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大塔宮曦鎧

索引 大塔宮曦鎧

『大塔宮曦鎧』(おおとうのみやあさひのよろい)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、享保8年(1723年)2月に大坂竹本座にて初演。初代竹田出雲・松田和吉(のちの文耕堂)の合作で、近松門左衛門が本文を添削した。「太平記/綱目」の角書きがつく。三段目は『身替り音頭』(みがわりおんど)と通称される。.

45 関係: 大正太平記安政實川延若 (3代目)中村歌右衛門 (6代目)市川鰕十郎市村羽左衛門 (17代目)万里小路藤房一谷嫩軍記享保後醍醐天皇保元の乱北条範貞北条氏嵐璃寛 (3代目)和歌和泉国六波羅探題元文竹田出雲竹本義太夫義経千本桜熊野盂蘭盆会隠岐国鎌倉幕府道頓堀角座萬歳護良親王鳥羽 (洛外)輿近松門左衛門歌舞伎歌舞伎座母衣江戸幕府源義朝源為義木津川 (京都府)春日大社昭和浴衣文楽手習い1723年

大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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實川延若 (3代目)

三代目 實川 延若(さんだいめ じつかわ えんじゃく、1921年(大正10年)1月13日 - 1991年(平成3年)5月14日)は、歌舞伎役者。本名は天星昌三(あまぼし しょうぞう)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。舞踊の名取は藤間勘太郎(ふじま かんたろう)。俳名は正鴈、昌鴈(しょうがん)。.

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中村歌右衛門 (6代目)

六代目 中村 歌右衛門(ろくだいめ なかむら うたえもん、1917年(大正6年)1月20日 - 2001年(平成13年)3月31日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋は祇園守、替紋は裏梅。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は河村 藤雄(かわむら ふじお)、俳名は魁春(かいしゅん)。生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれた。歌舞伎と舞踊以外の演劇活動は行わず、映画やテレビドラマに出演することもなかった。.

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市川鰕十郎

市川 鰕十郎(いちかわ えびじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は播磨屋。.

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市村羽左衛門 (17代目)

十七代目 市村 羽左衛門(じゅうしちだいめ いちむら うざえもん、1916年(大正5年)7月11日 - 2001年(平成13年)7月8日)は、昭和から平成にかけての歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は坂東 衛(ばんどう まもる)。俳名に可江。舞踊の名取は藤間 善蔵(ふじま ぜんぞう)。 派手さはないが堅実な芸風をもった立役として時代物・世話物で模範的演技を見せ、晩年は「歌舞伎の生き字引」とまで呼ばれた。また大名跡「市村羽左衛門」を襲名した後も、自身は五代目菊五郎の孫であり、六代目菊五郎の甥である立場から、尾上菊五郎家のお家芸を守る一人として菊五郎劇団で重きをなし、二代目尾上松緑や七代目尾上菊五郎を長く支えた。.

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万里小路藤房

万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。.

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一谷嫩軍記

文化8年(1820年)9月、江戸中村座。三段目の切「熊谷陣屋」の場面を描く。歌川国貞画。 『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)とは、文楽および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦元年(1751年)11月に大坂豊竹座にて初演。並木宗輔の作。三段目の切は特に『熊谷陣屋』(くまがいじんや)と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、「故人」として並木宗輔の名が記されている。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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北条範貞

北条 範貞(ほうじょう のりさだ、生年不明 - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の北条氏一門。 極楽寺流の支流・常盤流の当主で常葉範貞とも呼称される。父は北条時範、子に北条重高がいる。母は不明で、生年も未詳だが、北条貞時が得宗家当主であった期間内(1284年-1311年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる。 嘉元2年(1304年)、従五位下、左近将監に叙位される。正和4年(1315年)、引付衆に任じられ幕政に参画する。翌5年(1316年)、従五位上に昇進。元応2年(1320年)には、評定衆に補充される。 元亨元年(1321年)、六波羅探題北方に任命され上洛し、元徳2年(1330年)、北条仲時と交替するまで9年間務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。この間、正中2年(1325年)に越後守、嘉暦3年(1328年)には正五位下、元徳元年(1329年)に駿河守に任ぜられている。 『太平記』によれば、正慶2年/元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)。同じく『太平記』には、北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。 尚、歌人でもあり、勅撰集に三首歌が収録されている。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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嵐璃寛 (3代目)

三代目歌川豊国画。 三代目 嵐璃寛(さんだいめ あらし りかん、文化9年〈1812年〉 - 文久3年4月21日〈1863年6月7日〉)とは、江戸時代後期の大坂の歌舞伎役者。俳名は巌獅・橘蝶、屋号は葉村屋。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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竹田出雲

竹田 出雲(たけだ いずも)とは、江戸時代の浄瑠璃作者。また三代に亘って竹本座の座本(興行責任者)にもなった。.

