公布された日本の太政官布告。明治23年(1890年)7月25日に集会及政社法により消滅した。.

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院内会派

院内会派(いんないかいは)とは、議会内で活動を共にする複数の議員で結成される団体。.

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杉浦重剛

杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。 若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。.

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民党

民党(みんとう)とは、明治時代の日本において自由民権運動を推進した自由党・立憲改進党などの民権派各党の総称。主に帝国議会開設から日清戦争の頃にかけて使われた。政界が二大政党に収斂されていくにしたがって使用されることは減っていったが、その後も「民衆代表政党」の意味を込めて大正期まで使用された。.

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津田真道

津山洋学資料館の津田真道像 津田 真道(つだ まみち、文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)は、日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。.

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末松謙澄

末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日(1855年9月30日) - 大正9年(1920年)10月5日)は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治家・歴史家。子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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新聞紙条例

新聞紙条例(しんぶんしじょうれい、明治20年12月29日勅令第75号)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための勅令のこと。 反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本の国会議員

衆議院会派別勢力図 (2017年(平成29年)10月23日現在 参議院会派別勢力図(2016年(平成28年)7月14日現在) 日本の国会議員(にほんのこっかいぎいん)では、日本国憲法下の日本の国会(衆議院・参議院)の議員について解説する。.

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政党

政党(せいとう)とは、共通の政治的目的を持つ者によって組織される団体である。18世紀のイギリス下院議員エドマンド・バークによれば名誉や徳目による結合であり、私利私欲に基づく人間集団(徒党)ではないとしている。.

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12月26日

12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.

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1890年

記載なし。

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1891年

記載なし。

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8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。.

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8月23日

8月23日(はちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から235日目(閏年では236日目)にあたり、年末まであと130日ある。.

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