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竹本義太夫

竹本義太夫(たけもとぎだゆう、慶安4年〈1651年〉 - 正徳4年9月10日〈1714年10月18日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。.

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義経千本桜

『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。通称『千本桜』。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。.

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熊野

野(旧牟婁郡)の範囲 青岸渡寺と那智滝(那智勝浦町) 熊野本宮大社(田辺市) 熊野灘(紀北町) 熊野川(紀宝町⇔新宮市) 三段壁(白浜町) 熊野(くまの)は、和歌山県南部と三重県南部からなる地域である。紀伊半島南端部を占める。 旧国では紀伊国南部にあたり、上古の熊野国と大概一致する。熊野三山(田辺市の熊野本宮大社・新宮市の熊野速玉大社・那智勝浦町の熊野那智大社)を中心とする熊野信仰の中心地として知られる。.

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盂蘭盆会

蘭盆会(うらぼんえ)とは、7月15日を中心に7月13日から16日の4日間に行われる仏教行事のこと。日本における日付については、元々旧暦7月15日を中心に行われていたが、改暦にともない新暦(グレゴリオ暦)の日付に合わせて行ったり、一月遅れの新暦8月15日や旧暦のまま行っている場合に分かれている。父母や祖霊を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事のこと。『盂蘭盆経』(西晋、竺法護訳)、『報恩奉盆経』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説に由来する。盂蘭盆(うらぼん)、お盆とも。なお、旧暦7月15日は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、道教では三元の中元にあたる。.

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隠岐国

岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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道頓堀角座

道頓堀角座(どうとんぼりかどざ)は、.

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萬歳

19世紀の「'''萬歳'''」のスタイル。 萬歳または万才(まんざい)とは、日本の伝統芸能の一つである。新年の言祝ぎの話芸として全国で興り、漫才の元になった。地名を冠して区別することが多い。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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鳥羽 (洛外)

鳥羽(とば)とは、かつて京都洛外、山城国紀伊郡に属していた鳥羽郷(とばごう)・鳥羽荘(とばのしょう)などと呼ばれた地域を指す名称。現在では京都市でも南区に属する上鳥羽・伏見区に属する下鳥羽に分割されている。 鴨川と桂川の合流地点の低湿地にあり、当時は鴨川が鳥羽の東側を流れ、また南は巨椋池に接したとされる。『和名類聚抄』では、「止波/度波」という訓を入れている。平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長した鳥羽作道が作られ、その道は鳥羽で淀川水系と接した。このため、鳥羽の河岸には鳥羽津が築かれた。貞観14年(872年)に作成された「貞観寺田地目録帳(『貞観寺根本目録』の一部)」(仁和寺所蔵重要文化財)に「鳥羽」の地名が登場する。また、平安京内の神泉苑の水は鳥羽からひかれたものであったとされている。平安時代前期には賀陽親王や藤原時平が鳥羽に別業(別荘)を造営した。 応徳3年(1086年)、白河上皇は藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業に拡張・改造を加えて離宮・鳥羽殿(城南宮)を造営した。3棟からなる御所と巨椋池を望む庭園、御堂を取り合わせた大規模なものであったが、白河上皇の生存中には完成出来ず、ここを継承した孫の鳥羽上皇の時代に完成した。鳥羽殿は南北朝の内乱で荒廃するまで歴代の治天の君の拠点として政治的な意味も持った。安楽寿院はその名残である。また、鳥羽に建立された御願寺はいずれも治天の君であった白河・鳥羽の両上皇(後に法皇)のものしか存在しない治天の君のための空間であり、両天皇在位中も含めて在位の天皇や女院の御願寺が建立された皇室の政治・宗教空間であった白河との違う特徴を有していた。 鎌倉時代に入ると、鳥羽院は代々院御厨別当・関東申次を務めた西園寺家が周辺の土地とともに知行して治天の君の院政に対して経済的な貢献を行うとともに、その政治力を支える基盤となった。西園寺家の鳥羽の荘園は鳥羽荘と称されて、『管見記』によれば応仁の乱最中の文明年間にも西園寺家の支配が確認でき、室町幕府官僚の大舘尚氏による『大舘常興日記』には大永5年(1527年)に行われていた西園寺家の鳥羽荘と久我家の久我荘の境相論についての覚書が残されているなど、戦国時代まで同家の所領であった。また、鳥羽は地方から淀川を経由して京都に物資を運ぶ拠点であり、室町時代には問丸や車借の活躍が見られ(『庭訓往来』など)、江戸幕府の京都代官の史料にも活動の様子が見られる。 室町時代後期の文明年間に入ると、鳥羽の北側を「上鳥羽」(『東寺百合文書』所収「右馬寮田地売券」)、南側を「下鳥羽」(『実遠公記』)と呼ぶ例が現れる。江戸時代には完全に別個の村である「上鳥羽村」「下鳥羽村」として文書に登場する。戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いの舞台にもなった。明治22年(1889年)の町村制導入以後は、それぞれ京都府の上鳥羽村・下鳥羽村として別個の歩みを遂げ、大正7年(1918年)には上鳥羽村の一部が京都市下京区(当時)に編入され、昭和6年(1931年)に上鳥羽村の残部は下京区に、下鳥羽村は伏見市などとともに新設の伏見区に編入される事になる。なお、昭和30年(1955年)には旧上鳥羽村を含む下京区南部が分離して南区が成立している。.

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輿

輿(こし、litter)とは、人を乗せ人力で持ち上げて運ぶ乗り物のこと。.

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近松門左衛門

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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歌舞伎座

歌舞伎座(かぶきざ)は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。 歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座、中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」岩波新書661『歌舞伎の歴史』、今尾哲也著、p173。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある。 歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」が劇場を所有している。.

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母衣

平敦盛を呼び止める熊谷直実。その背中に大きな赤い母衣を負う。永青文庫蔵「一の谷合戦図屏風」より。 『集古十種』より大和國三輪社藏大塔宮母衣圖。 母衣に使われた布 室町時代には膨らませるための籠も使われた 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源為義

源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。.

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木津川 (京都府)

京都府木津川市の恭仁大橋にて。 木津川(きづがわ)は、三重県および京都府を流れる淀川水系の支流で一級河川。 三重県伊賀市で柘植川と服部川を、京都府相楽郡南山城村で名張川を集める。名張川合流点よりも上流を伊賀川と称することもある。.

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春日大社

一の鳥居 春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浴衣

浴衣(ゆかた)とは和服の一種である。通常の和服とは違い、長襦袢を着用せず、素肌の上に着る略装である。.

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文楽

文楽以外の人形浄瑠璃である。 『静御前』 JR新大阪駅 文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。 1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。 1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業(後述)での人形浄瑠璃の興行を始めた。その後、竹本義太夫の弟子が独立し豊竹若太夫を名のって興した「豊竹座」と競うなど、隆盛の時代には複数の興行元を数えたが、明治初期には興行元が「彦六座」と「文楽座」の2座のみとなった。その後に彦六座が解散、興行が文楽座のみとなったため、「文楽」という2字の名称が、すべての人形浄瑠璃の代表的存在、ならびにその代名詞と化したものである。 なお、文楽および文楽座という名称の直接的由来は、兵庫県淡路出身の植村文楽軒という人物が興行元であった上述の文楽座ではあるが、前述どおり、義太夫節の始祖が大坂で直接成立させた人形浄瑠璃の一形態の系譜であるため、人形浄瑠璃文楽を成立させた源流=淡路ということではない(淡路には淡路人形浄瑠璃が存在する)。 しかしながら、大坂で成立したその「義太夫節+人形」という人形浄瑠璃の系譜をしめす呼称がない(あるいは消失してしまっている)ため、その系譜を示す語の実例として、たとえば現在の人形浄瑠璃文楽の技芸員における演奏的特徴を示す語として「文楽系」と呼ぶことがある(それに呼応する語には「彦六系」などがある)。 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。明治以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある。 この記事では文楽を中心に、文楽系統の成立以前の人形浄瑠璃、および文楽以外の人形浄瑠璃についても説明する。「人形浄瑠璃」については浄瑠璃も参照のこと。.

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手習い

手習い(てならい)とは、毛筆で仮名や漢字を書く練習をすること。「手」とは手跡、すなわち筆跡のことである。.

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1723年

記載なし。

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